読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

私は女性にしか期待しない

「家庭は解放区
次の時代をになえる人間を育てるのが、家庭の、いわば社会的な機能です。
家庭には、もうひとつ私的な機能があります。それは家庭をいとなっているものの気を休めることです。家庭は、そこに帰ってほっとする場所です。



ふつうの市民が家庭のありがたさを感じるのは、病気で入院させられた時です。病院ではいつも人の目を気遣っていなければなりません。病院の規則に従って生活しなければなりません。好きでないものも運んで来られれば、食べねばなりません。自分の好む服装を身につけられません。



本箱から好きな本を選ぶことが出来ません。暑いからシャワーを浴びようと思っても出来ません。ちょっと散歩して来ようと思っても、外へ出ることは許されません。



好きな時に好きなことが出来るのは、家庭しかありません。だが、日本の家庭がそういう誰にも遠慮しないでいい場所になったのは、戦後です。戦前は妻は舅姑と夫とに遠慮していなければなりませんでした。



男女同権を憲法で決めたので、夫婦はイエから解放されたのです。日本の社会も、自由な市民の社会になったはずですが、まだ家庭がイエから解放されたほど、解放されていません。社会では、まだまだ、人に遠慮しなければなりません。



その意味で家庭は管理社会の中の解放区と言えます。男女同権になって出来た解放区ですから、夫婦の姓の選択や、家庭のなかで役割分担をどうするかは、ふたりの自由な人間の契約として決めることです。共働きなら、夫の家事分担の割合は、専業主婦のいる場合より多いでしょう。場合によって専業主夫ができても、それは夫婦の自由です。



家庭が解放区でないという人は、家庭を他のどこよりも、気の休まる場所と感じていない気の毒な人です。解放されているというのは、自由であることです。解放区でないところは、特権があり、特権を持つものが、特権を自由と感じます。



イエの時代は家父長という特権を持った夫だけが、自由でした。イエがなくなり、家父長もなくなった、特権者のいない家庭は解放区です。家庭が解放区でないという妻は、家にまだ特権者を残しているのでしょう。


私ども夫婦は、共働き家庭として出発しました。妻の母がいたから出来たのです。妻は速記者でした。私の収入が増えると、妻に速記をたのんで、速記料を出しました。
外でやる速記の仕事が減って、妻は専業主婦になりました。共働きの時代も専業主婦の時代も、私たちには家庭は解放区でありました。


解放区は子供たちを育てるのを容易にしてくれたし、いま彼らがそれぞれ解放区をつくっているのに、多少役にたったろうと思います。」

〇 松田道雄さんの「家庭が解放区でない原因は男にある」という話を読みながら、何度も思い出すのは、先日も書いた「クローズアップ現代+ 妻が夫にキレるわけ」のことです。

40%以上の夫が妻を怖いと感じるのは、なぜなんだろうと。
これまでの内容から、夫が「悪い」→ だから妻は責める → 夫は妻が怖くなる

ということなんだとしても、結果として、そのことで、夫と妻が仲が悪くなり、夫は帰宅拒否症になり、家庭が気を休める場所になっていないのだとしたら、これは、相当に大きな問題ではないかと思うのですが。