読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

哲学的自伝


「今日では、特定宗派的には信仰をもたぬ若いひとびとはおびただしい数に達することが考慮さるべきであります。この事実が非難されようがされまいが、このような青年にとって哲学とは、彼のもろもろの信仰可能性を照明する唯一の場なのであり、彼がこのような信仰可能性を、無条件に承認されている捉われとして自覚しうる思惟なのであります。」

〇私の場合、まさにこの「若いひとびと」の一人でした。生きる意味、なぜ生きているのか、考えても答えなどない中で、よりどころとなるものを与えてくれたのが、ヤスパースだったと思っています。


「当時の状況は、全西洋史に対して、もろもろの人物をきびしく検討してみざるを
えなくしました。問題は、いかなる意味で彼らは、恐るべき物事に抵抗しえた精神の創造者であり、万人であったのか、そしてまた、いかなる意味でこういった恐怖に道を開く者となったのか、という形で頭をもたげたのであります。」

〇これは、まっすぐあの「イェルサレムアイヒマン」につながる問題だと思います。


「われわれは、他者が彼自身となるに応じて、それだけわれわれ自身となるのであり、他者が自由である限りにおいて、ようやく自由となるのであります。(略)

結局あらゆる思想は、それが交わりを促進するものなのか、阻害するものなのか、という審問にかけられるのが当然なのでした。

要するに真理そのものが、真理とはわれわれを結びつけるものであるという規準下に、そしてまた、真理の価値を、真理によって可能となる結びつきの真理ではかろうという要求下に置かれるのが当然でした。」


「妻とともに初めて私は、愛しながらの闘争の道、生涯にわたって続けられるが決して完結されない、腹蔵のない、したがって尽きることのない交わりの道に達したのであります。」

〇私たちの社会では政治と宗教について話題にしてはいけないという暗黙の了解が
あるように感じます。政治にも宗教にも「価値観」が絡んでいます。
つまり「価値観」について語り合うと必ず「闘争」になります。

その闘争的断裂を再び結び付けるものが私たちにはない。

ただ、「みんな一緒」という雰囲気だけが頼りなので、「違い」があると
すぐに協調性がないと敵対者のように思われてしまいます。

だから和を乱さないためには、自分を出さず意見を言わず、周りの空気を読んで
その場の雰囲気に従うことが大人の態度だとされます。

ここでヤスパースが言っている、

「あらゆる思想は、それが交わりを促進するものなのか、阻害するものなのか、という審問にかけられる」

というその思想自体が退けられているのが、私たちの社会です。

「思想」が退けられている社会=アーレントのいう思考をしない人々の社会

つまり、アイヒマンのような人々ばかりが育てられているのが私たちの社会ではないか、というのが私の持った疑問なのです。