読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十三 恋愛について)

「恋愛とは麻疹のようなものだといった人があります。それは二様の意味において、もっともだと思います。第一に、一昔前までは麻疹は人生に一度は経験しなければならぬものであり、第二に、伝染性のものだからであります。しかし、次の点において、恋愛は麻疹とは異なります。



すなわち麻疹は二度とかかる病気ではないが、恋愛の方は、そうはいかない。何度でもかかる病気であります。しかも、一度、その味をおぼえると何度でもかかりたくなる快い病気であるともいえます。

恋愛が病気であるということには、だいぶ異論がありましょうが、快い病気ということなら、あまり文句も出ますまい。」


〇「快い病気」というのが、私にはどうしてもわかりません。私にとって恋愛は、苦しいだけのものです。というより、恋愛経験は片思いを除けば、ほとんどないのですが、苦しさの方が嬉しさよりも勝っていました。

快いということが、よくわかりません。これも、個人差が大きいのではないかと思います。多分、福田氏やその周辺の人々は、快い経験をしているのだろう、と考えると納得はできるのですが。


「たとえていえば、本丸の攻防戦に自信のない人は、いつでも出先の三の丸や二の丸で敵を防ぐ習慣が肉体そのものに備わっているのですが、自信家は敵が本丸へ攻め込んでくるまで放っておくし、又その時まで敵の侵入に気づきもしないのです。


すなわち、病気は現実からの逃避であり、保身術であると同時に、もっと積極的に、決定的な病気や死をさけるための健康維持法だといえないことはない。



恋愛にもそれに似た効用があります。失恋はもとより、成功した恋愛にも、鼻風邪程度の、いや、それ以上の苦痛は避けがたいでしょう。が、たとえ失恋にしても、平板な勤めが休めるといった程度の解放感があり、その苦痛をいたわられ、周囲の人に甘えうるという程度の快感があります。


つまり、病気への逃避と同様の意味において、恋愛への逃避がもくろまれるのです。
恋愛によって煩瑣な現実からのがれたいという願望を、私たちは無意識のうちに、つねに隠し持っているのです。」



「同時に、職場における若い女性の恋愛は、そのころから始まります。もともと無意識のうちでは、それが目的の職場であったかも知れませんが、今ではそれよりも、家庭と同様に平板な職場からの逃避がほしくなっており、むしろ恋愛はそういう意味において求められてくるのであります。


私はそういう傾向を悪いというのではない。ただ、職場における恋愛ばかりでなく、あらゆる恋愛に含まれている逃避的要素を、やや拡大してお見せしただけであります。


恋愛はそれだけで説明できはしません。が、へたをすれば、それだけに終わりがちであるということに眼をそらさないでいただきたい。」




「かれらの間では、性欲はあるが、恋愛はありません。恋愛というのは、人間特有の、そしてまことに人間的な感情であります。
いいかえれば、恋愛は精神的なものであり、観念的なものであります。そして恋愛の伝染性と言うべき性格は、この観念的ということから生じるのだといえましょう。


恋愛小説というものがなかったら、恋愛をする人間の数は現在よりずっと減ったであろう、そう言ったのはアンドレ・ジッドであります。また、国木田独歩の小説の題に「恋を恋する人」というのがありますが、確かに私たちには恋人を恋するよりは、恋そのものを恋する傾向が多分にあります」



「ここで、まえに私が宿命と自由とについて述べたことを思い出して下さい。私たちは自由よりも、はるかに宿命を欲している。私はそういいました。B郎はA子、B子、C子の誰とでも結びつける男であるよりも、B子とだけ結びつける男であることを、B子のためにのみ存在する男であることを欲するのです。



また、B子という存在を、A郎、B郎、C郎等々のうち、とくにB郎である自分にとって、もっとも必要な女であると思いたがるのであります。この女を、あるいはこの男を失ったら、自分は生涯、愛する人を見いだせないだろう、そういう感情を懐くのが恋愛というものだと定義しえましょう。


したがって、恋する人々は、みんなそう思い込む。ただ難しいことは、そう思い込んだからと言って、それがただちに恋愛かどうかということであります。いや、それは確かに恋愛でありましょう。が、そういう恋愛に、はたしてどれほどの値打ちがあるか。もっとも、値打ちなどということを考えないのが恋愛だとも言えましょう。



しかし、それなら、なぜ人々は、自分の気持ちがたんなる動物的な性欲とは違うことを、さらに、相手が星の数ほどある異性のうちでとくに自分に必要な存在だということを、お互いに納得しあいたいのか。それはやはり「いい恋愛」「立派な恋愛」「模範的な恋愛」をしたいからにほかなりません。


たんなる性欲ならいざ知らず、値打ちということを考えずには、恋愛は成り立たぬのです。」


〇ここもよくわかりません。

「相手が星の数ほどある異性のうちでとくに自分に必要な存在だということを、お互いに納得しあいたいのか。」

多分、ここが違うのだと思います。「私は星の数ある異性のうちから、その人でなければ、嫌だ」と思う。
でも、相手が自分をそう考えるとは限らない、と思う。だから苦しみが生まれます。

そして、多分、その疑問はほとんど永遠に消えない。
(というのも、今、私には夫がいますが、夫にとって、自分が星の数ほどある異性の中から、どうしてもこの人でなければならないとして選ばれた人間だった、と考えたことは一度もありません。)


ましてや、「いい恋愛」とか「模範的な恋愛」をしたいと思って、頑張ったことはありません。

福田氏とは、何かが違うなぁ、と感じます。


「こういう具合に、私たちは、相手が好きとかなんとかいう前に、恋愛というもの一般についての「論」や「観」が形づくられているのであります。その「論」や「観」がさきで、それに都合のいい相手を見つけ出すという段取りになります。(略)



のみならず、独歩が言っているように、いや、それを少々極端にいいますと、私たちは異性の誰かが好きになるまえに、まず恋愛そのものがしてみたくなって、そのために自分流に恋愛のしやすい特定の相手を物色するという手順をふむのが常であります。


目的は恋愛であって、当の相手は手段にすぎません。若い世代において、とくにそういえましょう。多くの人がなぜ恋愛論を読みたがるかといえば、まず恋愛がしてみたいからであり、そのお手本を、すなわち「模範的恋愛」を求めているからであります。その場合、数ある恋愛論のうちから、自分が容易にまねられそうな恋愛論を選ぶということは、いうまでもありますまい。



いすれにせよ、自分独特の恋愛などというものは出来ないばかりでなく、恋愛小説、恋愛論、あるいは他人の恋愛、そういうものを知らなければ、たいていの人は、恋愛をしてみようと思いつきさえしないかもしれません。また、いま自分のとらわれている感情が恋愛だとさえ意識しないかもしれないのです。(略)



たまたま、恋愛小説や恋愛論を読んでいたため、あるいは友人の恋愛を眼のあたりに見ているため、自分もそんな気持ちになってみたいと思うのであり、さらに自分のうちにあるなにがしかの感情の切れ端にすがって、それを「模範的な恋愛」にまで育てようとするだけのことです。


ジッドや独歩は、この恋愛の伝染性もしくは模範生というべきものを指摘して見せたのです。それを、私が観念的だといったのは、おわかりいただけると思います。なぜなら、まだ恋愛とは呼び難いささやかな感情の切れ端を、恋愛小説や恋愛論を通じて頭の中だけで知っている恋愛の観念にまで高めようとしているだけだからです。



それは一種の捏造であります。が、それだからといって、私は恋愛を軽蔑しはしません。観念的、捏造的な性格は、元来、恋愛につきものであります。それなくして恋愛はなりたちません。もし恋愛からそういう人工的な要素を剥ぎ取ってしまえば、それは単純な性欲に還元してしまうでしょう。」


「見合い結婚のばあいは、恋愛なしに、まず結婚して、あるいは婚約して、そのうちに恋愛が生じるのを待つわけでありますが、今日流にいけば、自分の交際している範囲内で、まず恋愛を成立させなければならない。そうなると、結婚するためには、どうしても恋愛しなければならぬという要請が最初にあるわけです。



しかも例の恋愛につきものの観念的性格というものにうながされて、自由恋愛の最初の目的とは反対に、自分の必然性にそって相手を選ぶというよりは、どうしてもこうしても相手を選ばなければならぬという立場に追い込まれて、自己欺瞞してまで恋愛の中に飛び込んでいくことになりやすいのです。



自己欺瞞というのは、この相手こそ自分にとってもっともふさわしい相手であり、自分こそ相手にとってもっともふさわしいものであると、無理に思い込むことです。すなわち星の数ほどある男女のなかで、あたかも前世から約束されていた二人であるかのような錯覚にとらわれることです。


それで生涯、自他をだましとおせれば、それも結構ですが、まずそんなことは不可能です。すぐに幻滅がやってきます。



その場合、自由恋愛であるだけに、見合い結婚以上に、おたがいに傷つくでしょう。(略)

自己欺瞞と真の自由意志とを混同してはなりません。それを混同しているようでは、自分が自己欺瞞に陥っていることにさえ気づかぬわけで、それなら、やはりなにかに騙されているのですから、自由意志ではけっしてありません。



そのなにかというのを、大抵の人は、自分の期待を裏切った相手の性格や態度に帰しがちですが、実はこれこそ恋愛という観念なのです。観念の亡霊にだまされて恋愛をし、そして失恋をしても、その亡霊に騙されていることに気づかぬのです。




いくら自由恋愛の時代が来たからと言って、ある時期に達すれば、誰もかれもが恋愛をしなければならぬということはない。恋愛なしで結婚してはいけないということはない。要するに、あせって恋愛する必要はないということです。また、自分に恋人がいないからと言って、目下恋愛中の友人を羨ましがるには及びません。(略)



スタンダールの分類に、「虚栄恋愛」というのがありますが、自由恋愛時代には、とかくその弊害を生じがちです。それはもう他人のための恋愛にすぎなくなります。」



〇 「恋を恋する」という感覚はありますし、わかります。恋愛に値打ちを求めるというのも、読みながら少しずつわかるような気もしてしてきました。

というのも、私は見合いというのをしたことがないのですが、見合いをして、その後に、結婚を考えながら恋愛をするような、そんな恋愛はしたくない、と思ったことはあります。そういう意味では、恋愛に値打ちを求めていたのだと思います。


でも恋愛をしてみたい、という感覚は、私の中にはなかったような気がします。

というのも、私は昔から本当に人付き合いが苦手でした。人と何かを一緒にする、というのが、ダメでした。誘ってくれる人がいると、一緒に行きますが、基本的に一人でいるのが一番落ち着きました。


だから、私の恋はいつも妄想と空想の片思いだったのだと思います。
その空想の中で、私は何を求めていたかと言うと、「仲良しの関係」ではありませんでした。

私が求めていたのは、「自分をわかってくれる人」でした。
まだ全然親しくない人なのに、少し素敵な雰囲気のある人に出会うと、
「この人は、私のことをわかってくれる『その人』かもしれない」と憧れるのです。

そして、その人のまなざしが気になり、言った言葉が気になり、その人のことばかり考える。

こうして考えると、私は典型的なストーカーになるタイプの人かもしれません。

でも、もっと正直に言うと、もう恋愛に関するあれこれは、記憶も薄れ、よくわからなくなっているような気がします(^-^;