読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

武士道

「第十二章  自殺および復仇の制度

 

この二つの制度(前者は腹切、後者は敵討として知られている)については、多くの外国著者が多少詳細に論じている。

まず自殺について述べるが、私は私の考察をば切腹もしくは割腹、俗にはらきりとして知られているものに限定することを断わって置く。これは腹部を切ることによる自殺の意である。

 

 

「腹を切る?何と馬鹿げた!」 ― 初めてこの語に接した者はそう叫ぶであろう。それは外国人の耳には最初は馬鹿げて奇怪に聞こえるかも知れないが、シェイクスピアを学びし者にはそんなに奇異なはずはない。何となれば彼はブルトゥスの口をして、「汝(カエサル)の魂魄現れ、我が剣を逆さまにして我が腹を刺しむ」と言わしめている。(略)

 

 

切腹が我が国民の心に一点の不合理性をも感ぜしめないのは、他の事柄との連想の故のみでない。特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。

 

 

モーセは「ヨセフその弟のために腸(心)焚くるがことく」と記し[創世記四三の三〇]、ダビデは神がその腸(あわれみ)を忘れざらんことを祈り[詩篇二五の六]、イザヤ、エレミヤ、その他古の霊感を受けし人々も腸が「鳴る」[イザヤ書一六の一一]、もしくは腸が「いたむ」[エレミヤ記三一の二〇]と言った。(略)

 

 

近世の神経学者は腹部脳髄、腰部脳髄ということを言い、これらの部分における交感神経中枢は精神作用によりて強き刺激を受けるとの説を唱える。この精神生理学節がひとたび容認せらるるならば、切腹の論理は容易に構成せられる。「我はわが霊魂の座を開いて君にその状態を見せよう。汚れているか清いか、君自らこれを見よ」。

 

 

私は自殺の宗教的もしくは道徳的是認を主張するものと解せられたくない。しかしながら名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を絶つに十分なる理由を供した。

 

 

 

名誉の失われし時は死こそ救いなれ、

死は恥辱よりの確実なる避け所

 

 

と、ガースの歌いし感情に同感して、いかに多くの者が莞爾としてその霊魂を幽冥に付したか!武士道は名誉の問題を含む死をもって、多くの複雑なる問題を解決する鍵として受けいれた。これがため功名心ある武士は、自然の死に方をもってむしろ意気地なき事とし、熱心に希求すべき最後ではない、と考えた。

 

 

私はあえて言う、多くの善きキリスト者は、もし彼らが十分正直でさえあれば、カトーや、ブルトゥスや、ペトロニウスや、その他多くの古の地上の生命を自ら終わらしめたる崇高なる態度に対して、積極的賞賛とまでは行かなくても、魅力を感ずることを告白するであろう。

 

 

哲学者の始祖[ソクラテスの死は半ば自殺であったと言えば、言い過ぎであろうか。彼が逃走の可能性あるにかかわらず、いかに進んで国家の命令 ― しかも彼はそれが道徳的に誤謬であることを知っていた ―に服従したか、しかしていかに彼が自己の手に毒杯を取り、その数滴を灌いで神を祭ることをさえなしたかを彼の弟子たちの筆によって詳細に読む時、吾人は彼の全体の行動および態度の中に自殺行為を認めないであろうか。(略)

 

 

すでに読者は、切腹が単なる自殺の方法でなかったことを領解せられたであろう。それは法律上ならびに礼法上の制度であった。中世の発明として、それは武士が罪を償い、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖い、もしくは自己の誠実を証明する方法であった。それが法律上の刑罰として命ぜられる時には、荘重なる儀式をもって執り行われた。それは洗煉せられたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては何人もこれを実行するをえなかった。これらの理由により、それは特に武士に適わしくあった。

 

 

 

好古的なる好奇心からだけでも、私はすでに廃絶せるこの儀式の描写をここになしたいと思う。しかるにその一つの描写が遥かに能力ある著者によりてすでになされており、その書物は今日は多く読まれていないから、私はやや長き引用をそれからなそうと思う。

 

 

ミットフォードはその著「旧日本の物語」において、切腹についての説を或る日本の稀覯文書から訳載した後、彼自身の目撃したる実例を描写している。(略)」

 

 

〇 この後にその描写が続くのですが、ここで一旦中断します。

また、後日続けます。

 

〇つづきです。

 

 

「我々(七人の外国代表者)は日本検使に案内せられて、儀式の執行さるべき寺院の本堂に進み入った。それは森厳なる光景であった。本堂は屋根高く、黒くなった木の柱で支えられていた。

 

 

天井からは仏教寺院に特有なる巨大なる金色の燈籠その他の装飾が燦然と垂れていた。高い仏壇の前には床の上三、四寸の高さに座を設け、美しき新畳を敷き、赤の毛氈が拡げてあった。ほどよき間隔に置かれた高き燭台は薄暗き神秘的なる光を出し、ようやくすべての仕置を見るに足りた。七人の日本検使は高座の左方に、七人の外国検使は右方に着席した。それ以外には何人もいなかった。

 

 

不安の緊張裡に待つこと数分間、滝善三郎は麻裃の礼服を着けしずしずと本堂に歩みいでた。年齢三十二歳、気品高き威丈夫であった。一人の介錯と、金の刺繍せる陣羽織を着用した三人の役人とがこれに伴った。

 

 

介錯という語は、英語のエクシキューショナー executioner(処刑人)がこれに当たる語でないことを、知っておく必要がある。この役目は紳士の役であり、多くの場合咎人の一族もしくは友人によって果たされ、両者の間は咎人と処刑人というよりはむしろ主役と介添えの関係である。この場合、介錯は滝善三郎の門弟であって、剣道の達人たる故をもって、彼の数ある友人中より選ばれたものであった。

 

 

滝善三郎は介錯を左に従え、徐かに日本検使の方に進み、両人共に辞儀をなし、次に外国人に近づいて同様に、おそらく一層の鄭重さをもって敬礼した。いずれの場合にも恭しく答礼がなされた。静々と威儀あたりを払いつつ善三郎は高座に上り、仏壇の前に平伏すること二度、仏壇を背にして毛氈の上に端座し、介錯は彼の左側に蹲った。

 

 

三人の付添役中の一人はやがて白紙に包みたる脇差をば三宝 ― 神仏に供え物をする時に用いられる一種の台 ― に載せて進み出た。脇差とは日本人の短刀もしくは匕首であって長さ九寸五分、その切尖と刃とは剃刀のごとくに鋭利なるものである。付添は一礼したる後咎人に渡せば、彼は恭しくこれを受け、両手をもって頭の高さにまで押し戴きたる上、自分の前に置いた。

 

 

再び鄭重なる辞儀をなしたる後、滝錬三郎、その声には痛ましき告白をなす人から期待せらるべき程度の感情と躊躇とが現れたが、顔色態度は毫も変ずることなく、語りいずるよう、

 

 

「拙者唯だ一人、無分別にも過って神戸なる外国人に対して発砲の命令を下し、その逃れんとするを見て、再び撃ちかけしめ候。拙者今その罪を負いて切腹致す。各方には検視の御役目御苦労に存じ候」。

 

 

またもや一礼終わって善三郎は上衣を帯元まで脱ぎ下げ、腰の辺まで露わし、仰向に倒れることなきよう、型のごとくに注意深く両袖を膝の下に敷き入れた。そは高貴なる日本人は前に伏して死ぬべきものとせられたからである。彼は思い入あって前なる短刀を確かと採り上げ、嬉し気にさも愛着するばかりにこれを眺め、暫時最期の観念を集中するよと見えたが、やがて左の腹を深く差して徐かに右に引き廻し、また元に返して少しく切り上げた。

 

 

 

この凄まじくも痛ましき動作の間、彼は顔の筋一つ動かさなかった。彼は短刀を引き抜き、前にかがみて差し伸べた。苦痛の表情が始めて彼の顔を過ったが、少しも音声に現れない。この時まで側に蹲りて彼の一挙一動を身じろぎもせずうち守っていた介錯は、やおら立ち上がり、一瞬太刀を空に揮り上げた。秋水一閃、物凄き音、鞺と仆るる響き、一撃の下に首体たちまちその所を異にした。

 

 

場内寂として死せるがごとく、ただ僅かに我らの前なる死首より迸りいずる血の凄まじき音のみ聞こえた。この首の主こそ今の今まで勇邁剛毅の丈夫たりしに!懼しい事であった。

介錯は平伏して礼をなし、予て用意せる白紙を取り出して刀を拭い、高座より下りた。血染めの短刀は仕置の証拠として厳かに運び去られた。

 

 

かくて御門の二人の役人はその座を離れて外国検使の前に来たり、滝善三郎の処刑滞りなく相済みたり、検視せられよと言った。儀式はこれにて終わり、我らは寺院を去った」。(略)

 

 

切腹をもって名誉となしたることは、おのずからその濫用に対し少なからざる誘惑を与えた。全然道理に適わざる事柄のため、もしくは全然死に値せざる理由のえに、躁急なる青年は飛んで火にいる夏の虫のごとく死についた。

 

 

混乱かつ曖昧なる動機が武士を切腹に駆りしことは、尼僧を駆りて修道院の門をくぐらしめしよりも多くあった。生命は廉くあった ― 世間の名誉の標準をもって計るに廉いものであった。最も悲しむべきことは、名誉に常に打歩が付いていた、いわば常に正金ではなく、劣等の金属を混じていたのである。

 

 

ダンテの「地獄」の1圏中自殺者を置きし第七圏に勝りて日本人の人口稠密なるを誇るものはないであろう。

しかしながら真の武士は一戦また一戦に敗れ、野より山、森より祠へと追われ、単身饑えて薄暗き木のうつろの中にひそみ、刀欠け、弓折れ、矢尽きし時にも ― 最も高邁なるローマ人[ブルトゥス]もかかる場合ピリピにて己が刃に伏したではないか ― 死をもって卑怯と考え、キリスト教殉教者に近き忍耐をもって、

 

 

憂き事のなほこの上に積れかし

限りある身の力ためさん

 

 

と吟じて己を励ました。かくして武士道の教うるところはこれであった ― 忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ。そは孟子の説くがごとく。「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を饑えしめ、その身を空乏し、行いそのなすところを払乱せしむ。心を動かし性を忍びその能わざるところを曾益する所以なり」である。

 

 

真の名誉は天の命ずるところを果たすにあり、これがために死を招くも決して不名誉ではない。これに反し天の与えんとするものを回避するための死は全く卑怯である!サー・トマス・ブラウンの奇書「医道宗教」の中に、我が武士道が繰り返し教えたるところとまったく軌を一にせる語がある。それを引用すれば、

 

「死を軽んずるは勇気の行為である、しかしながら生が死よりもなお怖しき場合には、あえて生くることこそ真の勇気である」と。(略)

 

 

かくして吾人は、武士道における自殺の制度は、その濫用が一見吾人を驚かすごとくには不合理でもなく野蛮でもなきことを見た。吾人はこれからその姉妹たる報復 ― もしくは 復仇と言ってもよい ― の制度の中にも、果たして何らかの美点を有するや否やを見よう。(略)」

 

〇 このつづきもまた後日にします。

 

〇 つづきです。

 

「私はこの問題をば数語をもって片付けることができると思う。けだし同様の制度 ― もしくは習慣と言った方がよければそれでもよい ―

はすべての民族の間に行われたのであり、かつ今日でも全く廃れてないことは、決闘や私刑(リンチ)の存続によりて証明せられる。(略)

 

 

復仇には人の正義感を満足せしむるものがある。復仇者の推理はこうである、「我が善き父もし存命ならば、かかる行為を寛仮しないであろう。天もまた悪行を憎む。悪を行なう者をしてその業を止めしむるは、我が父の意志であり、天の意志である。彼は我が手によりて死なざるべからず。

 

 

何となれば彼は我が父の血を流したのであるから、父の血肉たる我がこの殺人者の血を流さねばならない。彼は倶に天を頂かざる仇である」と。この推理は簡単であり幼稚である(しかし我々の知るごとく、ハムレットもこれより大して深く推理したわけではない)。

 

 

それにもかかわらずこの中に人間生まれながらの正確なる衡平感および平等なる正義感が現れている。「目には目を、歯には歯を」。(略)

 

 

妬む神を信じたるユダヤ教、もしくはネメシスをもつギリシヤ神話においては、復仇はこれを超人間的の力に委ねることをえたであろう。しかしながら常識は武士道に対し倫理的衡平裁判所の一種として敵討の制度を与え、普通法に従っては裁判せられざるごとき事件をここに出訴するをえしめた。

 

 

四十七士の主君は死罪に定められた。彼は控訴すべき上級裁判所をもたなかった。彼の忠義なる家来たちは、当時存在したる唯一の最高裁判所たる敵討に訴えた。しかして彼らは普通法によって罪に定められた、—

 しかし民衆の本能は別個の判決を下した。これがため彼らの名は泉岳寺なる彼らの墓と共に今日にいたるまで色みどりにまた香ばしく保存されている。

 

 

 

老子は怨みに報いるに徳をもってすと教えた。しかし正義[直]をもって怨みに報ずべきことを教えたる孔子の声の方が遥かに大であった。しかしながら復讐はただ目上の者もしくは恩人のために企てられる場合においてのみ正当であるとなされた。

 

 

己自身もしくは妻子に加えられたる損害は、これを忍びかつ赦すべきであった。この故に我が武士道は祖国の仇を報ぜんと言えるハンニバルの誓いに対し完き同感を寄せることをえたが、ジェイムズ・ハミルトンが妻の墓より一握りの土を取りて帯の中に携え、摂政マレーに対し彼女の仇を報ぜんとする不断の刺激となしたことをば軽蔑する。

 

 

 

切腹および敵討の両制度は、刑法法典の発布と共にいずれも存在理由を失った。(略)規律正しき警察が被害者のために犯人を捜索し、法律が義の要求を満たす。全国家社会が非違を匡正する。正義感が満足せられたが故に、敵討の必要なきに至ったのである。(略)

 

 

これらの血腥き制度より見るも、また武士道の一般的傾向より見ても、刀剣が社会の規律および生活上重要なる役割を占めたことを推知するは容易である。刀を武士の魂と呼ぶは一の格言となった。」