読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「相沢中佐の異常心理と「昭和維新

 

”総括”を思わせるのが、相沢(三郎)中佐の永田(鉄山)事務局長斬殺事件(昭和十年八月)である。その背後にあったのは、陸軍内の皇道派と統制派の争いで、細部は除くが、資料を見るとこの近親憎悪はすさまじいが、今回は彼らの異常心理についてだけ短く述べたい。というのは、相沢は永田軍務局長を斬殺した後、まず福山の連隊に帰り、ついで命令通り台湾に赴任するつもりであった。(略)

 

 

一種の確信犯だが、それではどのような内容の確信があったのか。彼は大一回公判(昭和十一年一月二十八日)で次のようなことを述べている。

 

 

「……私の心情が分らんというならば申し上げましょう。私が昭和四、五年ごろ、日本体操学校に在る時、国家の状態は万般にわたり実に情けない状態でありました。たとえば、農民は貧困の民のように心がすさんでいたようであります。

 

 

農村には小作争議が起こり、共産主義に心動き、鉄道大臣賞勲局総裁が妙な事をし、最高学府さえ御国に尽くすことを教えず、経済の中心も私欲に基づく権益擁護のみに動いていたのであります。

 

 

また、外交も満州事変突発以前は情けない状態であり、海軍条約も統帥権干犯の不都合があり、こうした例は毎日の如く、真に大御心を悩まし奉って臣下として申し訳ない次第と思ったのであります。こう考えると、単に体操学校で愉快に生徒とともに御奉公を申し上げるだけでは済まないと感じたのであります。これが私の社会革新の動機となったのであります。」

 

 

統帥権問題を別にすれば、ここまでは左右の確信主義者のすべてが口にしていたことで、別に珍しい認識ではない。そしてこの背後に、実は国家社会主義諸国では、以上のような問題がすべて解決されたかのような見方が作用していた。それは一種のイリュージョンにすぎないが、彼らは、それが分からなかった。もっとも戦後でもこの問題は残っている。(略)

問題は、その革新を担うのは青年将校であるとした点である。

 

 

永田軍務局長斬殺が「大御心」か

 

「……青年将校の考えについても、一度申し上げます。すべて尊王絶対であります。たとえば、軍について、連隊長なら連隊長はあくまで陛下の御身代わりとして動くべきです。「俺が、俺が」と私欲で動くことは絶対にいかぬ。(略)

 

 

なお皇軍がしっかりするためには、将校がしっかり団結して、尊い一つの塊となって、上官とも切磋琢磨、軍民一体となって、昭和維新へ進む。これが青年将校の考える夢想であります」(第一回公判)

 

 

以上の様に彼は言う。いわゆる昭和維新において彼は、青年将校をその「前衛」のように考えているわけである。彼はこの前衛の、更に先頭に立ったと自負している。そして永田軍務局長斬殺は、「作戦要務令」第一条に基づく行為で、決して違法ではないと彼は主張する。(略)

 

 

そして永田軍務局長斬殺は「君側の奸」で暴徒に等しい彼を除くためのもので、「作戦要務令」にかなった行為、すなわち「統帥権に則っている行為」だから大御心にかなっている。(略)軍人精神から見ればもとより無罪であり、これを有罪にすることは軍人精神を殺すことだと彼は主張する。

 

 

彼はこう信じたのかも知れぬ。しかし彼には重要な誤解がある。まず平時の軍隊を律するのは「軍隊内務令」であって「作戦要務令」ではない。暴徒が皇居に乱入するのを阻止するのは警察の任務で、これが警察の手に負えなくなれば戒厳令がはじめて発令される。それまでは、軍隊は関係がない。

 

 

さらに「作戦要務令」が適用されるのは、戦闘序列の下命があって後で、このときに「軍隊内務令」に変わる。平時の町を歩いている軍人が、勝手に「作戦要務令」どおりに行動したら大変なことであろう。(略)

 

 

これは当時の軍人の「法意識」の欠如を物語っているが、さらに問題なのは「大御心に副って」とか「大御心を体して」と言った言葉である。(略)

 

 

もし「大御心」といえるものがあれば「あくまでも憲法の命ずるとおり」であっても、「錦旗革命」ではあるまい。それを無視すると、自己の信念や妄想が「大御心」になってしまい、その人間が天皇になってしまう。

「永田軍務局長を斬殺することが大御心だ」などと言われたら、天皇は驚いて跳びあがったであろう。そして天皇の意志と、青年将校の「大御心」が激突するのが二・二六事件である。

 

 

憲法と歴史的実体との大きな乖離

 

ある雑誌で「憲法に描かれた社会システム」としてのアメリカの青写真と、歴史的実体としてのアメリカの現実との間の重大な食い違い」が現代のアメリカの問題点とする論文を読んだが、「帝国憲法と歴史的実体いての日本」の食い違いが最もはっきり現れているのが戦前の日本である。(略)

 

 

では彼(相沢)に、憲法に代わるべき明確な理念があったのであろうか。錦旗革命とか昭和維新とか言っても、その方法も目的も相沢には明らかでない。(略)

 

 

興味深いのは、島田検事官との次の問答である。

 

「島田  国家の法律は陛下の下し賜ったものであり、御裁可を得て国民斉しく奉戴しなければならないものである。

 

相沢  はい。

 

島田  法を犯せば大御心に反することになる。知っていたか」

 

この問いに対して彼は答え得ないで沈黙する。(略)

 

そこで島田検察官は質問を変える。

 

「島田  永田局長ただ一人を一刀両断にすれば昭和維新は出来ると思ったか。

 

相沢  私の考えは少し違いますが、認識不足であったことを認めます。

 

島田  永田局長一人を殺しても維新決行は出来ぬということを今さら知ったことで認識不足というのか。

 

相沢  いや、維新とは悪い考えを持った人が悪かったと思うのがその発祥である。

 

島田  被告の行為によって悪い人が良くなるというのか。

 

相沢  そうであります。」

 

この問答を読者はどう思われるか。小学生並みの知能水準と思われるかも知れないが、ドストエフスキーが鋭く見抜いた革命心理からすれば別に不思議ではない。これは彼が題材としたネチャーエフ事件でも、連合赤軍事件でも同じかもしれない。どのような方法で革命を行なうのか、革命後の社会に対してどういう青写真を持っているのかと問われれば、答え得ないのがむしろ普通である。

 

 

青年将校」という新タイプの登場

 

ただ、つづく訊問で北一輝の「日本改造法案大綱」が出てくるが、その内容に賛成なのかと問われても「単にそう言っても漠としてわかりません」と言い、さらに問われても、結局は答えていない。(略)

 

 

陸軍士官学校では、将校もエリートとして社会に目を向けなければならないと、途中から、教課に社会科学を導入した。だがそれが逆効果となり、彼らを「軍部ファシズム」に走らせたが、相沢中佐はまだそれ以前の年代で、いわば「神がかり的尊皇家」といったタイプである。この神がかりの伝統と社会科学の結合が「青年将校」というあるタイプを生み出したという一面は否定できない。

 

 

天皇はこの風潮をよく知っておられたのではないか、と思われるお言葉がある。(略)

 

一方、二・二六事件の将校の供述に「閑院宮参謀総長デアラレル限リ、陸軍ノ癌デアリマス」というのがある。また事件発生を知った瞬間、閑院宮は大丈夫かという危惧が、反射的に頭の中に走ったという関係者も多い。

 

 

こう思った理由は、真崎(甚三郎)教育総監(革新将校の精神的支柱)をやめさせたのは、本当は閑院宮だと彼らが思っていたこと、同時に、天皇に絶えず自分たちのことを、”中傷的”に伝えていると思っていたからであろう。(略)

 

 

「将校等、ことに下士卒に最も近似するものが農村の悲境に同情し、関心を持するは止むを得ずとするも、これに趣味を持ち過ぐる時は、かえって害ありとの仰せあり」

        (「本庄日記」昭和九年二月八日)

 

 

さらに、

 

「善政は誰も希う所なるが、青年将校などの焦慮するが如く急激に進み得べきにあらず」

         (同 三月二十八日)

 

 

言うまでもなく、このお言葉は「相沢事件」「二・二六事件」以前であり、そのことから天皇が相当の危惧を抱いていたことを示している。(略)

 

 

しかし基本的には彼らの考えは違っていたであろう。前述の言葉はおそらく「万が一」であり、彼らは天皇は自らの意志なき「玉」か「錦の御旗」だと思っている。そこで「君側の奸」を一掃し、自分たちが天皇をかついで一刀両断、大改革をすれば、すぐに全てが解決すると信じていた。」

 

 

〇 苦しんでいる人、泣いている人を助けたいと、「錦旗革命」や「昭和維新」を企てる。ただ願うだけではなく、本気で行動する。

そうすると、あの「連合赤軍事件」になってしまう。

 

その恐ろしさを嫌になるほど知って、どれほど社会を変えたくても、人を助けたくても、革命や維新はやめてほしいと思うようになりました。

 

そして何もしない、行動しない人になってしまいました。

政治は難しすぎる、活動は難しすぎる。

そんなことを言っているうちに、私たちの国の政治は三流どころか、最低になってしまいました。

 

もう少しなんとかならないかと思います。

せめて、真実を尊び「論理」的に考えることを訓練し、

議論が成り立つ風土を作れないものかと思いますが。