読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「おむつ研究」は「コミュニケーション研究」である

「身体知」の共著者三砂ちづる先生と、プチ打ち上げ。(略)

 

三砂先生は研究の外部資金が入ったので、今年は「おむつの研究」で国内外を回られるそうである。

日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている。

母と子が(ねんねこ状のもので)ぴったり密着している文化では、子どもがところきらわずじゃあじゃあ排便すると母親だって困る。

 

 

そのせいで、子どもの排便予兆の微妙な身体的シグナルに対して、母親は敏感になる。

だいたい子どもがおしっこするのは「おっぱいをのんだあと」とか「眠りから覚める直前」とかある程度生理的な規則性がある。その「気配」を母親が察知できれば、「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいいのである。

それならおむつは要らない。

現に生後二週間でおむつを取ってしまう社会もあるんだそうである。(略)

 

 

母親にシグナルが読めればおむつは要らない。

ということを科学的に論証しようとする研究だそうである。

面白そうである。

ところが、この研究に対してすでに微妙な圧力がかかっているそうである。

 

 

「おむつは要らない」ということを論証する研究なのであるから、当然「紙おむつメーカー」にとっては死活問題である。(略)

 

紙おむつメーカーが慌てるのはよくわかる。

もうひとつの圧力原は、ご想像のとおり、フェミニストからである。

「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC「Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛り付けられるべきではない」からである。

 

「母親と子どもとの間には身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権性のイデオロギーなのである(とほ)。

 

だが、よく考えてほしい。

「おむつが要らない」ためには子どもの発信する微妙なシグナルに対する育児する側の感受性が必要である。

このようなシグナルが適切に受信されることは、子どもにとって単に生理的な不快(おしりがぐじょぐじょする)が最小限で済むという以上に重要なことだ。

 

 

それは「私の発信したシグナルがたしかに聴き届けられた」というコミュニケーションに対する信頼が醸成されることだからである。(略)

 

 

いま「私の発信するシグナルは…」と書いたけれど、もちろん鏡像段階以前の幼児に「私」などというものはない。「私」はコミュニケーションが成就した後に、「受信者」が「送信元」として認定したもの」というし方で事後的に獲得されるからである。

つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。

 

 

これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆるぎない基礎を与えることになるであろう。どれほどの「余裕」と、「お気軽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。

そんなものよりも、まずもっと確実で、実利のあるものが優先すると言うフェミニストたちの意図が私にはよく理解できない。

 

 

コミュニケーションに対する深い信頼をもっている子どもをひとり育てることは、母親がいくばくかの権力や財貨や情報や名声や文化資本を多少早めに得ることよりもずっとずっと大切な事ではないのか。

 

 

「それはあなたが男で、「そういうもの」を全部あらかじめ占有しているから言うことができるのだ」とフェミニストたちはいつも言う。

何度も言うけれど、それは違う。

男の中にも「そういうもの」をまるで持っていない人間はいくらもいるからだ。どうして、そういう男たちは「男であるだけで享受できるはずの特権」から疎外されているのか、フェミニスト諸君は考えたことがあるだろうか。

 

 

それは、彼らには、どんなときもいつもそばで支えてくれる配偶者や家族や友人がおらず、引き立てる師匠や先輩がおらず、声援を送ってくれる弟子や期待をかけるファンもなく、情報を提供してくれる協力者も、能力を発現する機会を探し出してくれるサポーターも、どれも持たなかったからだ。

 

どうしてそういうネットワークを形成できなかったかと言えば、それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いているせいである。

 

人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。

コミュニケーションへの深い信頼を持つことのできないものは、それが男であれ、女であれ、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。

 

 

もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」子どもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。

 

 

自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。

三砂先生の「おむつ研究」の成果がどんなかたちで結実するか愉しみである。

                        (二〇〇六・七・二三)   」

 

〇私の子育ての頃は、確か2歳前にはおむつが取れていたと思います。

おしっこしたら教えてね、というと、「チイ」と教えてくれるようになり、

少しずつする前に教えてくれるようになる。そうなると、もう、子どもの

おしっこ最優先で、動くようになる。「チイ」と言われたら、何はさておき、飛んで

行って、トイレに座らせなければならなくなる。

その緊張感は、一歩間違うと、神経過敏なピリピリした空気を生み出す。

私は、そのピリピリした空気がかえって母子関係を良くないものにするので、

敢えて、二歳前におむつがとれなくても気にすることはない、と言っているのだと思っ

ていました。そして、実際排便ってそう単純ではないと思います。

次男はおしっこやうんちの間がしっかりあいていたので、わりとスムーズにおむつが取

れました。

でも、長男はちょっとしたことで、ピリピリする子で、失敗することも多く、失敗する

と、親もピリピリし、それでまた子どももピリピリし…と悪循環にもなります。

そんなに簡単に「おむつが要らない子育て」なんて、出来るだろうか…と思いました。

 

ただ、どんどん失敗しても全然気にしない、おおらかな子育てが出来る

人なら、その「コミュニケーション」の中で子も親も育つので、理想的だろうなぁ、

とは思います。本当はそんな子育てができる「空気」があればいいなぁと思います。

 

 

 

女子大の「実学志向」は自滅への道

「終日原稿書き。入学センター課長から年末に「一月一〇日までに八〇〇〇字お願いしますね」と頼まれたのである。(略)

うまくゆくかどうかわからないけれど、とりあえず業務命令であるから、さくさくと「どうして女子大は必要なのか?」ということについて書く。

 

 

 

書いているうちにだんだん腹が立ってくる。

課長に対してではなく、「女子大は必要ない」という政治判断を支える経済合理主義的発想そのものに対する憤りで、身体が小刻みにぷるぷる震えてきたのである。

 

 

私はもともと男女雇用機会均等法をめぐる議論あたりから、「ぷるぷる」していたのである。

この法改定はご存知の通り、雇用機会における性差別を廃したものであるが、そこに伏流する雇用と性の関係についての基本的な考え方のうちに、どうしても私には飲み込みにくいことがあった。

 

 

均等法の前提にあるのは、「男女は同一の社会的リソース(権力、財貨、威信、情報、文化資本などなど)を競合的に奪い合っており、女性はこの競争で不利なポジションを歴史的に強いられている」という考え方である。

 

 

話の前段を「真」とすれば、後段も「真」である。

だが、私はこの前段にひっかかるのである。

間違っているというのではない。

「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が「事実認知的言明」であるのか「遂行的言明」であるのか不分明である、というところがひっかかるのである。

 

 

 

ご存知でない方のためにご説明するが、「事実認知的言明」というのは言語学者オースチンの用語で「客観的事実を叙述することば」のことである。「いま九時半である」というようなのは事実認知的発話である。

 

 

それに対して、「遂行的言明」というのは「あなたを生涯愛します」というような、話者自身がその言明内容が「真」であることを主体的に実現してゆくことを誓約する種類の言明のことである。

 

 

その上で申し上げるのであるが、私には「男女は同一の社会的リソースを競合的に奪い合っている」という言明が事実認知的であると同時に遂行的であり、むしろ遂行的であるところに政治的意図があるように思われるのである。

 

 

妙に世知に長けた野郎がなれなれしく肩に手を回して「な、ウチダ、そういうもんなんだよ。世の中、所詮、色と欲だよ」というようなことを言われたときのような、「べたっ」とした気持ちの悪さを感じるのである。

 

 

この訳知り男の言明は事実認知的であると同時に遂行的でもある。「人間はさまざまなモチベーションで行動する」という私の「世間知らず」を矯正しようという政略的意図きらかに含んでいるからである。

 

 

均等法に私はそれと似たものを感じたのである。

「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味しい物喰っていい車のりたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ~ん」というようなことを耳元で言われたようなべたっとした不快感を覚えるのである。

 

 

たしかにそのような言明は大多数の人間にとっては自明の真理であろう。けれども、「いや、世の中そういうことばかりじゃないでしょう」という人々が少数なりとはいえこの世にはいるし、いないと困る。そして、人類史上、世の中をこれまでより少しでも住み易くする方向に貢献した人々のほとんどはこの「そううじゃないでしょう派」に属する。

 

 

 

性間の社会的差別を廃絶して、女性にサクセスする機会を解放するというのは「よいこと」である。

しかし、そう言ったら、「性差にかかわらず万人は権力、財貨、威信、情報、文化資本おなどのリソースを欲望している」という条項への同意署名した、ということと解されると私は困る。私だけでなくかなり多くの人が困る。

 

 

生物のシステムにおいては、欲望はできるだけ同一対象に集中してはならないからである。

同一の空閑に生物がひしめきあって、限定されたリソースを分かち合っているときには、種によって体型や活動時間帯や活動域や食性を異にする方がシステム維持上安全である。それゆえ、生物はサイズや機能や生態を多様化している。(略)

 

 

すべての種は他の種と環境世界を「ずらす」ことで、有限の環境資源をできるだけ競合あいように利用し、おのれ自身の限られた生物資源をもっとも有利な機能に限定して発達させている。

人間も生物である以上そうすべきだろうと私は思っている。だから、「社会は同質的な個体ばかりで形成されるべきだある」という主張に軽々には与することが出来ないのである。(略)

 

 

あなたと同じ欲望を持ち、同じ行動規範に律される個体の数が増えるほど、あなたの唯一無二性は損なわれる。

だって「いくらだって替えがいる」んだから。

 

 

 

現に、労働史的に見た場合、均等法以後、労働者の労働条件は一貫して劣化してきた。

求人が一定で、求職者の数が増えれば、労働条件は切り下げられる。当たり前である。

男女雇用機会の均等は女子労働者への雇用機会の拡大であると同時に、誰からも文句があない「政治的に正しい」コストカットだったのである。

 

 

 

均等法の導入に財界が一言も文句を言わなかったという事から推して、これが労働者を保護するための法律ではなく、労働者をより効率的に収奪するための法律であることにただちに気付いてよかったはずであるのに、メディアはそのことをほとんど報じなかった。少なくとも私は読んだ記憶がない。

 

 

 

「人間なんてみんな欲しいものは同じだよ」という言明を私が「遂行的」なものではないかと懐疑するのは、この言明が「自明の前提」とされることそれ自体から構造的な利益を得ている人々が現に居るからである。

自明のことを確認しておこう。

 

 

グローバル資本主義にとって、性差は無意味であるし、無意味でなければならない。

なぜなら、グローバル資本主義とは、労働者が規格化・標準化されて、地球上どこでも同質の労働力が確保されることと、消費者が規格化・標準化されて、同一の商品にすべての消費者が欲望を抱くことを理想とするシステムだからである。(略)

 

 

だからもし、クローン技術が発達して労働者が工場で製造できるようになれば、資本主義はセックスを禁止するだろう。

個人が勝手に再生産したら、せっかく標準化した「人間の規格」にバグが生じるからである。

労働者=消費者を、性差にも国籍にも人種にも信教にも無関係に、ぜんぶ同一規格で揃えてしまうことがグローバル資本主義の夢である。

 

 

性差だけについて言えば、労働者=消費者が非性的に規格化されれば、原理的には賃金は半分になり、マーケット・サイズは二倍になる。

だから、少子化によって労働力の確保が危うくなり、市場が縮小することが死活問題にせりあがってくるまで、グローバル資本主義は性差の解消をとめどなく推進したのである。

 

 

しかし、労働条件が劣化し、消費欲望だけが亢進し、性差の社会的な価値が切り下げられた社会に投じられれば、遠からず労働者たちは結婚も出産もしなくなるだろうし、そもそもエロス的関係の構築に手持ちのわずかばかりの生物資源を投じなくなるだろうという蓋然性の高い未来予測をグローバリストたちは見落とした。(略)

 

 

これほどシンプルな歴史的シナリオにどうして気付かずに、大学人たちは高等教育をグローバル経済にジャストフィットするように「構造改革」することに孜々として努められてきたのであろうか……そう思うと私は恥と悲しみに「ぷるぷる」震えてしまうのである。

 

 

女子大の「実学志向」というのは端的に言えば「グローバル経済にジャストフィットするように教育を規格化・同質化・効率化すること」である。(略)

 

 

いま日本の大学は、学生たちをいくらでも替えの利く国際規格の標準的能力しかもっていないので、いくら安い賃金でこき使われてもそれに耐えるしかないワーキングプアとして社会に送り出す教育工場になるという自滅のシナリオを粛々と実現しようとしている。

私がぷるぷる震えるのもわかるでしょ。

 

 

というわけで、私の女子大論の最後はこんなふうに終わる。(略)

本学の創始者であるタルカット・ダッドレーの二人の女性宣教師が神戸に私塾を開学したのは太政官布告によって「キリシタン禁令」の高札が撤去された直後のことである。そもそもの最初から「そこにいるべきではない」と見なされた人によって本学は基礎付けられたのである。

 

 

そこで彼女たちが日本の少女たちに講じた英語や古典語や西洋史は当時の日本の女子教育の規準に照らすならば、ほとんど無意味なものであった。

けれどもこのささやかな学舎は間違いなく阪神間のある種の少女たちにとって心身の平安を得ることのできる例外的な場所であった。

 

 

 

それは、この小さな場所には明治の日本社会においてドミナントな価値観が入り込まず、そこで学んでいることに誰も値札をつけることが出来なかったからである。

彼女たちがそこで学んだ最良のことは、自分たちの社会とは価値観や美意識を異にする「外部」が存在するという原事実そのものであった。(略)

 

 

だから、私が言いたいことはまことに単純である。

本学は開学の時と同じく、日本社会における「外部」との通路であり続けることをその歴史的使命としている。そのためにも、学生たちを現在の社会において支配的な価値観に追随し、競争的に社会的上昇を遂げるように仕向けるべきではない。

 

 

むしろ、そのような現代社会のありように強い違和感を覚えている学生たちを迎え入れ、彼女たちが学外にいるときよりも学内にいるときの方が心身の平安と解放感を得られるような「逃れの街」であることのうちに使命を見出すべきである。それが私の結論である。

        (二〇〇七・一・一二)」

 

 

〇 う~ん… イイ!!

 

 

 

 

 

生きていてくれさえすればいい

「大学院の演習が始まる。後期のお題は「家族論」。ところが初回の発表の渡邊さんは、前期に発表が出来なかったので、後期の第一回に教育論の仕上げとして「寺子屋論」をお願いしていたのを私は忘れていたのである(なんでも忘れる人間である)。

 

 

 

まあ、子どもの教育について論じるわけであるから、家族論と言えなくもない。

近世日本が世界でも例外的に「子どもをかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。

 

 

寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。子供たちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉でなく、子どもひとり一人に与えられた課題が違うせいである)。(略)

 

 

総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。

理由の一つは幼児死亡率が高かったことにある。江戸時代の平均余命は男子が二〇歳、女子が二八歳である。これほど低いのは、生れた子どもの七割が乳児幼児のうちに死んだからである。

 

 

だから、元気で遊んでいる子どもというのは、「よくぞここまで育ってくれた」という感慨と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。

そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。(略)

 

 

だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現の言葉を聴くことはまれである。(略)

 

今の日本では、「子どもをどうやって社会的に生き残らせるか」という問いは「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに書き換えられる。「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれているからである。

 

 

繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごくごく例外的なことである。人類史の九九%において、「生き延びるちから」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲撃や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。

 

 

環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いのでない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる……そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。

 

 

 

けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。(略)

私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的に安全な社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。(略)

 

 

でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンが払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。

 

 

ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的・生理学的な人間の存在にはほとんど触れることがない。

でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人間が死ぬ。

社会が安全になったせいで、命の重さについて真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。

 

 

社会は余りに安全になりすぎると却って危険になる。

そういうこともあるのかも知れない。

「生きていてくれさえすればいい」というのが、親が子供に対するときのもっとも根源的な構えだということを、日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。

寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。

           (二〇〇七・一〇・三)」

 

 

 

三章 生き延びる力 ― コミュニケーションの感度

「生き延びる力

 

月曜からレギュラーの授業と会議に加えて取材が四件、お稽古が二回、ゼミ面接三五人、ラジオ出演が一回。

ああ、疲れた。

ゼミ面接がいちばん体力消耗した。面接者トータル八三人。一人一〇分平均として一四時間。

 

 

次々とやってくるその全員と面談を行い、その知的リソースとポテンシャルについて査定するという作業は、傍目には気楽に見えるかもしれないけれど(けらけら笑ってばかりいるから)、八三人相手にそのつどの話題で「けらけら笑う」ためには、相手が変わるたびに八三通りのモード変換を行わねばならない。(略)

 

 

 

採点基準を明らかにすると、私が重視するのは、「コミュニケーション感度」である。こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる。(略)

 

 

コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。

これは別に私の趣味でやっていることではなくて、それが生物の「生存能力の高さ」に相関するからである。

 

 

私は限りある教育的リソースを彼女たちに一定期間集中的に投じるわけである。そのたんめに要求する条件がだから、「どんな状況もなんとか生き延びることのできる能力」であることはハインラインの「宇宙の戦士」の新兵の選別条件と変わらない。

 

 

新聞、雑誌、ラジオなどで問われたテーマはいずれも「現代の家庭、学校はどうして「こんなに」なってしまったのか?この先、どうやって日本社会を再建したらよろしいのか?」という問いに関わるものであった。

 

 

原因についてはいくつか思い当たることもあり、ブログや本に書いてもいるが、どう対処すべきかについて私に妙案があるわけではない。

基本的な認識として私はこれらの日本を蝕む構造的な不調の原因は「平和ボケ」だと考えている。

 

 

戦後六〇年間の静穏な平和の中で日本人は「動物園の動物」のピットフォールにはまりこんだ。

それは「生き延びるためにどうすべきか」という生物にとってもっとも喫緊な問いを自らに向ける必要がない、というある意味では「ありがたい」状況が長期にわたって続くことがもたらした病である。

 

 

 

「明日も今日と同じように平和が続く」という条件を丸飲みにして、危険に対する緊張感を失った生物は「生き物」として脆弱になる。これは避けがたい。

緊張感の欠如がもたらす脆弱さの端的な徴候は「視野狭窄」である。言い方を換えれば「未知なるものに対する想像力」の欠如である。

 

 

自分自身の足下が崩れるようなシステム・クラッシュの可能性をつねに勘定にいれる習慣を失った生物は、パニックに際会したときに生き延びることができない。

「パニック」というのは、「手持ちの判断基準が使い物にならなくなる」という事態のことである。

 

 

何の判断基準もないときでも、生物は生き延びるためには判断しなければならない。この矛盾に耐える力をどう育成するか。

むずかしい宿題である。

 

 

 

とりあえず、ひとつだけわかっていることがある。

それはどんな場合でも、とりわけ危機的状況であればあるほど、「他者からの支援」をとりつける能力の有無が生き延びる可能性に深く関与するということである。

 

 

他者からの支援をとりつけるための最良のアプローチは何か?

たぶん、ほとんどのひとは驚かれるだろうけれど、それは「ディセンシー」である。

「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。

この理路は、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。

 

       (二〇〇五・一二・九)        」

 

〇 他者からの支援をとりつける能力と聞きながら、思い出していたのは、今読んでいる「忘れられた巨人」の中のシーンです。

今、手元に本がないので、そのままの文章ではないのですが…

老夫婦が息子の家を目指して旅に出ます。場所は英国なのですが、時は相当な昔。

あの「ロード・オブ・ザ・リング」「の頃に近いのでは?と思えるような大昔です。

道もよく分からない中、大雨に降られて、道路から少し入った廃屋に辿り着きます。

住人がいるのか確かめるために声を掛けると、老婆と年齢不詳の男がいました。

挨拶しても返事がない。その時、老夫婦の夫の方が「神のお恵みがありますように…」的な挨拶をします。すると、相手の態度が少し和らいだように見えた…、というのです。そして、その後、少しずつ会話が成立し始めます。

 

ここがとても、印象的でした。

「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。という言葉を読んで、それを思い出しました。

 

 

それは私の責任です

社保庁問題がメディアを賑わせている。

これだけのミスが累積するのだから、構造的にもいろいろと難しい問題がある制度なのであろうが、それにしてもここまで問題を深刻にしたのは歴代の社保庁の役人たちのメンタリティの問題だろう。

 

 

そして、そのメンタリティは悲しいかな程度の差はあれ私たちの社会の全域に瀰漫しつつある。

それは「前任者の不始末をなんで私が尻ぬぐいしなくちゃいけないんだ」という不満に「理あり」とする態度である。

 

 

「この不祥事の責任を問う」という言葉は勇ましいし、合理的に聞こえるけれど、実際には責任の淵源を探ってゆくと、最後に発見されるのは、誰でもやるような僅かな事実誤認や見落としだけである。ほとんどすべてのシステムトラブルは誰でもするようなケアレスミスから始まる。

 

そんなものにシステムをクラッシュさせるような力はない。

システムをクラッシュさせた責任は、「起源」にはない。

このことをみなさんはお忘れであるようなので、ここに大書するのである。

 

 

 

 

システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したことにある。

 

 

行楽地で空き缶を捨てようときょろきょろしている観光客がいる。どこにも空き缶が捨ててないと、しかたなくマイカーに持ち帰る。ひとつでも空き缶があると、「やれやれ」とうれしげにそこに並べる。そういう人間「ばかり」だから、空き缶一つをトリガーにして、あっというまにゴミの山ができあがる。

私たちの社会はそういうふうに出来ている。(略)

 

 

「私が来るより前から「こんなふう」だったんです。私はトラブルの起源ではありません」という言い訳が通るとわかると、どんなひどいことでもできる。

それが私たち日本人である。

最初の空き缶をとおりがかりの誰かが拾えば、それでゴミの山の出現は阻止できたのである。だが、「なんで、オレがどこの誰だかわからないやつの捨てたこきたねえ空き缶を持ち帰らなきゃいけないんだよ!」と怒気をあらわにすることが、「合理的」であるという判断にほとんどの人が同意するが故に、「一個の空き缶」で済んだものがしばしば「ゴミの山」を結果するのである。

 

 

社保庁でも事態は同じであったろうと思う。

ミスは四〇年以上前から指摘されていたそうである。そのときの社保庁の人間は「前任者のしたミスの後始末をなんでオレがしなくちゃいけないわけ?」と思った。そして、自分のこの判断は「合理的」であり、国民の過半はこの判断に同意してくれるだろうと信じたのである。

 

 

他人の犯したミスを「私の責任でただします」というようなことを社保庁はその吏員に求めていない。社保庁だけでなく、日本的システムはどこも求めていない。

いったん事件化したあとになって「誰のミス」であるかを徹底究明することには熱心だが、事件化するより先に「私の責任」でミスを無害化する仕事にはほとんど熱意を示さない。

 

 

システムは放っておけばかならずどこかで不具合を起こす。

こお不具合がもたらす被害を限定するためには二つの方法がある。

「対症」と「予防」である。

 

 

「責任を徹底追及して、二度とこのような不祥事が起こらないようなシステムを構築します」という考え方を「対照的」という。

「二度とこのような不祥事が起こらないシステム」などというものは人間には構築できない。

不祥事を阻止できるのはシステムではなくて、その中で働く固有名をもった個人だけだからである。

 

 

 

ここにミスがあるとする。誰が犯したミスだか知らないけれど、放置しておくといずれ大きな災厄を招きかねない。だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。

そう考えるのが「予防」的な発想である。

「予防」はマニュアル化できない。

というのはマニュアルというのは責任範囲・労働内容を明文化することであるからであるが、ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に広がるあの広大な「グレーゾーン」において発生するものだからである。

 

 

 

誰もそのミスを看過したことの責任を問われないようなミス。グレーゾーンにはそのようなミスが構造的に誕生する。

「それは私の仕事じゃない」

これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。(略)

 

 

だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然にふせぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにしてしだいに危険水域に近づいている。

 

 

「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。

前途遼遠だが、それしか方法はない

 

               (二〇〇七・六・八)       」

 

 

 

 

 

 

忘れられた巨人


〇 カズオ・イシグロ著「忘れられた巨人」を読んでいます。先日、「日の名残り」を読んだ時、数日かけて、少しずつ読んだのですが、その物語の中に「戻る」のがとても楽しみになっている自分に気づきました。

それ以来、その感覚が忘れられず、もう一度、とカズオ・イシグロの本を読み始めました。

以前と物語が違うし、今度はそうはならないかも、と思ったのですが、
期待は裏切られず、やはり今回も、「その中に戻る」のを楽しみにしながら、
日々の雑事をこなしています。

私が「その世界」を楽しみにしていた本と言えば、「赤毛のアン」と「風と共に去りぬ」です。どちらも少女小説っぽい世界が自分にあっていたのだろう、と思いました。

ここに来て、こんな風に「その世界」を楽しみにする小説に出会えるとは思いませんでした。嬉しいです。

日の名残りも今の忘れられた巨人も、ミステリーではないのに、先の展開が気になって読まずにいられなくなります。その流れに気持ちが運ばれてしまう「水流」のようなものを感じます。


そしてもう一つ、とても「善良な空気」を感じます。
これは、「赤毛のアン」にも「風と共に去りぬ」にもあったものです。私はその空気を求めて、あの世界に逃げ込んでいた時期がありました。

その空気がカズオ・イシグロの本にもあって、私はそれがすごくうれしいのだと思います。まだ、読み始めたばかりなのですが、そう感じながら読んでいます。


そんな「善良な空気」という言葉を発して思ったことがあります。

先日読んだ内田樹著「こんな日本でよかったね」の中にあった言葉を抜粋します。


「だから、「私の着任以前の何年も前からルール違反が常習化しており、私も「そういうものだ」と思っておりました」というようなエクスキュースを口走る管理職が出て来たことがシステムの壊死が始まっていた証拠である


〇「赤信号みんなで渡ればこわくない」をギャグとして笑っていた頃には、まだちゃんとあった「善悪の規準」が、「敢えて語らないのが粋」、「上から目線で偉そうに説教しないでほしい」の風に吹き飛ばされ、今やどんどん曖昧になり、「ルール違反が常習化し、私もそういうものだと思っておりました」という人が増えてしまったのか…と思いました。





「すみません」の現象学

〇 これも読みながら「わからない…」と思いました。パスしようかとも思ったのですが、文章を書き写すことで、ひょっとしたら何か違ってくるかもしれない、と期待して、メモしてみます。

 

「角川から出す新書「態度が悪くてすみません」の「まえがき」を書く。

「態度が悪くてすみません」というタイトルは三日前お風呂にはいっているときに思いついたのであるが、よくよく考えるとなかなかに滋味深いタイトルである。

 

 

「態度が悪くてすみません」と謝罪している私はいったい「何」について「誰」が「誰」にむかって告げている言葉なのであろうか。

「態度が悪い」というのはすでになされてしまった行為について下される評言である。

 

 

「すみません」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に私が発している言葉である。

この短い文のうちには二種類の時間が含まれている。

 

 

「態度が悪かった」のはむろん私である。「過去のある時点での私」である。「すみません」と言っているのも私である。これは「現在の私」である。

「態度が悪くてすみません」というフレーズには、「過去の私」と「今の私」は、同一の私であるけれども、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言している。

 

 

ここに「時間」と「他者」が生成するのである。

わかりにくいことを申し上げてすまない。

「私」というのは「変わらないものである」という考想をかつてレヴィナス老師は「同一者」と術語化された。

 

 

同一者の世界には「未知のもの」が存在しない。すべては「想定内」の出来事である。

「こんなことは織り込み済みです」という言い方は「私は無時間的に同一者である」と宣言しているに等しい。未来はあらかじめ把持され、過去は完全に理解されている。そのような人間の身には「前代未聞のこと」は何も起こらない。この言葉を好んで口にした人物の運命は周知のとおりである。

 

 

老師はこの「未知なるもの」を構造的に排除する知のありかたを「光の孤独」と名づけた。

 

 

光はこうして内部による外部の包摂を可能ならしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇蹟がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来して来るものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。大正はすでに知解された外部から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。

     (「実存から実存者へ」Emmanuel Levinas,De l'existence a l'existant,Vrin,1978,p.76)

 

 

「光の孤独」というのは、すべての出来事が「想定内」「織り込み済み」のものとして出現するような知の絶対的孤独のことである。そのように知にとっては未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しない。

 

 

だが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではない。実のところ私たちは外在的な他者なんかいなくても、けっこうやっていけるからである。ひとりでいても、まるでオッケーなのである。だからこそ、「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけである。

 

 

「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者の居ない世界」が繁昌する。「他者がいなくては困る」というのが本当なら、みんな必死になって他者との出会いを求めるに決まっている。

 

 

みなさんが「他者抜き生活」を過ごされていても、特段の不自由を感じられているようには見えないいうことは、私たちがそれなしではすまされない「本質的他者」、「絶対的他者」というのは通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味している。

 

 

私たちがそれなしではすまされない「絶対的他者」とは(驚くなかれ)「私」のことである。「私ではないんだけど、私」であるような「私」のことである。

私たちは一秒ごとに変化している。(略)

 

 

にも拘わらず、私たちは「同じ人間である」と思っている。

これについて養老孟司先生がいきなり本質的なご指摘をされている。

 

目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち「同じ自分」が戻って来る。一生のあいだに何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回は目を覚ますはずである。ところがそのつど、

「私はだれでしょう」

と思うことは、いささかもないはずである。つまりそのつど「同じ自分」が戻って来る。それなら「同じ自分」なんて面倒な評言をせず、「自分」でいいということになり、いつの間にか「自分」という概念に「同じ=変わらない」が忍び込んでしまう。

         (養老孟司「無思想の発見」ちくま新書、二〇〇五年、三九頁)

 

 

「面倒な評言をせずに」、「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス老師は「同一者」と呼んだ。

 

 

レヴィナス老師が私たちに求めたのは、いわば、目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。

目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と自問を行う人は、「そう問いかけている人」と「そう問われている人」の間の「ずれ」に引き裂かれる。

 

 

 

その「引き裂かれてある」という事況そのものを「主体性」と呼びませんか、というのが老師からのご提言だったのである。

「私は私である」という自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではない。

 

 

そうではなきうて、「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、

平気で「私が思うにはさ点…」と発語を起動させてしまえるというこの「いい加減さ」である。

 

 

言い換えれば、「私にうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない<他者>が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、それでは、というのでそのような<他者>との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである

 

「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な構造体であるということを意味している。

「単体の私」というものは存在しない。私はそのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれている。

そういう形でしか私というのは成立しないのである。

 

 

私の自己同一性を基礎付けるのは、「私は私が誰であるかを熟知している(あるいは、いずれ熟知するはずである)」ということではなく、「私は自分が誰だかよくわからない(これからもきっとよくわからないままであろう」にもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という原事実なのである

 

 

私の過去と未来には宏大な「未知」が拡がっている。

私たちの未来は「一寸先は闇」で少しも見通せないし、過去は一瞬ごとに記憶から消えてゆき、残った記憶も耐えず書き換えられてゆく。

そのただ中に「私は誰でしょう?」という自問を発する主体がいる。

 

 

その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、朝目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と問いながらも、「いつまで寝てんの!朝ご飯よ!」と呼ばれると「はい」と返事して食卓につき、「あなた、ゆうべ寝言うるさかったわよ」と言われたら「すみません」と謝ることのできる「能力」なのである。

 

 

人間の人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」である。

老師が「倫理」と呼んだのは、そのことである。

それは別にとなりの山田君がガラスを割ったのに、「ぼくがやりました」と噓をつけということではない。

 

 

自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことはいくらでもある(というか、それによって私たちの人生は満たされている)。

 

 

それについて涼しく「すみません」と宣言すること。

それは過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることである。

それが倫理という言葉の意味である。

 

 

老師はそのことのたいせつさを教えられたのである。

「絶対的他者」とは、「私がその人のために / その人に代わって「すみません」と言う当の人」のことなのである。

 

「光の孤独」のうちに幽閉されている同一者はそのような意味での他者を持たない。

だから彼らは「すみません」ということばを決して口にしない。

               (二〇〇六・一・三〇) 」

 

〇やはりイマイチよくわかりません。

ただ、「「絶対的他者」とは、「私がその人のために / その人に代わって「すみません」と言う当の人」のことなのである」ということに似ている文章を以前も読んだことがある…と思いました。

 

精神の生活」から引用します。

 

「<考えないこと>と悪との間には何か関係がありそうだということは、我々の
抱えている中心問題とのからみで考えるとどういうことになるのか?

結論としては、ソクラテス的なエロス― 智慧・美・正義への愛― によってかきたてられている人だけが思考できるのであり、信頼できるのだということになる。

いいかえると、これはプラトンの言う「高貴なる本性の持ち主」であり、そのごく少数の人だけが「すすんで悪をなす」ことはないと言えるのである。」

「というのも、この自我は二者性においてのみ存在しているからである。(略)」

 

〇 そして、この「二者性」と山本七平さんが言っていた「教養」が関係あるような気がしますが…。