読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ふしぎなキリスト教  16 無神論者は本当に無神論者か?

「O 神を信じてはいないと信じていることと、実際に信じていないこととは別のことではないか。そう考えると、無神論とは何か、ということはけっこう難しい問題になります。


橋爪さんは、宗教社会学についての著書の中で、宗教とは何かということについて、抽象的な定義を与えていますね。宗教とは、行動において、それ以上の根拠を持たない前提を置くことである、と。独特の、証明されざる前提みたいなものを置いて、行動の前提にする。

宗教をこのように広く捉えると、本当の意味での無宗教とか、無神論とかいうのは、ほとんど不可能なのではないかと思ったりもします。


たとえば、ほとんどの日本人は少なくとも一神教の神様は前提にはしていませんが、別の意味での行動の前提はある。それを、山本七平は、むかし「日本教」などという言葉で表現したわけです。


H 日本人の考える無神論は、神に支配されたくないという感情なんです。「はまると怖い」とかも、だいたいそう。それは大多数の人々の共通感覚だから、もしそれを無神論というなら、日本人は無神論が大好きです。

でも、これは、一神教の想定する無神論とはだいぶ違う。
日本人が神に支配されたくないのは、その分自分の主体性を奪われるから。日本人は主体性が大好きで、努力が大好きで、努力でよりよい結果を実現しようとする。


その努力をしない怠け者が大嫌いで、神まかせも大嫌い。と考える人々なのです。だからカミが大勢いる。カミが大勢いれば、カミひとりの勢力はその分殺がれる。人間の主体性が発揮しやすい。


Oまあ考えようによってはね、日本社会は、一神教的な観点から見れば、偶像しかいないような状態ですからね。(略)


H 神道がカミの像をつくらなかったのは、キリスト教から見ればおもしろい点です。なんでカミの像をつくらないかといえば、像をつくると拝まなければいけないから。それは支配されるということなんで、なんか嫌だな、と。(略)


でも、よく聞いてみたら、仏像はあまり大事ではない。仏の覚りの方が大事らしい。それならいいやと、安心して取り入れ、拝んでいるような顔をして実は拝んでいない…。


H そうすると、面白いですね。一神教の人たちと、日本の神道とが、全く反対の理由から像をつくらなかったわけですね。


一神教では、真に従うために、ほんものの神にだけ従うために_言い換えれば偽物に従わないために_像を禁じたわけです。


しかし、神道は、拝んで従うのが嫌だから像をつくらなかった。一方には、真に従うために像をつくらなかった人たちがいて、他方には、できるだけ従わないために像をつくらなかった人たちがいる。」


〇ここで、橋爪氏が言っている、神に従うのが嫌で、自分の努力で頑張るのが好き、というのは、私も全くその通りでした。