〇 この本の中には、教養という言葉には、生き方が関係している、というような
文章がありました。
また、人の中にあって、自分の位置を測定する能力、という言葉もありました。
そして、日常的でないものにぶつかった時、即座に応用がきくということ、とか、
ユーモアや機智があり、余裕がある態度、とあります。
一言ですっきり表されるようなものではない、ということなのでしょうか。
もう一度、この文章を読み直してみます。
「今日では、残念なことに、この両者は往々にして一致しないのであります。高い学校教育を受けた人ほど教養がなく、現代文明の先端をいく都会人ほど教養がない。そういいきって差し支えないものがあります。
では、教育と教養とはどう違うのか。一口にいえば、教育によって私たちは知識を得、文化によって私たちは教養を身につける。」
〇 「文化によって教養を身につける」という言葉を聞いて思い出したのは、何度も引き合いに出しますが、また、「サピエンス全史」です。
「こうして彼らは人工的な本能を生み出し、そのおかげで厖大な数の見ず知らずの人同士が効果的に協力できるようになった。
この人工的な本能のネットワークのことを「文化」という。」
〇 この前にある文章は、「神話と虚構のおかげで、人々はほとんど誕生の瞬間から、特定の方法で考え、特定の基準に従って行動し、特定のものを望み、特定の規則を守ることを習慣づけられた。」となっていて、私は、人工的な本能=宗教と理解したのですが、間違っているでしょうか。
更に、
「紀元前1000年紀に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、その信奉者たちは初めて、一組の法則に支配された単一の集団として全世界と全人類を想像することが出来た。誰もが「私たち」になった。いや、少なくともそうなる可能性があった。」
「真っ先に登場した普遍的秩序は経済的なもので、貨幣という秩序だった。
と、あります。
ここを読んで思うのは、
1、私たちの国には、貨幣という秩序はある。
2、でも、帝国という秩序はない。
3、更には、普遍的宗教の秩序もない。
ということです。
帝国という秩序は、
「帝国によって広められた文化の概念は、もっぱらエリート支配層が生み出したものであることは滅多になかった。帝国のビジョンは普遍的で包括的な傾向を持つので、帝国のエリート層にとって、単一の偏屈な伝統に狂信的に固執するよりも、どこであれ見つかる場所から思想や規範や伝統を採用する方が、どちらかと言えば易しかった。」
と、普遍的で包括的な傾向を持つとあります。
つまり、私たちの国には、普遍的で包括的なビジョンがないとも言えます。
そして、普遍的な宗教がないということは、明らかです。
それで、私の思い付いたことは、
「教養」=「人工的な本能」=「宗教」
ではないのか?ということです。
個人的に「人工的な本能」を持っている人はいる。
でも、それは、人の中の自分の位置を計る能力を育てない。
なぜなら、「社会の人工的な本能」には、なっていないから。
1人だけで頑張る事は出来る。
でも、
「こうして彼らは人工的な本能を生み出し、そのおかげで厖大な数の見ず知らずの人同士が効果的に協力できるようになった。
この人工的な本能のネットワークのことを「文化」という。」
ということにはならない。
何故なら「社会の人工的な本能」はないから。
この人工的な本能を持つ必要があるのではないでしょうか。
それを持たない限り、
未だ、猿をお手本に生きることになり、
教育はあっても、教養はない、
私たちの国の悪徳官僚や悪徳政治家のような人ばかりになるのではないかと
思いました。
西洋人が人工的な本能を身につけたのは、キリスト教によるのだと思います。