〇彩雲国物語8巻「 心は藍よりも深く」を読み始めた所で、
雪乃紗衣さんが、「永遠の夏をあとに」という物語を出版しているのを知りました。
彩雲国物語はとても面白かったのですが、SF的なものは、イマイチ入り込めない方
なので、なかなか次の小説に手を伸ばせずにいました。
でも、彩雲国物語を再度読み始めると、ますます雪乃フアンになってしまい、
ダメでもしょうがない、とこの本を買いました。
そんなわけで、二度目の彩雲国物語は、8巻で中断し、こちらを読み、
その後、9巻の光降る碧の大地を読みました。
そして今、やはり、私は雪乃紗衣さんが好きだなぁ、としみじみ思っています。
9巻の「光降る…」で、茶州の問題は一件落着した感があるので、
ここで、彩雲国…は、少し休み、もう一度「永遠の夏…」を読み返しています。
今度は、時系列を頭の中で繋げながら読んでみたいと思っています。
この物語は、出だしから風景描写で始まっています。
私は昔から長々とした風景描写が苦手でした。
想像力や言葉を味わうセンスが足りないんだろうなぁ、と自覚はしても、
だからと言って、それらが身につくわけでもなく、
風景描写が始まると、だからそれで何だというの?
話の続きはどうなっているの?と、飛ばして先を読みたくなります。
ところが、ここが不思議なのですが、この本の風景描写は、
そうなりませんでした。
例えば、
「境内はがらんとしていた。草むらで虫が小さく鳴きはじめ、
藍色の空に一番星が光った。」
という一行を読んで、涙が滲むほど懐かしく、心が一気にその世界に連れて行かれる
ような気持になりました。
前後のエピソードがそのような空気を醸し出し、そうなるのだろうと思うのですが、
自分の中の体験や吸っていた空気などが、思い出されるような、
まさに現実ではないのに、現実のように感じてしまう感覚になりました。
そのような部分が、随所にあり、また、これは彩雲国…の時にも言いましたが、
漢字の持つ味わいが、あらためて意識させられるような、「古語」のような
言葉も使われていて、読んでいて、本当に楽しいです。
※ 7月1日
二度目の「永遠の夏をあとに」を読み終えました。
1~2章を読み、8章、4章前半、3章、4章後半、5章以降という順番で読んで、
頭の中で、ゴチャゴチャになってしまう時間の流れを整理しながら読みました。
物語の中に度々出てくるヴァイオリンの音色や槿の花の色、ラムネの清涼感などが、
話の中に漂う空気と混じり合い、現実には、何の音もしない、何の色も見えない、
香りもないはずなのに、単なる言葉の連なりのはずなのに、とても素敵なものを
味わうことが出来ました。
今、ウクライナの戦争で世界の秩序は根底から破壊されてしまったような、
恐怖と絶望感があります。
また、私たちの国、日本には、総理大臣が嘘を付き、犯罪を犯しても、その悪事を、
押しとどめ、犯罪をやめさせ、国民の為になる政治をせよと、軌道修正を
迫る力を持った国民がいません。
どうすることも出来ないのか…と、
ただただ、暗い悲しい気持ちが募るばかりです。
そんな中、私は、現実逃避的に、児童小説や少女小説に逃げ込んでいたのですが、
その絶望感は少しも変わらないのですが、今日一日、この物語のお陰で、
元気をもらえた…と言えるような、そんな小説でした。
ところどころ、印象的だった言葉をメモしておきたいと思います。
「拓人はやっと何か言わないとならないと思った。」
「拓人に気づき、サヤの言葉が途切れる。拓人が麦わら帽子を投げて花蓮の吊った足にひっかける。花蓮と鷹一郎も黙った。花蓮のほうは弁当を食っていたためで、鷹一郎はその初々しい、デリケートでぎこちない空気を壊すほど野暮ではなかったので。」
「そのことが数馬さんを今もこれほど痛めつけているなら、そのほうが嫌です。
私は数馬さんのあの嘘が、とても嬉しかったんですよ」
「休憩のお茶請けは塩むすび、野菜の漬け物、井戸水。水は信じられないくらいこっくりとうまい。自分の中の澱が隅々まで雪(すす)がれ、死んでいた細胞や感覚が一つひとつ息を吹き返して行く気がした。」
「ソーダ色の風と、麦畑を競争する二台の自転車、篝火と鷹一郎の神楽笛、向日葵の髪ピン、すず花と歩いた祭りの夜の、確かにふわふわした気持ち…そんな小学校の六年間を全部、アスファルトの後ろに置き去りにして行かなくちゃならない。」
「昔の俺は、サヤに何を言っていたんだろう?何を言えなかったんだろう。」
「けなげで、悲しくなって、カズマを抱きしめた。「大丈夫」まやかしでもそれしか言えなかった。まやかしが本当になるように祈った。」
「『羽矢君が待っているってさ。二見トンネルの近く』なんて綾香の見え見えの罠だってわかってても、もしかしたらと思った。」
「ちろちろと燃える篝火が照らすその姿は、潔斎したみたいな純白の浄衣。」
「『サヤが悪いものに追いかけられてるんなら、俺がおいはらうよ』
駄菓子屋のベンチで拓人がくれたその言葉は、サヤの胸で大事に灯りつづけている。」
「バイオリンと女の子の靴をもって勇ましく、「逃げよう」という息子だけが、この世界で唯一まともに見えた。まともなものが一つもない世界より、なんて素晴らしいんだろうと思った。
女の子を背負って路地裏を抜け、川岸に路駐した車に戻った。日本はバブルが弾ける寸前で、ついた車のヒットチャートと女子高生コンクリート詰め殺人事件のことを一緒にやっていた。
花蓮は手錠をかけられた女の子を後部座席に横たえて、聞こえてきたパトカーの音から、アクセル全開で離れた。警察じゃこの女の子を助けられない。こんな女の子は日本中にいるけど、警察は「もっと大事な事件がある」らしい。」
「「しない」
逢えなくても逢いたい。その苦しさが身を焼いても、拓人もまたその痛みを捨てる気はないのだった。それが小夜子のいた証であったから。」
〇 多分、これからも何度も読み返すと思います。
「まともなものが一つもない世界より、なんて素晴らしいんだろうと思った。」
という言葉に、泣きました。
また、「拓人もまたその痛みを捨てる気はないのだった。それが小夜子のいた証であったから」という言葉に、強く共感しました。