読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の中の日本軍 下 (最後の「言葉」)

「<十二月十二日午後六時、第一線各中隊は、中山門の東南方四百メートルの線に進出した。その時の態勢は、右から、第二中隊、第三中隊、第一中隊の順序に並んでいた。城門及び城壁上の敵はあまり強大なものではなかったが、高い所から撃ちおろされるのは気持ちのいいものではなかった。


同日の夜半になって、敵の銃声が急に衰えたので、敵に退却の徴ありと判断した第二中隊は、中山門に将校斥候を派遣したところ、敵の抵抗がなかったので、そのまま占領してしまった。そして第二中隊は十三日の夜明け頃には、中山門及びその付近を完全に確保した>


前章で推定した通り「無血・無戦闘入城」だが、これなら、十七日に入城式を行おうと、十二日昼下がり、新聞記者が社旗をもって市の中心部を散歩していようと、少しも不思議ではない。



そしてここで面白いのは、各城門より「各隊一斉突入」が噓で(これは外国の新聞まで誤っている)、光華門の部隊は十二日正午ごろ(その昼下がりに鈴木特派員は入城のはず)すでに南京城内に入り、中心部まで進んでいるのに、中山門の部隊はまだ城外にいたという事実である。


週刊新潮」に載った佐藤カメラマンの談話では、当時の従軍記者の専らの関心は「南京一番のり」はどこの部隊かということであったらしい。この「一番のり」とか「一番槍」とかいった愚報を発して、それに自ら興奮したマスコミの体質はおそらく徳川封建時代の感覚の継承であろうが、実際には各部隊は全体的な作戦計画の一環として「作命」に基づいて行動しているので、「一番槍」とか「一番のり」とかが行動の規準になっているのではない。


しかし報道の方は、各部隊が「宇治川の先陣争い」でもしているように書き立て、そして最後には、「一斉突入」でみなの「顔を立てる」という一つの類型的パターンで終わる。


「百人斬り競争」もいわばそのパターン通りなわけだが、こういう虚報を発し続けたため、割合に記述は正確なダーディンすら一斉突入と思い込んでいるだけでなく、この虚報を発した本人まで、いつしか自分でもそれを信じてしまうらしく、鈴木特派員は、中山門も十二日に突破されたと今でも思い込んでいて、まことに奇妙なことを「丸」に書いていてこっけいである。」


「異常な緊張と匍匐前進は、たとえ軽微な戦闘といえどもおそろしい消耗である。さらに全員が上海から歩きづめである。たとえバカ参謀が何を吹こうと、第一線の普通の指揮官の念頭に常にあるものは、兵士の体力・気力・健康状態であって、前にも述べたが、私の部隊長などは、常にこれが考慮の第一になっていた。



<私は、大隊本部と共に、午前八時頃中山門から城内にはいった。城門は扉を閉じ、内側にぎっしりと土嚢を積み上げて頑丈に閉塞してあった。城門の右半部が上部から崩れ落ち、土嚢の頂上と、門の天上との間にかがんで通れるくらいの穴があいていた。



突撃部隊も、私たちもこの穴より入る外はなかった。城門付近には彼我の死体は一つも見えなかった。
連隊本部は午前十一時三十分に入城した。
南京後略戦で第一中隊の受けた損害は死者六、傷者十九であった。上海付近で、同中隊が一つの陣地を攻略するのに、一日に死者三十二、傷者三十三を出してなお成功しなかったのと比べると、首都攻略戦が、こんなに軽微だったことが不思議なくらいである。もっとも上海付近の戦闘を経験しなかった部隊では感じが違うかも知れないが。


つまり中山門攻略部隊は、「頑強な抵抗を受けて頭に来た」状態ではなかった。鈴木二郎氏(鈴木特派員)の記事とかに「十三日に中山門の城壁の上で一列に並べられた捕虜が……」とあるようだが、捕虜にしようにも敵兵がいなかったのである。



でなければ、僅かに三、四名の将校斥候で、城門を一つ占領できるはずがない。
もし芋刺しになったものがあるとすれば、あの狭い穴から一人ずつ侵入した日本兵のではなかったか。


城門奪取後、引き続き市街戦が行われなかったのは、敵はすでに城内深く遁走してしまっていたことを示す。[その通りで、市の中心部にすでに光華門から侵入した日本軍が入っていた]


私自身城門から侵入後、飛行場を通った際、格納庫にあった飛行機三台の一台の操縦席に乗り、「初めて飛行機に乗った」と子供らしい満足感を味わうほどのゆとりがあった。



城門から約五百メートルほど進んだ所で第一線各中隊は停止を命ぜられた。そして爾後の攻撃前進は命令による、と発令された。私は当時、各城門から突入した各部隊が、城内中央で鉢合わせして混乱を起こすのを防ぐためと思っていた。


それが先生(鈴木明氏)の記事によると、軍司令官が部隊を城内に入れない方針だったとのことで、今さらながらうなずいている。この間私は敵兵や捕虜や、住民などは一人も見なかった>


N氏がここで述べているのは、鈴木特派員が「丸」に書いた記事のことだが、これは「百人斬り」の片棒をかついだ記者にふさわしい記事だという以上には、一つ一つの細部を批判する気はないと前章で述べたが、このN氏の引用の部分と死体の有無に関する部分だけは、少し解説しておこう。



N氏がいわれているのは「丸」の記事の次に引用する部分のことである。
<明けて十三日、中川紀元画伯、故大宅壮一氏らをまじえた後続の大毎、東日の記者、カメラマンの一団数十名が、市街地のレンガづくりの、人影のない旅館あとを前線本部として動き出したが、わたしはふたたび中山門に取って返した。



そこで私ははじめて、不気味で、悲惨な、大量虐殺にぶつかった。
二十五メートル(幅)の城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。


その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合をかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気迫るすさまじい光景である。


だが、ただ一つこの残虐な情景のなかに、不可解な現象がおこっていたことを忘れることができない。それは刺されて落ちる捕虜たちの態度であり、表情であった。
死を前にあるものは、ニンマリとした笑いを浮かべ、あるものは、ときにケラケラと笑って”死の順番”を待っていたのである。


この戦場で、紅槍(日本の槍のような武器だが、その穂先の元に紅い房がついている)をもった一団が、死をおそれず、突撃につぐ突撃をもって、 日本軍をなやませた肉弾戦の話を幾度か聞いていた。


彼らのこの紅槍をもつものは、たとえ弾丸にあたっても死なずとの、かたい信念、信仰をもつというのである。このことはのちに、刺殺した兵から聞いたことである>(傍点著者)」