読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※現代青年の感性_マンガを中心に)

「戦前においては、青年期における文学・芸術への関心を論じるにあたって、青年に共通に読まれ、話題となっている書物を選ぶことが出来た。(略)

現在ではまずそのような本を見出すことが出来ない。(略)

ところが、ある種のマンガこそ、大学生の共通の「愛読書」として取り上げ得るのである。」


作田啓一氏は子供が大人になってゆく過程を、シャハテルに従って、第一次自分中心性、対象中心性、第二次自分中心性という推移によって把握している。

そして、「第二次自分中心性の特徴は、客体に対して、それの操作が容易であるような仕方でラベルをはることである。さまざまの客体が、主体の用途に応じて、ラベルを張られ分類される」と述べている。


大人はこのようにして、自分をとりまく複雑な対象世界を一応安定したものとして組織化してゆくことが出来るのである。」


「作田氏は、第二次自分中心性の段階では、人間も分類され、特定の役割を通して利用し合い操作し合う関係となることを指摘している。」


「先に例をあげたインヴェーダーはその一例であり、実際に、自分の肉親をインヴェーダーとして感じるとき、その人としては離人症という恐ろしい症状に悩まされざるを得ない。」



「強烈な賛否両論を巻き起こしたと言われる、ジョージ秋山の「アシュラ」も、感性の次元のことなりを感じさせる。これは自我の深い亀裂の体験に根差しているように思われる。


このような劇画が多数の青年に読まれるという事実は、現代の青年の心の亀裂の深さが相当に深いものであり、そこに生じる不安も次元の深いものがあると感じさせられる。(略)


荻野恒一氏も劇画の中に、しばしば「太古の文化への復帰の意志」が見られることを指摘し、「精神分析ブームがフロイトからユングに移行している文化現象を裏書き」しているように見えると述べている。」


「近代になって自然科学の発展が急激となり、自然科学的なものの見方が文明国においては大勢を支配するようになってきた。(略)

従って、内向感覚型の人は現代の社会においては下積みの生活を余儀なくなれる。あるいは、無理をして自分にとって不得意な機能をなんとか開発し、この社会に適応することになる。」


「いま、トリックスター増について指摘したが、このようにして見ると、マンガはユングのいう元型的な心象の断片化されたものの集積場ともいうことが出来る。たとえば、脇明子は、竹宮惠子の作品にしばしば出現する「永遠の少年」の元型的心象について論じている。


元型的なイメージは、ある時代にある天才によって把握され、それがある集団にとって普遍的なものとして認められるとき、それは宗教的な意味を持つことが多い。


たとえば、ユングが述べているように、キリスト像を、元型としての「自己」の象徴と見ることもできるし、ギリシャ神話に登場する神々を、何らかの元型像として考えて見ることもできる。

ところで、現在の多くのマンガの素材には、これらの元型的な心象が手軽に切り取られたり、矮小化されたりして用いられていることが解る。それは、安手の英雄や神の活躍の場である。


既に述べた通り、近代科学によって武装された現在人の意識は、在来の宗教を受け付けるのに困難を感じている。(略)


かくして、現在人は意識的には宗教を否定しつつ、無意識的な宗教的欲求は増大するばかりである。その間隙を縫って、マンガが活躍の場を見出したのである。」


「作田氏は青年期の溶解指向が向上指向と結合して、そこに宗教的、芸術的な体験が生じることを述べ、溶解指向と道具指向とが結びつくことはないと指摘している。

しかしながら、現在の多くのマンガは、この結びつくはずのない二つの指向が奇妙に結びつき、折角の溶解指向が、画一化され、形骸化された「死せる神像」へと頽落していったものと思われる。現在の多くの青年がシラケを強調するのも当然のことである。」

〇以前、この河合氏は、

「人間がこの世に真に「生きる」ためには、個々人にふさわしいメタファーの発見と、それの解読を必要とする。ところが実情は、既に述べたような現代の管理的な社会機構によって、メタファーは全体の構成から段々と排除されつつある。それが現在生き残っているのは、むしろ文化の周辺部に存在する、マンガ、SF、コマーシャルなどの世界ではなかろうか。」

と書いていました。


その意味が良くわからなかったのですが、ここで言う、「元型的な心象」というのが、そのメタファーと同じ意味で使われているのでしょうか。