読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私の幸福論 (十二 ふたたび性について)

「ここ数十年、日本では、ことに戦後、性教育の問題がことごとしく採り上げられるようになりました。それに伴って、性の科学、あるいは性の心理学がジャーナリズムを賑わすようになりました。こういう傾向の一般化は世界中で日本とアメリカだけのものと思います。


もちろん、他の国でも、それぞれ専門の領域では問題にされていますが、素人がおたがいにヴィタミン注射をやりあうように普及しているのは、やはり日本とアメリカだけでありましょう。」




「第一に、私のいだく疑問は、性は科学の対象たりうるかということであります。もちろん、その対象になりえぬとは申しません。が、昔から生理学というはっきりした科学が存在し、そこでは、性、あるいは生殖ということが、当然、その対象として取り扱われてきたのであります。


その生理学では不十分で、そのほかに性の科学を打ち立てなければならない理由はどこにありましょうか。」



「少々問題がややこしくなりますが、科学というのは、たとえ人体を対象とする生理学や医学においても、実験が可能であるということを前提にしております。(略)


ところが、心理学となると、それが少々難しくなるのです。恐怖の心理や、死の直前の孤独な心理や、友人に裏切られた真理や、その他、どんな瑣末な心理でも、わざわざ実験してみるわけにはいきません。(略)



心理学がすでにそうなのですから、性を対象とする科学が成立しにくいことは、大体想像がつくでしょう。性の問題は、純粋に肉体の問題ではありえないのです。快感ということになれば、心の問題にかかわってきましょう。というのは、それは主体の欲望の問題になってくることであります。」



「それは性がいたずらに観念的になることであります。自分の欲望の必然性に沿って性の「秘密」のうちに入って行くという形をとらず、性の科学によって与えられた知識を実地に確かめたいという好奇心の対象となってしまうことであります。


つまり、性も実験可能な科学と化す傾向を持ちます。が、性は実験可能でありましょうか。取り返しがきくことがらでありましょうか。
そうだ、取り返し可能だという所から、「童貞」や「処女」を軽視する傾向が生じたのでありましょう。レオン・ブルムの「結婚論」でも、それと同じ考えが述べられております。


ブルムによれば、男と女も、結婚前なるべく多くの異性の肉体を知っていた方がいいというのです。なぜなら、その方が結婚後に意地汚く浮気するということがない。何も知らないうちに結婚してしまうと、もしその結婚生活がうまくいかないとき、他にと適当な相手が、「肉体的に合う」相手がいはしないかという気持ちが起こり、それが浮気に導く。そして結婚生活は破壊されるだろう。そういうのであります。



結婚生活の貞潔を守るためには、結婚前の放縦が望ましいという結論になり、一見はなはだ合理的で、欧米でも日本でもこの考え方に賛成する人が知識階級のなかに案外のであります。


私は反対であります。(略)私たちの欲望は無限であり、また満たされれば、必ず倦き、倦きれば変わったものを求める。しかもそれは永遠に繰り返されるのであります。結婚前、多くの異性を知っていたからといって、結婚後に貞潔が守れるわけのものではありません。(略)


要するに、性は実験不可能であり、また実験したところで、何も知り得ないのです。
なぜなら、性は性だけ切り離して考えられぬからです。その点も料理と似ております。私たちは純粋に味覚だけについて論じることはできません。



その場の雰囲気とか、前後の事情とか、料理を作ってくれた相手とか、そういうものに味が左右されることはいうまでもありますまい。よく、顔や人柄だけに惹かれて結婚して、三年、五年ののち、肉体的に合わぬため別れ話が起ったという話を聴きます。(略)



とすれば、一つの家庭を造って、同じ過去を共有し、喜びや苦労を共にして、子供までできた夫婦の性生活が、純粋に性の科学で割り切れるものでないことはいうまでもありますまい。」




「それは、いいかえれば、性は自分でどうにでも巧みに操れる道具みたいな対象となったということです。いわゆる「桃色遊戯」というのは、知ったかぶりの青少年が、自分の、あるいは相手の性を、自由に操り、玩具にすることに興じていることをおでしょう。


しかも、彼らは性については何も知ってはいないのです。が、悪いことに、彼らは知り尽していると思っている。その結果、彼らは未知のものにたいする恐れを失ってしまっているのです。


「なんだ、こんなものか」、好奇心の満たされたあとで、彼らを襲う空虚感は、おそらくそんなものでありましょう。この性にたいする不信感は、ただそれだけにとどまりはしません。


それは異性に対する不信感、人間にたいする不信感を呼び起こさずにはいないのです。」





「なるほど、貞操を破り、自分の肉体を与えてしまえば、それですべてを与えたという昔流の観念は古めかしいかもしれませんが、その逆に性はいくらでも取り返しがつくという考えは、とんでもない間違いだと思います。



なぜ、そんな考えが起るかと言えば、性を道具と考え、取引と見なしているからです。」




「性の知識において、もっとも重要なことは、自分の欲望の必然性に沿い、知るべきものを知るべき時に知って行くということであります。人生のあらゆることと同様、いや、性においてはとくに、知る時期というものが大切なのです。性の科学は、そういう個々人の主体性ということを忘れています。性欲の余り自覚されない時期に、性について全てをしったところで、何の利益もありますまい。むしろ害があるだけです。


文学にしても、学術上の著作にしても、ある時期にそれを読めば、その作品が心の隅々にまでしみわたり、多くの実りをもたらすでしょうが、その時期を誤り、それに早くめぐりあえば、観念的な知識として与えられるだけで、それはかえって心の在り方を歪めるでしょう。


知ったために犯す過ちよりは、知らぬ為に犯した過ちの方が、心の衛生にははるかにいいのです。(略)



私たちは生き方について知って、それから生き始めるのではありません。生きながら知り、そして知らぬものは知らぬままに残して死んで行くのです。
私は「童貞」や「処女」そのものを珍重しはしません。が、性は秘められるべきものだと確く信じております。


恋愛についても結婚についても、そういう秘められた領域は、かならず無くてはならぬものです。
「秘める」とは「包む」ことです。この「包む」という言葉から「つつましい・つつましさ」という言葉が生じたのであって、「秘める」「包む」とは決して包み隠したり、うそを言ったりすることではありません。




それはたしかに良くないことです。だからといって、本当のことなら、相手かまわず、所嫌わず、何を言ってもいいとは限りません。それは一種の甘えで、場所をわきまえず、思うがままのことを言ったり行ったりされては、周囲の人が迷惑をします。



風呂場で裸になるのは当然ですが、だからといって、戸を閉めず、家中のどこからでも、客間からでも見えるようにしておく人はいないでしょう。便所を同じで、排泄は整理的には食事と同じだからという理屈で、これを公衆の面前で行う人はいません。



私はつつましさ、羞恥心というものは、最も日本的な美徳だと思っております。女性に限らない、男性でも、若い人が年上、目上の人の前に示す羞恥心は青春の香りとでもいうべき美しさをもっております。



それは自分の性に対する恥じらいと同時に、未知の社会に対する初な心のとまどいから生じるもので、大人によく見られる馴れ馴れしさ、図々しさ、人を小馬鹿にした態度と対照的なものです。その意味では、神の前に、理想の前に、羞恥心を失いさえしなければ、大人も永遠に若さを保てるはずです。」


〇 私は性については、何も言えません。ただ、これまで生きて来て、人に色々なタイプがあるように、性についても人それぞれなのではないか、と思うようになりました。

猿の中でも、ボノボは、頻繁に性行為をするそうです。所謂「発情期」というようなものがなく、常に発情期だと、聞いたことがあります。

ヒトも「人工的な本能」でその行動を抑えないなら、ボノボ的であっても、不思議ではありません。そして、男女が共にボノボ的な時
どちらにとっても、自然な行為であり、なんら問題はないのでしょう。

問題は、どちらか一方が、ボノボ的でない時です。

性を秘められるべきもの、結婚や恋愛も、そういう秘められた領域があってしかるべきもの、と考える人が、ボノボ的な人と結婚してしまった時には、悲劇です。

私は、福田氏と同じで、ボノボ的には生きられないタイプの人間です。その人間が、結婚した相手が、頻繁に他の女性と性行為を繰り返す時、私の心は傷つきます。それは、心に対するDVだと言ってもいいほどの痛みを伴います。


人間全員が等しくボノボ的であるなら、売春・買春を合法化しよう、という考え方もありなのかも知れません。でも、それによって、心が傷つく人のことも考慮する必要があると思うのです。

この本には、日本には、性を罪悪と見なす思想がなかった、と書かれています。私たちの祖先は性的に自由であった、一夫一婦制とか貞操とかいうものは、元来、日本人の性情にはなかった、とあります。

一般論としては、そうなっているのでしょう。

でも、一日本人として言わせてもらえば、それは、そういう声を上げる女性がいなかったからだと思います。

あの源氏物語の中でも、光源氏が、女性遍歴を繰り返す陰で、苦しみ悲しんだ女性は居ました。
一夫一婦制や貞操という性情がなかったのではなく、あっても、その苦しみや悲しみを主張する習慣はなく、それを思いやって、その心をいたわろうとしてくれる「父性」のある男がいなかったのだと思います。


以前、「日本には性的虐待はない、ということになっていたが、実際にはあった」という話を読みました。
タイガーと呼ばれた子」のまえがきで、精神科医斎藤学氏が書いていました。

「おそらく多くの日本の人々は知っていたのだ。読者本人か、その身近な人に「シーラたち」がいること、ただ彼らには「名」がつけられていないだけであることに。「日本には性的虐待がない、これが日本の文化の特徴のひとつである」(1997年に東京で開かれた国際学会での、ある精神科医の発言)などと言っていたのは人々の実態を見ることを怠った「専門家」たちのゴタクに過ぎなかったのである。」


〇 しょうがない…と諦めて沈黙してしまう陰で、多くの問題がないことにされてしまいます。