読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

財政破綻後 危機のシナリオ分析

「◎ロールズ「正議論」とナイトの不確実性

ロールズの「正議論」は20世紀後半のリベラルなアメリカ民主主義の思想を、社会契約論の枠組みで基礎付け直した理論である。「現代アメリカにおいて政治哲学を再生させた」(宇野重規「政治哲学的考察」)とも評される名著であるが、その構造は、古典的な社会契約論に「無知のヴェール」を導入することで、社会保障や福祉政策などの再配分政策(リベラルな政策)を、「利己的な個人が合理的に選択する社会契約として合意されるもの」として正当化する理論であった。

 

 

ルソーなどの社会契約論では、自然状態の人間たちが社会契約を結んで社会を形成するが、ロールズの世界では、「原初状態」の人間たちが社会契約に合意し、その合意をもって現実の世界に参加する。原初状態とは、人間がこの世に生まれて来る以前の仮想的な状態であり、そこでは人間は「自分が現実の世界に生まれる時に、どのような身体的・知的特徴を持って生まれるか、またどのような社会的境遇に生まれつくか」を知ることが出来ないという「無知のヴェール」に覆われている。

 

 

 

この世に生まれる時に、自分は健康や高い知性に恵まれているのか、それとも病気や身体的・知的障害をもって生まれるのか。また、裕福な家庭の子どもとして生まれるのか、貧困家庭の子どもとして生まれるのか、そのようなことが何も分からない状態が、無知のヴェールで覆われた原初状態である。

 

 

 

利己的な個人たちが、自分がどのような境遇に生まれつくか知る前に社会制度について合意するとしたら、自分が最も悲惨な境遇に生まれ付いた時に、社会保障制度や福祉政策によってある程度は救われるような社会であることを望むはずだ。そこで、利己的な人々は次のルールを満たす社会制度を作ることに合意する;

 

 

「社会的な格差は、最も不遇な人の暮らし向きを最も高くする限りにおいて容認される」

 

 

これは、「max-min rule」と呼ばれるが、社会の中で最も効用が小さい(minimum)人に着目し、その人の効用が最も大きくなる(maximize)ように、社会の中の格差の分布が編成されるべきだ、というルールである。(略)

 

 

政治学の世界では、ロールズのこの理論は功利主義への強力な反論と見なされているが、経済学的な観点からは、この理論は「拡張された功利主義」と位置付けることもできる。無知のヴェールを、「ナイトの不確実性」であると解釈すれば、max-min rule は合理的個人の利己的な判断と一致するからである。

 

 

ナイトの不確実性とは経済学者フランク・K・ナイトが提唱した概念である。普通の不確実性であれば、起きる事象の確率分布はわかっている(これを経済学ではリスクという)。それに対し、起きる事象の確率分布すらわからない不確実性のことをナイトの不確実性という。(略)

 

 

 

数理経済学の理論研究で「ナイトの不確実性を嫌う利己的な個人は、最悪の事象が起きた時の自分の効用が最大になるように、選択を行う」ということが数学的に証明されている。これはロールズのmax-min ruleそのものである。(略)」

 

〇「人はどのように生まれつくかわからない」という事実を受け入れる態度は、あの「夜回り先生」の中に水谷氏が書いていた「詩」の精神と一致すると思います。

 

でも、私たちの国の多くの人々は、まだそこの時点で躓いているように見えます。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言った人もいますが、

一方で、「人には自ずからもっている「格」がある」などという感覚もあって、

本音では、「生まれ」で、人を崇めたり、蔑んだりするような所があります。

それは厳密に言えば、多分私の中にもあると思います。

貧しい人が汚い身なりで歩いていたら、蔑む気持ちになります。

美しい人がきれいな身なりで歩いていたら、憧れの目で見ます。賢そうな人がカッコいいことを言えば、尊敬しますし、アホっぽい人が愚かなことを言えば、軽蔑の目で見ます。

それでも、確かなことは、私たちは、自分がどう生まれつくかわからない、ということです。自分があの貧しい人であったかもしれない、アホっぽい愚かな人であったかもしれない、ということです。

 

その感覚をしっかり持つのは、かなり難しいことなのだと、最近は、「日本会議」のメンバーの発言などを聞きながら、不安になります。でもそれが出来なければ、人権も、民主主義も、本物にならないのだろうな、と思います。

 

そして、あらためて思うのは、「人はどのように生まれつくか分からない」を前提にする社会の方が、「人には格がある」を前提にする社会よりも、より、公正で、多くの人が元気に生きられる社会になるだろう、ということです。