読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

武士道

「第十七章 武士道の将来

 

ヨーロッパの騎士道と日本の武士道との間におけるごとく適切なる歴史的比較をなしうるものは稀である。しかしてもし歴史が繰り返すものとすれば、後者の運命は必ずや前者の遭遇したるところを繰り返すであろう。(略)

 

 

ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一の顕著なる差異は、ヨーロッパにありては騎士道は封建制度から乳離れしたる時、キリスト教会の養うところとなりて新たに寿命を延ばしたるに反し、日本においてはこれを養育するに足るほどの大宗教がなかったことである。

 

 

 

したがって母制度たる封建制の去りたる時、武士道は孤児として遺され、自ら赴くところに委ねられた。現在の整備せる軍隊組織はこれをその保護の下に置き得るであろう、しかし吾人の知るごとく現代の戦争は武士道の絶えざる成長に対して大なる余地を供しない。

 

 

武士道の幼時においてこれを哺育したりし神道は、それ自体すでに老いた。(略)

 

 

もし歴史が吾人に何ものかを教えうるとせば、武徳の上に建てられたる国家は —— スパルタのごとき都市国家にせよ、或いはローマのごとき帝国にせよ、 —— 地上において「恒に保つべき都」たるをえない。

 

 

人の中にある戦いの本能は普遍的かつ自然的であり、また高尚なる感情や男らしき徳性を生むものであるとはいえ、それは人の全体を尽すものではない。戦いの本能の下に、より神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛である。

 

 

 

神道孟子、および王陽明の明白にこれを教えたるは、吾人のすでに見たるところである。しかるに武士道その他すべて武的型態の倫理は、疑いもなく直接の実際的必要ある諸問題に没頭するあまり、往々右の事実に対し正当なる重さを置くを忘れた。

 

 

 

今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想 —— 仏教の慈悲思想もまたこれに付加すべきか —— はキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。

 

 

 

人は臣民以上のものとなり、公民の地位にまで発達した。否、彼らは公民以上である —— 人である。戦雲暗く我が水平線上を蔽うといえども、吾人は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信ずる。世界の歴史は「柔和なる者は地を嗣がん」との預言を確証する。平和の長子権を売り、しかして産業主義の前線から後退して侵略主義の戦線に移る国民は、まったくつまらない取引をなすものだ!(略)

 

 

 

 

或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ砲によりてであると。また言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかしながらこれらは真理の半面たるにも当たらない。

 

 

たといエールバーもしくはスタインウェイの最良の製作にかかるものでも、名音楽家の手によらずして、ピアノそのものがリストのラプソディもしくはベートーヴェンソナタを弾奏し出すことがあるか。

 

 

さらにもし銃砲が戰に勝つものならば、何故ルイ・ナポレオンはそのミトライユーズ式機関銃をもってプロシヤ軍を撃破しなかったのであるか。或いはスペイン人はモーゼル銃をもって、旧式のレミントン銃をもって武装したるに過ぎざりしフィリピン人を破ることをえなかったのであるか。

 

 

活力を与えるものは精神でありそれなくしては最良の器具もほとんど益するところがない、という陳腐の言を繰り返す必要はない。最も進歩せる銃砲も自ら発射せず、最も近代的なる教育制度も臆病者を勇士と成すをえない。否!鴨緑江において朝鮮および満州において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に搏ちつつある我らが祖父の威霊である。

 

 

 

これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕を付けて見れば、一人の武士が下から現れる。名誉、勇気、その他すべての武徳の偉大なる遺産は、クラム教授の誠に適切に表現したるがごとく、

 

 

「吾人の信託財産たるに過ぎず、死者ならびに将来の子孫より奪うべからざる秩禄」である。しかして現在の命ずるところはこの遺産を護りて古来の精神の一点一画をも害わざることであり、未来の命ずるところはその範囲を拡大して人生のすべての行動および関係に応用するにある。(略)

 

 

日本人の心によって証せられかつ領解せられたるものとしての神の国の種子は、その花を武士道に咲かせた。悲しむべしその十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある。しかして吾人はあらゆる方向に向かって美と光明、力と慰藉の他の源泉を求めているが、いまだこれに代わるべきものを見出さないのである。

 

 

功利主義者および唯物主義者の損得哲学は、魂の半分しかない屁理屈屋の好むところとなった。功利主義および唯物主義に拮抗するに足る強力なる倫理体系はキリスト教あるのみであり、これに比すれば武士道は「煙れる亜麻」のごとくであることを告白せざるをえない。(略)

 

 

武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかも知れない、しかしその力は地上より滅びないであろう。その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかも知れない。しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。

 

 

 

その象徴(シンボル)とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。百世の後その習慣が葬られ、その名さえ忘らるる日到るとも、その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。 —— この時かのクエイカー詩人の美しき言葉に歌えるごとく、

 

 

 

いずこよりか知らねど近き香気に、

感謝の心を旅人は抱き、

歩みを停め、帽を脱りて

空よりの祝福を受ける。       」

 

 

〇 新渡戸稲造の熱い思いが、伝わって来る本でした。

これで、「武士道」のメモを終わります。