読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本人とは何か。

「◎「かな」はだれが造ったのか

では一体、日本文化を決定したといえる「かな」はだれがつくったのであろう。(略)

漢字をそのまま表音文字に用いた「万葉仮名」が「かな」の基本であることは言うまでもないが、「万葉集」自体が5世紀前半から天平宝字三年(七五九年)正月一日まで、約四百年間にわたる四千五百首ほどの歌の集録(二十巻)で、「万葉集」自体が「一漢字→一かな」とはなっていないから、だれの創作かは、はじめから不明である。

 

 

 

 

 

これが余りに複雑なため、平安時代にすでに難解となり、そこで天暦年間(九四七~九五七年)に宮中で源順ら五人が「万葉集」にひらがなで読みを添えた。これが「古点」、これを付したのが「古点本」といわれ、現代の「万葉集」の原本になっている。

このように複雑なものを簡単に説明するのは難しいが、源為憲「口遊」(天禄元年=九七〇年)を見るとその原則が理解しやすいので、次に記そう。(略)

 

 

以上のように四十七字になる。このほかにもさまざまな「いろは歌」があったらしいが、もし万葉仮名と現代のかなとの関係が上記のようにすっきりしていたなら、「古事記」の解読などはたいしてむずかしい問題ではなかったであろう。(略)

 

 

 

 

一例として「く」を取り上げてみよう。推古期には「久」だが、古事記・万葉では「久玖九鳩君群口苦丘来」で、これが日本書紀では「久玖区苦句 窶屨衢」となっている。なぜこのように複雑になったのであろうか。

まずその期間が四百年にわたること、また「万葉集」では多く地方の歌も集められたこと、記紀ではおそらく、中国にならって同一の漢字の反復を避けたためなどの理由があると思われる。(略)

 

 

 

まことに混沌とした感じだが、これは自分の心の中にある歌を、何とかして、その当時の日本の周辺世界にあった唯一の文字で書き表そうという苦闘の結果だった。(略)

そこにあった苦闘は、漢字に圧倒されて日本語を殺すか、漢字をてなずけて日本語の文字にしてしまうかという苦闘だった。そしてもしそれができなければ最初に生命を失うのは詩と歌だったはずである。

 

 

 

和歌を漢文にすれば死んでしまう、それはもう歌ではない。この点ロドリーゲスがかなの使用で「韻文や詩の書物を書く」のに用いると記しているのは、正確な記述というべきであろう。」