読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

「母性愛

子供を産み、乳をのませるのは、女にしかできません。母親になるということは、女の生物学的な宿命です。企業が支配し、男がそれを支えている今の社会では、女の生物学的な宿命を社会的な宿命のようにいいくるめます。



「女には母性愛がある。だから育児をし、家を守らなければならない」
そして母親にならない女を、女として一人前でないように扱います。
母性愛を女の特権のように言うのは、実は女を独立した人格と認めていないのです。
子供を産む産まないは、女の自由です。母親になって、育児だけをして、主婦専業になるかどうかも女が自由に選ぶことです。



母親になったあと、仕事を続けることを承知しないような男と結婚しないのも、女の自由です。たしかに戦前の母親は、育児と家事に専念しました。それは子供を産んだという生物学的な事実から宿命的におこることでありません。社会が母親に働く場を与えなかったからにすぎません。


実力があるのに、イエというせまい世界にとじこめられている母親は、しばしば男の不甲斐なさに腹をたてて、イエを飛び出しました。
そういう母親をあざけって、
「母性愛がうすい」
と男たちはいいふらしました。



いかにも生まれつきの本能が欠けているようですが、女をみんな同じものにしてしまって、女であれば誰でも育児のために一切を犠牲にしなければいけないように思わせたのです。育児は女だけのすることで、男には無関係だといいたいのです。



女の能力と個性を無視しているのが男であるのに、天がそう命じたようにいうのです。
出産は女だけの苦労であっても、それにいたる受胎は、男と女との共同の仕事です。生後何カ月間かは、子供は母親にだけ依存する期間がありますが、それがすめば、男も女も親であることにかわりありません。母性愛があると同じに、父性愛がなければなりません。


もし母性愛のほうが、父性愛より強いように見えたら、それは生物学的にそうだというのではなく、社会がそうさせたのです。


戦前の「厳父慈母」は、イエのなかの独裁者だった父親が子供に暴力をくわえるのを、母親が仲裁したり、子供を慰めたりした風景です。今のように父親がイエとしての企業のために尽くして、夜遅くしか帰って来ないのだったら、父性愛はうすくなるでしょう。



共働き家庭で、家事を全然手伝わない父親のもとで、母親が孤軍奮闘しているのをみて育った子どもは、母性愛のほうを身近に感じるでしょう。」


〇 最近はそんなことも少ないと思いますが、私が子育てをしていた頃は、男だけがそう考えるのではなく、女自身もそう考えて、同胞である女を批判したので、話はややこしくなりました。


あの福田氏も言っていたように、「混乱期の中にいる」という自覚を持てれば、様々な無用な戦いはしなくて済んだのだろうなぁ、と感じます。