読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (最後の「言葉」)

「この記述はどう読んでも辻褄があわない。ここに出てくるのは紅槍会匪とか紅槍匪とかいわれた有名な集団で、北支にいた部隊でこの存在を知らない者はないといわれた。



私が聞いたことは鈴木氏の記事と違い、林芙美子氏の従軍記事とほぼ一致するが、それによると、一種の仏教系の宗教的秘密結社で、胸に「仏」と書いた紙を入れ、近代兵器はいっさいもたず、紅い房のついた槍だけが平気で、機関銃の前でも何でも平気で飛び出してくる。


「仏」と書いた紙を胸につけて戦って死ねば、文字通り「成仏」でき、生誕後百年目に生き返る?と信じていた集団、当時中国に数多くあった封建的私兵団のうちの、狂信的ないわば「死なう団」的な集団であったという。



あらゆる記事を調べてみたが、彼らが南京城内にいたという記録はまだ見ない。(略)


第二に、彼らはあくまでも「戦闘で死ぬ」のが本旨だから、日本軍以上に絶対に捕虜にならない。(略)従ってこれが南京で集団的に捕虜になっているとは不思議である。(略)



これらは全てまことに奇妙な話だと思っていたが、N氏の記述を読んで、この虚報の謎がとけたわけである。鈴木特派員は、中山門も十二日正午ごろ突破されたと今でも思い込んでいるのであろう。



いわば本当の事実を知らないで「各城門より一斉突入」の虚報をそのまま事実として、それを前提としているわけで、従ってこういうことを書いて平気なわけである。
(略)



そうでなく、本当に見た、「刺殺した兵からきいた」といわれるなら、一体いつどこで聞いたのか。その時点その場所なら、そこに連隊本部があったはずだから、兵士がいたとすれば、大体「軍旗中隊」のはずである。(略)



N氏の記事と鈴木特派員の「丸」の記事とを一つ一つ対比はしない。N氏の記事は時間・場所・距離・人員等が、その必要に応じて正確に記されているが、鈴木特派員の方は、いざ他の資料と照合しようとすると、最もそれを必要とするはずの描写に、必ずと言ってよいほど、それが明記されていないので、さっぱり照合ができなくなってしまう。これが虚報の特徴だが、これでは何とも検討しかねるからである。



ただ鈴木特派員は、十五日に南京を離れたと記されているから、十三、四日の記述と一応仮定して、死体に関する記述だけを一応検討しておきたい。N氏は、市内で一体も死体を見たことがないと記されている。(略)



ところが鈴木特派員の「丸」の記事では次のようになっている。
<光華門に通じる道路の両側にえんえんとつづく散兵壕とにみられるなかは、無数の焼けただれた死体でうめられ、道路に敷かれたたくさんの丸太の下にも、死体が敷かれていて、腕、足の跳び出しているありさまは、まさにこの世の地獄絵である。



その上を戦車は容赦なく、キャタピラの音をひびかせて走っているのを見て、死臭、硝煙の臭いとともに、焦熱地獄血の池地獄に立つ思いがした。自らが”獄卒”の立場と、ある錯覚におちいるほどだった>


一体いずれが本当であろうか。」



〇 山本氏は具体的な事実を一つ一つ検証して、何が本当なのか、確かめようとしていますが、おそらく、この時点では、公になっている事実自体が、少なかったのだと思います。
しかも、従軍記者は、実際に戦闘の現場や「虐殺」の現場を見ていないにも関わらず、「それが起った」という記事を書かなければ、報道とはならないので、
伝聞や状況から推察したことを如何にも見たかのように描くので、
ますます「怪しく」見えるのではないかと、素人の私は推察しました。


ただ、少し前に放映された、「NNNドキュメント・南京事件Ⅱ」を
見ると、これは、ほぼ間違いなく、「虐殺」は行われたのだ、と思いました。

当時の写真も多く、今はもう亡くなっているその当時の兵士たちからの、多くの証言(約200名)を聞くと、どっちが本当なのか、自ずとわかってしまいます。

兵士の証言によれば、捕虜になった人々は、全く無抵抗だったと言います。
その人びとを何千人も収容し、食事を与えることは出来なかった。

日本兵は中国人が民間人かそれとも民間人のふりをしている兵士か、
見わけられず、おそらく、全ての人間が「民間人のふりをしている兵士」だと、
判断して、捕らえるしかなかったのでしょう。

その兵士は、歩兵第65連隊の人々でした。
揚子江の近くに大勢の捕虜を集め、建物に穴をあけ、機関銃12丁を捕虜からは見えない状態で設置した前に背中を向けて座らせる。

それを合図に従って、撃つ。15分から20分間。銃身が赤くなり、爆発の危険があるので、最後の方では、自分の衣服を水に濡らし、それを銃身にかけて、撃ったといいます。


それが行われたのは、12月16日。更に、17日には、場所を変え、同じ揚子江付近でも、行われました。

16日に、死体を川に投げ込むのですが、何千人もの死体なので、最初は流れたが、川が「つまってしまった」と言っていました。

17日には、更に下流の上元門近く、幕府山が近くにある場所で行われ、逃げまどう人々が、三メートル近い人柱を作ったという証言が、複数ありました。

16日も17日も、「銃殺」の後には、弾が当たらなかった人がいないかどうかを
調べながら、銃剣でザクザクと死体を刺して歩くように命じられたそうです。その時、逆に刀を奪われ、刺された日本兵もいた、と言っていました。

その後、このことは、誰にも言わないように、と緘口令がしかれた、と言っていました。

この歩兵65連隊は、福島の連隊だったらしいのですが、その責任者が、後年、あれは捕虜が逃げ出そうとし、暴動になりそうだったので、自衛として行ったことだ、と証言したという新聞記事が出たらしいのですが、


と、いうことは、少なくとも、本当にそういう形での「銃殺」は行われたと認めたということだと思います。


証言していた兵士自身が、「あの捕虜たちが揚子江を前にどうやって逃げられたというのか。そんなのは、詭弁だ」と言っていました。

ここで、山本氏は、それほどの大量虐殺があって、なぜ17日首都入城が出来るのか、と不思議がっていましたが、戦闘による大量殺戮ではない、入城式の裏で、別の部隊がこのような形で行っていたのだとすれば、なんら不思議はありません。


敗戦で、日本人は、占領軍に皆殺しにされる、と思い込み、一億玉砕を決意していましたが、現実に自分たち日本軍がこのようなことを平気でしていたので、自分たちもされる、と思い込んだのでしょう。



戦後になっても、日本政府は、治安維持法を無くそうとしませんでした。
占領軍の指示で、無くなりました。

ここでも、占領軍の「おかげ」です。
為政者には鬱陶しく嫌な占領軍だったでしょう。
でも、下々の私たち一般市民にとって、本当に「嫌な奴ら」はどっちなのか、と
考えてしまいます。