読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第9章 知能と意識の大いなる分離)

「前の章では、自由主義の哲学を切り崩す近年の科学的発見をざっと眺めて来た。今度はそうした発見の実際的な意味合いを考察しよう。自由主義者は自由市場と民主的な選挙を擁護する。一人ひとりの人間が比類のない価値のある個人であり、その自由な選択が権威の究極の源泉であると信じているからだ。二一世紀には、この信念を時代遅れにしかねない、三つの実際的な進展が考えられる。

 

 

1 人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。

 

2 経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、無類の個人としての人間には価値を認めなくなる。

 

3 経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人と言う新たなエリート層を構成することになる。

 

それでは、これら三つの脅威を詳しく検討しよう。テクノロジーの発展によって人間は経済的にも軍事的にも無用になるという脅威は、自由主義が哲学的なレベルで間違っているという証明にはならないが、実際問題としては、民主主義や自由市場などの自由主義の制度がそのような打撃を生き延びられるとは思いにくい。

 

 

なにしろ、自由主義が支配的なイデオロギーになったのは、たんにその哲学的な主張が最も妥当だったからではない。むしろ、人間全員に価値を認めることが、政治的にも経済的にも軍事的にもじつに理に適っていたからこそ、自由主義は成功したのだ。

 

 

近代以降の産業化戦争の大規模な戦場や現代の産業経済の大量生産ラインでは、一人ひとりの人間が大切だった。ライフル銃を持ったり、レバーを引いたりする、一つひとつの手に価値があった。

たとえば、一七九三年の春、ヨーロッパの各王室は軍隊を派遣してフランス革命を未然に食い止めようとした。

 

 

パリの革命か太刀は国民総動員令を可決し、史上初の総力戦を開始してこれに応じた。八月二三日、国民公会は次のように命じた。「現時点より、我が共和国の国土から敵が一掃されるときまで、全フランス人が軍務に常時徴用される。

 

 

若い男性は闘い、妻帯者は武器を製造し、糧食を輸送する。女性はテントや衣料を作り、病院に勤務する。子供たちは古布をリネンにする。年老いた男性は公共広場にでかけて戦士たちの士気を高め、王たちへの憎しみと我が共和国の団結を説く」

 

 

この命令は、フランス革命の最も有名な文書である「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)に興味深い光を当ててくれる。この文書は、すべての国民には等しい価値と等しい政治的権利があることを認めている。

 

 

国民皆兵制度が導入されたまさにその歴史的時点に、普遍的な権利が宣言されたのは偶然だろうか?(略)すなわち、国民に政治的権利を与えるのは良い。なぜなら、民主的な国の兵士や労働者は独裁国家の兵士や労働者よりも働きが優るからだ、というものだ。(略)

 

 

 

一八六九年から一九〇九年までハーヴァード大学の総長を務めたチャールズ・W・エリオットは、一九一七年八月五日、「ニューヨーク・タイムズ」紙に次のように書いている。「民主的な軍隊は、貴族政治によって組織されて独裁的に支配されている軍隊よりもよく戦う」し、「大衆が法律を決め、公僕を選出し、平和と戦争の問題を処理する国の軍隊の方が、生得の権利と全能の神の委任によって支配する専制君主の軍隊よりもよく戦う」。(略)

 

 

ところが、二一世紀には、男性も女性もその大多数が軍事的価値と経済的価値を失いかねない。二つの大戦の時のような大規模な徴兵は過去のものとなった。二一世紀の最も先進的な軍隊は、人員よりも最先端のテクノロジーに依存する度合いがはるかに高い。

 

 

今や各国は、消耗品のような兵士を際限なく必要とする代わりに、高度な訓練を受けた少数の兵士と、さらに少数の特殊部隊のスーパー戦士と、高度なテクノロジーの生み出し方と使い方を知っている一握りの専門家さえいれば済む。

 

 

ドローンやサイバーワーム(訳註 単独で行動し、自己複製し、他のプログラムに感染して拡散する、悪意のあるソフトウェア)から成るハイテク部隊が、二〇世紀の巨大な軍隊に取ってかわりつつあり、将軍たちは重大な決定をしだいにアルゴリズムに委ねるようになっている。(略)」