読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (一 美醜について)

「美醜も、男女の幸福について論じる時、人々があまり触れたがらない_正確に言えば、よく知っているのに触れたがらない_根本的な問題の一つです。
身上相談などでよく見かけることですが、たとえば、男に騙されて棄てられたとか、夫が浮気をしてしようがないとか、そういう訴えを読むたびに、私はいつも一種のもどかしさを感じます。



そのもどかしさというのは、一口にいえば、悩みを訴えるひとの顔が見たいということであります。顔を見なければ、とても答えられないという気がするのです。そういうと皆さんの内には、ずいぶん残酷なことを言う奴だと抗議するかたがいるかもしれません。


顔が醜ければ、夫に浮気されてもしかたはない、男に捨てられてもしかたはない、そういうつもりなのかとおっしゃるでしょう。もちろん、それで男性側の非が許されるわけのものではありませんが、そうかといって、醜く生まれついた女性に生涯つきまとう不幸という現実を無視するわけにはいかないのです。



いくら残酷でも、それは動かしがたい現実なのであります。いや、現実というものは、つねにそうした残酷なものなのであります。機会均等とか、人間は平等であるとか、その種の空念仏をいくら唱えても、この一片の残酷な現実を動かすことはできないのです。



しかし、身上相談係というものは、つねに人間平等、機会均等の立場からしか答えてくれません。つまり、女性という女性が、みんな同じ魅力をもって生まれついているという仮定のもとに答えるのです。」




「人間は他の動物と違って高級なのだから、そういう美醜に煩わされないで、人格の値打ちそのものを見抜くべきだ。もし心惹かれるなら、そういう人格の本質にだけ、心惹かれるべきだ。そう言いたいところだが、それこそ無理な註文というべきでしょう。



女性の雑誌と読むと、この種の無理な註文が随所に感じられます。もちろん、直接にそういうことはいわないかもしれません。しかし、たとえば、女が結婚して幸福になるためには、経済力、智力、いずれの面においても、相手の男と同等の力を維持していかねばならないということがよく書かれております。原理はそうかもしれませんが、事実上は、そういう独立した女性が、かえって不幸になっていることの方が多いようです。(略)



もっとはっきりいえば、経済力、智力の向上による女性解放を説く当の男自身が実生活では、結局女の美しさに心惹かれ、自説を裏切っているのが通例なのではありますまいか。



ところで、こういう風に裁かれているのは。女だけではありません。男も同様に裁かれております。いくら残酷といおうが、何と言おうが、男と女がはじめて出会うとき、電車の中であろうが、路上であろうが、互いに見合った瞬間、それぞれに相手を裁いているのです。


眼と眼を見交わしたとき、それがいわば「勝負あった」瞬間なのであります。若い人たちの間では、見合い結婚はどうのこうのという議論が相変わらず行われているようですが、厳密にいえば、一歩外に出た男女は、始終見合いをやっているようなものであります。しかも、この街頭における不意の見合いは、いわゆる準備された見合いよりも、ずっと純粋です。



お互いに素性も知らず、財産も学歴も知らず、それでいて、その場その場で、しきりなしに「承諾」か「拒否」かの返事を与えているのであります。」


〇 メモしながら、今の時代とはあまりにも違っている感覚に基づいて
書かれている、と、感じます。昭和30年代と言えば、人は必ず結婚するもの、という前提で生きていました。

そして、この福田氏の中には、明らかに選ぶのは男で、女は選ばれるもの、という
感覚があるように見えます。

写真だけで、ほとんどつき合うこともなく、顔と紹介してくれる人の話だけで、結婚相手を選んでいました。その時代の話ですから、美醜が選択の基準になるのも、しょうがない、ということだったのでしょう。

ただ、読みながら、この福田恒存という人に好感を持ったのは、

いくら残酷でも、それは動かしがたい現実なのであります。いや、現実というものは、つねにそうした残酷なものなのであります。機会均等とか、人間は平等であるとか、その種の空念仏をいくら唱えても、この一片の残酷な現実を動かすことはできないのです。」

という文章に共感したからです。

この認識から出発しようとしている、というところが、すごくいいと思うのです。

「顔の美醜は、生まれつきのものだ。人格は努力でなんとでもなる。立派な人格は、その持ち主が称讃さるべきだが、美しい顔なんてものは、べつに持ち主の手柄ではない。反対に、下劣な人格については、その持ち主が責められるべきだが、醜い顔はその持ち主の責任ではない。


したがって、美醜について論じるのは心無きことであり、美醜によって、人の値打ちを計るのは残酷である。人々はそう考えているらしい。(略)



もちろん、人格が努力でどうにでもなりうるものなら、その程度に顔の美醜も持ち主の自由意志に属するものなのであります。同時に、美醜が生まれつきのもので、どうにもならないものだというなら、同じように、人格と言われるものも、どうにもなるものではなく、やはり生まれつきのものだといえましょう。」


〇 顔の美しい人は魅力的な人 → 魅力的な人は人としてのランクが上
という感じがあります。
同じように、人格が魅力的だったり、素晴らしい人は、人としてランクが上
と考える気持ちもあります。

この「人の値打ちを計る基準」は、多分に「自然な感覚」だと思うのですが、でも、もともとそれは、「生まれつきのものだ」とはっきり発言している人が、どれだけいるだろう、と思います。