読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 下   第十四章 無知の発見と近代科学の成立

「過去500年間に、人間の力は前例のない驚くべき発展を見せた。 1500年には、全世界にホモ・サピエンスはおよそ5億人いた。

今日、その数は70億に達する。1500年に人類の拠って生み出された財とサービスの総価値は、今日のお金に換算して、2500億ドルと推定される。今日、人類が一年間に生み出す価値は、60兆ドルに近い。

1500年には人類は一日当たりおよそ13兆カロリーのエネルギーを消費していた。今日、私たちは一日当たり1500兆かろりーを消費している(これらの数字を見直してほしい。私たちの人口は14倍、生産量は240倍、エネルギー消費量は115倍に増えたのだ)。」

 

「<無知な人> 人類は少なくとも認知革命以降は、森羅万象を理解しようとしてきた。(略)だが、近代科学は従来の知識の伝等のいっさいと三つの重大な形で異なる。

a  進んで無知を認める意志

b 観察と数字の中心性

c 新しい力の獲得

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学
革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。」


「<科学界の教義>  近代科学には教義はない。とはいえ、共通の核となる研究の方法はある。そうした方法はみな、経験的観察結果(少なくとも私たちの五感の一つで観察できるもの)を収集し、数学的ツールの助けを借りてそれをまとめることに基づいている。」

 

「1744年に、アレクサンダー・ウエブスターとロバート・ウォーレスという二人のスコットランドの長老派教会の牧師が、亡くなった牧師の妻や子供に年金を支給する生命保険基金を設立することにした。二人は長老派教会の聖職者たちに、各自が収入のごく一部をこの基金に拠出し、基金がそのお金を投資することを提案した。


ある牧師がなくなると未亡人は飢饉の利益の配当を受け取る。そうすれば、死ぬまで、生活に困らない。(略)


この二人の牧師がしなかったことに注目してほしい。彼らは答えを啓示してくれるように神に祈らなかった。聖書や古代の神学者の作品の中に答えを探すこともなかった。抽象的な哲学の議論も始めなかった。

二人はスコットランド人らしく、実際的なタイプだった。」


「二人のスコットランド人牧師が使ったような確率計算は、年金事業や保険事業の拠り所である保険数理学ばかりでなく、人口統計学(これまた、ロバート・マルサスというイングランド国教会の牧師によって創始された)の基盤にもなった。(略)

教育の歴史を見るだけで、この過程のおかげで私たちがどれほど進歩したかがわかる。」


「<知は力>  たいていの人が近代科学を消化するのに苦労するのは、そこで使われる数学的言語は、私たちの心には捉えにくく、その所見が常識に反することが多いからだ。

世界に暮らす70億の人のうち、量子力学や細胞生物学、マクロ経済学を本当に理解している人がどれだけいるだろう?


それでも科学がこれほどの声望を欲しいままにしているのは、それが私たちに新しい力を与えてくれるからだ。(略)知識の真価は、それが正しいかどうかではなく、私たちに力を与えてくれるかどうかで決まる。」


「今日、多くのアメリカ人が、テロリズムの解決策は政治ではなくテクノロジーによるものだと信じている。」


「ローマ軍はとくに素晴らしい例を提供してくれる。ローマ軍は当時の最高の軍隊だったが、技術に関して言えば、ローマはカルタゴマケドニアセレウコス帝国よりも優れてはいなかった。」

 

 

「<進歩の理想> 科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた。(略)

知るべきことをすべて知っていたムハンマドやイエスブッダ孔子さえもが飢饉や疫病、貧困、戦争をこの世からなくせなかったのだから、私たちにそんなことがどうしてできるだろう?(略)

バベルの塔の話やイカロスの話、ゴーレムの話、その他無数の神話は、人間の限界を超えようとする試みは必ず失望と惨事につながることを人々に教えていた。」


「そして実際、世界の多くの地域が、最悪の形態の貧困からすでに解放されている。歴史を通して、社会は二種類の貧困に苦しんできた。一つは社会的貧困で、他者には得られる機会を一部の人が享受できない状態だ。


もう一つは生物学的貧困で、食べ物や住む場所がないために人々の生命そのものが脅かされる状態だ。社会的貧困は今後もずっと根絶できないかもしれないが、世界の多くの国では、生物学的貧困は過去のものとなっている。」

〇 これは、本当なのかな…と思いながら読みました。いわゆる「政情不安」による難民状態の生物学的貧困はまだまだあると思っていました。


「<ギルガメシュ・プロジェクト> 表向きは解決不可能とされる人類のあらゆる問題のうちでも、最も困難で興味深く、重要であり続けているものがある。ほかならぬ死の問題だ。(略)


これらの宗教の教義は人々に、死を克服してこの地上で永遠に生きようとするのではなく、死を受け容れ、死後の生に望みを託すよう教えた。」


「それが私たちに伝わっている最古の神話、すなわち古代シュメールのギルガメシュ神話のテーマだ。


その主人公は、戦にかけては無敵という、世界で最も強力で有能な、ウルクの王ギルガメシュだ。ある日、ギルガメシュの親友エンキドゥが亡くなる。

ギルガメシュは亡骸のそばに座り、何日も見守るうちに、友の鼻の穴から蛆虫が一匹落ちこぼれるのを目にする。そのとたん、ギルガメシュは酷い恐れに捕らわれ、自分は絶対に死ぬまいと決意する。

なんとかして、死を打ち負かす方法を見つけるのだ、と。そこでギルガメシュは世界の果てまで旅し、ライオンを殺し、サソリ人間たちと戦い、黄泉の国へと足を踏み入れる。そこで彼は意志の巨人たちを打ち砕き、死者の渡る川の渡し守ウルシャナビの助けで、原初の大洪水の最後の生き残りであるウトナピシュティムを見つける。


それでもギルガメシュは、この探求の目的を果たせなかった。そして、相変わらず死すべき運命を背負ったまま空しく故郷に戻るが、一つだけ新しい知恵がついていた。

神々が人間を造った時、避けようのない人間の宿命として死を定めたのであり、人間はその宿命の下で生きて行かなくてはならないことをギルガメシュは学んだのだった。」

 

「真剣な学者の中には、人間の一部が2050年までに「非死(アモータル)」(「不死」ではない。なぜなら、依然として事故で死にうるからだ。「非死」とは、致命的な外傷がない限り、無限に寿命を延ばせることを意味する)になるという人も総数ながらいる。」


〇私自身は、正直なところ「非死」を願う気持ちがあまりありません。死が恐ろしいから死にたくないという消極的な願いはあるのですが。こればっかりは、現実に「そこ」に行ってみないとわからないことだろうな、と思います。

日本人は、桜の花の散り際を称賛します。そして、どこか「滅びの美学」的な消え去り、移ろうものを慈しむ体質があるように感じることもあります。

この辺も、このヨーロッパ人と東洋人との違いなんだろうか、などと感じました。

これで、以前とばした部分の抜き書きを終え、全部繋がったので、この「サピエンス全史 下」を終わりにします。

 

 

 

サピエンス全史 下   第十三章 歴史の必然と謎めいた選択 

「交易と帝国と普遍的宗教のおかげで、すべての大陸の事実上すべてのサピエンスは最終的に、今日私たちが暮らすグローバルな世界に到達した。(略)


だが、グローバルな社会の出現は必然だというのは、その最終産物が、今私たちが手にしたような特定の種類のグローバルな社会でなくてはならなかったということではない。他の結果も確かに想像できる。(略)

もし一万年前に戻って何度も一からやり直したら、毎回必ず一神教が台頭し、二元論が衰退するのを目にすることになるのだろうか?」

 

「それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか?物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。」


「同じような議論が、ゲーム理論の下、社会科学でもよくなされる。ゲーム理論は、多人数が参加する系で、全プレイヤーを害する見方や行動のパターンがどのように根付いて拡がるかを説明する。

軍備拡張競争が好例だ。軍備拡張競争のせいで、軍事力の均衡に実質的な変化がないまま、参加者全員が破産することが多い。」


「歴史が持つ選択肢の幅は非常に広く、可能性の多くは決して実現することがない。歴史が科学革命を迂回して何世代も続くという可能性も想像可能なのだ_キリスト教も、ローマ帝国も、金貨もない歴史を想像するのが可能なのとちょうど同じように。」

 

 

サピエンス全史 下  26P ~

〇 一応全部読み終わったのですが、抜けていた部分、<自然の法則>のメモをします。

「<自然の法則>  インドのジャイナ教や仏教、中国の道教儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は、神への無関心を特徴としていた。


これらの教義は、世界を支配している超人的秩序は神の意思や気まぐれではなく自然法則の産物であるとする。自然法則を重んじるこれらの宗教のうちには、依然として神の存在を支持ずるものもあったが、その神々は人間や動植物同様、自然の諸法則に支配されていた。」


「ゴータマは29歳の時家族も財産も後に残して、夜中に王宮を抜け出した。住む場所もない放浪者としてインド北部を歩き回り、苦しみから逃れる方法を探した。(略)


そして、人間の苦悩の本質や原因、救済について六年にわたって瞑想した。そしてついに、苦しみは不運や社会的不正義、神の気まぐれによって生じるのではないことを悟った。

苦しみは本人の心の振舞の様式から生じるのだった。」

 

「仏教は、経済的繁栄や政治的権力のような途中の地点ではなく、苦しみからの完全な解放という究極の目的地を目指すように人々を促した。

だが、仏教徒の99パーセントは涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた。そこで彼らは、インドではヒンドゥー教の神々、チベットではボン教の神々、日本では神道の神々というふうに、多様な神を崇拝し続けた。」


「多くの仏教徒は、神々を崇拝する代わりに、悟りを開いたこれらの仏や菩薩を崇拝するようになり、涅槃に入るだけではなく俗世の問題を処理するのも助けてくれるよう祈り始めた。」

 

 

「<人間の崇拝> 過去300年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく。世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。


だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的熱情や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。


近代には、自由主義共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。

これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。(略)


仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。」


〇この話は、なるほど、と思いました。

「人間は何らかの「価値観」を必要とする。
何らかの「信奉」を必要とする。そこを空っぽにしておこうとしても、必ず何かがそこに入り込む。

だから日本の場合は、「拝金主義」がそこに入り込んだ、というような話を聞いたことがありました。


「もし、共産主義を宗教ではなく、イデオロギーと呼ぶ方がしっくりくるなら、そう呼び続けてもらっていっこうにかまわない。どちらにしても同じことだ。

私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。

だがそうすると、一貫性をたもつためには、少なくとも仏教や道教、ストア主義のいくつかの宗派を宗教ではなくイデオロギーに分類せざるをえなくなる。

逆に、神への信仰が現代の多くのイデオロギー内部に根強く残っており、自由主義を筆頭に、そのいくつかは、この信念抜きではほとんど意味を成さないことにも留意するべきだ。」


「たとえば、自由主義者が拷問や死刑に反対するのもそのためだ。(略)宇宙の均衡を取り戻すには、その犯罪者を拷問にかけ、秩序が確立されるのを誰もが見られるように、公衆の面前で処刑する必要があった。


シェイクスピアモリエールの時代には、ロンドンやパリの住民にとって、身の毛もよだつ処刑に立ち会うのが、人気の娯楽だった。


今日のヨーロッパでは、殺人は人間の神聖な性質の冒涜と考えられている。秩序を回復するために、現代ヨーロッパ人は、犯人を拷問したり処刑したりはしない。その代わり彼らは、できうる限り最も「人道的」な方法と見なすもので殺人者を罰し、それによって、殺人者の人間としての尊厳を守り、さらには再建さえする。

殺人者の人間的性質を尊重することで、誰もが人間性の神聖さに気づかされ、秩序が回復される。」

 

「各個人の自由で神聖な性質を重んじる自由主義的な信念は、各個人には自由で永遠の魂があるとするキリスト教の伝統的な信念の直接の遺産だ。

永遠の魂と造物主たる絶対神に頼らなければ、自由主義者が個々のサピエンスのどこがそれほど特別なのかを説明するのは、不面目なまでに難しくなる。」

 

自由主義の人間至上主義と同じで、社会主義の人間至上主義も一神教の土台の上に築かれている。」


「従来の一神教と現に縁を切った唯一の人間至上主義の宗派は、進化論的な人間至上主義で、その最も有名な代表がナチスだ。ナチスは「人間性」の定義の点で他の人間至上主義の宗派とは異なっており、その定義は進化論に強い影響を受けていた。」


「1933年当時の科学的知識をもってすれば、ナチスの信念は常軌を逸しているとはとうてい言えなかった。」


「1942年のあるドイツの生物学の教科書は、「自然の法則と人類」と題する章で、あらゆる生き物が冷酷無情な生存競争に否応なく参加しているというのが自然の至高の法則である、と説明している。

植物が縄張りを確保しようと争い、甲虫が交尾相手を見つけようと争うことなどを述べた後、この教科書は次のように結論する。


生存のための戦いは厳しく非常ではあるが、生命を維持するための唯一の方法である。この闘争により、生きることに不適当な者はすべて排除され、生き延びることのできるものはすべて選ばれる……これらの自然法則は絶対である。

生き物は、まさに自らの生存をもって、その正しさを立証している。これらの法則は情け容赦がない。それに逆らうものは一掃される。生物学は動植物について教えてくれるばかりではなく、我々が自分の人生で従うべき法則も示し、その法則に即して生き、戦うよう、我々の意思を強固にしてくれる。生命の意味は闘争にある。これらの法則に背くものに災いあれ。

その後、「わが闘争」(平野一郎・将積茂訳、角川文庫、1973年、他)からの引用が続く。」


〇この教科書の説明はとても現実に即しています。自然界は間違いなくここで言われているとおりです。

でも、その自然界の中の人間は、このやり方をせず、「愛」とか「信用」とかを信じるような気質があったから、今のように繁栄したと聞いたことがあります。

ネアンデルタール人には、それがなかったと。だから滅びたと。

だったら、そこをしっかり守らなければならないのではないでしょうか。

他の生き物にならって、弱肉強食のやり方をする時、人間はおそらく、

他の生き物と同様に、少数の動物として存在する状況になっていたということだと

思います。


ヒトラーに対する戦争の終結から60年間は、人間至上主義を進化論と結びつけ、生物学的方法を使ってホモ・サピエンスを「アップグレード」することを提唱するのはタブーだった。

だが今日、そのような事業が再び流行している。下流人種や劣等民族を皆殺しにするなどという人はいないが、人間の生物学的作用に関して深まる一方の知識を使って超人を生み出そうと考えている人は多い。」


「私たちの自由主義的な政治制度と司法制度は、誰もが不可分で変えることのできない神聖な内なる性質を持っているという信念に基づいており、その性質が世界に意味を与え、あらゆる倫理的権威や政治的権威の源泉になっている。

これは、各個人の中に自由で永遠の魂が宿っているという伝統的なキリスト教の信念の生まれ変わりだ。だが過去200年間に、生命科学はこの信念を徹底的に切り崩した。(略)人間の行動は自由意思ではなくホルモンや遺伝子、シナプスで決まると主張するようになっている__チンパンジーやオオカミ、アリの行動を決めるのと同じ力で決まる、と。


私たちの司法制度と政治制度は、そのような不都合な発見は、たいてい隠しておこうとする。だが率直に言って、生物学科と法学科や政治学科とを隔てる壁を、私たちはあとどれほど維持することができるだろう?」

 

 

 

サピエンス全史 下   ― あとがき ―

〇「あとがき_神になった動物」

ユヴァル・ノア・ハラリ著 サピエンス全史 下巻

読み終わりました。読み終わって少し涙がでました。
丁度昔、あの「赤ずきんちゃん気を付けて」を読み終わった時のような
感動と純粋な気持ちと感謝のようなものが入り混じった涙。

それで、大みそかの一番忙しい時間に、今、どうしても感想を書かなきゃ、
という気持ちになってしまいました。

とても面白い本でした。
色々なびっくりするような情報が、データと共に示されていて
勉強にもなる本でした。

でも、いつも一抹の不安がありました。
若さゆえの単純さ、浅はかさのような、危なっかしさなのかな?とも思いました。

もう若くない自分には立ち入れない世界を語る若者の危なっかしさを
見ているような気持ちでした。

でも、どうやらそれは見当違いだったようです。

あとがきを読んで、このハラリ氏は間違いなく、あのハンナ・アーレント
問題意識を継いでいる、と思いました。

ご本人がそう意識しているかどうかは別にして、
読書量の極端に少ない読者の私としては、
この2冊の本をそう関連付けてしまいました。

もう、誰も「皆さん、(例えば)キリスト教は真理です。信じましょう。」などとマインドコントロールすることはできません。

そして、「この価値観を持ちましょう!」と強制することもできず、「これは悪、これは善」と指図することもできません。

そんな社会が今の社会です。

でも、本当に本当にそれで私たち人間はこれからもやっていけるのか…。
「世界がどうあるべきかについて私たちは知らない」とアーレントは言いました。

「精神」は本当はそれを考えずにはいられないはずではないか、と言っているのだと
私は感じました。

この「あとがき」を読んで、私はこのハラリ氏も同じことを言っていると思います。

全文をメモします。

「七万年前、ホモ・サピエンスはまだ、アフリカの片隅で生きていくのに精一杯の、取るに足りない動物だった。ところがその後の年月に、全地球の主となり、生態系を脅かすに至った。

今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。

不幸にも、サピエンスによる地球支配はこれまで、私たちが誇れるようなものをほとんど生み出していない。私たちは環境を征服し、食物の生産量を増やし、都市を築き、帝国を打ち立て、広大な交易ネットワークを作り上げた。だが、世の中の苦しみの量を減らしただろうか?

人間の力は再三にわたって大幅に増したが、個々のサピエンスの幸福は必ずしも増進しなかったし、他の動物たちにはたいてい甚大な災禍を招いた。


過去数十年間、私たちは飢饉や疫病、戦争を減らし、人間の境遇に関しては、ようやく多少なりとも真の進歩を遂げた。とはいえ、他の動物たちの境遇はかつてないほどの速さで悪化の一途をたどっているし、人類の境遇の改善はあまりに最近の薄弱な現象であり、決して確実なものではない。

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。


カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。

人類はいままでになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。


自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?」

 

サピエンス全史 下    第二十章 超ホモ・サピエンスの時代へ

「自然選択はホモ・サピエンスに、他のどの生き物よりもはるかに広い活動領域を与えたかもしれないが、これまでその領域にもやはり限度があった。サピエンスは、どれだけ努力しようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまで暗黙の了解だった。

だが21世紀の幕が開いた今、これはもはや真実ではない。ホモ・サピエンスはそうした限界を越えつつある。」


ダーウィンの理論が素晴らしいのは、キリンの首が長くなった理由を説明するにあたって、知的設計者の存在を想定する必要がない点だ。何十億年もの間、知的設計などという選択肢は存在しなかった。

なぜなら、ものを設計できるだけの知性が存在しなかったからだ。」


「本書の執筆の時点で、知的設計は以下の三つのどの形でも自然選択に取って代わりうる。すなわち、生物工学、サイボーグ工学(サイボーグとは、有機的器官と非有機的器官を組み合わせた生き物のこと)、非有機的生命工学だ。」


「<マウスとヒトの合成>  たとえば私たちは今日、人間の男性を去勢するだけでなく、外科的手段とホルモンを使った処置で性転換することもできる。だが、それだけではない。1996年に上の写真が新聞やテレビに登場した後に沸き起こった驚きと嫌悪と不安を考えてほしい。」

〇 この言葉の上に図45として、写真があり、以下の説明があります。

「科学者が牛の軟骨細胞から作った「耳」を背中に生やしたマウス。 シュターデル洞窟のライオン人間像の不気味な模倣と言える。3万年前、人類は異なる種を組み合わせることをすでに夢見ていた。今日、私たちはそのような複合生物を実際に生み出せる。」

 

「だからこそ、倫理、政治、イデオロギー上の問題が多数発生しているのだ。しかも、人類が神の役割を強奪するのに異を唱えるのは、敬虔な一神教信者ばかりではない。

多くの根っからの無神論者も、科学者が自然に取って代わるという発想に衝撃を受けている。(略)

人権擁護運動家は、超人を生み出して人間たちを奴隷にするのに遺伝子工学が使われることを恐れる。現代の悲観的な預言者たちは、恐れを知らない兵士や従順な労働者のクローンを作る独裁政権の出現という、悲惨な事態が起こる展望を提示する。」

〇ここを読んで、あの「ひょっとこ」を思い浮かべました。

 

 

「<ネアンデルタール人の復活>  だが、ネアンデルタール人で終わりにする必要さえないのではないか? 神の製図版にまでさかのぼって、もっと優れたサピエンスを設計すればいいではないか。

ホモ・サピエンスの能力や欲求、欲望には遺伝的基盤があるし、サピエンスのゲノムはハタネズミやマウスのゲノムより複雑なわけではない(マウスのゲノムには約25億個の核酸塩基が含まれているのに対して、サピエンスのゲノムには約29億個の核酸塩基が含まれている。つまり、サピエンスの方が、わずか16パーセント多いにすぎない)。」


「たしかに、それを成し遂げるだけの才覚を私たちはまだ持ち合わせていないが、私たちが超人を生み出すのを妨げる、克服不可能な技術的障害はないように見える。

主な障害は、倫理的な意義や政治的な意義であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。(略)

たとえば、健康な人の記憶力を劇的に高める余禄まで伴うアルツハイマー病の治療法を開発するとしたら、どうなるか? それに必要な研究を止められる人などいるだろうか? そして、その治療法が開発された暁には、その使用をアルツハイマー病の患者だけに限り、健康な人がそれを使って超人的な記憶力を獲得するのを防ぐことのできる法執行機関など、あるだろうか?」


「だが、あまりにホモ・サピエンスに手を加え過ぎて、私たちがもはやホモ・サピエンスではなくなる可能性はある。」

 

 

「<バイオニック生命体> ある意味で、現代人のほぼ全員がバイオニックだ。何故なら私たちの生来の感覚や昨日は、眼鏡やペースメーカー、矯正器具、果てはコンピューターや携帯電話(この二つは、脳によるデータの保存と処理の負担を軽減してくれる)まで、さまざまな装置によって補強されているからだ。」

 

「政府が資金提供しているドイツのレティナ・インプラント社は、目の不自由な人が部分的に視力を獲得することを可能にする網膜プロテーゼを開発している。まず、目の不自由な人の目の内部に小さなマイクロチップを埋め込む。

目に当たる光を光電池が吸収して電気エネルギーに変換し、それで網膜に残っている健全な細胞を刺激する。刺激を受けた細胞の神経インパルスが脳を刺激し、それが視覚に変換される。

現時点で、このテクノロジーを使うと、目が不自由だった人は自分の向きを見定めたり、文字を判読したり、さらには顔を認識したりさえできる。」

 

「心が集合的なものになったら、自己や性別のアイデンティティなどの概念はどうなるのか? どうしたら、汝自身を知ることができるだろう?(略)

あまりに根本的に違い過ぎて、それが持つ哲学的意味合いも、心理的意味合いも、政治的意味合いも、私たちには到底把握できない。」


「<別の生命>  今日のコンピューターサイエンスの世界でとりわけ興味深いのが、遺伝的プログラミングの領域だ。そこでは、遺伝進化の手法を模倣する試みがなされている。

多くのプログラマーは、作り手から完全に独立して、自由に学習したり進化したりできるプログラムを生み出すことを夢見ている。それが実現すれば、プログラマーはプリムㇺ・モビーレ、すなわち原動力ではあっても、その創作物は、創作者も他の誰もが予想しえなかった方向に自由に進化することになる。」


「それらは生き物なのだろうか?それは「生物」という言葉で何を意味するか次第だ。いずれにしてもそれらは、有機的な進化の法則や制約とは完全に無関係に、新たな進化の過程によって生み出されたことは間違いない。」


「2005年に始まったヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、コンピューター内の電子回路に脳の神経ネットワークを模倣させることで、コンピューターの中に完全な人間の脳を再現することを目指している。

このプロジェクトの責任者によれば、適切な資金提供を受けたなら、10年か20年ちに人間とほとんど同じように話したり振舞ったりできる、人口の人間の脳をコンピューターの中に完成させられるという。」

 

「<特異点> ヒトゲノムを初めて解析するのには、15年の月日と30億ドルの費用がかかった。今日では、人間一人のDNAを解析するのには、数週間と数百ドルしかかからない。」

 

「保険会社は私たちのDNAのスキャンを求め、無謀な行動をする遺伝的傾向が見つかれば、料金を値上げする権利があるのだろうか? 就職を希望する時には雇用主に履歴書ではなくDNAをファックスすることを求められるのだろうか?」

 

「現代世界は、歴史上初めて全人類の基本的平等性を認めたことを誇りとしているが、これまでで最も不平等な社会を生み出そうとしているところなのかもしれない。」


「私たちは新たな特異点に急速に近づいているのかもしれない。その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといった、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる。」

 

「<フランケンシュタインの予言>  フランケンシュタイン博士が恐ろしい怪物を生み出し、自らを救うために私たちがその怪物を抹殺しなければならなかったという発想に、私たちはなぜかほっとする。

私たちがそういう形でこの物語を語りたがるのは、私たちこそが最高の存在で、自分たちに優る存在はかつてなかったし、今後も決して現れないだろうことを、それが意味しているからだ。


私たちを改良しようとする試みは必ずや失敗に終わる、なぜなら、たとえ私たちの肉体は改良できても、人間の精神には手をつけられないから、というわけだ。」

 

「私たちが真剣に受け止めなければいけないのは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれるという考えだ。」

 

「もし本当にサピエンスの歴史に幕が下りようとしているのだとしたら、その終末期の一世代に属する私たちは、最後にもう一つだけ疑問に答えるために時間を割くべきだろう。

その疑問とは、私たちは何になりたいのか、だ。「人間強化問題」と呼ばれることもあるこの疑問は、現在、政治家や哲学者、学者、一般人がしきりに行っているさまざまな議論とは桁違いに重要だ。

なにしろ、今日の宗教やイデオロギー、国民、階級それぞれの間で戦わされる今日の議論は、ほぼ間違いなくホモ・サピエンスとともに消滅するのだから。」


「唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。」


〇「私たち」というのが問題です。「私は何を望みたいのか」については、
誰でも答えられます。
でも、「私たちは…」となると誰がどういう根拠で答えるのか。

たった一国の、この日本の問題についてすら、「私たちはどう考えるのか」について、答えを出せずにいます。


「サピエンス全史 下」はここで終わりになりますが、最初の頃に、とばしたページがあるので、次回はそこに戻ります。でも、あと少しで終わりです。

 

 

サピエンス全史 下    第十九章 文明は人間を幸福にしたのか 

「過去500年間には、驚くべき革命が相次いだ。地球は生態的にも歴史的にも、単一の領域に統合された。経済は指数関数的な成長を遂げ、人類は現在、かつてはおとぎ話の中にしかありえなかったほどの豊かさを享受している。


科学と産業革命のおかげで、人類は超人間的な力と実質的に無限のエネルギーを手に入れた。その結果、社会秩序は根底から変容した。人間心理も同様だ。


だが、私たちは以前より幸せになっただろうか?」


「もしそうでないとすれば、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?

歴史学者がこうした問いを投げかけることはめったにない。(略)だがこれらは、歴史について私たちが投げかけ得る最も重要な問いだ。現在のさまざまなイデオロギーや政策は、人間の幸福の真の源に関するかなり浅薄な見解に基づいていることが多い。

国民主義者は、私たちの幸福には政治的な自決権が欠かせないと考える。共産主義者は、プロレタリアート独裁の下でこそ、万人が至福を得られるだろうと訴える。


資本主義者は、経済成長と物質的豊かさを実現し、人々に自立と進取の精神を教え諭すことによって、自由市場だけが最大多数の最大幸福をもたらすことができると主張する。


本格的な研究によって、こうした仮定が覆されたらどうなるだろう?」


「農業革命で人類が農耕・牧畜の手法を習得した時、周囲の環境を整える、集団としての能力は増大したが、多くの人間にとって、個人としての運命はより苛酷になった。」


「進化は、私たちの心身を狩猟採集生活に適合するように形作った。それにもかかわらず、先ずは農業へ、次いで工業へと移行したせいで、人間は本来の性向や本能を存分に発揮できず、そのために最も深い渇望を満たすこともできない不自然な生活を送らざるをえなくなった。」


「地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級やヨーロッパ人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた誤りだろう。」

 

〇ハラリ氏は、物質的な要因や社会的、倫理的、精神的要因について述べ、人々の幸福度を評価しようとした心理学者や生物学者ら被験者の質問表や、その他のデータについて説明します。

「<幸福度を測る> 以上から、過去二世紀の物質面における劇的な状況改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺されてしまった可能性が浮上する。

となると、現在の平均的な人の幸福度は、1800年の幸福度と変わらないのかもしれない。非常に重要視されている自由でさえも、私たちに不利に働いている可能性がある。私たちは配偶者や友人や隣人を選択できるが、相手も私たちと決別することを選択できる。


自分自身の人生の進路に関してかつてない絶大な決定権を各人が行使するようになるにつれて、深いかかわりを持つことがますます難しくなっているのを私たちは実感している。

このように、コミュニティと家族が破綻をきたし、しだいに孤独感の深まる世界に、私たちは暮らしているのだ。」


「私たち現代人は、鎮静剤や鎮痛剤を必要に応じて自由に使えるものの、苦痛の軽減や快楽に対する期待があまりに膨らみ、不便さや不快感に対する堪え性がはなはだ弱まったために、おそらくいつの時代の祖先よりも強い苦痛を感じていると思われる。」

 

「豊かな現代の社会では、毎日シャワーを浴びて衣服を着替えることが習慣となっている。だが、中世の農民たちは、何か月にもわたって身体を洗わずに済ませていたし、衣服を着替えることもほとんどなかった。」


「幸せかどうかが期待によって決まるのなら、私たちの社会の二本柱、すなわちマスメディアと広告産業は、世界中の満足の蓄えを図らずも枯渇させつつあるのかもしれない。

もしあなたが5000年前の小さな村落で暮らす18歳の青年だったら、自分はなかなか器量が良いと思っていただろう。(略)同じ学校の生徒は醜い連中だったとしても、あなたの比較の対象は彼らではなく、テレビやフェイスブックや巨大な屋外広告で四六時中目にする映画スターや運動選手、スーパーモデルだからだ。」


「ホスニ・ムバラク政権下の平均的エジプト人は、ラムセス二世やクレオパトラの統治下のエジプト人に比べて、飢餓や疫病、あるいは暴力によって命を落とす可能性は格段に低い。

大半のエジプト人の物質的な状況は、かつてないほどに良好だ。2011年にはエジプト人たちは通りに繰り出して踊り回り、そんな幸運をアッラーに感謝していたことだろうと、あなたが考えたとしても無理はない。


ところが彼らは感謝するどころか怒りに燃えて蜂起し、ムバラク政権を打倒したのだ。彼らが比較対象にしていたのは、ファラオ治世化の祖先ではなく、オバマ政権下のアメリカで暮らす同時代人だった。」


「貧しい者は、自分は死を免れないのに、金持ちは永遠に若くて、美しいままでいられるという考えには、到底納得できないだろう。」

 

「<化学から見た幸福>  生物学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されているという。

他のあらゆる精神状態と同じく、主観的厚生も給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。そうではなく、神経やニューロンシナプス、さらにはセロトニンドーパミンオキシトシンのようなさまざまな生化学物質から成る複雑なシステムによって決定される。」

 

「地上に楽園を実現したいと望む人全員にとっては気の毒な話だが、人間の体内の生化学システムは、幸福の水準を比較的安定した状態に保つようにプログラムされているらしい。(略)

幸福と不幸は進化の過程において、生存と繁殖を促すか、妨げるかという程度の役割しか担っていない。それならば、進化によって私たちが極端に不幸にも、極端に幸福にもならないように形作られていても、不思議はないかもしれない。」

 


「学者の中には、人間の生化学的特性を、酷暑になろうと吹雪が来ようと室温を一定に保つ空調システムになぞらえる人もいる。状況によって、室温は一時的に変化するが、空調システムは必ず室温をもとの設定温度に戻すのだ。」


「ここでしばらく、あなたの家族や友人のことを思い浮かべてほしい。おそらくあなたの周囲にも、どんなことが降りかかろうと、常に比較的楽しそうにしている人もいれば、どれほど素晴らしい巡りあわせに恵まれても、いつも不機嫌な人もいるだろう。(略)

ほんのつかの間、生化学的状態を変動させることはできるが、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまうのだ。」


「既婚者が独身者や離婚した人たちよりも幸せであるのは事実だが、それは必ずしも結婚が幸福をもたらすことを意味しない。幸せだからこそ、結婚できたのかもしれない。

より正確にいえば、セロトニンドーパミンオキシトシンが婚姻関係を生み出し、維持するのだ。(略)というのも、生活を共にするなら、幸せで満足している配偶者とのほうが、沈みがちで不満を抱えた配偶者とよりも、はるかに楽だからだ。


したがって、既婚者の方が概して独身者よりも幸せであるのは事実だが、生化学的特性のせいで陰鬱になりがちな独身者は、たとえ結婚したとしても、今より幸せになれるとはかぎらない。」


「中世フランスの農民と現代のパリの銀行かを比べてみよう。農民は近くのブタ小屋を見下ろす、暖房もない泥壁の小屋に暮らしていた。一方、銀行家が帰るのは、テクノロジーを駆使した最新機器を備え、シャンゼリゼ通りが見える豪華なペントハウスだ。


私たちは直感的に、銀行家の方が農民よりもずっと幸せだろうと考える。だが、泥壁の小屋やペントハウスシャンゼリゼ通りが私たちの気分を本当に決めることはない。セロトニンが決めるのだ。


中世の農民が泥壁の小屋を建て終えたとき、脳内のニューロンセロトニンを分泌させ、その濃度をXにまで上昇させた。2014年に銀行家が素晴らしいペントハウスの代金の最後の支払いを終えた時にも脳内のニューロンは同僚のセロトニンを分泌させ、同じようにその濃度をXにまで上昇させた。

脳には、ペントハウスが泥壁の小屋よりもはるかに快適であることは関係ない。肝心なのは、セロトニンの濃度が現在Xであるという事実だけだ。」


「遺伝の宝くじで運良く陽気な生化学的特性を引き当てた人は、革命前も、革命後と同じように幸せだった。陰鬱な生化学的特性を生まれ持った人は、かつてルイ16世やマリー・アントワネットについて愚痴をこぼしていたのと同じぐらい苦々しく、ロベスピエールやナポレオンについて不平を並べたのだ。」


世界恐慌のさなか、1932年に出版されたオルダス・ハクスリーディストピア小説素晴らしい新世界」(黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫、2013年、他)では、幸福に至上の価値が置かれ、精神に作用する薬物が警察や投票に取って代わって政治の基礎をなしている。そこでは誰もが毎日、「ソーマ」という合成薬を服用する。この薬は、生産性と効率性を損なわずに、人々に幸福感を与える。(略)

ハクスリーの描く世界は、多くの読者にとって恐ろしく感じられるが、その理由を説明するのは難しい。誰もがつねにとても幸せであるというのに、そのどこが問題だというのだろうか?」

 

 

「<人生の意義> すると、自分の日常生活について、多くの人々の見方の中に一見矛盾しているように思われる点が見つかった。子供の養育にまつわる労働を例に取ろう。


カーネマンの研究から、喜びを感じるときと単調な苦役だと感じるときを数え上げてみると、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすることが占めており、そのようなことを好んでやる人などいない。

だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。これはつまり、人間には自分にとって何が良いのかが良くわかっていないことを意味するのだろうか?

そういう見方もできるだろう。だがこの発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証しているとも考えられる。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。


幸福には、重要な認知的・倫理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつき、自分を「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」と見なすことにもなれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」と見なすことにもなる。


ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえも極めて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。」


〇少し前に、「子育ての例をあげて、人間は自分に何が良いのかわかってない…」というようなことを書きました。それがこの場所です。2度目に読むとまた少し違って感じられます。

この、メモをしながら読むというのは、時間がかかって大変に感じることもあるのですが、私のように頭の働きに問題のある人間には、案外良い方法かもしれない、と最近は思います。


「では、中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか?まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったに違いない。


これまでにわかっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。(略)

したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。

人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取り憑かれているのだ。

それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものである限り、私は自分の人生に人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。

これはなんとも気の滅入る結論ではないか。幸福は本当に、自己欺瞞あってのものなのだろうか?」

 

 

 

「<汝自身を知れ>  歴史上、大半の宗教やイデオロギーは、善や美、正義については、客観的な尺度があると主張してきた。そして、凡人の感情や嗜好には信用を置いていなかった。


デルポイアポロン神殿の入り口では、「汝自身を知れ」という碑文が巡礼者たちを迎えた。これは暗に、普通の人は自分自身の真の姿を知らず、それゆえに真の幸福についてもおそらく無知であることを示唆していた。フロイトもきっと、この見解に賛同するだろう。

キリスト教神学者も同じ意見だと思われる。ほとんどの人は、どちらを選ぶかと問われれば、神に祈りを捧げるよりも、セックスをする方がいいと答えるだろうということを、聖パウロと聖アウグスティヌスは実によく承知していた。

それでは、セックスこそが幸せを手に入れるための鍵であると言えるだろうか?聖パウロと聖アウグスティヌスは、そうは考えなかった。これはたんに、人間は生まれながらにして罪深く、簡単に悪魔に誘惑されうることを証明しているにすぎない。 キリスト教の立場からすれば、大多数の人間は、程度の差こそあれ、ヘロイン中毒者と同じ状況にある。」

 

「以上のような立場から、宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とは全く異なる探求方法をとってきた。中でもとくに興味深いのが、仏教の立場だ。仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。

2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。」

〇科学界では、仏教に関心が高まっているとは知りませんでした。
ただ、以前、NHKの「心と脳の白熱教室」というのを見た時(記憶がハッキリしないのですが、確か、この中でだったと思いますが)、自分の気持ちを安定させるために、何も考えず何もせず、ただ静かにジッとしている時間を持つことが大事だ、という話をしていて、まるで禅だ、と思ったことがあります。

この番組です。http://books.bunshun.jp/sp/noukagaku

 

「たいていの人は、自分の感情や嗜好、好き嫌いと自分自身を混同している。彼らは怒りを感じると、「私は怒っている。これは私の怒りだ」と考える。その結果、ある種の感情を避け、ある種の感情を追い求めることに人生を費やす。感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに、彼らは決して気づかない。

もしこれが事実ならば、幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある。ひょっとすると、期待が満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。

古代の狩猟採集民や中世の農民よりも、現代人のほうが真の自分を少しでもよく理解していることを示す証拠など存在するだろうか?」


「歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、聖人たちの自愛に満ちた行い、芸術家の創造性に注目する。かれらには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。

だが彼らは、それらが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。

私たちは、この欠落を生める努力を始めるべきだろう。」