読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

武士道 

「第十六章 武士道はなお生くるか

 

我が国において駸々として進みつつある西洋文明は、すでに古来の訓練のあらゆる痕跡を拭い去ったであろうか。

一国民の魂がかくのごとく早く死滅しうるものとせば、それは悲しむべきことである。外来の影響にかくもたやすく屈服するは貧弱なる魂である。

 

 

国民性を構成する心理的要素の合成体が粘着性を有することは、「魚の鰭、鳥の嘴、肉食動物の歯等、その種族の除くべからざる要素」のごとくである。ル・ボン氏は浅薄なる独断と華美なる概括とに満てる氏の近著において曰く、「知識に基づく発見は人類共有の遺産であるが、性格の長所短所は各国民の専有的遺産である。それは堅き巌のごとく、数世紀にわたり日夜水がこれを洗うても、わずかに外側の圭角を除去しうるに過ぎない」と。これは強き言葉である。(略)

 

 

 

武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は、日本民族の偽らざる告白であった ——

 

かくすればかくなるものと知りながら

    やむにやまれぬ大和魂

 

 

形式をこそ備えざれ、武士道は我が国の活動精神、運動力であったし、また現にそうである。

ランサム氏曰く、「今日三つの別々の日本が相並んで存在している、 —— 旧日本はいまだまったく死滅せず、新日本は漸く精神において誕生したるに過ぎず、しかして過渡的日本は現在その最も危険的なる苦悶を経過しつつある」と。(略)

 

 

王政復古の暴風と国民的維新の旋風との中を我が国船の舵取りし大政治家たちは、武士道以外何らの道徳的教訓を知らざりし人々であった。近頃二、三の著者は新日本の建設に対しキリスト教宣教師が著大なる割合の貢献をなしたということを証明しようと試みた。

 

 

私は名誉の帰すべき者には喜んで名誉を与えるが、しかし右の名誉はいまだ善良なる宣教師たちに授与せられ難きものである。何ら確認すべき証拠のなき要求を持ち出すよりも、互いに名誉を他に帰すべしとの聖書の戒めを守ることこそ、彼らの職務に一層似合うであろう。

 

 

私一個人としては、キリスト教宣教師は日本のために教育、ことに道徳教育の領域において偉大なる事業をなしつつあると信ずる。—— ただし聖霊の活動は確実ではあるが神秘的であって、なお神聖なる秘密の中に隠されている。

 

 

宣教師等の事業はなお間接的高価あるに過ぎない。否、今日までの所キリスト教伝道が新日本の性格形成上貢献したることろはほとんど見られない。否、善かれ悪しかれ吾人を動かしたものは純粋蕪雑の武士道であった。

 

 

現代日本の建設者たる佐久間、西郷、大久保、木戸の伝記、また伊藤、大隈、板垣等現存せる人物の回顧談を繙いて見よ —— しからば彼らの思索および行動は武士道の刺激の下に行われしことを知るである。

 

 

極東を研究し観察したるヘンリー・ノーマン氏は、日本が他の東洋専制国と異なる唯一の点は「従来人類の案出したる名誉の掟の中最も厳格なる、最も高き、最も正確なるものが、その国民の間に支配的勢力を有すること」にあると言明したが、これは新日本の現在を建設しかつその将来の運命を達成せしむべき原動力に触れた言である。(略)

 

 

 

他方、我が国民の欠点短所に対しても武士道が大いに責任あることを承認するは公平である。我が国民が深遠なる哲学を欠くことの原因は —— 我が青年のある者は科学的研究においてすでに世界的名声を博したるにかかわらず、哲学の領域においてはいまだ何らの貢献をなしていない —— 武士道の教育制度において形而上学の訓練を閑却せしことに求められる。

 

 

我が国民の感情に過ぎ、事に激しやすき性質にたいしては、我々の名誉感に責任がある。もしまた外国人によりて往々非難せらるるごとき自負尊大が我が国民にありとすれば、それもまた名誉心の病的結果である。(略)

 

 

 

「忠義」という一語が、微温的と成るに任せらえていたすべての高貴なる感情を復活せしめたのである。或る学校において一教授に対する不満を理由として、一団の乱暴なる青年たちが長く継続して学生ストライキをやっていたが、校長の出した二つの簡単なる質問によって解散した。

 

 

 

それは「諸君の教授は価値ある人物であるか。もししからば、諸君は彼を尊敬して学校に留むべきである。彼は弱き人物であるか。もししからば、倒るる者を突くは男らしくない」と言うのであった。その教授の学力欠乏が騒動の始まりであったのだが、それは校長の暗示したる道徳的問題に比すれば、重要ならざる小問題となってしまったのである。

 

 

かくのごとく武士道によりて涵養せられたる感情を喚起することによって、偉大なる道徳的革新が成就せられうる。

我が国におけるキリスト教伝道事業失敗の一原因は、宣教師の大半が我が国の歴史について全然無知なることにある。(略)

 

 

一国民の歴史を嘲る? —— 彼らはいかなる民族の経歴、何らの記録を所有せざるもっとも遅れたるアフリカ現住民の経歴でさえも、神御自身の手によりて書かれたる人類一般史の一ページをなすものたるを知らないのである。(略)

 

 

一国民の過去の経歴を無視して、宣教師らはキリスト教新宗教だと要求する。しかるに私の考えでは、それは「古き古き物語」であって、もし理解しうべき言葉をもって提供せらるるならば、すなわち一国民がその道徳的発達上熟知する語彙をもって表現せらるるならば、人種もしくは民族のいかんを問わず、その心にたやすく宿りうるものである。(略)

 

 

新信仰の宣伝者たるものは、幹、根、枝を全部根こそぎして、福音の種子を荒地に播くことをなすべきであるか?かくのごとき英雄的方法は —— ハワイでは可能であるかも知れぬ。そこでは戦闘的教会は富そのものの搾取と原住民種族の絶滅とに完全なる成功を収めたと称せられる。

 

 

 

しかしながらかかる方法は日本においては全く断じて不可能である —— 否、それはイエス御自身が地上に彼の王国を建つるにおいて決して採用したまわざるべき方法である。(略)

 

 

 

しかしながら、個人的にはいかなる誤謬が犯されたにもせよ、彼ら宣教師の信ずる宗教の根本的原理は、吾人が武士道の将来を考えるについて計算に入れるを要する一勢力たることは疑いがない。武士道の日はすでに数えられたように思われる。その将来を示す不吉の徴候が空にある。徴候ばかりでなく、巨大なる諸勢力が働いてこれを脅かしつつある。」