読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「2 文字の創造

◎ 日本文化の源「かな」

(略)

もちろん文字なき文化はあるし、言葉なき思想もありうる。だが「古事記」「万葉集」から「竹取物語」や「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」、さらに歌集・日記類から随筆「徒然草」に至る膨大な「かな古典文学」ともいえるものが創造されなかったら、現代の日本文化は無かったといってよい。

 

 

日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった。この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件、「かなの創造」がそれ以後の日本に与えた影響は計り知れない。(略)

 

 

 

ヨーロッパ人で「かな」に関心を持ち、それについて最初に記したのはキリシタン宣教師パードレ、バルタザール・カーゴで、彼は書簡の中で漢字とかなの一部を例示し、日本人は漢字を基にして、はるかに理解しやすい便利な文字を創作し、これが一般人に使われ、重立った人々がその上に漢字を知ろうとしていると記している。(略)

 

 

ロドリーゲスがこの膨大な著作を完成したのは、一六三〇年ごろであろうか。ロドリーゲスの著作は、いま読んでも見事なもので、情報化社会などといわれる現代でも、これだけ詳しく日本のことを知っている外国人が果たして何人いるであろうか、と思わせるものである。そこで前記の彼の著作の一章の一部を次に引用させていただこう(岩波版大航海時代叢書 ジョアン・ロドリーゲス「日本教会史・下」による)。

 

 

彼はまず中国人がなぜあのように難しい漢字の学習に専念するかを述べる。それは科挙に合格するためで、「これらの(合格した)人々だけが王国の文治を掌り、王家に属するあらゆる職務と任務および王国の官吏(マジストラード)の仕事を行なうことができる」からであり、そして、「それによって得られる利益と名誉のため」に漢字を一心に学ぶのだが、日本人はそうではないので、「諸宗派の学者を除けば、普通には、俗人の貴族と一般大衆が、シナ人のように大いに精励して文字を学ぶことに専念することはない」。ここに基本的な違いがあると述べている。この「科挙」の有無という日中両文化の基本的な違いは後述しよう。(略)

 

 

 

そして彼が当時の「世俗の書翰や覚書、その他この種のもの」がほとんどひらがなだけであったように記しているのは、正確な観察である。というのは祐筆に書かせた公式書簡などば別だが、私的な手紙では、信長も秀吉も家康も、まるで「かな文字論者」の手紙のようにかなが多いからである。ただ当時は濁点を打たず、漢字は「当て字」だから現代人には相当に読みづらい。(略)

 

 

 

以上は、織豊時代から徳川時代にかけての手紙だが、幕末になっても私的な手紙はほぼ同じようなかな書きで、これは渋沢栄一の千代夫人への手紙にも現れている。ただ女性向けの手紙(前記の家康の手紙はおかち・あちゃ両局宛)は特にかなが多かったといえるが、正式の文書でない内示もまたかなが多い。」