読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

四章 日本辺境論 ―これが日本の生きる道?

「辺境で何か問題でも?

 

「Sight」とという雑誌のインタビュー。(略)

「街場の中国論」にも書いたのだけれど、日本は「辺境」の国である。

地理的にどうこうというのではなく、メンタリティが辺境なのである。

「辺境」というのは、「中央」から発信される文物制度を受け容れて、消化吸収咀嚼して自家薬籠中のものとしたのち、加工貿易製品として(オリジナリティはまるでないけど)お値段リーズナブルでクオリティの信頼性の高い「パチモン」を売り出す、そのようなエリアであることを言う。

 

「辺境」の基本的な構えは「学習」である。「キャッチアップ」といってもいい。

中央との権力・財貨・情報などなどの社会的リソースの分配において自分が劣位にあることを自明の前提として、「この水位差をいかにして埋めるか」という語法によってしか問題を考察することができないという「呪い」がかけられてあることを「辺境性」という。

私は前に「街場のアメリカ論」にこう書いたことがある。

 

日本人はアメリカを愛することもできるし、憎むこともできるし、依存することもできるし、そこからの自立を願うこともできる。けれどもアメリカをあたかも「異邦人、寡婦、孤児」のように、おのれの幕屋に迎えることだけはできない。

あ「アメリカ人に代わって受難する」「自分の口からパンを取り出してアメリカ人に与える」ということだけはどのような日本人も自分を主語とした動詞としては思いつくことができない。

日本人はアメリカ人に対して倫理的になることができない。

これが日本人にかけられた「従者」の呪いである。」

 

〇 私にはこの「日本人にかけられた「従者」の呪い」ということがよくわかりません。多分日本人=自分=大人という感覚の人にしかわからないものなのかもしれない、

と想像します。私は日本人ではあるけれど、この国を動かしているのは、どこかの「賢い大人」で、私はただ、そこに住んでいるだけの人間。

 

日本の中の従者。日本人ではあるけれど、ある意味子どものような存在だと感じます。だから、この感覚がわからないのかな、と。

 

「私は「従者が悪い」と言っているのではない。

だって日本は開闢以来ずっと従者だったからである。

卑弥呼が「親魏倭王」に任ぜられてから「日本国王足利義満まで、日本は中国皇帝から封爵を受けていたのである。

 

 

一九四五年からあとはアメリカの属国としてその封爵(名誉「アメリカの五一番目の州」)を受けている。

日本が「われわれはもう誰の属国でもない」と思ったのは一八九四年から一九四五年までの五〇年間だけである。

そして、その間、日本はずっと戦争ばかりしていた。

 

 

 

日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日華事変、ノモンハン事件、太平洋戦争。

一九三一年の満州事変から起算して「一五戦争」という言い方があるが、私は一八九四年から起算した「五〇年戦争」という方が事態を正しく言い当てているのではないかと思う。

 

 

 

日本近代史から私たちが学習できることの一つは、日本が辺境であることを拒否しようとするなら、世界中を相手に戦争をし続ける覚悟が要るということである。

これは歴史の教訓である。

そして、すべての戦争に勝ち続けた国は歴史上存在しないというのもまた歴史の教訓の一つである。

 

 

ここから導かれる選択肢は二つしかない。

アメリカを含む全世界を相手に戦争をする準備を今すぐ始めるか、このまま鼓腹撃壌して属国の平安のうちに安らぐか、二つに一つである。(略)

 

 

必然的に第二の選択肢だけが日本にとって現実的なものである。

現に、日本はその歴史のほとんどの時期を「辺境」として過ごしてきており、辺境の民えあることの心地よさは深く国民性のうちに血肉化している。(略)

 

 

四書五経素読を通じて、江戸時代の子どもたちが学んだのは「子どもには決して到達し得ない知的境位が存在する」という信憑である。それがみごとに奏功して、その時代の日本人の識字率は世界一の水準に達した。

アジアの蕃地に来たつもりの欧米の帝国主義者が日本に発見したのは「知的なエルドラド」であった消息は渡辺京二「逝きし世の面影」に詳しい。

 

 

「辺境」は(自分が辺境だという意識を持ち続けるならば)「中央」を知的に圧倒することが出来る。日本の歴史はその逆説を私たちに教えている。

戦後六二年、「アメリカの辺境」という立ち位置にとどまることによって日本は世界に冠絶する経済大国になった。

 

 

日本人がバカになり、世界に侮られるようになったのは、八〇年代のバブル以降であるが、それは日本人が「オレたちはもう辺境人じゃない。オレたちがトテンディで、オレたちが中心なんだ」という夜郎自大な思い上がりにのぼせ上ったからである。

 

 

学力低下もモラルの低下も、みんな日本人が「辺境人」根性(「いつかみてろよ、おいらだって」)を失ったことにリンクしている。

だから私が申し上げているのは、属国でいいじゃないか、辺境でいいjかないか、ということである。

 

 

せっかく海に囲まれた資源もなんにもない島国なんだし、人類史以来地球上で起きたマグニチュード六以上の地震の二〇%を一手に引き受けている被災国なんだし。(略)

 

 

ある種の「病」に罹患することによって、生体メカニズムが好調になるということがある。だったらそれでいいじゃないか、というのが私のプラグマティズムである。

「属国」であり、「辺境」であることを受け容れ、それがもたらす「利得」と「損失」についてクールかつリアルに計量すること。

 

 

病識をもった上で、疾病利得について計算すること。

それが私たちにとりあえず必要な知的態度であろうと思う。

健康であろうとしたせいで早死にした人間をたくさん見て来たせいでそう思うのである。

                (二〇〇七・五・三一)」

 

〇あの河合隼雄氏は、どこかで「自我は英雄だ」というようなことを書いていたと思います。子どもの頃、10歳位になると、私はもうすでにイッパシの人間のようなつもりでいました。自分ほど賢く立派な人間はいないというイメージが私の中にはありました。(あらためて文字にすると、恥ずかしくて消え入りたいような気持になりますが…)

 

そんな気持ちがあったからこそ向上心もあり、逆に劣等感も芽生え…と様々な入り組んだ心の問題も生じたのだと思いますが、今になって思うのは、「自分はこうでありたい、と願っても実際にそうなるのは、本当に難しい。難しすぎる。出来ることしか出来ない。出来ることをして精一杯生きるしかない。」ということです。

 

子どもは、簡単に「世界の中心で光り輝く自分になるんだ…」と思います。でも、大人になると、そんなことは簡単ではないし、世界の中心で光り輝くよりももっと大事なことがある、と考えるようになる。

 

この内田氏の「辺境でいいじゃないか」という論に大賛成です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おとめごころを学ぶ

「(略)

若いライター志望の人に読書上のアドバイスをひとことと頼まれたので次のようなことを申し上げる。

 

できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も縁の遠い人間の書いた本を読むこと。

世界観も宗教も感性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」だということである。

 

 

ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何百年、何千年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他に比して圧倒的に多いからである。(略)

 

 

古典を読むことで学ぶことができるのは、数百年の時間と数千キロの距離を隔ててなおリーダブルであるようなものを書いた人間の「リーダーフレンドリーネス」である。

私はいつもそれに驚嘆する。

 

 

もう一つ。若い男性の書き手に望みたいのは、早い時期に「少女小説」を読むことである。

若草物語」や「赤毛のアン」や「愛の妖精」をなるべく早い時期に読むことが大切なのは「少女の身になって少年に淡い恋をして」ぼろぼろ涙ぐむというような感受性編制はある年齢を超えた男性には不可能になるからである。

 

 

そのような読書経験を持たなかった少年はそのあとにさまざまなエロス的な経験を積み、外形的知識を身に着けても「前思春期の少女の恋心」に共振して泣くことはむずかしい。

でも、それは物語のもたらす悦楽の半分をあらかじめ失っていることなのである。

 

 

 

「冬ソナ」を見て泣くためにはユジンに同一化してチェンサンに恋をしないといけないのであるが、ほとんどの男性はこれができない。

子どもの時に少女になって少年に恋したことがないので、その「やりかた」がわからないのである。(略)

                  (二〇〇六・七・五)」

 

少女小説の前思春期の少女の恋心に共振することが、物語のもたらす悦楽の半分にあたる、という言葉にびっくりしました。

私のように、少女小説しか読めない人というのは、問題だと思いますが。

 

 

 

「顧客のニーズ」はあらかじめ存在するか

「(略)

CSってごぞんじですか?

customer Satisfaction。「消費者の満足」のことである。

これをCS本は「顧客第一主義」とか「顧客中心主義」というふうに訳している。

それは違うだろうという話から始める。

 

 

教育の現場でもコンサルの諸君は「大学教職員もCSマインドを持て」というようなことを言い募っている。

これからはお客様である志願者や保護者のニーズを第一に配慮して……。

でもさ、そういうことを言っている当のコンサル諸君は、キミたちの「お客様」であるところの大学人を「第一に配慮」なんかしてないじゃないか。

「食い物」にしているだけでしょ。

 

 

自分がやる気もないことを他人に要求するというのはよくない。

「顧客のニーズ」がもし定量的・定性的に把握できるものであって、それにどんぴじゃでジャストフィットするサービスなり商品なりを提供出来たら、それで一〇〇%ハッピーで生産的な取引が成立するというふうにもし考えているひとがいたら、それはビジネスマンとしては幼稚園児レベルである。

「顧客のニーズ」なんか、あらかじめ存在するものではないからだ。

 

 

さきほど新聞を読んでいたら、コムスンがらみの記事に「介護を必要とする人間のニーズに対してどうして介護現場で細やかな配慮ができないのか」ということが書いてあった。

だが、この場合の「介護ニーズ」も「介護現場」も「あらかじめ存在するもの」ではない。

介護保険という制度ができて、それから利益を得る介護ビジネスというものができ、介護テクノロジーが開発され、介護技術というものが体系化されてはじめて「介護ニーズ」や「介護現場」が登場したのである。

 

 

ニーズは「ニーズを満たす制度」が出現した後に、事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する。

どれほど本人にとってリアルであっても、それを指し示す言語記号や、それを満たす社会的装置が存在しないような欠如は「欠如」としては認知されない。

ニーズはそれを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものである。」

 

 

〇ここを読みながら思い浮かべていたのは、親に虐待されている子どものことです。

最近になってやっと虐待されている子どもは保護されるべきだという「社会的装置」が出来て、やっと「欠如」が認知された。

 

でも、父親によって性的虐待を受けていた女性は、18歳までは、虐待であると認知されるとしても、19歳になると、虐待ではなくなる。19歳で発覚した時、性的虐待をしていた父親は無罪になる。先日このニュースを聞いて、私たちの国の司法を掌る人々は、マニュアルでお客に対応するコンビニの店員さんのようだと感じました。根源的なものが抜け落ちているのでは?と。

性的虐待を受け、救いを求める女性の「ニーズ」は未だその欠如が認知されない。

 

 

 

「大学院では「子どもたちの学びへの動機づけ」が主題であった。

「学ぶことへのニーズ」である。

もちろん、そんなものは自然現象として子供たちの中には存在しない。

多少は存在するかもしれないけれど、「生ぬことへの欲求」というようなクリアカットな輪郭を持っていない。「食べることへの欲求」や「遊ぶことへの欲求」とごちゃまぜになってうごめいているだけである。

 

 

 

この欲求だけを選択的に分離し、記号化し、そのような「ニーズ」が子供たちの中に存在することに気付かせるのはサプライヤーの仕事である。

だが、どうやって気付かせるのか。

 

それは「先生はえらい」以来何度も繰り返し書いているとおり、教師自身の内側で「学ぶことに対する欲求」がいきいきと活動していることである。

 

 

子どもたちはまだ記号を発明する力がない。(やがて身に着けるけれど)。子供はすでに熟練した日本語話者である母親からの語りかけを通じてはじめて母語を習得する。

同じように、「学ぶことに対する欲求」は「学ぶことへの欲求」を現に生きている教師からしか学ぶことができない。

 

 

もし、子どもたちに学びを動機づけたいと望むのなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。

教師自身がつねにいきいきと好奇心にあふれ、さまざまな謎に惹きつけられ、絶えず仮設の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。

それが教育を成立させるための条件である。(略)

 

 

 

現に、一切の教育的情熱を失いながら、毎日上機嫌で仕事をさぼっている教師というものをあなたは見たことがないはずである。

少なくとも私はない。(略)

 

 

暗い表情、生気を失った肌、乱れた頭髪、なげやりな服装、重い足取り、虚無的な言葉 …そのすべてが「学びへの動機づけを失うことがどれほど人間にとって悲痛なことであるか」を全身で表現している。

彼らは彼らなりの仕方で、子どもたちの「学ぶことへの欲求」を失うと人間はどうなってしまうのかを教えているのである。(略)

 

 

「私のような人間から学ぶものは何もないよ」という言明は、「どうしてこの人はこれほどの確信をもってこれほど絶望的な自己卑下の宣告をなしうるのだろう?」という深甚な疑問のうちに子どもたちを引きずり込む。

そのときすでに子どもたちのうちでは「学びへの欲求」が活発に動き始めているのである。

先生は「先生であろう」とするときにすでに先生であり、「私はもう先生ではない」と宣言したあともまだ先生である。

 

 

「学ぶ」とはどういうことか、「教える」とはどういうことか、自分は果たして今も学んでいるのか、自分にはひとに教える資格があるのか……そういった一連の問いが念頭から離れることのない人間は、それだけですでに教師の条件を満たしている。

 

 

「学びへのニーズ」などというものは自存しない。

「学びへのニーズ」とは何か、それはどのようにして生まれ、死ぬのか、ということを専一的に考え抜く「先生」が登場した後にそれは生まれるのである。

 

 

だから、もしその語の厳密な意味でのCSというものがあるとすれば、それは「私第一義」「私中心主義」の効果としてしか存在しない。

というようなことを銀行員たちの前でお話しする。(略)

 

いったい支店長はどのようなメッセージを伝えるための媒介としてこの男を招いたのか……あああ、とわからないよ~いう声にならない悲鳴がラボルテホールに充満するのを後に、私は脱兎のごとく家に逃げ帰ったのである。

 

                     (二〇〇七・六・二一)」

 

 

 

 

 

 

 

親密圏について

金井淑子さんから「岩波 新・哲学講義 共に生きる」の執筆個所のコピーが送られてきたので読む。

金井さんは今度岩波書店から出す「応用倫理学講義」の「性/愛」の巻の編集責任者で、私はその巻に「セックスワーク」について書くことになっている。

 

その金井さんの論文はなかなか刺激的な考想に富んでいて、私は立ったりすわったり腕を組んだり嘆息をしたりしつつ興味深く読んだ。

そのなかの一つの論点について、私なりに考えてみたいと思う。(略)

 

金井さんの共生論は「新たな親密圏」をキーワードの一つとしている。

近代家族解体論はフェミニズムの基幹的主張だが、この解体論には「強者の思想」あるいは「would be強者の思想」という側面がある。

 

経済的・精神的自立をめざすことを無条件に価値とする場合、自立能力の無い家族メンバー(幼児、老人、障害者、病人)などは近代家族の解体過程で無保護・無権利状態に追いやられることになる。

 

 

もちろん「そういう弱者の面倒は行政がみるべきだ」という考え方もできるだろう。

だが、行政はベッドや食事は提供できても、ひとりひとりを抱きしめ、ひとりひとりに自尊感情や承認感覚を扶植することはできない。

このような弱者への配慮のためには、抑圧的な近代家庭に代わる保護と癒しの場がなくてはすまされない。

 

 

たしかに近代家族は多くの点で抑圧と虐待の温床となっており、おそらく現時点では「家族によって傷つけられる」ことのマイナスの方が、「家族と共にあることによって癒される」ことのプラスを凌駕しているというのも悲しいかな事実である。

 

 

しかし、家族の中で深い傷を負い、自尊感情をはぐくむ機会を失ったものは、家族から離脱して浮遊するだけでは少しも救われない。

金井さんはこう書く。

 

 

自尊感情を解体されたまま不安や嗜癖問題を抱えていることも少なくない彼らにとってこそ必要なのは、彼らの自尊感情を育む場であり、また自己回復のためのさまざまな物語であろう。さまざまな事情で家族と距離をとったり家庭を捨てざるをえなかった者たちの新しい居場所、自己解放の場、疑似家族空閑ともいうべき場と関係性が、社会の中でさまざまなレベルでいま問われているというべきなのだ。

       川本隆史編「岩波 新・哲学講義6 共に生きる」、一九九八年、七七頁)

 

 

(略)

私はこの理路には異論がない。

私は骨の髄までビジネスマインデッドな人間なので、どのような社会制度についても、「この壊死度は、いかなる人類学的起源を有するものか、これまでどのような歴史的使命を果たしてきたのか、現状では、どのような点で制度疲労や機能不全を起こしているか、どの辺を補正すれば使い延ばせるか、どのあたりのタイミングで修理を断念して「新品」に乗り換えるか」というふうな機能主義的な問いの立て方をする。

 

 

私がフェミニズムの議論で不満なのは、フェミニストが家族制度の「人類学的起源」「歴史的使命」にあまり興味を示さないということと、「補正と買い替えの損益分岐点」という計量的な問題を無視しがちなことである。(略)

 

 

金井さんは「革命主義的フェミニスト」ではなく、制度の劇的なシフトによって一挙に公正で平等な社会を実現することを望む綱領的立場には懐疑的なまなざしを送っているように見受けられる。

 

金井さんが「とりこぼし」を恐れているのは、勇ましい家族解体論が見落としがちな、「家庭内弱者の救済」、「女性の身体性」、「子どもを育てる場における性的差異の意味」といった問題である。

 

金井さんはそのような言い方を慎重に避けているけれど、端的に言えばレヴィナスのいうところの「女性的なもの」、柔和さ、ぬくもり、癒し、受け容れ、寛容、慈愛、ふれあい、はじらい、慎み深さ……といった「贈与的ふるまい」の重要性からおそらく目をそらすことが出来ないのである。

 

 

 

それがどれほど近代家族イデオロギーの中で手垢のついてしまった概念であったとしても、やはり親しみの場は、そのような「女性的ふるまい」抜きには成り立ち得ないだろう。

 

このような考想を社会構築主義者たちは「女性性を実体化する本質主義」としてばっさり切り捨てるだろう。だが、私は自分自身が「近代家族」を、一度は子どもとして、一度は親として、営んだ経験から、また「武道の師弟関係」という疑似家族的な親密圏で、学界の競争的人間関係の中で負った心理的な傷を癒された経験から、「女性的なもの」は親しみの場の立ち上げのためには、なくてはすまされないということを確信している。(略)

 

 

「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」である。見返りを求めない贈物のことである。

私は金井さんのいう「親密圏」はこの「無償の贈与」の原理に基礎付けられるものだろうと思う。(略)

 

 

しかし、この「無償の贈与」という考想はいまのフェミニズムからずいぶん遠いものであるように私には思われる。

というのは、「私は無償で贈与する」という主体的な言明は倫理性と親密性を基礎付けるけれども、「あなたは無償で贈与すべきだ」という言明はいかなる倫理性も親密性も基礎付けることができないからである。

 

 

「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言明ほど非倫理的なものはない。

近代家族制度が日倫理的であるのは、「女性的なもの」(許すこと、受け容れること、譲ること、与えること、引き下がることをその本旨とするような存在性格)をある社会的立場の個人に「自然に内在するもの」とみなしたり、「制度的に要求しうるもの」とみなしたことに理由がある。

 

 

「女性的なもの」は中立的な概念ではないし、他人に求めるものでもない。それは経験的性差にかかわりなく、「私」が他者に先んじて引き受けるものである。

そのような根本的な自他の非対称性を前提とした倫理性の原理は、「際の解消」や「完全な平等の実現」の原理とはなじまない。

 

 

どちらがいい悪いといういおとではなく、「すれ違う」しかないということである。

私が金井さんの紹介する性差別と障害者差別、弱者差別についてのフェミニズムの諸理説を一瞥して感じたのは、すべての思想運動が「非収奪感」に基礎付けられているということである。

 

「ほんらい私に帰属すべき社会的リソースが私から制度的に収奪されており、誰かが不当に受益している」という「被収奪感」がすべての「マイノリティ」の権利要求の基本感情をなしている。

 

 

もちろん、社会的公正の実現、正義の成就は人間が人間的であるために必須のものである。

しかし、それは原理的に「喧嘩腰」で語られる他ない種類の言説である。

だから、「正義の実現」が「非収奪感を感じている私」を基体とする限り、いかなる社会理論も、この世界に「親密圏」を立ち上げることは出来ないだろうと私は思う。

 

 

慰めも癒しも「喧嘩腰の言説」によっては基礎付けることができないからである。

金井さんの議論がどこか苦しいのは「正義の実現」と「親密圏の立ち上げ」を同時に遂行できるような理論的実践的水準を探り当てようと悪戦しているからであるように私には思われる。

 

悲しい話だが、正義の実現と無償の贈与は両立しない。

正義は「奪われたものを奪い返す」ことを求める。

だが、無償での贈与は正義に悖る。正義は「赦すこと」を許さないからだ。

 

 

人間の人間性は、おそらくこの「社会的リソースの公平な配分」と「非相称的な贈与」に引き裂かれているという、根源的な矛盾のうちに存する。

収奪は収奪、贈与は贈与である。この二つは論理的に同一次元には存在することができない。

それを両立させるのは、矛盾を矛盾として生き、引き裂かれてあることを存在の常態とするような人間の成熟だけであると私は思う。

 

 

武道の稽古をしていると、不思議なことがいろいろわかってくる。

術において相手の「虚を衝く」とういことが出来るのは、相手と私の間に「親密性の場」が成立する場合だけだ、というのもその一つである。

私と他者が敵対的な個体にとどまっているかぎり、「術」はかからない。

私たちが稽古している「抜き」や「浮かし」や「気の感応」といった術理は、まさしく自他の「親密圏」の創出のためのものである。(略)

 

 

武道はこの擬制された自他の親密性を利用して、相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。

相手が私の身体の一部になったとき、つまり私の手足のような、私自身の分かち難い、親しみ深い一部になったときにのみ、活殺自在の術は遣うことができる。

 

 

家族やエロスの場が親密圏であると同時に壮絶な相剋と権力性の場ともなるのは、おそらくこの背理が人間の宿命だからではないか。

ならば、この背理の理論的「解決」をではなく、その背理をどうやって「生き延びるか」という実戦的マナーを吟味することの方が私たちにとってのより緊急な思想的課題ではないのか。

私はそんなふうに考えるのである。

          (二〇〇三・九・二四)」

 

 

〇「親密圏」が必要だと、私も強く思います。だからこの文章を、とても興味深く読みました。

ただ、私は「学問」的にはゼロの人なので、ここで使われている言葉をきちんと

受け容れることが出来ません。

 

レヴィナスのいう「女性的なもの」」=「許すこと、受け容れること、譲ること、与えること、引き下がることをその本旨とするような存在性格」という文章に引っかかってしまいます。

 

このように言われると、まるで女性は「許し、受け容れ、譲り、与え、引き下がる」者だ、と言われているようで、違和感を感じます。

 

昔、よくきいた、「男のくせに 泣くんじゃない!」とか、「女のくせにその言葉遣いは何だ!」という言葉を聞いた時に感じる嫌悪感と同じものを感じてしまいます。

 

何故、「許し、受け容れ、譲り、与え、引き下がる」のを、女性的なものというのか。

もっと違う言葉で言えるはずではないのか、と。

 

 

それと、もう一つ引っかかったのが、

「社会的公正の実現、正義の成就は人間が人間であるために必須のものであるが、それは原理的に「喧嘩腰」で語られる他ない種類の言説だ」

というところです。

 

実態がそうだということについては、その通りだと思います。というのも、公正や正義を理解しない大勢の人を相手に、それを主張する時、「喧嘩腰」になってしまいます。

 

でも、本来、公正や正義はその言葉を認める人であれば誰もが受け入れる「道理」があるものではないかと思うのです。公正も正義もこの世にはない、必要ない、と思っている人も確かにいます。

 

でも、「その言葉はある」「そのようなものはある」と思っている人を相手にする時、

そこに「喧嘩腰」は必要ないのでは?と思います。

 

そして、もし「公正も正義もない」と思う人を相手にするのなら、「親密圏」も作れるはずがないと思います。

 

つまり、何が言いたいかと言うと、親密圏に必要なのは、「信頼」とか「優しさ」とかいうものが、この世界にはあると信じることが根っこになければならないのでは?ということです。

 

もちろん枠組みを作り、その中で「親密」を醸成して行きたいと願うのは理解できますが、一方に公正や正義と喧嘩腰になっている世界がある時、心から「信頼」という言葉を生きることが出来るでしょうか。

 

公正も正義もない世界で、人は信頼し合えるでしょうか。

 

先日の朝ドラで戦友の子どもを引き取って育てることにした父親が言った言葉が、

とても、心に響きました。

「死んでいたのが自分だったかもしれない。今、浮浪児になっていたのが、自分の娘だったかもしれない。そう思うと、この戦友の娘が世間から冷たくされるのが許せなかった。」

 

人は誰もが「被収奪感」を抱き得る。自分が持つ感情は、彼も彼女も持つ。その感覚があるところに、やっと公正や正義があり、公正や正義がある世界にやっと親密圏が出来るのではないかと、私は思います。

 

「正義の実現と無償の贈与は両立しない。」

とあります。

 

でも、今挙げた例で言えば、戦友の娘を引き取った父親の心の中では、

死んでしまった戦友の運命は自分であったかもしれない。→その時、浮浪児になったのは、自分の娘であったかもしれない。→であれば、この浮浪児をしっかり育てるのは、公正なことであり、正義だ、となっていたのでは?

 

だからこそ。無償の贈与が可能になったのでは?

 

無償の贈与は女性的なもので、女性ならそうするものだ…という道筋から

無償の贈与をする人があるとは思えないのですが。

自分の運命はたまたま今、順調だが、これは、たまたまであって、

ちょっとしたことで、彼や彼女のような運命であったかもしれない…

という想像力があって、初めて、無償の贈与や、許すことや受け入れることや譲ること

や与えること、引き下がること、が生まれるのだと思うのですが。

 

しつこいようですが、またあの「夜回り先生の言葉」を引用します。

 

「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」

 

 

 

 

 

コミュニケーション失調症候群

〇「未来の未知性について」と」「「いいこと」と「正しいこと」」は、パスします。

言われていることが、よくわからなかったり、イマイチすんなりと心が受け入れられなかったり、で、今はパスします。

 

「ある雑誌に「コミュニケーション失調症候群」というタイトルで短い文章を書いた。

(略)

雑誌自体も専門的なものでふつうの人はまず目にする機会がないであろうから、ここに転載して諸賢のご笑覧に供するのである。

 

大学でのセクハラ、アカハラにどう対処するのかということが問題になっている。

本学でもこれまでにいくつか事件があった。

これらの事件には私たちの社会全体に底流しているコミュニケーションについての深刻な「勘ちがい」が露呈しているように思われる。

 

 

人々はコミュニケーションについて、何か根本的な誤解をしてはいないだろうか。

「適切なコミュニケーション」とは「言いたいことを適切な言葉づかいで明確に語ること」だと思っている人が多い。でも、本当にそうだろうか。

 

 

この種の事件でいちばん頻繁に聴く弁明は、「私はそんなつもりで言ったんじゃない」「私はそんなつもりでしたんじゃない」という言葉である。

「つもり」と「言葉」の乖離がすべての事件に共通している。

 

 

私自身を振り返っても、学生に向って「ダメだよ、こんな論文、こんなものに学位は出せん」と冷たく言い放つkとおもあるし、「早く結婚したほうがいいぜ」と忠告することもある。

これをして「教師の権威を笠に着た人格的攻撃」であるとか「個人の性生活について言及する性的いやがらせ」と告発されては私としても立つ瀬がない。

 

 

当然「そんなつもりで言ったんじゃないよ」という弁明をしなければならない。

まさに問題はそこにある。

外形的な発言や行動だけを取り上げると、私の日々の言動の中には「ハラスメント」とみなされる可能性のあるものが少なくない。

 

 

私はしばしば「バカ」という評言を同業者についてさえ発することがあるが、これとても私が「斯界において学術的権威を豊かに享受している」ということが事実であるかどうかにはない(事実でないが)。

 

 

事実はあくまで副次的であり、先方が「ウチダには権威がある」と思っていて、現に心理的な圧力を感じていれば、私の粗忽な発言は「ハラスメント」として機能するということなのである。

 

 

今のところ、さいわいにも、私が各種ハラスメントの告発を免れているのは、私が「そう言うことによって何を言おうとしているか」がとりあえずは相手に伝わっているからである。

 

 

私が「ダメだよ、こんな論文」と言っているのが専一的に学力についてのみのコメントであって、彼女の生き方や人格についてのコメントではないことが相手に伝わっていれば問題は起こらない。(略)

 

 

つまり、コミュニケーションにおいて、メッセージの「解釈の仕方」は、語詞レベルではなく、非言語的なレベルにおいて受信される側に「認知してもらう」ほかないということである。

逆から言えば、表層的な語詞レベルのメッセージでは、言葉は無限の誤解の可能性に開かれている。

 

 

グレゴリー・ベイトソンは「精神の生態学」の中で、コミュニケーション失調の端的な徴候として「何を言うつもりでその言葉を言っているのか判定できない」ことを挙げている。

 

例えば、「今日は何をするつもり?」という問いかけを「昨日みたいなバカな真似は止めてくれよ」という「問責」と取るか、それとも語義通りに「質問」しているのかが判定できないのがコミュニケーション失調の症状である。(略)

 

 

「暖かい波動」や「優しい波動」が身体的なレベルではっきりと受信されていれば、言語的メッセージが解釈次第では聴き手を傷つけるコンテンツを含んでいても、受信者はおような解釈を採用しない。

だが、どうやらこの非言語的メッセージの送受信能力が近年とみに低下しているように私には思われるのである。

 

 

セクハラ、アカハラ事件の多発はおそらくその兆候である。

「誤解される可能性のあることを口にして、現に誤解された」以上「そんなつもりで言ったんじゃない」という言い訳は通らない。

これが今日のセクハラ、アカハラ問題の判定基準である。

 

 

それは言い換えれば、メッセージの受信者には「複数の解釈可能性のうちから、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利」が賦与されているということである。

コミュニケーション感度の高い人間とコミュニケーション感度の低い人間のどちらがこの権利を活用することになるのか、想像することは難しいことではない。

 

 

結果的に私たちの社会はこれから自分宛のメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的なふるまいとみなす人間たちを量産してゆくことになるだろう。

 

 

それによって社会が住みよくなるとか、人々のコミュニケーション能力が向上するだろうという予想に私は与しない。

こういうことを書くと、「では、あなたはセクハラ、アカハラを放置しろと、こう言いたいわけですね」と口を尖らせて抗議する人が出てくるだろう。

 

 

私が言いたいのはそういうことではなくて、「あなたみたいな人が量産されるだろう」という予測なのである。

もちろんこんな言い訳は通らない。

 

                   (二〇〇五・六・二九)    」

 

 

〇 自分の言葉で誤解を生んだり、

  自分も相手の言葉を誤解したり…。あらゆる可能性がある。

  しかも互いに「社交辞令」で武装している時、

  本音は 見えない。そうなると、「複数の解釈可能性」の中から、自分にとって最 

  も不快な解釈を選択しておいた方が、「間違う可能性が低い」と思えるようにな 

  る。

 

  でも、こんな風に考える人間同士で、一緒に居ると、疲れるような 

  気がします。

 

  

 

  

忘れられた巨人

〇 読み終わりました。印象的だったのは、「船頭」の質問。自分だったら…と考えると、悲観的な気持ちになります。思い出にそんな「大切な」ものってあるかなぁ、と考え込んでしまいます。私の場合、そんな素晴らしい大切な思い出なんて、ないような気がします。

しかも、それを夫と共有しているか、となると、先ず絶望的です。

この老夫婦の場合、一体どんな記憶が忘れられていて、その記憶が蘇るとどうなるのか、それがずっと気になって、先を読まずにいられませんでした。

物語の展開は、まるで「冒険物語」のようです。時代背景が「アーサー王」の頃、というのもあって、昔話をワクワクして聞く様な、そんな楽しさもありました。
そして、物語の途中から思い出したのは、あの河合隼雄さんの「メタファー」という言葉です。

この物語は大昔の「困難」や「苦しみ」や「闘い」を語っているけれど、そういう意味では、今も形を変えて、同じように「困難」があり、「苦しみ」があり「闘い」が
ある、と思いました。

そして、一番の衝撃は、ラストシーンでした。
人を信じることって何なんだろう…と。

人間に対する知識や洞察が深まれば深まるほど、経験があればあるほど、人を信じられなくなる。そんな中でどうやって信じ合えばよいのか。

少なくとも、その難しさに苦しんでいるのは、自分ひとりではない、と思わせてくれるお話しでした。

信じることは底なしに難しい。
でも、事実に基づく「怨み」を生きる時には、
揺らぎない強さで生きられるように思える。

その対比を見せられたような気がしました。