読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

財政破綻後 危機のシナリオ分析

「2 政府債務の累積は経済成長を阻害する

 

本節では、「経済成長を先に実現し、財政再建は後にする」という、これまで30年間続いた日本の経済政策の基本哲学を批判的に検討する。まず、きわめて稀に起きる大惨事が平時の経済を悪化させるという経済理論(ディザスターモデル)を紹介し、その応用によって、財政破綻のリスクが日本の低成長の原因になっている可能性を指摘する。

 

 

次に、政府債務増加と成長率低下が相関するという実証研究(パブリック・デット・オーバーハング)を紹介する。さらに、財政破綻を回避するために必要な財政収支の改善は、消費税率を30%増税すること(金額にして約70兆円)に相当するとの研究結果を紹介し、破綻の回避を現実的な政策で実現することがきわめて困難であることを論じる。

 

 

 

財政が悪化するのを甘受してでも財政政策(公共事業や減税)を行って経済成長率を高めるべきだ、という考え方の背景には、「財政が悪化しても、そのこと自体は経済成長に影響しない」という仮定がある。

 

 

近年の研究では、この仮定に疑問符が投げかけられている。この節で論じたいのは、「将来の財政破綻の予想が、現時点の経済成長を低迷させる」という理論仮説である。

招来のいずれかの時点で2010年頃のギリシャ債務危機や2001年のアルゼンチンの財政金融危機のような「財政破綻」が日本でも起きるのではないか、という漠然とした不安を感じている人は数多くいる。

 

 

財政破綻は、起きる確率は非常に小さいが、いったん起きたら日本の国民生活と経済にとてつもない損害と大混乱をもたらす。このような「起きる確率は低いが起きた場合のインパクトは巨大な事象」を「テールイベント」といい、テールイベントが起きるリスクのことを「テールリスク」という。財政破綻はテールイベントであり、財政破綻が起きるリスクはテールリスクである。

 

 

◎テールリスクによる不況:リーマンショック後の米国

財政破綻のようなテールリスクの存在は、企業経営者や消費者が感じる将来の不確実性を大きくする。

 

テールイベントの実現の確率は非常に小さくても、将来の不確実性が、現在において人々の行動を変えることによって、現時点の消費や投資が委縮する、と考えることができる。これが将来のテールリスクが現在の経済を悪化させるメカニズムである。

 

 

 

テールリスクが現時点の経済活動を悪化させることは、最近の米国での学術研究によっても論証されている。(略)

 

 

通常の不況なら、いったんGDPの水準がトレンド線を下回っても、その後すぐにトレンド線に収束する動きを示すはずだった。ところが、リーマンショック後は、GDPがトレンド線から乖離した状態が続いている。

 

 

この点は米国の経済学者の間では謎とされていて、その結果、「米国経済の根本的な性質が変化して、長期的な停滞局面に入ってしまったのではないか」という長期停滞(Secular Stagnation)仮説が経済学界での大きな研究領域となりつつあるほどである。(略)

 

 

金融危機とは、戦前には欧米先進国でも「銀行の取り付け騒ぎ(バンクラン)」として頻発していたものの、戦後60年以上、大規模な金融危機は先進国で起きたことはなく、完全に過去のものと思われていたのである。(略)

 

 

ところが実際にリーマンショックは起きてしまった。この経験から、米国の市場参加者いは、「リーマンショック級の危機は数十年に一回は起きる」と評価を改めた。つまり、リーマンショック前は「テールリスクはゼロ」と考えていた市場参加者たちが、リーマンショック後は「テールリスクは数十年に一回程度」と期待を改めたということである。

 

 

このテールリスクへの期待の変化は、米国の消費者の消費や企業の投資を委縮させる。なぜなら、テールイベント(リーマンショック級の危機)が起きたら、家計や企業が受ける被害はきわめて大きいと予想されるので、いざという時に備えて家計も企業も貯蓄を増やし、消費や設備投資を控えるようになるからである。

 

 

このように、テールリスクが大きくなると現時点の経済活動が顕著に停滞することを、ヴェルドカンプらはコンピューター上の数値シミュレーションでも示すことに成功した。(略)

 

 

◎日本の財政テールリスクが低成長の原因

ヴェルドカンプたちは「金融危機の再来」ときうテールリスクが経済悪化もたらすことを示した。これに対し、日本で将来に想定されるテールリスクは財政破綻である。

 

 

2018年現在、日本の市場参加者の多くは「財政破綻が起きる確率はきわめて小さい」と考えていると思われるが、それでも「テールリスクはゼロではない」というのが暗黙のコンセンサスであろう。また、日本の財政のテールリスクの特徴は、「財政破綻が起きた時に想定される被害の大きさ」が、年々、拡大を続けていることである。

 

 

 

よく知られているように、日本の政府債務の残高は、年々、膨張し続けている。(略)

「テールイベント(財政破綻)が起きた場合のインパクトは、破綻が起きない時間が長く続けば続くほど、大きくなる」という日本財政の特徴は、ヴェルドカンプたちが考察した「金融危機のテールリスク」とは性質が大きく異なる。(略)

 

 

ヴェルドカンプらのシミュレーションでも、経済成長率は下がらない。ただ、危機が起きる前のGDPのyトレンド線に戻れないだけである。(略)

 

 

日本では、バブル崩壊の後始末が終わった2000年代になってからも、経済成長率が非常に低い低成長経済が続いている。なぜ日本でこれほど長く低成長が続いているのか、という問題は経済学上の大きな謎である。本節で、それを説明するひとつの可能性いて定期したいのは、次の仮説、すなわち、公的債務の累増によって人々が「財政テールリスクがだんだん大きくなっている」と考えるために、経済成長率が低迷する、という仮説である。(略)

 

 

◎実例:パブリック・デット・オーバーハング

以上は、理論的な仮説であり、そのことをコンピューター・シミュレーションで確かめた結果であった。現実の経済で、財政の悪化と経済成長の低下に関係があるのか、という点も確認しておきたい。

 

 

ハーバード大学のカーメン・ラインハート教授とケネス・ロゴフ教授たちのグループは、政府債務残高が大きくなると経済成長に悪影響を与えるようになるということをデータから実証した。彼らは政府債務が経済成長に悪影響を与える現象をパブリック・デット・オーバーハング(公的債務過剰)と名づけている(Reinhart,Reinhart,and Rogoff 2012)。

 

 

ロゴフらは先進国で政府債務が累増した26事例を調べ、そのうち23事例において経済成長率が10年以上にわたって停滞していたことを報告している。(略)

同様の発見は、ユーロ圏の国々に対象を限って政府債務を分析した研究でも報告されている(Checherita-Westphal and Rother, 2012; Baum, Checherita-Westphal,and Rother 2013)。

 

 

◎「成長が先、財政再建が後」は成り立つか?

以上のことから、理論的にも実証的にも、政府債務の累増が経済成長の低迷の少なくとも一つの大きな原因となっていることが示唆される。(略)

ここで紹介した経済学的な研究は、いずれも政府債務の増大が成長を阻害することを示しており、「成長が先、財政再建は後」という考え方を一刻も早く転換することが必要であることを意味している。(略)

 

 

長期的な時間を通じた社会厚生を最大化することを目的と考えるならば、目先の短期的な景気悪化を甘受してでも、財政再建を早めに行うべきだということになる。

短期的な目先の社会厚生を重視するならば、財政再建はなるべく先送りするべきだということになる。合理的に考える人間であれば、ある程度は長期的な厚生を重視するはずだから、財政再建の登記着手を選択すると思われる。

 

 

いずれにしても重要なことは、財政再建の痛みを先送りすれば、テールリスクへの不安が高まり、現時点での経済成長が抑圧されるという負の効果がある、というトレードオフの関係である。

 

 

このトレードオフを認識したうえで、経済政策を立案しなければならない。このトレードオフが、今までの30年間の日本の政策決定では認識されてこなかったし

いまも十分に認識されていない。財政破綻の危機は、このトレードオフについての「認識の不在」を改めることをわれわれに求めているのである。

 

 

◎必要な財政再建策(財政破綻前において)

債務が増え続けている現在の日本で、低成長を脱するために財政破綻のテールリスクを取り除くことはきわめて困難である。財政破綻を起こさずに財政が持続可能な状態にするためには、恒久的な増税または歳出カットをしなければならないが、必要とされる増税または歳出カットの規模がとてつもなく大きいのである。

 

 

複数の研究によれば、日本の財政が持続可能になるために、もし、消費税の増税だけで財政収支を改善するとしたら、消費税率をいまの8%から38%程度にまで上昇させ、その税率で永久に固定しなければならない。つまり財政破綻のテールリスクを取り除くためには、消費税率30%分の財政収支の改善が必要なのである(たとえばHansen and Imrohoroglu 2016,Braun and Joines 2015, Kitao 2018 などでは、消費税率40%~60%の増税が必要になるという、もっと悲観的なシナリオが示されている)。(略)

 

 

また、「高い経済成長が実現すれば、税収が自然に増えて、財政再建は容易にできる」という議論が、一部の論者の間に根強くある。しかし、本節で論じたように、財政テールリスクの存在が低成長の原因となっている可能性が高いので、「経済成長率を高めるためには財政再建をしなければならない」。

 

 

この二つの関係をあわせれば「財政再建を実現するためには、(高い経済成長が必要で、その成長を実現するためには)まず財政権を実現しなければならない」という、トートロジーのような論理の自己循環に陥ってしまい、意味のある政策論にならない。われわれはこの点を十分に認識しなければならない。(略)

 

 

また、財政再建の道があまりにも険しいので、「いっそのこと、財政破綻して、ゼロから出直す方が楽なのではないか」という意見もある。しかし、財政破綻財政再建を比べた場合、どちらの方が国民生活にとってより良い選択であるかは、次のように考えることができる。

 

まず、財政破綻というテールイベントが起きた場合、物価は制御不能になって物価が3倍、4倍になるような高インフレになると考えられる。それは、公的債務の価格をインフレによって十分に減価させて持続可能なレベルまで落とすためには、物価は3倍以上になることが必要だからである(詳しくはコラムを参照)。

 

 

財政破綻させずに、消費税を30%上げるという財政再建策を実行したとしたら、物価は1・3倍になるだけである。このように比較すると、国民生活に与える経済的なコストは、おそらく財政再建のほうが小さくなるだろうと推測できる。(略)」※ この後に、コラムがありますが、省略します。

 

 

「3 世代間の協調と民主主義システム

本節では、世代間協調問題(現在世代が政策実施コストを支払うと、将来世代がリターンを得るような政策課題)を通常の民主主義の政治システムでは解決できないことを論じる。

 

 

このような問題は、保守主義の政治思想(エドマンド・バークなど)ではよく知られた政治のテーマであるが、リベラルな政治哲学、とりわけ、社会契約論の文脈では適切に取り扱われていない。

 

その例としてロールズの「正議論」を取り上げる。ロールズの有名な「無知のヴェール」を使った格差原理は、経済学における「ナイトの不確実性」のもとでの利己的な効用最大化と同等であることを指摘する。さらに、ロールズの格差原理で世代間協調問題を解こうとしても「時間整合性の問題」に阻まれ、適切な解決ができないことを論じる。

 

財政破綻の問題は、現代の政治システムの欠点を提起している。政策決定の時点とその結果が実現する時点までの間に、世代を超えるほどの超長期の時間経過が横たわっているために、民主主義のシステムでは、適切な意思決定が出来ないのである。

 

◎世代を超えた時間:民主主義の弱点

財政を悪化させる政策決定(社会保障制度の拡充、財政出動や減税の実施、財政再建の先送りの決定)は、30年以上も前の過去から行われており、それが現在も継続している。

 

 

そして、財政破綻はいまから数年以上も先の未来、おそらくは20年~40年ほども先の未来に到来する。これだけ長期の時間差があるときには、財政再建を先送りするかどうかを選択する世代(現在世代)と、財政破綻の被害を現実に受ける世代(将来世代)が、お互いの意見を交換して、政治的な合意達するにという民主主義的な議会政治のプロセスは実現できない。

 

 

現在の財政再建のコスト(増税の痛みや慢性的不況など)と、将来の財政破綻のコスト(ハイパーインフレや経済危機)とを、政治の場で比較しようとしても、現在世代と招来世代とは同じ時間を生きていないのだから、議論の関に着くことが物理的に出来ない。

 

 

また、現在世代が将来世代の不利益となる決定(財政再建の先送り)をしたからといって、将来世代が現在世代にペナルティを与えることも 物理的に不可能である。将来世代が現在世代を罰したいと思う頃には、現在世代の人間はことごとくこの世を去った後だからである。

 

 

この問題は、近代から現代の政治のフレームワークである民主主義は、超長期の「時間」の扱いがきわめて不得手である、ということを端的に示している。(略)

 

 

超長期の時間軸をもったこれらの世代間協調の問題に適切に対処できないことによって、いまわれわれの社会では、社会の長期的な持続性が脅かされている。(略)

 

 

ところが、20世紀後半からこの前提が無条件には成り立たなくなった。将来世代の利益を的確に反映した意思決定を現在世代のわれわれができなければ、社会の持続性がおぼつかないということになってきた。時間の問題に弱い、という一見無害だった民主主義の弱点が、21世紀の今日において、政治システムが抱える問題としての重要性を増してきたのである。そのことを最も先鋭的に表しているのが、財政破綻をめぐる現在の日本の危機である。

 

 

 

保守主義と世代間協調問題

超長期の時間んを通じた社会の持続性は、昔も今も政治の関心事である。まだ生まれていない将来世代が現在の政治決定の場に意見を言えないのは、物理的な制約であり、民主主義の血管と見るべきではないかもしれない。

 

 

どのような政治システムでも同じ問題はあるが、将来世代の利益を擁護する仕組みは、伝統、文化、宗教などの(政治的意思決定のシステムに対する)補完物というかたちで存在していた。それは近代民主主義国でも同じである。

 

 

 

保守主義の政治思想が、権力者や議会による意思決定よりも伝統や慣習を重視するのは、どのような政治システムによる意思決定であってもそれだけでは世代間の時間を超えた問題を適切に扱えない、という判断が背景にあったからである。このような思考は、エドマンド・バークの次のような言葉から、保守系の論者にはなじみ深い考え方である。

 

 

「社会は、まさしくひとつの契約である。(中略)しかし、国家は(中略)すべての科学における合同事業(パートナーシップ)であり、すべての学芸における合同事業、あらゆる徳、まったくの完成における、合同事業である。このような合同事業の目的は、多くの世代によっても達成されえないから、それは生きている人々だけのあいだの合同事業ではなく、生きている人々と死んだ人々と生まれて来る人々とのあいだの、合同事業である」(「フランス革命についての省察ほかⅠ」水田洋・水田珠枝訳、中公クラシックス版)

 

 

時間をめぐる問題が顕在化したのは、伝統や慣習、宗教が政治の意思決定を制約しなくなってきたからといえる。伝統や宗教の負荷から解放された「白紙」の社会に民主主義のシステムを作ったとしたら、それが時間をめぐる問題に対処できないことは、ジョン・ロールズの「正議論」を検討することによって理解できる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

財政破綻後 危機のシナリオ分析

〇小林慶一郎編著 「財政破綻後 危機のシナリオ分析」を読みました。

「編著」とあるように、著者はその他に、小黒一正・小林康平・佐藤主光・松山幸弘・

森田朗の五名で、第一章から第五章までを執筆しています。

第1章 人口減少時代の政策決定

第2章 財政破綻時のトリアージ

第3章 日銀と政府の関係、出口戦略、日銀引き受けの影響

第4章 公的医療・介護・福祉は立て直せるか?

第5章 長期の財政再構築

そして第6章 経済成長と新しい社会契約 を、小林慶一郎が執筆しています。

 

序章には、「なぜ破綻の「後」を考えるのか?」として

財政破綻が起きるとき、日本社会に何が起きるか、また、財政破綻の「後」に社会を立て直すためにどうすべきか。

本書は、経済学的な考察や、たとえば医療現場などの現状分析を通して、破綻の結果、日本の国民生活がどのように変化するのか、また、関連する制度をどのように改変すれば最小のダメージで破綻を乗り切ることができるのか、などの論点を議論する。

 

したがって本書は、財政危機に際して人が自分の財産をどう守るか、というような個人の観点ではなく、日本の社会制度をどう立て直すのか、という制度設計者や政策立案者の観点から書かれている。」

 

とあります。

 

実際に日本の社会制度の設計や立案にかかわって来た専門家が、どう考えているのか

知りたくて読んでみたのですが、こちらの理解力が足りず、専門的なことについては、

ほとんどわからなかった、というのが、本当の所です。

ただ、経済学の格言「フリーランチ(ただ飯)は存在しない」とか、「財政再建低所得者など、社会的弱者の切り捨てになるべきではない」などの、専門家でなくとも普通に頷ける部分が所々にあるので、それを拠り所に読みました。

 

図書館に返却する日も近いので、第6章から、少しだけ、メモしておきたいと思います。

 

「第6章

経済成長と新しい社会契約

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本章では、財政破綻をめぐってわれわれが学ぶべき経済政策的な教訓と政治思想的な課題を検討する。

第1節では、日本において財政破綻のリスクを高めて来た要因として、過去30年間に及ぶ政策選択の構造的な問題を論じる。

第2節では、「経済成長を先に実現し、財政再建は後にする」というこれまで30年間続いた日本の経済政策の基本哲学を批判的に検討し、財政破綻のリスクが日本の低成長の原因になっている可能性を指摘する。さらに、政府債務増加と成長率低下が相関するという実証研究(パブリック・デット・オーバーハング)を紹介する。

 

第3節では、世代間協調問題(現在世代が制作実施コストを支払うと、将来世代がリターンを得るような政策課題)を通常の民主主義の政治システムでは解決できないことを論じる。このような問題は、保守主義の政治思想(エドマンド・バークなど)ではよく知られた政治のテーマであるが、リベラルな政治哲学、とりわけ、社会契約論の文脈では適切に取り扱われていない。その例としてジョン・ロールズの「正議論」を取り上げる。

 

 

第4節では、世代間協調問題を解決するため、将来世代の利益を代表する行政機関などの組織、すなわち「仮想将来世代」を創設すべきだという提案を紹介する。仮想将来世代の創設を政治思想として正当化することを、ロールズの枠組みの拡張によって試みる。

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1 危機の30年

本節では、日本において財政破綻のリスクを高めて来た要因として、過去30年間に及ぶ政策選択の構造的な問題を論じる。とくに、経済成長と財政についての基本的な考え方に問題があったのではないかという経済政策論の問題と、政治システムの問題として、まだ生まれていない将来世代の利益を現在の政治の場で擁護することができないという「世代間協調問題」の重要性を指摘する。

 

財政の破綻が起きることを前提に、どのように日本を立て直すのかを考えるのが本書のテーマであった。第6章では、破綻が避けられないとして、その後に再生する日本経済のために、私たちはどのような教訓を学び取るべきか、何を後世に残すべきなのか。この点を経済と政治の両面で考えたい。

 

 

◎経済成長の問題

経済面で、財政破綻に至る大きな要因は、早期の財政再建への着手が出来なかったことである。財政再建に早期着手できなかった背景には、「経済成長が先、財政再建は後」という過去30年間続いている政策の基本哲学があった。(略)

 

この管、一貫して政府が採用した基本的な政策方針は、まず財政出動などによって経済成長を回復し、その後に財政再建を行うというものだった。財政出動によってあえて政府債務が増加しても、経済成長が回復すれば税収も上がるし、景気が回復した後で増税すれば財政再建は問題なく実現できるので、財政再建を後回しにして経済成長をまず実現するべきだ、という考え方であった。

 

 

しかし、2018年現在、景気は戦後最長の拡大局面にあって税収も増えてはいるが、政府債務の増加を止めるにはまったく不十分な金額である。成長による税の増収効果で財政再建が出来るためには、実質経済成長率が最低10%程度になる必要があり、それが実現する可能性はほとんどないと思われる。

 

 

景気が回復しても債務の増加が続く現状は、第一に「成長が先、財政再建は後」という基本哲学の妥当性について、疑義を提起しているといえる。本章第2節では、「政府債務の増加が経済成長を停滞させる」可能性を、実証研究や理論モデルをもとに考察する。

 

 

ここからのメッセージは、「将来に対して責任ある政策対応をしなければ、現在の繁栄(経済成長)も実現できない」という教訓である。(略)

長期的にコストなしに経済成長を手に入れようというのは、「フリーランチ(ただ飯)は存在しない」という経済学でよく知られた格言にも反している。

 

 

 

30年に及ぶ財政再建先送りの末に破綻が起きるとすれば、それはこの経済学の常識を超長期の時間軸で実証する一大実験だったということになるだろう。その授業料は日本の経済社会にとって途方もなく高くつく。

 

 

◎政治システムの問題

財政破綻がわれわれにもたらす政治的な教訓は何だろうか。本章第3節と第4節では、このことについて考察を進める。

税制や財政をめぐる政策判断は、政治という活動のg非常に大きな部分を占めている。財政再建が先送りされ続けた理由は、経済政策上の技術的な判断(「先に成長を実現すれば財政再建も後で実現できる」)だけではなく、そもそも現在の有権者たちが財政再建のためのコスト負担を嫌がったからである。

 

 

財政再建にかかわるコスト負担は、有権者の暗黙の選択の結果として(まだ選挙権をもたない)将来世代の人々に先送りされることとなった。財政危機が意識され始めた1990年代末からの20年間にわたって、このような暗黙の政治選択が繰り返されてあのである。

 

 

 

将来世代に対するコストの先送りという現象は、さまざまな政策分野で共通に見られる、現代の政治を特徴づける弱点と見ることができる。財政再建のコスト、地球温暖化のコスト、原子力発電所の核廃棄物処理のコストなど、人間の生活に重大な影響をもたらすかもしれないコストについて、現在世代では十分に対処されることなく将来世代に先送りされている。

 

 

これらの問題に共通するのは、問題の時間軸があまりにも長期化しているため、政治の決定に参加できる同一世代の中だけでコストとベネフィットの分布が収まらなくなっているということである。

 

財政再建や温暖化対策を現在の政治が決定し実行するならば、コスト負担は現在世代に降りかかるが、ベネフィット(財政再建後の経済の安定や、地球環境破壊の防止)を得るのは現在世代よりも将来世代である。現在世代にとってみれば、「コスト負担を求められるだけで、見返りのベネフィットは何も得られない」という構造になっていることが、財政問題や地球環境問題という超長期の政策課題の難点なのである。このような構造の問題を、「世代間協調問題」と呼ぼう。

 

 

政治面で、財政破綻の危機がわれわれに突きつける問題は、現在の民主主義のシステムが世代間協調問題に対して基本的に無力である、という事実である。(略)

 

 

したがって、世代間協調問題に直面すると、民主主義の政治システムでは、どうしても将来世代へのコストの先送りが生じやすいと考えられる。この先送りを防止するためには、民主主義システムのなんらかの「補正」が必要である。このことが、財政破綻がわれわれにもたらす政治的な教訓といえよう。

 

 

本書執筆時点においては、日本の財政破綻は起きておらず、数年程度の近い将来において財政破綻が起きる可能性も少ない。市場関係者が想定するように、対外純債務国になったときに危機が顕在化して財政破綻が起きるならば、日本で財政破綻が起きるまでにまだ数十年もの時間的余裕がある。この期間のうちに、本書で論じるような経済政策の基本哲学と政治システムの抜本的改革を行うことが求められているのではないだろうか。」

 

〇この本は「専門家」によって書かれています。専門家には専門家の論理展開の道筋というのが、あるのでしょう。だからなのだとは思うのですが、読みながら、「魂の抜けた言葉」を聞かされているような虚しい気持ちになることが度々ありました。

 

おれおれ詐欺」で、お金を稼ぐのは明らかに間違っています。そんなことは、誰もが知っているはずです。でもここでは、なぜおれおれ詐欺は良くないのかと「冷静に」「論理的に」立証するのを聞かされているような… そんな感覚になってしまいます。

 

冷静に論理的に、良くないと立証された時、おれおれ詐欺はなくなるのか…そんな絶望的な気持ちになってしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふしぎなキリスト教  

 

橋爪大三郎×大澤真幸著 「ふしぎなキリスト教」を読みました。

この本の紹介を見たのは、もうずいぶん前です。読んでみたいなぁと思ったのは、この著者大澤真幸氏に興味を持ったからです。

講談社のPR雑誌「本」の中に「社会性の起源」という文章があり、難しいのですが、面白いと思いました。

自分の頭では理解できないような難しいことをなぜ面白いと思うのか…
いまだにうまく説明できませんが、多分そこに「自分に必要な何か」の匂いを嗅ぎつけているのではないか?と思います。

この「ふしぎなキリスト教」にもその匂いを嗅ぎつけて、読んでみようと思いました。

自分の感想は〇で、引用文は「」でメモします。
(文字使いは、原文のままではありません。意味に違いがなければ、PCの変換のままにしています。)


「 まえがき

 

「我々の社会」を、大きく、最も基本的な部分で捉えれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。


したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在の我々の社会がどういうものかということも解らないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。


それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。(略)だが、その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。一口に「キリスト教」と言ってもいろいろあり、対談でも話題にしているように、大きく分けただけでも、ローマ中心の西側のキリスト教カトリック)と正教会(オーソドクシー)とも言われる東側のキリスト教がある。


西洋の文明的なアイデンティティの直接の根拠になっているのは、西側のキリスト教であり、とりあえずは、これを「キリスト教」と呼んでおこう。西洋とは、結局、キリスト教型の文明である。つまり、西洋は世俗化してもなおかつどこかキリスト教に根を持っていることが大きく効いているいるような社会である。


近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。大局的に事態を捉えると、このようにいうことが出来るだろう。


ところで、この事実が、日本人にとっては大きなつまずきの石になっている。以前、橋爪大三郎さんが私との私的な会話で使われていた表現をお借りすると、今ある程度近代化した社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を「わかっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることが出来たとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。


それは日本人が特に頭が悪いということを意味しているわけではない。そうではなくて、日本があまりにもキリスト教とは関係の無い文化的伝統の中にあったことがその原因である。」


「しかし、現代、我々の社会、我々の地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋と言うものを相対化しなければならない事態ということである。


こういう状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティヴに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない。」

 

「そこで私(大澤)が挑発的な質問者となって、ときに冒瀆ともとられかねない問いをあえて発し、橋爪大三郎さんに、それに答えながら、キリスト教というものが何であるか、キリスト教が社会の総体とどのように関わってきたかを説明して頂いた。」

 

「対談は、全部で三回である。まずキリスト教のベーシックな考え方になる、あるいはその背景にあるユダヤ教との関係で、掲示宗教としての一神教の基本的な考え方をはっきりさせて(第一部)、その次にキリスト教のきわめて独創的な側面である「イエス・キリスト」とは何であるかを考え(第二部)、最後にキリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたかということについて考えて行く(第三部)。」

 

 

 

〇 大澤氏と橋爪氏の対談になっているので、大澤氏の発言をO、橋爪氏の発言をHと記載します。発言の一部だけを切り取ってメモするので、本来は「(略)〇〇〇〇(略)」とすべきですが、その一部だけを記載しています。

 

「 1 ユダヤ教キリスト教はどこが違うか

 

O イエスが登場した時、彼はキリスト教という新しい宗教を作ろうとしたのではない。ユダヤ教宗教改革みたいな感じで出てきたんだと思います。だからまず、キリスト教は、ユダヤ教との関係で理解することが必要です。」


「O しかし、キリスト教の場合には違います。ユダヤ教的な部分を否定しつつ、自覚的に残している。その二重性は、二種類の聖典という形で明白な痕跡を留めています。」


「H では、その答え。
ほとんど同じ、です。
ユダヤ教キリスト教も「ほとんど同じ」なんです。たった一つだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか。そこだけが違う、と考えて下さい。」

 

「H キリスト教も、この態度は、同じです。だから、彼ら旧約の預言者を、みな預言者として認める。でも、その締めくくりに、イエスが現れたと考える。
エスの出現は、旧約聖書預言者が、やがてメシアがやって来ると、予言していたものです。「メシア」はヘブライ語で、救世主という意味。それをギリシア語、ラテン語に訳すと「キリスト」です。特に「イザヤ書」の真ん中より少し後ろ(第二イザヤの予言と言われる部分)に、そのことが書いてある。


エスの先輩格に、洗礼者ヨハネという予言者がいて、イエスに洗礼を授けた。「自分の後から来る人はもっと偉大だ」と言ったので、人々は、ナザレのイエスこそ待望のメシアではないかと期待した。


そのあと、イエスが十字架にかかって亡くなると、イエスは神の子だったという人々が出てきた。
「神の子、イエス・キリスト」は、預言者ではない。預言者以上の存在です。なにしろ本人が神(の子)なのですから、自分の言葉がそのまま神の言葉である。(略)


そこで、旧約の預言者は重要でなくなった。なにしろ、神であるイエス・キリストと直接連絡が取れたんですから。この時点で、ユダヤ教キリスト教が分かれたのですね。」

 

「 2 一神教のGodと多神教の神様

 

「O 考えてみれば、神さまはたくさんいる方が普通ですよね。神様をたくさん持つ共同体の方が、歴史的には、圧倒的に多かった。結果的には一神教の伝統を持つ社会が地球を席捲したので、神様は一人というのが一般的になりましたけど、もとを正せば、神様をたくさん持つ共同体がいくらでもあった。現に日本でもそうで、やたらと神様がいます。」


「H 日本人は、神様は大勢いた方がいい、と考えます。
何故か。「神様は、人間みたいなものだ」と考えているからです。神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。友達なら、大勢いた方がいい。友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。
で、その付き合いの根本は、仲よくすることなんです。

おおぜいと仲よくすると、自分の支えになる。ネットワークができる。これは日本人が、社会を生きて行く基本です。このやり方を、人間じゃない神様にも当てはめる。すると、神道のような多神教になる。」

 

「H Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。これって、エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。godは地球も造ったぐらいだから、地球外生命体でしょ?」

 

「O 丸山は、宇宙の起源を説明する論理は三つある、と述べています。(略)この丸山の類型でも、日本とユダヤキリスト教は反対の極にあります。」

 

「H でもこれでは、いかにもよそよそしい。そのよそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」を述べて、大転換が起こるんです。それまでは、こういう厳しくてよそよそしい関係が、基本だったと理解しておかなければならない。」

 

「 3 ユダヤ教はいかにして成立したか

 

「O それは明らかにフィクションと言いますか神話的です。しかし、旧約聖書は、そういうところからだんだん、実際にあった話がそれなりに伝承されて文字になったものだろうと解釈できる部分へと、つまり本当の歴史へと変わって行きます。


旧約聖書の記述は、こういうふうに神話と本来の歴史、フィクションと事実とをないまぜにしていますから、これだけからはユダヤ教の客観的な歴史はわかりません。」

 

「H この年表は、エジプトの出来事と、メソポタミアバビロニアアッシリア)の出来事に、パレスチナ一体(当時はカナンといっていました)の歴史が挟まれる形になっています。

両大国に挟まれた地域(カナン地方)に、イスラエルの人々がいた。エジプトとメソポタミアの両大国に挟まれた弱小民族が、ユダヤ人だったという歴史が分かると思う。

島国で安全だった日本とは、まるで正反対なんです。(略)

 

ヤハウェという神が最初に知られるようになったのは、紀元前1300~前1200年頃だと思います。そのころ、のちに「イスラエルの民」といわれるようになる人々が、この地に入植し始めた。(略)


これが、それなりにユダヤ教らしくなったのは、ずっと時代が下って、バビロン捕囚(紀元前597~前538年)の前後。すっかりユダヤ教になったのは、イエス・キリストより後かもしれない。ローマ軍の手でエルサレムの神殿が壊されて、ユダヤ民族は世界中に散らされてしまったんですね。神殿がなくなったので、律法を重視するいまのユダヤ教の形が確定した。というわけで、千五百年ぐらいかけて、徐々に成立しているんです。


これだけ長い間に、ユダヤ教はずいぶん形を変えているので、以下、マックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」(名著です!)を下敷きに説明します。


ヤハウェは最初、シナイ半島辺りで信じられていた、自然現象(火山?)をかたどった神だった。「破壊」「怒り」の神、腕っぷしの強い神だったらしい。そこで、「戦争の神」にちょうどいい。イスラエルの人々は、周辺民族と戦争しなければならなかったので、ヤハウェを信じるようになった。(略)


イスラエルの民がそのもとにまとまった。
この「イスラエルの民」が元はどんな人々だったか、実はよくわかりません。肥沃な低地を見下ろす山地に住み、羊や牛や山羊を飼っていた。人種も文化もまちまちなグループの寄り合い所帯だったらしい。


逃亡奴隷やならず者やよそ者も混じっていたかもしれない。それが、定住農耕民と張り合おうというので、団結して、ヤハウェを祀る祭祀連合を結成した。ヴェーバーの言い方だと、「誓約共同体」(同じ神をいただく宗教連合)ですね。そして少しずつ、カナンの地に侵入していった。(略)


なぜ、ヤハウェの偶像がないのか?それは技術水準が低くて、偶像が造れなかったから。偶像崇拝がいけないというのは、負け惜しみなんですね。


ともかくイスラエルの民は、先住民の神々(偶像)を拝むのを禁止して、ヤハウェだけを信仰しようとした。それでも、バアルを拝む人々はあとを絶たなかったので、流血事件も起こっています。」

 

「 4 ユダヤ民族の受難

 

「H じゃあ、次のポイントは、王が登場すること。(略)
サムエルになぜそんな権限があるかというと、ヤハウェの声を聴いたから。Godがいると、Godが選んだからという理由で王制をつくりやすい。こうして、ヤハウェ信仰と王制が結びついた。」

〇このヤハウェの権威で王制を作った、という話をきいて思い出したのが、「日本中世の民衆像」の中にあった「権威」についてです。

日本でも、特権を保証する時には、権威が必要だったと説明されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・自由往来の特権を保証していたのは西国では天皇

   ・中世前期、南北朝ごろまで、実質天皇がその特権を保証していたので、
    天皇が政治的実力をなくし特権を保証する力を失っても
    伝説として江戸時代まで残った

   ・西国では天皇が権威

   ・東国では源頼朝が権威

   ・東国には天皇と異なる独自の権威(源頼朝)がある

   ・東国と西国は異なる民族ともいえる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「H これが、ユダヤ教の歴史の、二番目の転換点です。
Godが王を任命するのだとすると、王を相対化できる。王がなにか間違いをしたら、預言者がGodの声を聴いて、王を批判しに乗り込んでくる。「王は間違っている、なぜなら、神との契約に反して……」みたいなことを、演説して歩くこともできる。(略)

 

預言者のやっているのは、イスラエルの民をとりまく国際情勢や国内政治を、ヤハウェの目でみることなんです。王の行動が、ヤハウェ信仰に照らして正しいかどうか、チェックする。
こういう予言がつみ重なって、ヤハウェ信仰は、さらに次の段階に進みます。(略)

 

いったいなぜ、こんな苦しみにあうのだろう。ヤハウェはなぜ救ってくれないのか。人々は悩みに悩んで、こんな風に考えるようになった。
ヤハウェは、我々だけの神ではない。世界を創造し、世界を支配している。アッシリアバビロニアが攻めてくるのも、ヤハウェの命令だからだ。


我々がヤハウェに背き、罪を犯したから、懲らしめのためである。つまり、われわれに原因がある。(略)

 

ここでヤハウェは、イスラエルの民の神から、世界を支配する唯一の神に格上げされているんです。ヤハウェが自分たちだけの神なら、他の民族が彼らの神を拝むのは仕方がない。でも、それはもう認めない。ヤハウェは唯一の神で、世界を支配している。ヤハウェ以外の神は、神でなく、偶像にすぎない。こういう信念に成長した。(略)

 

バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、それを取り入れた。聖書の冒頭の「創世記」も、こうしてできあがった。ただし元の物語のままではなく、ヤハウェ信仰に合うように編集が加わっています。

 

さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。それには、三通りのやり方があった。
第一は、儀式を行う。(略)
第二は、預言者に従う。(略)
第三は、モーセの律法(聖書にまとめられている)を守って暮らす。(略)


ところが、この三つのやり方の中心となる人々(祭司、預言者、律法学者)が、お互いに仲が悪いのです。(略)

 

エスが処刑された後、エルサレムの神殿が破壊され、神殿を拠点にしていた祭司がいなくなった。預言者もとっくにいない。律法学者だけ残った。これが、今私たちが知っているユダヤ教です。


律法学者をラビと呼びます。彼らは、ユダヤ社会に欠かせない存在です。そうやって律法を守り、二千年の歴史を歩んできた。」

 

「  5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか

 

「O 先ほど橋爪さんがおっしゃっていた非常に重要なポイントで、聞いていてなるほどと思ったのは、要は神との関係は安全保障である、ということです。もちろん宗教家はこの教えは優れているからとか、宗教に内在的な論理をつけるでしょうけれども、古代世界のことを考えれば、一種のセキュリティのために神を信仰したのだと思うんですね。(略)

 

ところがユダヤ教の歴史は、はっきり言って連戦連敗。旧約聖書の範囲内でちょっとは勝ったかなと思えるのは、しいて言うと、エジプトで奴隷だったユダヤ人が、モーセに率いられて奇跡的に脱出し、その後、最終的にヨシュアのおかげでカナンの地に入ったとき、ほとんどこの時だけです。」

 


「O 後になって解放されたと言ったって、そもそも捕囚されなければ解放されないわけですから、ユダヤ人たちが相当ひどい目に遭っていることには変わりない。どれほど我慢強い人であっても、そのあたりでヤハウェとの安保条約を解消してもよさそうなものです。ところが、まさに、安保条約を破棄してもよさそうなその時期にこそ、ユダヤ教は磨きがかかり、ほぼ完成した。これはいったい何故でしょうか?」


〇う~~~ん… ここを読みながら思い浮かんだのは、自分が一番苦しかった時のことです。ここでは、宗教はイスラエルの国との関係で論じられていますが、私にとって辛かった時の「宗教」は「溺れる者は藁でもつかむ」の藁でした。

つかんだ藁の言葉、聖書の言葉を読みながら、救われるとか楽になるとかとは、まるで程遠い苦しさが続くのですが、でも、自分と同じような嘆きの言葉、苦しみの言葉がそこにある、というのが今思うと支えになったような気がします。

そういう意味では、読みながら自分でもすごく不思議だったのは、「新約」よりも「旧約」の方が読んでいて心が安らぎました。
今でも、なぜなのか、よくわかりません。自分とはまるで関係の無いイスラエル民族の嘆き苦しみの言葉になぜ自分が惹かれたのか…。

そして、辛い!苦しい!と嘆いて祈る対象があるということは、もうそれだけでどれほど支えになることなのか、ということをその後も何度も何度も経験しました。
だから、全然救ってくれないのに、なぜ信仰するのか?とここで大澤さんは言っていますが、私個人に限って言えば、助けて下さい!と祈ることが出来ることの中に救いがあったような気がします。
だから、その祈りの対象を捨てるなんて出来ない、という気がします。


「O 古代ギリシアのゼウスと他の神々のように、神の間にランクがついているけれども、たくさん神がいるような状態ですね。さらに、戦いに勝利して覇権を握った共同体の力が軍事的にも社会経済的にも圧倒的になって来ると、その強い共同体の神に対して、敗北した他の共同体の神々はもはや神に値しないということで駆逐される。


そうして、結局、最も強い神だけが勝ち残り、一神教が成立する。こういうのが、一神教の成立過程として想像したくなるものですし、実際に、これに近い過程も歴史の中ではあったと思うのです。


ところが、実際のユダヤ教の歴史に関しては全くそう言う風にはなっていない。周囲に猛烈に強い国があるにもかかわらず、そっちの宗教、例えばエジプトの太陽神信仰とかファラオ信仰が今日まで影響を保ったなんて言うことはない。逆に、もっとも弱小であったところの神が生き延びて、歴史に多大な影響を残した。これは、非常に不思議な感じがするんですよね。

 

それにもっと極論すると、ユダヤ人にとって一番危険なのは、実は周囲の帝国ではなく、神様自身なんですよね。ユダヤ人自身が用いた論理_神様はユダヤ人の神様ではなくて、世界の神様だったんだ_でいくと、バビロニアユダ王国を滅ぼしに来たのも神の意思だということになるからです。神様が一番自分たちに災厄をたくさんもたらしていることになる。(略)


安全保障のために契約した神がちっとも安全を守ってくれなかったのに、なぜ信仰がいささかも衰えなかったんでしょう?」


「H 三通りの答え方があると思います。
一番目は、いじめられっ子の心理。(略)

いじめられるという状態を受け入れ、それでも自尊心を保つにはどうしたらいいか。それを考え始める。これは試練なんだ。いじめる側は知らなくても、これは隠れた計画があって、いじめられることで自分が鍛えられているんだ、耐え忍ぶことが大切だ、みたいに考える。(略)…ですけど、いじめられっ子には、他に考えようがない。


二番目。心理学の実験で「どれぐらいであきらめるか」というのがある。(略)

イスラエルの民は、おおむね負けているけれど、たまには勝つんです。すると、今度こそ勝つんじゃないかと、千年ぐらいたってもまだ、同じことをやっている。


さて、最後に、もう少し本気の答えを言いましょう。イスラエルの民の危機が、二段階で起こったという点が、大事だったと思います。(略)


ソロモンの没後、北側と南側は折り合いが悪くて分裂して、イスラエル王国ユダ王国に分かれてしまった。
そのあとアッシリアが攻めてきて、まず北のイスラエル王国が滅ぼされた。アッシリアは苛酷な政策をとっていたので、宗教の自由がなかった。(略)


北のイスラエル王国の滅亡を見ていたユダ王国は、非常な危機感を持ちます。うかうかしていて外国に攻められると、民族は雲散霧消してしまう。政治的国家が壊滅しても、民族的アイデンティティが保てるようにしよう。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者たちも、警告を発しました。


それからユダ王国の、ヨシヤ王も重要です。この王は、宗教改革を実行した(紀元前622年)。(略)それまで多神教状態だったのを、浄化して、ヤハウェ信仰を強化したのですね。」

 

「 6 律法の果たす役割

 

「H もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されるとする。百年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして、法律にしてしまえばいいんです。


正月にはお雑煮を食べなさい。お餅はこう切って、鶏肉と里イモとほうれん草を入れること。夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。……みたいなことが、ぎっしり書いてある本を作る。そしてそれを、天照大神との契約にする。これを守って暮らせば百年経っても、いや千年経っても、日本人のままでいられるのではないか。こういう考えで、律法は出来ているんですね。」


〇 旧約には、なんであんな細々としたことが書かれているのか、やっとわかりました。でも、そうして頑張って律法を作っても、先日読んだ「サピエンス全史 上」では、「現代のユダヤ人の政治的、経済的、社会的慣行が、ユダヤの古代王国の伝統よりも、過去2000年間に支配を受けた諸帝国に負うところの方が大幅に多い」と言っていたのを思い出しました。


「H イスラム教も、生活のルールを定める宗教法をワンセット持っている点では、ユダヤ教とそっくりです。
違うところは、イスラム教は勝ち組の一神教ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う。


ユダヤ教が、防衛的な動機でもって、一神教の元型(プロトタイプ)をつくった。国家はあてにならない。あてになるのはGod(ヤハウェ)だけだ。Godとの契約を守っていれば、国家が消滅しても、また再建できる。こういう考え方だから、政治情勢がどうあろうと、信仰が持続するんです。


そうやってユダヤ民族は、自分たちの社会を二千年にわたって保ってきた。イスラエルが建国できたのも、ユダヤ教の戦略の正しさを証明していると言えるのです。」


「O 契約をきっちりと守らなかった方は、滅びてしまったんだ、と。つまり、神との契約=約束という設定は、北王国が滅び、南がなんとか残ったという現実を説明するのにとても都合がよい。だから、神との契約というアイデアが完成したのは、北王国だけが滅びてしまった頃ではないか、と思うのです。

 

ただ、半分が滅びて半分が残った時は良いのですが、そのあとに、一生懸命契約を守ろうとしたはずの南の方もひどい目に遭って、約六十年間のバビロン捕囚になる…(略)


だから、完全に負けてしまったにもかかわらず、信仰が残っていくというのはやはり不思議なところではないかなと思います。マックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」も、この点を最大の主題としていました。」

 

「 7 原罪とは何か

「H ユダヤ教には、原罪という考え方はない。」


「H 原罪については、キリスト教を扱う第2部で述べますが、少し先回りして話した方が良さそうですね。
まず、罪について。そして、原罪について説明します。それから、なぜこんなにありがたくない神ヤハウェを拝むのか、という話をします。


そもそも、罪とは何か。罪を定義するなら、「神に背くこと」です。具体的に、禁止された行為を行う(命令違反)。あるいは、命じられたことをしない(怠り)。怠りを、不作為の行為と考えれば、要するに罪とは、行為なんです。行為が罪とされる。


その判定基準は、Godとの契約(律法)ですけれど、要は、神の命令に背いたかどうかがポイント。
この点は、ユダヤ教イスラム教、全く同じです。
キリスト教だけが、これに加えて、原罪という考え方を持っている。


じゃあ、原罪とは何か。これは、罪をもっと徹底したもので、しょっちゅう罪を犯すしかない人間はその存在そのものが間違っている、という考え方です。人間そのものが間違った存在であることを原罪という。


これがどんな感じかというと、こう考えるとわかりやすい。石はなぜ、天に向かって投げても、必ず地上に落ちてくるのか。アリストテレスによると、石はそもそも大地に属し、天に属さない。だから本来の場所である大地に戻って来ようとする。


一方天体は、天が本来の場所なので、落ちてこないのです。人間もこれと同じで、神に従おうと思っても無理で、どうしても背いてしまう。罪を犯さざるを得ない本性を持っている。


まだ何の行為もしていない、生まれたばかりの赤ん坊にも、罪がある。生まれてしまってごめんなさい、なんですけれど、これを原罪と呼ぶのです。原罪は、行為に先立つ、存在の性質なんです。


すると、神との契約を守ろうにも、守れないわけですから、神に救われるなんて無理である。そうなると、ウルトラCを持ちだすしかない。それが、イエス・キリストで、イエスを神の子、救い主だと受け入れた人は、特別に許されるかも知れない、ということにした。

まあ、裏口入学みたいなものですね。このあたりのことは、キリスト教のところで詳しく話しましょう。」

〇心理学的なものや、教育学的なものは、まるで分かりませんが、私の中には、ずっとこの「生まれてしまってすみません」みたいな感覚があります。
何故あるのか。親の育て方だったのか。わからないけれど、あります。


鬱と関係があるのかもしれません。特に、いじめられっ子だったというわけでもないし、虐待を受けて育ったわけでもありません。
だから、私としては、そう考えるタイプの人間が人類の中に一定数、いるのではないか?と思っているのですが。

 

「 8 神に選ばれるということ

「H というわけで、ヨナは、言われた通りに予言をした。そうしたら、ニネベは悔い改めたんです。悔い改めたから、ヤハウェはニネベを破滅させないことにした。そうしたらヨナは怒った。「えっ、私は何のために来たの?」。


ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです。そうしたらヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのが嬉しい、と答える。
ヤハウェは、すべての民族のことを心配する神になっちゃったんです。」

 

「O ユダヤ教の神様というと、ユダヤ人という特殊な民族のための神様だと思いがちですが_まあ客観的に言えばユダヤ人の神様なんですけど_、ユダヤ人の観点からすれば、宇宙全体を統轄する、すべての民族の神様なんだということですよね。


だからこそ、新バビロニアネブカドネザルも、ヤハウェの意志に沿った形で行動していることになります。しかし、そういうユダヤ人の主観的な世界を考えた時に、またしても不思議なことがあります。


ヤハウェはすべての民族の上に立つ神でありながら、どういうわけかユダヤ人を選んだのです。ユダヤ人を選んで、ユダヤ人に対して救済を約束した。しかし、これはユダヤ人にとって、不可解なことではありませんか。


ある意味で、トラウマにさえなり得ることだと思います。何故私たちが選ばれたのか?という疑問が原理的に解けないからです。(略)


ユダヤ人は、この衝撃をどう受け入れているのでしょうか?」


「H 選ばれたことを、理由はわからなくても、感謝して受け入れます。
神と人間の間に立つのが、預言者でした。預言者が神の声を聞いて、人々に伝えないと、神との関係は始まりません。


さて預言者は、どんな言葉を話すか。外国語というわけにはいかないから、預言者の母国語でしょう。そうすると、その言葉がわかる民族と、わからないよその民族がいる。こうして選ばれたのが、ユダヤ民族なんです。


なぜユダヤ民族が、神に選ばれたのか。わからない。わからないけれど、これは素晴らしいことだ。ユダヤ民族の誇りの源泉だし、神の恵みなんです。(略)


さっきのいじめられっ子の心理だと、「なぜ自分だけがいじめられるんだ?それは自分が、選ばれたからなんだ」というふうに、コンプレックスをプライドに変換できる。もっとも、そんなプライドがあると、なおいじめられるから、またコンプレックスがうまれる。コンプレックスがあるからプライドを持つようになったのか、その逆なのか、もうわからなくなる。(略)


ノアの子孫が地上に拡がった後、ヤハウェは今度は、アブラハムに語り掛けた。人類の一部に語り掛けたというのは、アブラハムが最初でしょ?


これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。(略)


アブラハムの妻サラは子供に恵まれなかったので、サラの勧めで、アブラハムは仕え女ハガルの寝床に入った。そして、イシュマエルという男の子が生まれた。ところがその後、高齢のサラにも息子(イサク)が生まれたので、ハガルとイシュマエルの親子二人は天幕を追い出されます。


ああ死んでしまうのですねと砂漠で泣いていると、神の使いが現れて、イシュマエルは砂漠の民(アラビア人)の先祖になるのだと、勇気づけた。アラビア人は、こうしてユダヤ人から分かれたと考えられている。」

 

「H ヤハウェユダヤ民族を選んだのは、担任の先生が大澤さんを指名するのと、どこが違うか。


一神教は、たった一人しかいない神(God)を基準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を見るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。


残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。
多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目になります。」

 

「H 一神教の神は、自分が正しさの規準なので、「あなたはなぜ正しいのですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなんです。人間のつとめは、神の言うとおりにすること。なかなかうまく行かなくてもへこたれないで、「この瞬間も神は私のことを考えてくれているんだ」と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。


人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。

ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかは実はあまり問題じゃない。試練なんですから。


試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。」


〇この太文字にした部分は、私の中にもある感覚です。「戦争に勝つか負けるか…」ではなく、いわゆる「勝ち組になるか負け組になるか」はあまり問題じゃない、ということになりますが。

そして、この「試練(神の与えた偶然)」という言葉の、神は偶然を与えるという感覚が、自然の摂理から覚りをひらく仏教にも似ているように感じます。

また、このように考えると、あの夜回り先生水谷修さんの書いていたこと、

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」

という現実の世界が、「神の与えた偶然」の世界と見えてきます。

 

 

 「  9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか

 

「O しかし、そういう不可解な神様を受け入れるに至るまでの過程や社会的メカニズムがあったはずです。あるいは、そのような神の存在を前提にすることが、その人びとの生き方の中でいかに説得力があると実感される、客観的な原因があったはずで、それを知りたいと思います。(略)

キリスト教の神学でもしばしば話題になることですけど、神が全知全能でそれほどまでに完璧であるとすれば、なぜ我々が住んでいるこの世界、神が創造したこの世界は、これほど不完全なんだろうか。よく提起される疑問は、神が造った世界の中になぜ悪があるのか。(略)


一番わかりやすい例は、先ほどの大洪水の話ですね。神は天地を創造したのに、なぜノアのところでリセットボタンを押したのか。ようはちょっと失敗しちゃったからでしょう。(略)


その他、「我々」が様々な不幸や苦難にあうということに関しても、不可解と言えます。こんな不幸な目に遭うのは、神がいけないのではなく、「我々」が間違っているからなんだと解釈するとしても、それならばなぜ、そんな間違いを犯すような「我々」を神は作ったのだろうか、という疑問が出てきてしまう。」

 

「O もし、神にとって予想外のことが起きているなら、神は全知ではなくなってしまいます。つまり「全知全能」としばしば一セットで言われますが、全知と全能とは両立しないようにも感じられます。」


〇この疑問のあれこれ、私もほとんど同じようなことを考えたなぁと思いながら読みました。ここに「宗教」があって、それを信じられるか信じられないか?と検討を重ねる時、このような疑問が数限りなく出てきます。

そして、私も、自分の生き方に必要なものとして宗教を選ぶなら、全ての宗教をしっかり調べて比較して、どれを選ぶのか決めなければ、ダメじゃないか?と思った時期がありました。

でも、そんなことを考えて仏教やキリスト教の本を読みながら、まずわかったのは、私にはよくわからない…ということでした(>_<)

それでも、全ての宗教を調べる必要があるとすれば、多分私の能力では、調べ終わる前に、人生は終わってしまうだろう、と思いました。

そして思い浮かべたのは、例えば結婚…どの人と結婚すべきか、全ての出会った男を調べて、自分に合うのかどうか検討を重ねてから相手を選ぶとしたら、多分、結婚なんて面倒くさくてしたくなくなるだろう、と思いました。

もともと、他人と一緒に暮らすなんて、頭で考えている段階では、嫌な面の方が多い、と感じていました。だから、自分は多分結婚しないだろう、とも思っていました。

でも、大自然は人間の男女を結び付けるように造った。その自然の法則に従って、私も結婚しました。

私にとっての「宗教」は、少しそれに似ています。

話は飛びますが、十代の頃、私は自分の頭の中で自分なりの「宗教」を生み出したことがあります。自分だけの神を作り、自分だけの掟を作り、自分だけの心の支えにしようとしました。

そして、その後の色々な出来事も重なって、人間は宗教を必要としている、と思うようになりました。

頭で考えると結婚は鬱陶しいものでも、実際に動物のヒトである私は、それほどの違和感なく、ヒトの男と一緒に暮らすことが出来た。

人間は、頭だけではなく、身体でも生きてる、心でも生きてる、それぞれに必要なものを理屈ではなく調達して生きてる、そう思うようになりました。

そして、自分の頭ではわからないことがいっぱいある世界なのだと、思いました。
心から好きだ、と思う人とだったら、どんな苦労でも一緒に出来る。
それと同じように、心から好きだ、と思える宗教なら、そして、反社会的ではないルールを掲げている宗教なら、自分の生き方にしてもいい、と決断しました。

とは言え、一番には、以前も書きましたが、苦しかった時に「信頼する」ということを教えてくれた、牧師先生の存在があったと思います。


「H 世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる、と思います。

O それはどういう論理ですか?

H まず、「神(God)が唯一で、全知全能」という一神教の考え方が、どういう考え方と対立しているか、考えてみましょう。


インドのヒンドゥー教、これは一神教じゃない。中国の儒教、これは一神教じゃない。日本の神道、これは一神教じゃない。他に、仏教も、一神教とは言えない。


仏教も、この世界を、完全に普遍的に合理的に理解しようという点では、一神教と似ています。儒教も、人間が生きているこの世界を、完全に普遍的に合理的に理解しようという点では、一神教と似ています。


まあ、一神教ほど徹底していないかもしれないが。
では、一神教は、これらの宗教と、どこが根本的に違うのか。
まず、一神教は、この世界の全ての出来事の背後に、唯一の原因がある、それも、人間のように人格をもつ、究極の原因=Godがある、と考える。背後に、責任者がいるんです。仏教、儒教神道は、このように考えない、ここが違う。


もう少し言うなら、その責任者(God)は、意思があり、感情があり、理性があり、記憶がある。そして大事な事ですが、言葉を用いる。要するに、人間の精神活動とうり二つなのです。


実際、世界は言葉によって造られた。「光あれ」と言うと、光があった。そして、意思して、イスラエルの民を選んだ。その民に、預言者を通して語り掛ける。言葉でなしに、大雨とか災害とか、イナゴの大群とか、自然現象を通じて働きかける場合もあるけれど、それもGodが引き起こしている。すべては、Godからのメッセージなんです。


多神教とどう違うか。多神教は、自然現象の背後に、神(責任者)を考えるところは似ている。けれども、それぞれの自然現象の背後に、それぞれの神がと考える。(略)

するとどうなるか。自然は、神々のネットワークになるでしょう。ネットワークだから、どの神も究極の支配権を持てない。(略)


人間社会とよく似たものになるのです。」

 

「H 次に仏教の場合。仏教は言ってみれば、唯物論です。自然現象の背後に神などいない。すべては因果律によって起こっているだけ、と考える。人間も死んでしまえば分解して、アミノ酸になり、微生物に食われ、そうした生命の源となり、それがまた別の生命に形を変え、食物連鎖みたいな生命循環があって…。そこには、因果法則があるだけで、誰かの意思が働いているわけではない。


それを言うなら、天体だって地球だって、気象だって生態系だって、すべて自然法則に支配されているにすぎない。そういう、自分たちを取り巻いているこの宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれるわけです。


仏といえども、この宇宙を支配する法則を、一ミリでも変えることができるわけじゃない。そうした法則を、ありのままに徹底的に認識し、一切の誤解や思い違いがなく、自分と宇宙が完全な調和に到達した状態、それが理想なのですね。


法則には、人格性がありません。ブッダとは対話できても、法則とは対話ができない。法則は、言葉で出来ていない。言葉で表現するのが困難である。ここに、ブッダの悩みがあって、ブッダはせっかく究極の知識を手にしているのに、それを言葉にできない。ゴータマ・シッダルタが覚った真理を、言葉で伝えて次々ブッダを量産する、というわけにはいかないのです。
別な人間は、最初からもう一回始めるしかない。


儒教の場合はどうか。
儒教は自然をコントロールすべきものと考えている。コントロールの手段は、政治です。政治は、大勢の人々が協力することなので、人々の中のリーダーが、リーダーシップを発揮しないといけない。それには、政治的能力が必要になる。そうした能力を持っていそうな人を見つけ、訓練して、その能力を伸ばす。


リーダーを訓練して、いい政治をさせる。これが儒教で、政治的リーダーを訓練するシステムなのです。その訓練のマニュアル(古典)があって、みんなそれを読んで勉強する。
儒教はこんな具合で、宇宙の背後に人格があるという考え方がない。人格を持っているのはリーダー(政治家)で、政治家のほかには、自然や宇宙があるだけ。神々もいたとしても、怪力乱神などといって、無視すべきものと考えている。


儒教朱子学になると、リーダー(政治家)の背後に天がある、などと抽象的なことを言い出す。とは言え、天も、その元とされる理や気も、人格ではない。言葉でできているわけでもない。そうするとコミュニケーションは、政治的コミュニケーションに限定される。


王や皇帝の命令とか、政府の行政指導とか。あとは、官僚たちが業務のあいまに、人間的な心情をうたってみたら、詩になったりとか。


儒教って?と思ったことがありますが、じゃあ私のようなただの庶民には、ほとんど意味のない宗教ということになるのでしょうか。


「H ひるがえって一神教の場合、Godとの対話が成り立つのです。それは、Godが人格的な存在だから。「神様、世界はなぜこうなっているんですか」「神様、人間はなぜこんな苦しみにあうのですか」。そう訴えてもいいし、感謝でもよいので、Godへの語り掛けを繰り返す。


このGodとの不断のコミュニケーションを、祈りといいます。
この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、Godと人間の調和した状態が実現する。赦しがえられるまでは、悩みや苦しみに圧倒され、Godのつくったこの世界を受け入れられない、理解できない、という状態が続く。


一神教は、すべてをGodが指揮監督していると信じるのですが、するとしばしば、理不尽な感情に襲われます。たとえば、なぜ私の家族や大事な人が重い病や事故にみまわれるのだろう。なぜ自分の努力が報われないのだろう。

なぜ悪がはびこり、迫害が続くのだろう、というふうに。一神教でなければ、仏教や儒教神道なら、運が悪いとか、悪い神様のせいだとか考えれば済みます。


一神教では、すべての出来事はGodの意思によって起こるので、そう考えて済ますことが出来ない。そこで、不断の対話を繰り返すことになる。(略)


そうすると、残る考え方は、これは試練だ、ということ。このような困った出来事を与えて、私がどう考えどう行動するのか、Godが見ておられると考える。祈りは、ただの瞑想と違って、その本質は対話なのです。


付け加えると、祈りのあり方は、キリスト教イスラム教ではちょっと違っている。キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから。イスラム教の祈りは、外から見える。仲間と一緒に祈ることで、ムスリムであることが自他ともに確認できる。」

 

 

 

 「 10 ヨブの運命_信仰とは何か

 

「H 話を戻しましょう。理不尽な不幸に襲われたときに読む書物があって、「ヨブ記」です。「ヨブ記は、さっきの「ヨナ書」と同じく旧約聖書の「諸書」のひとつです。(略)


ヨブにとって一番辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語り掛けても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけれど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前は私に論争を吹っ掛ける気か。何様のつもりだ?私はヤハウェだぞ。天地を作ったとき、お前はどこにいた?天地を作るのは、けっこう大変だったんだ。私はリヴァイアサンを鉤で引っ掛けて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。


さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。(略)
ヨブ記」を読むと、自分はまだましかも、と思えてくる。逆に言うと、ヨブみたいに苦しんで、神と対話を繰り返す人々がそれだけ大勢いる。そういう対話が可能であることが、信仰なんです。

 

一神教には、この考え方しかない。つまり、試練です。(略)ここで神を呪えば、本当の罪になってしまうのです。
もう一つ大事なことは、サタンが登場する点です。
サタンは「反対者」「妨害者」という意味で、神への信仰を検証する存在です。「ヨブ記」のサタンは、天界にも自由に出入りし、神の代理で地上を査察して回る係のこと。中世キリスト教でおどろおどろしく描かれたみたいな、悪魔ではない。


神への信仰は、些細なことですぐ妨害されてしまいます。自分が友人に対してサタンになったり、友人や家族が自分に対してサタンになったりする。「悪魔」として実在しているわけではなく、役割にすぎない。(略)


大澤さんの質問は、反対者サタンが、なぜ神への信仰を促進することになるのか、でしたね?


O はい。ちょうどこのタイミングで「ヨブ記」のことを伺おうと思っていました。
(略)
僕はここに、神とのコミュニケーションとは一種のディスコミュニケーションである、神とのコミュニケーションはコミュニケーションの不可能性そのものであるという逆説の究極の姿を見たくなります。神はヨブに真には答えないことによって答えているわけですから。(略)


これは非常に奇妙なテキストだなと僕は若い頃からずっと思っていました。神は、いろいろ自慢話をしたあと、一応、ヨブに「よくやった」というようなことを言って褒めて、それに比べて「お前の友人たちはダメだ」と、友人たちを正式に斥ける。(略)


はたして人は、これを読んで本当に慰めになるのかどうか。


H ヨブの運命は、ユダヤ民族の運命そのものなんですよ。

O そうなんですよね。

H 「ヨブ記」が否定されてしまえば、ユダヤ教は否定されるし、一神教は成り立たない。これは、とても大事な点です。
なぜそうなるのか。

 

議論の構造を整理してみると、ヨブは、幸運な時と不運な時がある。ヨブは世界を合理的に理解したいと思っている。ヨブはヤハウェと対話しているけれど、それ以外に他の神がいるとか、オカルトやマジックみたいなものがあるとか信じていません。この世界とヤハウェと私、これだけでもって、全てを解釈しようとしています。


さて、一神教の立場に立とうとすると、大澤さんが先ほど言われたように、神は世界を創造した全知全能の存在なのに、なぜこの世界を完璧に造らなかったんだろう、という問題があります。たとえば、なぜ飢えがあるんだろう?(略)また、人間の間には争いが絶えず、人間は苦しんだり殺しあったりしている。つまり、世界は端的に言って、不完全です。完全な神が、なんで不完全な世界を作ったのか。いじわるじゃないか。

 

このことに、一応の説明はあるんです。「創世記」を見ると、神は人間を作ったとき、最初は人間に理想的な環境を提供しようと、エデンの園という楽園に置いた。(略)でも、知恵の樹と生命の樹というのがあって、この二つの樹の身を食べてはいけないよ、それ以外の身は食べてもいいけど、と言い置いて、神は出て行ってしまうわけです。(略)


アダムとイブは、神様の命令を聞かなかった罪と、その罪を素直に認めなかった罪により、罰として楽園を追放される。(略)

 

ここから先は、少し神学というか、哲学っぽい話になるかもしれない。
実は、ここまでの話は逆に考えることが出来る。人間は、現状よりも良い状態を頭に思い描く、想像力を持っている。それを実現したい欲望も膨らんでいる。自分の生活に必要なものを、獲得する能力も高くなっている。


こんな能力があるせいで、他の人間から労働の成果を奪ったりもする。(略)こうした様々な不幸の可能性とともに、人間の生存の条件が与えられている。
一神教だろうと多神教だろうと、人間に与えられた能力によって、人間が置かれた条件によって、人間の生存が脅かされているというところは同じです。それを、神に投影していると考えられる。


一神教は、どう投影するか。どの現象の背後にもそれぞれ神々がいて、その恩恵がないと生きて行けない、とは考えない。この世界に神などいなくて、全ては法則と宿命によって決まっている、とも考えない。人間の間の争いや政治経済を巧みに調整してくれる政治家がいて、彼の政治的リーダーシップによって自分たちの問題が解決する、とも考えない。


そうではなくて、すべてこの世界は有限で罪深くて不完全な人間の営みなのだけれど、その背後に、完全な能力と意思と知識をもったGodという人格がいて、その導きによって生きている、と考えるわけです。


そこで人間は、「神様、この世界はなぜこんなに不完全なんですか」と、Godにいつも語り掛け、対話をしながら日々を送ることになる。対話をやめてはいけないんです。この世界が完全だろうと不完全だろうと。むしろ、この世界が自分にとって厳しく不合理に見える時ほど、対話は重要になる。


これが試練ということの意味です。試練とは現在を、将来の理想的な状態への過渡的なプロセスだと受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きるということなんです。信仰は、そういう態度を意味する。


信仰は、不合理なことを、あくまで合理的に、つまりGodとの関係によって、解釈していくという決意です。自分に都合がいいから神を信じるのではない。自分に都合の悪い出来事も色々起こるけれども、それを合理的に解釈していくと決意する。こういうものなんですね。


いわゆる「ご利益」では全然ない。」


「O グノーシス主義は、神が二重になってしまうのですから、一神教からはどう見たって異端ですが、こういう理論が、相当な説得力をもって浸透したという事実は、やはり、神が、悪や、不完全性がはびこるこの世界を創造したと考えることに、いかに抵抗感があったかを示しているように思います。なにしろ、ヨブのような義人が、非常に不幸な目にあったりしているのですからね。」


〇私はもともと、キリスト教だけでなく、どんな宗教とも無縁な生活をしていました。だから多分、その無宗教の感覚の方が私自身の血や肉に入り込んでいるのだと思います。

そんな私から見ると、ここには、二つの噛み合わない態度があるように見えます。

つまり、一方には、苦しみの世界で生きるために、信仰を必要としていたユダヤ民族がいて、不合理な世界をGodを持ちだして合理的に解釈しようとしているという態度がある。

もう一方には、合理的な解釈で世界を見ようとする姿勢の人が、信仰の不合理さを論っている、という態度がある、と。

そして、この「不合理さ」ということで思い出すのは、以前読んだ、「東洋的な見方」です。以下、引用します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「改めていうまでもないが、禅の本分は、物自体、あるいは自我の本源、あるいは自心源、あるいは本有の性、あるいは本来の面目、あるいは祖師西来意、あるいは仏性、あるいは聴法低の人、あるいは無位の真人など、さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身の奥の奥にあるものを、体得するところにある。


単なる概念的把握でなくて、感覚の上で、声を聞いたり、色を見たり、香を嗅ぐなどするように、心自体が自体を契証する経験である。」


「禅では一切の言葉を排除する。論理とか弁証法とか哲学とか形而上学とかいうのは、いずれも言葉の上の詮索である。(略)

しかしこの言葉をのみ便りとして、その裏にあるもの、本当の体験を見透すことができぬと、大きな錯りを犯すことになる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まず、「サピエンスは動物として生きている」という実態があるんですよね。
世界は全く理解不能で偶然の連続で、なんらかの概念を持ちだしたところで、その言葉にきちんと当てはまって片付いていてくれるようなものではない。

その認識があるかどうか…。

ここで、鈴木大拙氏が、言っている、「この言葉をのみたよりとして、その裏にあるもの、本当の体験を見透すことができぬと、大きな錯りを犯すことになる」というのは、そういうことだと思いました。

もちろん、大澤氏は、私たちを代表してこのような質問をしているのだと理解していますが。

 

「  11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか

 

「O たとえば「ヤハウェ」という名も_それが意味するものについては多様な解釈がありますが_、一つの有力な説によれば、「存在するもの」というような意味になるわけです。


要するに、神とは、存在の中の存在というか、最も強烈に存在するもの、普通の存在者を超えて存在するものです。
では存在って何だろうか。(略)

 

このように考えた時、偶像崇拝の厳禁とともにある神というのは、ようはどんな方法によってもその存在を確認できない神、ということになります。(略)


もう一度繰り返すと、偶像崇拝の禁止というのは、存在の否定が存在の極大値だよ、という感受性に規定されている。これは、やはり非常に理解し難い。いかがですか?


H ずばりと本質を突く素晴らしい質問ですね。まさに一神教を理解する急所です。
さて、二つぐらいのことを答えたい。
まず、一神教はそんなに特別じゃない。特別だけど特別じゃない、ということを議論の全体として言いたいです。


一神教monotheisumは、多神教polytheismと対立している、とふつうは言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)のほかに、古代にはいろんな宗教がほぼ同時に興っているでしょう。インドでは、仏教。中国では儒教。これらが典型的ですが、共通点があって、それまでの伝統社会の、多神教と対立しているんです。


伝統社会の多神教は、まあ日本の神道みたいなもので、大規模農業が発展する以前の、わりに小規模な農業社会か、狩猟採集社会のもの。素朴で、自然とバランスをとっている人々の信仰なんです。山林原野もあって、その土地に育った人々が大部分で、よそから移ってきた異民族はあまりいない。


だから、自然と人間は調和し、自然の背後にいる様々な神を拝んでいればすむ。
日本は、先進国としてはめずらしく、こんな信仰が現在まで続いているんですけど、これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない。


それ以外のたいていの場所ではどうなるかというと、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、社会が壊れてしまう。自然が壊れてしまう。もとの社会がぐちゃぐちゃになる。


ぐちゃぐちゃになってどうするか、というのが、ユダヤ教とかキリスト教とか、仏教とか、儒教といった、いわゆる「宗教」が登場して来る社会背景なのです。そういう問題設定が、まず、日本にはない。だから、そうした宗教のことがわからない。


で、ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいかの戦略なんですけれど、一神教と仏教と儒教には、共通点がある。それは、もう手近な神々に頼らないという点。神々を否定している点です。(略)


仏教は、自然を、物理的因果関係のかたまりとみて、その法則性を認識しようとする。神秘はどこにもない。宇宙、生態系、自然。そういう自然界の真理に、もろに人間の知性が接触しているんですね。とても、合理的なんです。


儒教はどうか。(略)どんどん脱魔術化されて、政治技術がマニュアルに還元され、神秘的な要素は儒学から放逐されていく。神々はいなくなって、天だけが残った。天は人格を持たない。悪さをしないし、魔術とも関係がない。


一神教もほぼ同じです。一神教は、神々との闘争の歴史で、そうした神々は神ではない、全部ウソだというのです。いっぽう一神教の神ヤハウェはどこにいるかというと、この宇宙の外側にいて、ありありと存在している。(略)


ヤハウェは神々を作るはずがありませんから、神々は人間が作ったものです。ゆえに、偶像です。人が作ったものを、人が拝むことを、偶像崇拝という。これは、大きな罪になる。ヤハウェに背き、自分を拝んでいるのと同じだからです。

 

神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と、仏教、儒教はよく似ている。そして、日本と正反対なんです。この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わない方がいい。


神々は放逐された。だから、仏教、儒教一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊れた。そして、再建された。再建したのは、宗教です。それが文明を作り、今の世界を作った。こう考えて下さい。


偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう一回確認しておきます。偶像崇拝がけないのは、偶像だからではない。偶像を作ったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。

 

余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理が、マルクス主義にもあるでしょう?資本主義がいけないのは、疎外→物象化→物心化というプロセスによって、人間の労働が本当の価値の実態なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自分が作り出したものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。


この論理は、ユダヤ教キリスト教の発想とそっくりだ。」


〇 「世界は一度壊れた。そして再建された。再建したのは宗教です」
という言葉を読んで思い出したのは、「サピエンス全史 下」です。
引用します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。これには、二つの異なる基準がある。

1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の   
  産物ではない。プロ・サッカーは宗教ではない。なぜなら、このスポーツには多      
  くの決まり事や習慣、奇妙な儀式の数々があるものの、サッカー自体は人間自身
  が発明したものであることは誰もが承知しており、国際サッカー連盟はいつでも
  ゴールを大きくしたり、オフサイドのルールをなくしたりできるからだ。

2 宗教は、超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力がある
  と見なす。今日、西洋人の多くが死者の霊や妖精の存在、生まれ変わりを信じて
  いるが、これらの信念は道徳や行動の基準の源ではない。
  したがって、これらは宗教ではない。」


「本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一するためには、宗教はさらに二つの特性を備えていなくてはならない。


第一に、いつもでどこでも正しい普遍的な超人間的秩序を信奉している必要がある。

第二に、この信念をすべての人に広めることをあくまで求めなければならない。

言いかえれば、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことも求められるのだ。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

つまり、国家としての日本には、この感覚がない、ということなのでしょう。

あえてはっきり言えば、世界の中の日本としてやって行くには、この感覚が必要とされるということ。

それを拒否し、昔ながらの日本としてやって行きたいのなら、再び鎖国をして、小規模農業国としてやっていくしかないけれど、そんな選択肢は今やないので、私たちは、この感覚をしっかりと身につけなければならない、ということ。

なのに、未だにあの安倍政権が続いています。結局、私たち日本人社会があの安倍政権を続けさせている。

↑…と、一旦は書いたのですが、少し違うなぁと思い修正します。

世界の中の日本としてやっていくために、西洋の価値観に合わせなければならない、ということではないのだと思います。

今のままの価値観では、私たち日本人、特にこれからを生きる子どもたちが幸せにはなれない、と思うから、世界の常識を受け入れた方が良いと声を大にして言いたいのです。

1、(宗教は)超人間的な秩序の存在を主張する。その秩序は人間の気まぐれや合意の産物ではない。

2、(宗教は)超人間的秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力がある と見なす。

という価値観を持った方がいい、と言いたいのです。


なぜなら、私たちの国のトップは、簡単に憲法も道徳も踏み躙る、良識も見識もない人間だからです。
戦前の価値観がどれほど一般庶民を苦しめていたのかについて理解しない、人としての想像力に欠ける人間だからです。
人間を国を存続させるための道具として見なす人権意識のない人間だからです。
自分の保身のためには、部下を簡単に犯罪者に仕立て上げ、そ知らぬ顔をする
恥知らずだからです。
自分の都合で、黒を白と言い、噓をつくことをなんとも思わない人間だからです。
そして、権力者がそうなると、周りの政治家も財界人もマスコミも、この現代においてさえ、簡単にその追従者になってしまう体質の人間が多いからです。

私は、なぜ日本人はこんな人間なのか、とずっと考えてきました。
ここに来て、その理由が少しわかってきました。


世界の人々は戦争という大きな苦難を経験し、人間には何が必要なのか、必死に真剣に考え今に至っている。でも、日本人は、島国で外国から侵略されることもなく自分だけの家(価値観)の中で、ある意味、引きこもりの状態で育ったため、世界の常識を知らずにいる。

自分の家(日本)の中では、横暴な権力者(安倍政権)が、自分たちだけに都合の良いやり方で家族(国民)を虐待する。でも、それに対して反抗することすらしない、

今、西欧社会では当然のことと認められている、人権すら国家権力者によって、奪われようとしている。

私たち日本人には、自分で自分の国を浄化する力がない。それをしみじみと味わっているのが、現在です。

せめて、「世界の常識」を持ちだして、私たちの人権を奪わないでほしい、と外国の人々に助けを求めるしかない状況になっています。

悲しくて恥ずかしくて情けないけど、今、私たちの国は、そういう状態です。

だから、この世界の常識を語る言葉に、救いを感じ、私たちの国もそうなるべきだと言ったのです。

 

 

 「  12 神の姿かたちは人間に似ているか

 

「H まず、ヤハウェに姿かたちがあるかどうか。
初めは、形がなかったと思う。それは、火山をイメージした戦争神だったから。(略)

 

O 士師というのはわかりやすく言うと何ですか?

H 英語で言うと「judge」で、裁判官のこと。でもその役目は、カリスマ的・軍事的リーダーですね。王制になるまでの時期、臨時に民衆を指揮した。ヴェーバーのいう「カリスマ」の原型なんです。


ユダヤ民族ははじめ、部族社会で、族長がいて、何でも決めていた。でも、族長は戦争がうまいとは限らない。それに、部族ごとに族長がいて、話がまとまらない。そこで、ペリシテ人と戦争しなければならないなんていう場合に、族長でない有能そうな人物が一時的に出てきて、「この指とまれ」みたいに、軍事指揮官になったんです。


でも常備軍じゃないから、戦争がすむと解散してしまう。そういう人なんですね。そういう人は、ふだんは裁判をやっていたらしい。それで「judge」(訳せば、士師)というんです。(略)


ヤハウェはケルビム(スフィンクスみたいな生き物で、翼が生えている)に乗ることになっていたので、椅子にはケルビムの模様がついていたかもしれない。でも戦争に負けて、この箱をペリシテ人に奪われてしまった。こういう不名誉な出来事が旧約聖書に書いてあるのは、それが歴史的事実だった可能性が高いのです。


奪われた箱は、結局返してもらった。ペリシテ人ヤハウェの祟りがあって、そんな箱は返してしまえ、ということになったのだそうです。

 

箱をアークと言います。映画「インディ・ジョーンズ 失われたアーク」のアークですね。ちなみに、ノアの箱舟の「箱舟」も、英語はアークです。四角くて、ヤハウェに関係のある木の箱を、アークという。(略)


以上をまとめると、ヤハウェにかたちがあるという考え方は、なかった。
さて、バビロンに捕囚されているうちに、洪水伝説とか、バベルの塔とか天地創造神話とか、メソポタミアの伝承にふれた。ユダヤの人々が、「創世記」以下、旧約聖書の中核部分を編集したのは、バビロン捕囚の前後のことだと考えられます。


そこではヤハウェは、戦争神から格上げされ、天地を創造した全知全能の神ということになった。(略)


神がもともと姿もなく、世界の外にあって、世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。


これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。言ってることわかります?
たとえば神を、四次元の怪物みたいなものと考えるのです。それを三次元に射影すると、人間みたいな形になる。人間が神を見ると三次元だから、自分とおんなじだと思うかもしれないが、神の存在そのものは、人間より次元が高いから、目が幾つもあって、ヒンドゥー教の神みたいな怪物の形でもおかしくない。どう?


O なるほど、おもしろい解釈ですね。(略)
実は、今の質問は、第2部のための伏線という意味合いもこめて提起しました。第2部では、キリストについてうかがうつもりです。」

 

「 13 権力との独特の距離感

「O 先ほど整理して下さったように、仏教も儒教もそしてユダヤ教も、多神教の克服という点では共通しています。多神教の克服というのは、ヴェーバー風に言えば「Entzauberungエントツァンベルング(脱呪術化、呪術からの解放)」ということになるでしょうか。


多神教は、一種の呪術です。僕の解釈では、呪術というのは、一種の矛盾というかパラドクスがあって、脱呪術化というのは、その矛盾やパラドクスを克服することです。(略)


呪術では、超自然的なもの、つまり風の神とか樹の精霊とかいったものが、病気を治してくれたり、雨や食料といった恵みをもたらしたりしてくれるわけですが、そうした結果を得るために、人間の側が、何か捧げものをしたり、儀式をしたり、いろいろな仕方で、その超自然的なものに働きかけるわけです。


つまり、超自然的なものは、人間に使役され、強制されて、その力を発揮する。そうすると、人間とその超自然的なもの(神々)とどっちが偉いのか、わからなくなります。


その超自然的なものが人間以上の力を発揮するように、人間の側が誘導しているからです。神々は、一方では、人間を超えているかのように言われながら、他方では、人間の道具に過ぎない。


先ほど橋爪さんは、一神教多神教を比較しながら、後者は人間中心の視点を脱しないと仰いましたが、これは、それと同じです。


仏教にせよ、儒教にせよ、そしてユダヤ教にせよ、この呪術あるいは多神教の矛盾の乗り越えという意味を持っていると思います。いずれの宗教も、呪術にくっついて離れない、人間と超自然的なものとの間の循環関係を断ち切っている。(略)

 

あらためて確認しておけば、血縁的であったり、地縁的であったりする、小さくシンプルな原初的な共同体が、自然と共生関係にあるような時には、呪術や多神教が自然発生的に出てきます。しかし、異民族が侵入してきたり、多民族の帝国であろうとした時に、こういう呪術や多神教の自然崇拝や特殊な習俗ではやっていけない。


そこで、民族や部族を超えて妥当性をもつような普遍的宗教・世界宗教が出てくる。仏教も儒教一神教も、普遍宗教・世界宗教です。


実際、これらの宗教は多民族が共存した帝国の宗教になっています。最もわかりやすいのは儒教で、漢以降の中華帝国の理念を支えます。キリスト教も、ローマ帝国の中で最初は迫害されますが、やがて承認され、「国教」的な扱いを受けるようになる。


こうした事実を踏まえた上で、ユダヤ教に関して疑問に思う事があります。ユダヤ教もまた、普遍宗教です。しかし、ユダヤ教というのは、強大な政治権力と言いますか、帝国的な権力と比較的そりが合わないですよね。(略)


そこでもしユダヤ教が権力にうまく寄生していけば、帝国の宗教となりえた可能性もあるような気がするのですが、預言者が王様を褒めることはまずなくて、非常に対立的になるんですね。後にキリスト教は帝国(ローマ帝国)の宗教になりますが、その前のユダヤ教に関して言うと、預言者たちはほとんどの王を批判している。


ユダヤ教は、ユダヤ人のセキュリティの神様であるにもかかわらず、強い王権に対して、良く言えばすり寄らない。そういうものとの親和性が非常に乏しいわけです。


ユダヤ教だって本来は民族の安全と軍事のためにあるわけですから、強大な権力にうまく平和的に寄生すれば、ユダヤ教としてはむしろその方が良かったような気もするんですけれども、実際には権力、とくに国家的・帝国的な強い権力に対して否定的なところに、この宗教の特徴があると思うんです。それはどうしてなのでしょうか?

 

H まず、ユダヤ教の重要な特徴は、わりに原始的な部族共同体の特徴と、王を頂く発達した古代社会の特徴と、両方を兼ね備えているということです。ま、珍しい。


いくつか、キー概念があります。
第一のキー概念は「寄留者」。


寄留者(ゲーリーム)とは、その社会の正式なメンバーではないという意味で、今で言うとグリーンカードみたいなものかもしれない。グリーンカード(永住許可証)というのがアメリカにあって、アメリカ国籍(市民権)は持っていないけれど、グリーンカードがあれば労働も出来る。


でも投票ができないとか、制限がある。それと同じで、寄留者にも権利と制限があった。ユダヤ民族はもともと、寄留者だったとされている点が、とても大事です。アブラハムは寄留者で、外国からやって来て、カナンに住みこんだ。その子イサクやイサクの子ヤコブもそうです。(略)


「創世記」の描くもともとのイスラエルの民は、部族社会の性格を色濃く残す、遊牧民です。「創世記」他が編集されたのは、バビロン捕囚のころ、つまり、都市生活を何百年も続けた後ですから、古きよき時代を理想化する伝統主義が投影されている。


アブラハム、イサク、ヤコブ三代の物語は、そういう理想的な時代のシンボルだった。そして、彼らの地位は、土地所有を許されない寄留民だった。」

 

「H たとえば、安息日ヤハウェは世界を六日で創造し、七日目に休みました。そこで、七日目を安息日(サバス)として神聖化し、その日には仕事を休みます。これは、奴隷や牛馬の消耗を防ぐ、社会保障の意味があったと言われている。


また、七年目ごとに安息年があって、畑の耕作を休んだりする。五十年目ごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する、「ヨベルの年」という規定もあった。収穫のすんだ畑に残っている落ち穂を拾うのは寡婦や孤児の権利で、誰も邪魔できないという規定もあった。


外国人労働者にも一定の保護が与えられた。こういう社会福祉的な規定(マックス・ヴェーバーはこれを「カリテート」と呼んでいる)がヤハウェに対する義務としてどっさり含まれているのが、ユダヤ法なのです。

 

カリテートは、イエスの教えの根底にも流れている考え方で、ユダヤ教がこの点を強調しなかったら、キリスト教もありえなかった。


貧富の格差の拡大や社会階層の分解を警戒し、権力の横暴を見過ごせない。低所得者や弱者への配慮を、ヤハウェは命じている。


よって、第二のキー概念は、カリテートです。
ヤハウェ信仰は、このように、神の前の平等を理想とし、古代の奴隷制社会に異を唱えるという性格も備えている。」

 

「H もう少し続けましょう。
では、ユダヤ教は、権力に対してどのような態度をとるか。
人間が権力を持つことを警戒し、権力を肯定しないのが、ユダヤ教の特徴です。
古代の王国や帝国はみな、権力を肯定し絶対化して成立していたのだから、これは驚くべきことです。


では具体的に、どのように権力をコントロールするか。
まず、Godの意思を体現する預言者がいて、彼が王となるべき者に油を注ぎ、王に任ずる。このような手続きを踏む。(略)


第二に、長老の同意。(略)


第三に、預言者の批判。(略)


これは、結局、イスラエルの一般民衆が、王権をコントロールするということです。民衆が、権力を監視する。儒教にこんな論理はありません。他の宗教にも、ない。
こういうコントロールは、ヤハウェという絶対神を想定するからこそ、可能になっている。


ヤハウェはどんな人間よりも、王よりもくらべものにならないほど偉い。この絶対神のもとでの王制なるものを、ユダヤ民族が初めて考え付いた。この発明は、大きな影響を後世に与え、有力な政治哲学として、人類の財産になるのです。(略)

 


O 社会や政治を神が統括しているなんて聞くと、現代のぼくらはものすごく非民主的な感じを持ちますが、ユダヤ教の場合、神がいたがために、一種の民主制が保たれていた、と解釈できます。


ユダヤ教では、一つの絶対的な差別・差異が前提になっている。言うまでもありませんが、神と人間、神と被造物の差別・差異です。その差別・差異が圧倒的・絶対的であるがために、ヤハウェという例外的な点との関係で、全ての人が平等化されるという仕組みになっているように思います。


その結果として、王権を民衆がコントロールするという、一種の民主主義が実現したのでしょう。ヤハウェは民主主義的平等を可能にする、絶対的な例外的な差異ですね。王と言えども、ヤハウェとの関係を考えれば、他の人間と違うわけではないので、勝手な権力はふるえません。


たとえば、儒教と比べると違いは明白です。儒教の場合も、人間に先天的な差別があるとは考えませんから、レイシズムとかカースト制とは違いますが、しかし、徳のある格の高い人間と徳のない格の低い人間とが、政治において異なった役割を果たすのは当然であると考えられている。(略)」

 

「 14 預言者とは何者か

 

「O ですから簡単に言えば、ニセ預言者というのが横行しうるわけですし、実際に横行していたでしょう。(略)ですから、預言者はどうやって己の真正性を証明したのか。あるいはどうやってその預言者が本物であるということを人々は知ることが出来たのか。(略)

 

H 預言者。これは一神教にしか、考えられない存在です。
ヤハウェの声を聞くのが預言者です。(略)
この時期、人々を一つに束ねていたのは、戦争神であるヤハウェを共に信仰するという「祭祀同盟」だった。まあ、戦争のために集まるわけですが、それには、時々ヤハウェの声が聞こえる人(のグループ)がいるとちょうど良かったのです。この段階では、よくあるシャーマンと、あまり違わなかったかもしれない。


預言者サムエルは、集団で暮らしていたという記述がある。サウルはこの集団の人々と一緒に、しばしば神がかり状態になっているし、ダビデもたまにそうなった。初期の王たちは、預言者の性格も持っていたようです。(略)

 

典型的な預言者には、以下の特徴があるとヴェーバーは言っています。
第一に、本人の意思と無関係に、神によって選ばれてしまう。なりたくて預言者になるわけではない。(略)

 

第二に、報酬をもらわない。(略)

第三に、特別な訓練や能力が必要ない。(略)

第四に、権力と距離をおき、反体制です。神に背いた権力者に、神の言葉を伝え、権力を批判する。批判の根拠は、神との契約です。


こういう預言者は、本当にユダヤ教に独特です。多くの国には宮廷預言者がいて、王に雇われ、王の諮問に応えて助言をします。預言者は特別な能力を持った知識人で、王様のブレーンですから、民衆の敵です。実はユダヤの宮廷にも、ダビデ王の時代のナタンとかガドとか、それに類する預言者がいた。


イザヤも、国王に影響力をもつ、社会的地位の高い人物だったらしい。でも、最も典型的な預言者はそうではなくて、荒野から、民衆の間から出現する。」

 

「さて、モーセの律法が書物として成立してみると、ヤハウェとの契約に従っているかどうか、誰でも簡単にわかるようになった。預言者に警告されなくても、モーセの律法を学んだ律法学者が、人々にヤハウェとの契約(すなわち、ユダヤ法)について、教えられるようになった。

 

この律法学者と、預言者とが、仲が悪いのでした。律法学者にしてみれば、せっかく預言書がまとまって、神の言葉が文字テキストの形になったのに、まだ新しく預言者がつぎつぎ現れて、神の言葉を伝えては迷惑です。

 

そこで、そういう預言者が現れると、「ニセ預言者が現れた」と、捕まえて殺したりした。(略)

 

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、裁きの日は近づいた」と警告して回ったので、預言者です。しかし、その活動が原因で、ヘロデ・アンティパスに逮捕され、娘サロメが踊ったご褒美に、首を斬られてしまった。裁判抜きで死刑になった。


エスも、預言者として活動し、パリサイ派(律法学者たち)やサドカイ派(神殿祭司たち)に憎まれて、ニセ預言者の嫌疑で宗教裁判にかけられ、死刑になった。」


「H さて、質問のポイントですが、預言者とニセ預言者をどうやって区別できるか。
それにはまず、なぜGodは、じかに自分の言葉を伝えないで、預言者を通して伝えるのだろうかと考えなければならない。(略)

 

つまり、神の言葉は、それを神の言葉だと信じる人々の態度と共にしか存在できないのです。ヤハウェはこのように、Godと人間の関係を設計した。預言者という器を通すことで、人間が神の言葉を信じるかどうか、試しているとも考えられる。(略)

 

ヴェーバーの説を参考に、。その基準を整理してみると、第一に、これまでの預言者の預言(Godの言葉)を踏まえていること。第二に、預言が実現する(現実と合致する)こと。第三に、ほかの預言者たちに預言者だと認められること。ほんとうの預言者はこれら三つの規準を満たしている。(略)


預言者とはどういう考え方かというと、その辺にいる誰かが、場合によっては、神の言葉みたいな絶対の規範を述べる場合がある、と考えること。言葉が絶対の支配力を持つことへの、信頼なのです。(略)

言葉はふつう、誰かが誰かに話すものなので、人間同士の関係の中で相対化されてしまう。それに対して、預言者は、Godの言葉を伝えるので、その種の相対化と絶縁し、言葉の絶対的な性能を研ぎ澄ますことができる。

この伝統から、神学や哲学や科学やジャーナリズムが生まれたと思うのです。」

 

「15 奇蹟と科学は矛盾しない

 

「H 世界はGodが創造したあと、規則正しく自然法則に従って働いている。誰も、自然法則を一ミリでも動かすことは出来ない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要があれば、例えば預言者預言者であることを人々に示す必要があれば、Godは自然法則を一時停止できる。


これが、奇蹟です。世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ、奇蹟の観念が成り立つ。


よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、という人がいますが、一神教に対する無理解も甚だしい。科学を作った人々だからこそ、奇蹟を信じることが出来るんです。科学を信じるから奇跡を信じる。これが、一神教的に正しい。


O これもやっぱり日本人には難しい所でしょうね。先ほど、ヴェーバーの、「脱呪術化」という論に言及しましたが、呪術を完全に否定してしまった後に、奇蹟というものが出てくる。奇蹟は、呪術とは逆に、自然法則が厳格に支配する合理的な世界の方に属している、ということですよね。つまり、呪術対科学という対立の中で、奇蹟は、むしろ科学の側に属している。(略)


日本人には、奇蹟と呪術は、むしろ似たようなものに見えてしまう。」

 

「O なるほどね。おそらくマルクス主義だけでなく、啓蒙主義以降の、合理的な自然科学の世界観というのも、宗教の足かせを否定しながら出てきたみたいに言われるわけですけど_もちろんある意味ではそうですけど_、しかし、もうちょっと深く考えれば、むしろ宗教的な伝統から出てきたという側面の方が強いんですよね。マルクス主義だってむしろユダヤ教以上のユダヤ教みたいなところがあるわけですよ。


H そうそう。

O たとえば、マルクス主義者は「貨幣物神」はけしからんと言うわけですが、それはまあ偶像崇拝の批判なんですよね。ほんとうは。もっと本当の神様は別のところにあるぞという論理ですから。


「科学的」と言われる世界観はユダヤキリスト教を否定したというよりも、それをより徹底させたというか、ヘーゲル風に言えばアウフヘーベンしたみたいなことがあるわけです。


しかし、われわれはそれを「否定した」というふうにとってしまうので、
科学的世界観とユダヤキリスト教的な世界観が対立しているという側面だけを見てしまう。


しかし、ユダヤキリスト教的な世界観の中から出てきた合理主義というものがある、ということを押さえておかなくちゃいけないと思います。このことは第三部でさらに突っ込んで考えて行きましょう。」

 

「 16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰

 

「O 学生と宗教や宗教社会学について話している時、彼らがつまずいていると思う箇所は、非常に素朴なところなんですけど、キリスト教とかユダヤ教を「信じている」という心の状態がなかなか思い描きにくいようです。(略)


つなり、近代的な世界観を基本のところで受け入れながら、なおかつクリスチャンでありうる、あるいはユダヤ教徒であり得る。そのような心の状態は当然あるわけです。(略)


大多数の、近代の啓蒙されたクリスチャンは、たとえば進化論は進化論でそれなりに真実であると思いつつ、なおかつクリスチャンでありえたりするわけですよね。そうすると、信仰ってじゃあ何なの?キリスト教ユダヤ教を信じているってどういうことなの?そのような疑問が出てくる訳です。

 

H 二つのことがありますね。
一つは、キリスト教はもともと、聖書を「文字通りに」正しいと信じるものではありません。聖書はあちこち矛盾していることが明らかなので、文字通りに信じることができないテキストです。だから、信徒がみなで相談して、この部分はこう読みこう信じましょうと決議して、その解釈に従って信じる。


その解釈として有名なのが三位一体説ですけれど、三位一体説は「説」というぐらいで、学説なんです。(略)


科学はもともと、神の計画を明らかにしようと、自然の解明に取り組んだ結果生まれたもの。宗教の副産物です。(略)


聖書も、科学も、どちらも包括的な考え方の体系で、それを信じて生きていくことが出来る。問題は、両者が互いに矛盾する場合があることです。(略)

そこで、矛盾を避けるため、片方を信じないことになる。多数派は、聖書を話半分と考える。福音派は、科学を話半分と考える。結論は反対になるけれど、考え方は瓜二つ。極めつけの合理主義なのです。


これと違うのが日本人。(略)
天皇の祖先をさかのぼると、神になる。サル→天皇、神→天皇、は形式論理からいって矛盾するはず。日本人はその両方を信じている、というのです。
アメリカ軍の将校でなくたって、これは理解できない。


日本人は、自分が矛盾したことを信じていると、気がつかないし、気にしない。
多分、それは、学校教育のせいです。(略)
こう考えるなら、日本人に、福音派の人々を馬鹿にする資格はないんです。福音派の人々は、矛盾律を理解して、それに合わせて自分を律している。日本人は、矛盾律なんか気にしていない。矛盾律以前の段階だ。」


「O ドーキンスは、自分は無神論者で、キリスト教等のいかなる宗教も信じていない、と言います。たしかに、意識のレベルではそうです。しかし、ドーキンスの本を読むと_それはとても良い本ですが_、その内容は聖書とは矛盾していても、あのような本を書こうとする態度や情熱は、むしろ宗教的だ、と思わざるをえません。(略)


現代を考えるうえで重要なのは、このような態度のレベルの信仰だとうのです。もうキリスト教なんて形骸化しているとか、もう信じている人はう一部に過ぎないとか、そういう風に思う人もいるかもしれません。


しかし、意識以前の態度の部分では、圧倒的に宗教的に規定されているということがあるのです。そうするともともとのユダヤ教キリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度を作ったかということを知っておかないと、世俗化された現代社会に関してさえも、いろんな社会現象や文化について全然理解できないことになるんですね。


H まったく同感です。」


〇 意識レベルでの信仰はないけれど、態度レベルの信仰が感じられる欧米人、ということでは、先日読んだ「タイガーと呼ばれた子」の作者、トリイ・ヘイデンにも、それを感じました。


「私には、人間とは高潔なものであり、それぞれが誰にも奪われることのない権利をもっており、私の生徒たちもみんなその権利をもっているというはっきりとした信念があった。」

少なくとも私にはこんなにはっきりした「信念」はありません。願わくばそうであってほしいという願望程度のものしかありません。

トリイ・ヘイデンさんがどのような信仰を持っているのかいないのか、全くわかりませんがが、この言葉には、とても強い宗教的な価値観を感じました。

 

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ここまでが「不思議なキリスト教」の第一部になります。

この本は2018年の五月ごろに読みました。

ヤフーブログからはてなブログへ移行するつもりでいるのですが、

未だに移行ツールが表示されません。

最近はいろいろ気持ちが落ち着かず、読んだ本のメモが出来ないので、

時間がある時に、コピペで移行させようと思っています。

 

第二部はまた後日にします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜回り先生のねがい

2017年10月に読んだ「夜回り先生のねがい」をヤフーブログから移したいと思います。

 

〇「夜回り先生」には、続編として「夜回り先生と夜眠れない子供たち」

「こどもたちへ 夜回り先生からのメッセージ」があって、この

夜回り先生のねがい」も続編の最後の一冊ということです。

娘はこの本をこの水谷先生の講演会で購入したようです。サイン本でした。

きっと私にも読ませて、一緒に感動を共有したかったんでしょう。

薦めてくれたのに、なかなか読まずにいて悪かったと思います。

でも、本って本当に読む気にならなければ、読めないですよね~

この「ねがい」で心に残ったのは、親や大人に関するメッセージでした。

 

 

「大人とは一体なんでしょう。自分はれっきとした大人だと、
誰が確信しているんでしょう。(略)もちろん自分を傷つけた大人を許せとは
言いません。でも時々想像してあげてください。彼らもまだどこか子どもで、
どうしていいのかわからず、苦しんでいるんだということを。」

 

 

〇そして、この水谷修さんが、この夜回り先生を続けている動機として

 

「べつに正義感に駆られていたわけではありません。子ども達が私を信頼し、
必要としてくれたことが、単純にとても嬉しく、それが私の生きる希望に
つながっていたからです。」

と書かれていた言葉が印象的でした。

この水谷さん自身、荒れた時には「夜遊び」をしたと言っていましたから、

夜遊びをする子ども達や、夜の世界の人々と

相通じる何かがあったのかもしれない、と想像します。

私は「夜遊び」はしないタイプの人間なので(怖くて出来ません(^^;)、私には

夜の世界の彼らと心を通わせることは出来そうもない気がします。

 

 

「深夜、親や学校の先生が眠っている時間に、夜の繁華街や薄暗い自分の部屋で、どれほど多くの子供達が希望を失い自分を傷つけているか。その事実に、ほとんどの大人は気づいていないかもしれない。でも水谷というひとりの大人は君の存在にきづいているよ。だからまずは相談してごらん。今日から一緒に考えよう。そんな想いを
込めてこの本を書き下ろし、同時にメールアドレスと自宅の電話番号を、世間に
公開しました。それから今日まで、ずっと闘いの日々が続いています。」

 

 

「「違う」と私は言いました。私個人が世間に顔をさらし、一対一で向き合おうとするからこそ、子どもたちは信じ、自分の苦しみを打ち明けようとしてくれる。
組織にまかせるわけにはいかない。頼むから助けてほしい。そう懸命に伝えてきた
ものの、仲間のほとんどは私のもとを離れていきました。残った仲間も疲れ切って
います。相談メールを整理していたひとりの教え子は、血だらけの画像を見ながら
「もう勘弁して」と言いました。」

 

 

〇本当に信じられないほど、すごいことをしているなぁと思います。

例えば、たった一人の人の悩みに寄り添おうとすることだって、どれほど

大変か…と思います。

「中途半端に寄り添う位なら、最初からそんなことするな!」と言ったのは、

あの「彩雲国物語」の秀麗のお父さん、邵可でした。

実際、人の悩みに寄り添うって相当に難しいと思います。

ましてや、それを組織でするというのは、「心がない」もので、心を通わせ合おう

とするようなものだと思います。

だからと言って誰にでも出来ることではないし、この水谷さんのような人は

大勢はいないし…。

考えれば考えるほど重くて深くて難しい問題を突きつけられている

ような気持ちになります。何も出来ない自分。

 

これは、最初の「夜回り先生」にあった言葉です。

 

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」


〇この視点で人間を見る人が好きです。
人間をこんな風に見る人が大勢になればどんなにいいだろうと思います。

 

充たされざる者

カズオ・イシグロ著「充たされざる者」を読みました。
カズオ・イシグロを読む時、何故なのかよくわからないのですが、
心が落ち着くというか、読んでその世界に入るのが嬉しい…という気持ちになるので、次々と読み続けてきたのですが、今回のこの本は、ちょっと違いました。

かなり忍耐力が必要でした。
人間関係がわからないまま話が進んでいく…というのは、今までもそうだったのですが、今回は、それにも増して、時間の流れも場所(空間)の設定もまるでついていけないような滅茶苦茶なもので、これは、結局夢の中の話なのか?と一度ならず思いました。

スケジュールが逼迫している中、そんなことしている場合ではない…という状況で、急いで行って帰って来なきゃならないのに、目的地までの道がわからない、次々と邪魔が入る。その「邪魔な人々」が、次々としゃべりまくり、おそらく物語の筋に関係ないだろうと思われるような話を延々とする。酷い時は、10ページくらい、喋りっぱなし。

しかも、そんな「逼迫」「緊急」「邪魔が入る」「延々としゃべりまくる」が、情況を変えて何度も何度も繰り返されるのです。読み続けるのがうんざりしてきます。

それでも読み続けたのは、それで一体最後はどこに行くのだろう…という興味からでした。

そして、最後に近づくにつれ、あの延々と続いたおしゃべりが、結局は全部、それなりに物語の展開に関係のあることだった、と分かりはじめます。
そういう意味では、いつもの「ジグソーパズル」的な要素でした。


そして、読み終わって、今回も私は自分の読み取りたいものだけを読み取ることが出来た…と感じました。


印象に残った文章をメモしておきたいと思います。

「ブロツキーは第二楽章のかなり自由な形式を活用して、ますます未知の領域へと音楽を推し進め、わたし自身も―実際マレリーに関しては、あらゆる解釈に精通していたのだが―しだいに魅了されていった。彼は、音楽の外部構造―つまり作曲家が認めた作品の表面を飾る調整と旋律―をかたくなにと言えるほどに無視して、殻のすぐ下に潜んでいる奇妙な生命体に光をあてるのだった。


そこにはかすかないかがわしさというか、どこか露出趣味にも似たところがあり、ブロツキー自身、自分が暴き出しているものの本質にひどくとまどってはいるのだか、なおも先へと進めたい衝動に抵抗できないようだった。その効果は、狼狽させつつも抗いがたいものだった。」


〇この文章は、クライマックス「木曜の夕べ」でブロツキーが指揮を始めた時のシーンを描いているのですが、この「充たされざる者」の放っているエネルギーと同じものを感じました。
イシグロは、まさにそれを狙ったのではないか…と。つまり作品の表面を飾る調整と旋律を頑なに無視し、殻のすぐ下に潜んでいる奇妙な生命体に光をあてようと…。

それが、あの延々としゃべりまくる人々の言葉になっているのでは?と思いました。

そして、そこから私が汲み取ったものは、
「人と人は理解し合えない。」
「理解し合っているという幻想は、離れている時だけ、お互いのイメージの中で育つ」
「それでも人は人を求めずにはいられない」

(だから何らかの「策」が必要になる)←これは、私が思ったことです。

というようなことでした。

最後に、この物語の中にも、登場人物は違うのに同じ人間の問題になっているというようなエピソードがありました。
ちょうどあの「遠い山なみの光」の中で佐知子の娘と悦子の娘の景子が重なって見えてしまうように、親と子の間にある「沈黙の戦い」が何度も見えました。


「ボリスはまだ床に寝転がったままで、わたしが戻って来るや、また首をすくめた。わたしは彼を無視して、ソファに座った。近くの絨毯の上に新聞があり、自分の写真が載っていたあの夕刊かも知れないと思いながら、それを拾い上げた。(略)


こっそり彼を見るたびにまだ首をすくめているので、私は少なくとも彼がこのばかげたゲームをやめるまで、ひとことも口をきくまいと決心した。この子が、わたしが見ようとする気配を察してそのたびに首をすくめているのか、それともずっとそんな恰好をしたままなのかは分からなかったし、すぐにそんなことはどうでもよくなった。


「それならそのまま寝かせておくだけだ」とひそかに考え、私は新聞を読み続けた。
(略)
「どのゲームにする?」ボリスは尋ねた。
わたしは聞こえなかった振りをして、まだ新聞を読んでいた。視界の隅で、彼がまずわたしのほうを向き、返事をしないのが判ると、また戸棚に向かうのが見えた。ボリスはしばらくそこに立って、ボードゲームの山をじっと見つめながら、ときどき手を伸ばしてどれかの箱に触っていた。」



〇この前の段階では、ゾフィーとボリスとわたし(ライダー)がそれぞれに、今夜は好きなお料理をたくさん作って、好きなボードゲームをしよう、楽しい夜にしよう、と語り合っていたのです。

でも、実際には、こんな風に、聞こえないふりをしたり、ずっと新聞を読んでいたりして、楽しい夜は実現しませんでした。

そして、これに似た空気がゾフィーとグスタフ親子の間にもあり、何故か親密な親子になれない。
グスタフが死にそうになっている時でさえ、ボリスの通訳を間に入れなければ、
会話が成立しないのです。


本当はスカーレットはレットの名前を呼んでいた、レットも本当は名前を呼んでほしいと願っていた。でも、どちらもそのことを口に出来ない。どちらも心の奥にしまい込んでしまう。そして結局、別れることになってしまうというあの「風と共に去りぬ」にもあった空気を思い出しました。


私などから見ると、あまりにも見えすぎて、聞こえすぎて、わかり過ぎて、芝居がかった言葉か、露出趣味的な言葉かしか使えないように感じてしまうのだろうか、と思いました。

私も、人付き合いが苦手で、会話が苦手で苦しんだ時、これは、「認知行動療法的に訓練しているのだから」と自分に言い聞かせて、
「芝居がかっていてもいい」「悪趣味な言葉でもいい」、
「まず、人と逃げないで関わろう…訓練として」と思いました。

…などと色々なことを考えさせられました。

最後に、ミス・コリンズの言葉をメモして終わります。

「「あなたの傷」ミス・コリンズは静かに言った。「いつだってあなたの傷」彼女の顔が醜く歪んだ。「ああ、どんなにあなたが憎いか! わたくしに人生を無駄に過ごさせたあなたが、どんなに憎いか! わたくしは絶対にあなたを許しません! あなたの傷、あなたのばかばかしい小さな傷!


それがあなたのほんとうの恋人なのよ、レオ。あの傷が、あなたの生涯のただ一人のほんとうの恋人! わたくしにはどうなるかわかっていますわ、たとえ二人が努力しても、たとえ二人が何とか最初からやり直そうとしても。音楽もそう、まったく同じじゃありませんか。



たとえ町の人たちが今夜あなたを受け入れても、たとえあなたがこの町の名士になっても、あなたはそんなものをすべて壊して、何もかも壊して、以前と同じようにまわりのものを全部めちゃくちゃにしてしまう。それもすべてが、あの傷のためなの。わたくしにしても音楽にしても、あなたにとっては、ただの慰めを求める妾にすぎません。あなたはいつだって、あなたの唯一の恋人のところへ帰って行く。あの傷のところへ!



そしてあなたは、わたくしがなぜこんなに怒っているのかお分かりかしら?レオ、わたくしの言葉を聞いています??あなたの傷なんて特別なものじゃありませんわ、ちっとも特別なものじゃありません。この町だけにだって、もっともっとひどい傷を持っている人がたくさんいるのを、わたくしは存じています。


それでもあの人たちは一人残らず、あなたよりずっと立派な勇気をもって頑張っていますわ。自分の人生を生きています。何か価値ある存在になっています。なのにレオ、ご自分のことを振り返ってごらんなさい。いつだって自分の傷を気にかけてばかり。(略)」