読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「サンガにはなぜ法律が及ばないのか

仏教はこの世界が、究極の法則(ダルマ)に支配されていると考えます。
ダルマというのは、原因と結果を結ぶ因果律です。こういう原因があるので、こういう結果がある。それを客観的に認識してとり出す。それが心理なのだと考える。合理的なんですが、これが人間社会の法律もカヴァーしていると考える。



仏教の法と、一神教の法律はどう違うか。キリスト教の考え方と違うのは、一神教では、法律は契約ですから、人間を拘束するだけで、それ以外のものは拘束しません。仏教のダルマ(法)は、契約という考え方ではないので、すべてのものを拘束しています。ですから自然現象も拘束してしまい、人間をふくむ社会現象も拘束してしまい、すべてがダルマなのです。


道徳もそうで、たとえば善因善果、悪因悪果といいますが、善い行いをすると善い報いがあり、悪い行いをすると悪い結果になるというのが、仏教の考え方の基本です。これは、道徳的な因果律です。物理現象とは関係がない。



善い悪いというのは、社会の中で決まっている。社会の中で働く法則は、ダルマの特殊ケースである。そう考えていると思います。出家者は世俗の法律を離れてしまうわけですから、法律と無関係な状態になります。出家者には世俗の法律はいらないのか。たとえば出家者が泥棒をしたら、どうなるか。出家者が殺人をしたらどうなるか。刑法は、どう適用されると思いますか。



答え。出家者は、そういうことはしないことになっているのです。そもそも、そういう犯罪が起こるとは想定していない。この二百五十戒をしっかり守っていると、心は平静ですから、怒るとか、隣の人の持っている物が欲しいとか、そういうことがない。


だいたい何かを所有しているということがないから、ものは盗まれない。悪事をはたらいたのでは、修行になりませんから、出家者はそもそもそういうことをしない。



仏教のサンガは、それだけレベルの高い集団だからということで、どの政府も、サンガに自治権を認めて、そこに世俗の法律を適用しないようにしています。たとえば、逮捕したり処刑したりしない。これは日本にも伝わり、永らく残っていた慣習です


大乗と戒律

さて、やがて、大乗仏教が出てきます。
大乗仏教は、在家主義なので、小乗仏教のようにサンガと社会が明快に分離するというわけにはいかなくて、複雑なことになっていきます。



大乗仏教は、在家主義。サンガを否定して、在家のまま修業しようという考え方です。大乗仏教の主役である菩薩は、在家の修行者なのです。菩薩として修業しよう。そうすると、小乗の具足戒がなくなってしまう。釈尊は二百五十戒を小乗の戒律として残しただけで、大乗のための特別な戒律はないのです。



戒律を収めた「律」と、釈尊の教えをのべた「経」とが、別々のテキストとして残っているのが小乗ですが、大乗の場合には大乗戒というものは存在しない。「律」もない。しょうがないので、経典のなかに書いてあるのだというふうに大乗では主張します。



般若経とか華厳経とかには、菩薩はこういうふうに修業しましょう、こういう修業をした菩薩が偉かった、などと書いてある。菩薩には、六波羅蜜という行法があって_六波羅蜜とは、布施波羅蜜持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜般若波羅蜜ですが_これをしばらく大乗の戒律の代わりに使っていました。



でも結局、落ち着くところは、小乗の戒律を、大乗も採用するということになった。中国にはそういうふうに伝わりましたし、日本でも原則は、大乗の修行者も出家して、小乗の戒律を授けられます。」



〇 仏教では、「出家者は、そういうことをしない。そもそも、犯罪が起こるとは想定しない」というのを読んで、やっぱり、と思いました。

仏教はやはり、「個人の生き方」の指針になるものだと思います。一人の人が、自分自身どう生きるか、と考えるときに必要となるもので、「社会」とか「みんなで生きること」を想定していないのではないかと思います。