読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「普通倫理」と「帝王倫理」

 

重剛は「帝王倫理」と「普通倫理」は分けがたい点があるとしているが、その教育方針は、大体「普通倫理から帝王倫理」という行き方で、はじめは、ほとんどこれを分けることをしていない。「知仁勇=知情意」などは、両者に共通する基礎と見ている。当然といえば当然であろう。

 

「道徳には種々の項目あり。ことに王者として具備せらるべき徳も多々あるべしといえども、要は知仁勇の三徳に着眼して修養せらるること大切なり。即ち知を磨くには、まず能く諸種の学問を修め、古の教訓を味わい給うべし。

 

 

「中庸」にも学を好むは知に近し、と見えたり。かくの如くに学んで能く道を明らかにするときは、あたかも明鏡の物を照らすが如く、いかなる混雑にも迷わず、直ちに善悪正邪を判断することを得るに至るべし。

 

 

 

また仁は人を愛するの情なれば、単に一個人としてもこの情け無かるべからず。ことに幾千万の民の親として立たせらるる帝王には、下、民を愛隣せらるるの情をそなえさせらるること最も肝要なり。何となれば上に愛情なき時は、下これを慕うの念、また自ずから薄かるべきを以てなり。

 

 

現今の如く列国愛対峙して、競争激烈なる世にありては、種々困難なる問題の起こり来たるは、けだし免れざるの数なるべし。かかる際には十分勇気を鼓舞して、臆せず恐れず、これを処理し、これを断行せざるべからず。これすなわち勇なり。勇気を修養せんには、種々の方法もあるべけれど、「中庸」に恥を知るは勇に近しとあり。思うに能く恥を知りなば、その行為必ず公明正大にして、真正の勇者たるべし。

 

 

 

以上述べたる如く、支那にても西洋にても三徳を貴ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家をも平らかならしむるを得べきものなれば、よろしくこの義を覚らせ給うべきなり」

 

以上が「第一 三種の神器」の本文であり、重剛はこれを「知仁勇=知情意」に変え、神秘的な要素は記していない。一言で言えば、化学者らしい「非神話化」で、重剛はこれを個人倫理の象徴に還元してしまったわけである。」

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「三章 「三種の神器」の非神話化  

     =道徳を絶対視しつつ、科学を重んじる杉浦の教育方針

 

三種の神器は「知・情・意」の象徴

 

「倫理御進講草案」には、その冒頭に「趣旨」が記され、次の言葉で始まる。

 

「今回小官が東宮殿下に奉持して倫理を進講すべきの命を拝したるは無上の光栄とする所なり。顧うに倫理の教科たる唯口にこれを説くのみにして足れりとすべからず。必ずや実戦躬行、身を以てこれを証するにあらざれば、その効果を収ること難し。故に、学徳ともに、一世を超越したるの士にして始めてこれを能くすべし。

 

小官の浅学非徳なる果たして能くこの重任に堪え得るや否や。夙夜恐懼して措く能わざる所なり。然れども一旦拝命したる以上は、唯心身を捧げて赤誠を致さんことを期するのほかなし。いま進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

 

 

 

一、三種の神器に則り皇道を体し給うべきこと。

一、五か条の御誓文を以て将来の標準と為し給うげきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うげきこと」

 

 

となっている。これが彼の倫理御進講の趣旨で、時代を考えればごく常識的といえる。(略)

彼はまず、「御進講」の最初の項「三種の神器」の冒頭を、

「皇祖天照大神、御孫瓊瓊杵尊大八洲に降し給わんとする時、三種の神器を授け給い……」とはじめるが、すぐにこれを非神話化して「知仁勇=知情意」の象徴であると、次のように説き始める。

 

 

三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以て至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり」と。

 

 

いわば神話的要素を一気にはずして道徳基本論へと入り、ついで中国と西欧の基本的な発想に進み、再び日本に戻るという形で論を進める。すなわち――、

 

 

「これを志那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、「中庸」に帰されたるあり。世に人倫五常(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信ありの五つ)の道ありとも、三徳(知仁勇)なくんば、これを完全に実行すること能わず。

 

 

言を換うれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せられるべきものなりとす。志那の学者すでにこれを解して、知はその道を知り、仁はその道を体し、勇はその道を行なうものなりといえり」

 

と彼は説き、ついで西欧に進む。

 

 

「またこれを西洋の学説に見るに、知情意の三者を以て人心の作用を説明するを常とす。知は事物を知覚すること、情は自然の人情にして悲喜愛憎みなこれなり。その至純にして至清なるものを仁となす。意は事を行わんとする志にして、困難に当たりても屈せず撓まず、これを断行するを貴ぶ。これ勇なり。知情意の完全に発達したる人を以て完全なる人物となす。換言すれば優秀なる人格の人は、完全なる知情意を有するなり」

 

と彼は説き、西欧も中国も同じことを主張していると締めくくって、また日本にもどる。

 

 

「以上述べたる如く、志那も西洋もその教えを立つること同一なり。要は知仁勇三徳を修養するを以て目的とす。ただ彼にありては理論よりしてこれを説き、われにありては皇祖大神が実物を以てこれを示されたるの差あるのみ」

 

と彼は結論づける。(略)」

 

 

〇 中国も西洋もそして日本も同じものを大切だと言っている、ということで、

とてもすんなりと受け入れられる内容だと思いました。彼(西洋・中国)にありては、理論で説き、我にあっては実物でこれを示された…という説明も納得でき、わかりやすいと思いました。

 

私たちの国には、倫理を教える宗教のようなものはない。それで平成天皇は象徴として、具体的に国民に寄り添う行為を通して、「実物」としての「仁」を伝えようとしているのでは?と感じたことがあります。

 

 

でも、「実物」で「優秀なる人格、完全なる知情意を有する人」を求めるというのは、無理があるのでは?と思います。生身の人間は、所詮ただの動物、どんなに頑張っても、完全ということはあり得ない。

 

「恋は盲目」状態にも似て、素晴らしい人、完全な人が、あり得ると

思っている時、ほんの少しの欠点も許せなくなります。

本来は、かなりいい人だと思うのに、ちょっとした傷を問題視して、

「あの人にはがっかりした」みたいな言われ方をするのを聞くとき、

私は、そんなことを言う人に、がっかりします。

 

「実物」で「優秀な人格、完全なる知情意を持つ人」を求める時、そんな人はこの世にいない、と、逆に、倫理的なものを求めることに絶望するしかなくなるのではないでしょうか。

 

あのチャップリンが「ライムライト」(だったかな…)で言っていたように、イメージでいいのだと思います。

倫理は、本来裸のサルでしかないヒトが、「〇〇でありたい…」とイメージして、人間らしく振舞うためのものだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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「倫理の教師に、杉浦が指名された理由

 

(略)

実は前々から、この忘れられた「書生道楽」者に眼をつけていたらしい人がいた。それが浜尾新(一八四九~一九二五年)である。かれは東大総長を二度つとめ、文部大臣も経験した教育界の長老だが、重剛が大学南校の学生の頃の幹事で、学校に泊まり込みで生徒の世話をしていた。いわば重剛とは四〇年来の先輩・後輩の間柄であり、彼の生涯をつぶさに見ていたと言ってよい。(略)

 

 

その彼が東宮大夫となり、東宮御学問所副総裁を兼ねるようになって、白羽の矢を杉浦重剛に立てた。東大総長と文部大臣を歴任した彼は、もちろん当時の教育界に精通しており、多くの学界の重鎮といわれる人を知っていた。だがそれらの人が選ばれず重剛が選ばれたのは、彼が中学教育のベテランであったからであろう。

 

 

この名総長といわれた人の判断は的確で、これから中学生になる将来の天皇には、経験を積んだ中学教師が必要でも、大学教授が必要なわけではない。そして理想的なのは、優に大学教授が務まる中学教師で、長らくの経験を積んだ者であった。この点で杉浦重剛こそ適格と見たのであろう。

 

 

 

もちろん浜尾は独断で決めたわけではなく、杉浦の著作を審査したのは山川健次郎(一八五四~一九三一)である。山川は白虎隊から城づきにまわされたので生き延びたという数奇な運命の持ち主である。彼は会津鶴ヶ城で籠城戦を一か月戦い、落城後に、彼の才を惜しむ人に助けられて越後に落ち、江戸に出て開拓使の試験を受け、これに合格してエール大学に留学という苦難の道を歩んでいる。(略)

 

 

国家の興廃は「道徳」にあり

 

では杉浦重剛とはどのような思想の持ち主であったのか。それを要約するのはきわめてむずかしい。理由は簡単で、彼は青少年期に漢学と洋学を学び、イギリスに留学して化学を学んでも、いわゆる「西欧近代思想」を学んではいないからである。(略)

 

 

しかし「倫理御進講草案」をはじめとする彼の著作を読むと、その思想はある程度はつかめる。簡単に言えば、彼は、幕末に漢学を学び明治初期にイギリスに留学した多くの人と、ある面では、同じような思想を持っていた。それを彼自らの言う「日本で発達した日本固有の儒学」と「ヴィクトリア朝的なイギリス思想」との習合といった思想と見てよいであろう。

 

 

当時留学した日本人で、進化論の影響を受けなかった者はいない。それもスペンサーの社会進化論的な考え方で、個人も国家も適者生存で不適者は淘汰されるという考え方である。穂積八束(法学者、陳重の弟)などはこの信奉者で、個人が適者生存・不適者淘汰を継続すれば、その民族は優秀な適者だけになるから、次は、世界における諸民族との競争にも勝ち残るといった考え方を持っていた。

 

 

 

この思想は、きわめて危険な要素を含んでいるが、問題はいかなる要素を持てば適者になれるかである。

重剛もまた精力をたくわえた者が適者になると信じていたが、興味深いことは、彼が、力とは武力・知力・腕力ではなく道徳だと信じていたことである。その点では、道徳至上主義者と言えるであろう。

 

 

 

ここには「徳」に絶対的な価値を置いた儒教の影響があるであろうが、それだけではあるまい。いわば道徳的頽廃が一民族を衰亡に導くことが、ギボンの「ローマ衰亡史」以来、ある程度は常識化していたイギリスの影響もあったと考えてよいであろう。

 

 

 

この考え方も明治にはある程度は共通して見られ、内村鑑三なども道徳的頽廃が衰亡につながると考えている。(略)

 

 

重剛は、栗山潜鋒の厳しい批判――特に後白河法皇への――や、天皇家の頽廃の状態などは、問題化しないように、あくまでも口頭で行って記録に残らぬようにあのであろう。

 

 

彼は日本がイギリスのように、世界の中心的勢力になるべきだとしている。これもヴィクトリア朝時代の留学生に共通していると言ってよい。もっともそれが目標や憧れか明確でない場合もあるが、重剛は、日本は世界の盟主になるべきだとしている。

そういうと誤解されそうだが、彼は、超国家主義軍国主義者ではない。それはあくまでも、道徳という力において最高になることだとしている。これも「保健大記」とよく似た考え方で、潜鋒は、朝廷は「失徳」によって政権を失ったのだから、「徳」をきわめれば幕府は大政を奉還し、他の国々も日本を盟主とすると説いている。

 

 

 

重剛は、道徳がなぜ力であり得るかを自然科学的に説明しているが、これは、今では問題にするに足りない。ただ彼の考え方は道徳至上主義で、道徳的に頽廃すればその国家・民族は滅亡し、当特的に向上すればその国家・民族は興隆すると考えていたことは間違いない。

 

 

さてこうなると天皇は、模範的な道徳的人間にならねばならない。そうでなければ日本は衰亡に向かうことになる。彼は帝王倫理と個人倫理は区別しがたいと言っているが、この点では確かにそのとおりであろう。(略)

 

 

 

大正三年(一九一四年)五月十五日、浜尾は、杉浦家を訪れ、「皇太子裕仁親王倫理教師を引き受けてもらいたい」と言った。全く予期しない話に重剛は驚いた。そんな要請が自分のところに来ようなどとは、夢にも思っていなかったからであろ。彼は一両日の猶予を請い、日頃信頼している関係者に相談して、この大任を引き受ける決心をした。

 

 

浜尾が彼の宅を訪れてから八日後の五月二十三日、彼は宮内省に出頭して辞令を受け、ついで御学問所を見学してから皇太子裕仁親王に拝謁した。初対面であったろう。それから約一か月間、彼は、御進講の草案づくりに没頭する。それが、いま残されている「倫理御進講草案」の草稿であろう。

 

 

 

倫理の「御進講」が、後の天皇に与えた影響

 

以上のような経過を経て、杉浦重剛は皇太子裕仁親王に倫理を講義するようになった。それが天皇にどのような影響を与えたか。それは、さまざまな機会に天皇が口にされた言葉、およびほぼ一貫している生き方と、重剛の残した「倫理御進講草案」とを対比すると、自ずと明らかにてくる。(略)

 

 

前述のように彼が辞令を受けたのは五月二十三日、倫理の教師はまだ決まっておらず、倫理抜きの始業式だった。これは、その人選がどれだけ難航したかを示している。(略)

 

 

 

後の記録を見ると、天皇が最も得意な外国語はフランス語、次が英語であり、ドイツ語は習得されなかったらしい。

興味深いのは、歴史が白鳥庫吉博士で、彼の学問を継承したのが津田左右吉だが、ともに「神話は歴史に非ず」としている点である。(略)

 

なお、東郷元帥も杉浦重剛もともにイギリスへの留学生であったことも興味深い。それが天皇の親英米的傾向にどのような影響を与えたかはあきらかでないが、重剛がドイツをほとんど無視するか、否定的に採り上げるかのいずれかであったことは「倫理御進講草案」を見れば分る。

 

 

さまざまな理由があったであろうが、”時局”も影響したであろう。

彼が一か月の準備を終えて講義をはじめたのが六月二十二日、そして七月二十八日に第一次大戦がはじまり、日英の関係から、日本も八月二十三日にドイツに宣戦布告をしているからである。」

 

 

 

 

 

 

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「後の天皇が、独伊を信頼しなかったのはなぜか

 

また英米についての関心は、様々な問題に関連して出てくる。(略)

これと比べると、このような形で全然出てこないのが独伊である。これは、知らないから当然ということになるであろうが、重剛はこれらの国に明らかに親近感を持っていない。

 

 

 

ドイツについては「前独逸皇帝ウィルヘルム二世の事」との一章がわざわざ設けられているが、これはあくまでも「反面教師」として出てくるのであり、天皇は決してこうなってはいけないという例である。

 

 

第一次世界大戦での敗戦とともに、ウィルヘルム二世が何もかも投げ出して退位、亡命したことは、決して責任を全うしたことにならない。こういう時こそ自らが身を捨てて正面に立つべきだ、ということを天皇はこの「反面教師」から学ばれたであろうと想像される。

 

 

天皇の親英仏米・反独伊は、たとえば、

 

「独伊が如き国家とその様な緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか」   (昭和十五年九月十六日、「天皇 秘録」)

 

と言った言葉にも現れている。(略)

もちろんそこには、イギリス王・ジョージ五世への強い親近感と、専攻された第一外国語がフランス語であったことも深く関連するであろうが、少年期に、重剛が不知不識(しらずしらず)のうちに植え付けたものが根底にあったであろう。(略)

 

 

以上のような点で見ていくと、重剛における英国と化学は、決して消えていないと思わざるを得ない。だが彼は、帰国後もイギリス式に日常生活を送った穂積陳重(法学者)のような生き方はせず、また「日本化学kの祖」といわれるような位置にも着かなかった。

 

 

彼とともに、あるいは前後して留学した者は、政界・学界・法曹界で「重鎮」といった位置を占めた人が多いが、それと比べると重剛は、世間的には「出世しそこなった男」にも見えたであろう。

そうなった理由の一つは彼の病気にあった。彼には神経症的ともいえる完全癖があり、そのため一点一画もおろそかにしない猛勉強をする。何しろイギリス人を抑えて首席にになるほどだから、その勉強ぶりはすさまじく、そのため不眠症となり胸部疾患を生じた。(略)

 

 

彼の留学中に、大学南校は東京帝国大学になっていた。洋行帰りの東大卒の彼は、半年ほど療養するとすぐ母校に招聘され、東大理学部博物場掛取締になる。(略)

 

またジャーナリズムの世界にも進出し、一時は文部省にも勤め、明治二十三年には、第一回帝国議会の選挙に郷里から推されて当選したが、政治の世界に失望して半年で議員を辞め、日本中学校の校長となり、教育と言論の世界に身をおくこととなった。

 

 

 

なお「称好塾」は、まことに自然発生的で、彼を慕って集まる青年が多く、その一部が書生として住み込むようになり、そのためしだいに家を増築した結果、出来上がったような家塾である。この点で彼は天性の教育者であったらしい。

 

 

学者は必ずしも教育者ではないし、教育者は必ずしも学者である必要は。特に中学・高校の段階までは、教師として大学者が要請されるわけではない。重剛が学者タイプか教育者タイプかと言えば、前述のように明らかに後者である。

 

 

彼は自らを「書生道楽」といい、代議士を辞めた後は政界・官界・学界おに、一切野心も関心もなく、私立中学の校長を天職と心得てこれに専念していた。

そして明治も終わるころになると、世間から忘れられた存在になっていた。(略)

新聞に「故杉浦重剛氏」と書かれたという逸話があるが、おそらくこの頃のことであろう。」

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杉浦重剛の青年時代と自己形成

 

ここでまず、資料の最もはっきりしている杉浦重剛(通称・じゅうごう 一八五五~一九二四年)について、少し記さねばならない。彼はすでに忘れられた人であり、また様々な資料で彼の名を知る人も、だいたい写真でその風貌に接したのが限度らしい。(略)

 

 

彼は安政元年(一八五五年)、近江膳所藩の儒者の二男に生まれた。藩校で十四歳まで学び、成績優秀で十五歳で句読方という職に取り立てられた。彼は儒者の家の出身だが、幕末という時代の影響であろうか、藩校のほかに三人の師について漢学と洋学を学んでいる。

 

 

そしてこの青年期の彼への最大の衝撃が、最も尊敬する師の高橋担堂が、尊皇派の一員として、ある事件に巻き込まれて刑死したことであった。(略)

 

 

その後に杉浦が師事したのは、黒田麴盧(一八二七~九二年)である。この人は、有名な緒方洪庵や伊藤玄朴(幕末・維新期の蘭方医)に学び、江戸で蕃書調所に勤務した。この蕃書調所が大学南校となり、さらに東大へと発展していく。

 

 

彼はここでさまざまの言語に接し、かつ学んだらしく、漢学は言うに及ばず、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語さらにサンスクリットまで手を伸ばしたという。いわば草創期に出てくる典型的な″百科全書的学者"であろう。(略)

 

 

 

麴盧のほかに彼は、京都の岩垣月州(幕末・維新期の儒学者)にも学んだ。この人は弟子が多く、岩倉具視、近衛忠弘、篤麿(文麿の父)、富岡鉄斎日本画家)らがその弟子にいる。重剛が学んだころはもう老齢で、盲目であった。

 

 

この師がある日、空論ばかりたたかわせていないで、まず飯が食えるように注意したらよかろうと言った。当時の武士たちは、飯のことなぞ口にするのもいやしいことと考えていたので、重剛もこの師を一時、いやしんだらしい。そして彼は、廃藩置県のときに、この師の言葉の重要さを思い知らされる。以上の三師を彼は自己の生涯の師と考えていた。

 

 

明治二なると、政府は近代国家を担う人材の養成が急務であると感じ、全国各藩から優秀な青年一人ないし三人を推薦によって集め、蕃書調所の後身の大学南校で洋楽教育を行うことにした。総計三一〇人。彼らは文字通り新しい日本を担うエリートであり、その多くは、今までにない新しい学問を日本に根付かせた人たちである。

 

 

 

一方、彼らの苦労も大変だった。授業は外国人教師による外国語であり、とうていついて行けないと自殺する者や、故郷へ逃げかえる者もいた。無理もない。重剛も英語でいきなり数学や化学の抗議を受けるのだが、辞書と言えば「薩摩辞書」しかない。彼の成績は、はじめはどんじりの方であったが、猛勉強で二、三年のうちにトップクラスになり、明治九年に外国留学生に選ばれ、明治天皇の前で御前講義をする一人にも選ばれている。(略)

 

 

 

イギリスが杉浦に与えたその精神とは

 

明治九年六月、彼は外輪船(蒸気で水掻きを回す初期の汽船)アラスカ号で、アメリカを経由してロンドンに向かった。サンフランシスコに上陸し、はじめて米大陸の土を踏んだ時、彼は大変な文化ショックを受けた。

 

 

当時の日米の懸隔を思えばこれも当然で、幕末から明治初期に米国経由で西欧に行った者は、すべてサンフランシスコでショックを受けている。

ただそのショックの結果は人によって相当に違い、ある者は日本に失望して自己否定の欧化絶対となり、ある者は逆に「負けるものか」と日本人意識が逆に強くなる。強くなっても、それは欧米の絶対的優位を認めているわけだから、出来るだけ早く学ぶべきものを学んで相手を凌駕しようとあらゆる努力をする。

 

 

自己否定の欧化主義者も努力をするから、学ぶという点では両者は同じであろうが、ただその内なる心の持ち方は全く違うという結果になる。重剛は後者であったらしい。(略)

 

 

 

そこで彼は純正化学へと転じ、マンチェスターのオーエンス・カレッジに移って、ロスコー、シャーレマルという二教授について化学を学んだ。彼はこの二教授を深く尊敬して熱心に学び、イギリス人学生を抑えて首席となった。語学というハンデキャップを考えれば、超人的な努力であったろう。(略)

 

 

表面的には、イギリスも化学も忘れてしまったように見えるが「倫理御進講草案」を見ると、そう簡単には言えないという気がする。一例を挙げよう。「百聞不如一見(ひゃくぶんはいっけんにしかず)」の章で、彼は次のように述べている。

 

 

「思うに人間の知識なるものは、単に耳を以て聞き、書籍にて読みたるのみにては、いまだ真実を得がたきことあり。自らその境に臨み、あるいはその地を踏み、あるいはその物を実験して、初めて正確を期すべきものなり。

 

 

たとえば、政を施すには、自ら民情を視察するを有益なりとし、学問を修むるには、実験踏査等を必要とするが如し。(物理・化学・地理・歴史の如きは最も然り)。

その他、商業、工業、および軍事等凡百のこと、みな実地に就きてこれを見るを切要なりとす。

もし然らざれば、即ちいわゆる机上の空論の塀に陥るを免れざるべし」

 

 

と、大いに実験を主張している。

さらにこれだけでなく、彼は、歴史上のさまざまな例を用いて説明する時、しばしば帝王と科学者の関係を例に引いている。例えば「好学」のところでは、次のように述べている。

 

 

「かつて英国にディヴィー(一七七八~一八二九)といえる理学者あり。(略〕時あたかも英仏交戦中なりしが、仏帝ナポレオン一世は、特にこの名誉ある理学者をして、自由に仏国内を旅行しむることを許可せられたるのみならず、また拝謁をも賜りたり」

 

 

こういったことは、普通の歴史家も倫理学者も知らないであろう。やはりこれは彼が化学を専攻し、それに興味を抱き続けた結果であり、同時に帝王の「好学」は、単に自分が学問が好きなだけでなく、学者は政治を越えてナポレオンのように待遇すべきものだという意識が、彼にあったことを示している。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「二章  天皇の教師たち(Ⅰ) =倫理担当に杉浦重剛を起用した時代の意図

 

天皇の自己規定を形成した教師たち

 

人間の性格、ものの見方や考え方、さらに嗜好などがどのようにして決まるかは、今でも完全に解明されているわけではあるまい。たとえば天皇の趣味以上の趣味が生物学であることはよく知られているが、本職生物学者を除けば、生物学が趣味の人は珍しいというべきであろう。(略)

 

 

以上のように考えれば、天皇の生物学好きに決定的な影響を与えたのが、御学問所で博物を担当した服部博太郎博士であったことは間違いあるまい。二人がいかに気が合い、いかに嬉々として採集や観察にはげんだかは、さまざまな人の思い出にある。(略)

 

 

そこで当然に関心を持たざるを得なくなるのが、一章で記したような天皇の自己規定の形成において、生物学の服部広太郎博士のような影響を与えたのは誰で、その内容はどのようなものであったのかということである。

 

 

 

天皇は小学校は学習院で学ばれた。校長は乃木(希典)大将で、彼は殉死の直前に、山鹿素行江戸前期の儒学者)の「中朝事実」(日本の皇統を明らかにした歴史書)と三宅観瀾(江戸中期の儒学者)の「中興鑑言」(建武の新政の得失を論じた書)を、献上したという。(略)

 

 

 

ということは、旧制の中学・高校をこの御学問所で学ばれ、前述の服部広太郎博士もその教師陣の一人だった。

では、天皇の自己規定、および倫理的規範は、誰の影響によって形成されたのであろうか。言い換えれば、生物学における服部広太郎博士の役割を誰が演じたのであろうか。

 

 

それは、おそらく白鳥庫吉博士と杉浦重剛である。もっとも、この二人だけとは言い難いが、「倫理御進講草案」を残して、その跡をうかがわせるのは杉浦であり、自己の教育方針と一部の資料が明確なのが白鳥である。」

 

 

〇 天皇の「自己規定」の軌跡を辿りながら、私自身にとっての倫理的規範や私の子どもたちにとっての倫理的規範は、どんなものだったのか…と考えてしまいます。

 

 

 

 

 

 

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「早くから「敗戦」を予感していた天皇

 

この詔書の主意は、すでに述べたように「五箇条の御誓文」への「誓ヲ新ニシテ」であろうが、これをマスコミなどが「天皇人間宣言」と受け取った理由は、「天皇ヲ以テ現御神トシ」、それを基に「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ」それなるが故に「世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念」もまた厳然と存在し、そこに問題があったこともまた否定できないからである。

 

 

 

この観念は徳川時代朱子学から派生し、それが国学と集合し、さらに明治に西欧型の「貴族・軍人の長としての国王」という概念と結合するという”複雑な経過と相当に長い歴史”を経て形成されている。(略)

 

 

 

天皇自身にはその意思はなかったであろうが、「敗戦」の予感は戦争のはじまる前からあり、そのときどういう状態になるかは、全然予想していなかったわけでもないらしい。独ソが不可侵条約を結び、再び三国同盟熱が高まった昭和十五年八月三十一日に、天皇は次のように言われたと「西園寺公と政局」にある。

 

 

 

このときの首相は近衛(文麿)、外相は松岡(洋右)、独ソが不可侵条約を結んでいるのだから、この同盟は、日独ソ伊の四カ国の結束になり、アメリカを抑制できるはずというのが、内閣の見解であった。

 

 

閣議決定立憲君主天皇は当然に承認したが、内心では強い危惧を抱いていたらしく、次のように言われている。

「今回の日独軍事協定については、なるほどいろいろ考えて見ると、今日の場合已むを得まいと思う。アメリカに対して、もう打つ手がないというならば致し方あるまい。

 

 

しかしながら、万一アメリカと事を構える場合には海軍はどうだろうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、ということを聞いたが、大丈夫だろうか」

 

 

「自分は、この時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだろうか。かくの如き場合が到来した時には、総理(近衛)も、自分と労苦を共にしてくれるだろうか」

 

 

 

このとき天皇が、内心どう考えていたかは明らかでないが、いざとなれば近衛は逃げてしまうだろうといった懸念が、その言葉に現れている。さらに単にそれだけでなく、天皇自身が軍部によって退位に追い込まれる可能性があると考えていたか否か、これは明確にはわからない。

 

 

 

大政翼賛会は、「まるで幕府が出来るよう」

 

マッカーサー司令部の民間情報教育局が編集した「真相箱」という著書が昭和二十一年に発行されている。(略)

いずれにせよ「宣撫工作」だから、そのつもりで読まねば危険だが、その中に次のような記述がある。

 

 

天皇陛下が、マッカーサー元帥を御訪問になったとき、「なぜ貴方は戦争を許可されたのですか」というマッカーサー元帥の問いに対して、元帥の顔を見つめられた陛下はゆっくり、「もし私が許さなかったら、きっと新しい天皇が建てられたでしょう。それは国民の意志でした。

 

 

 

こと、ここに至って国民の望みにさからう天皇は、恐らくいないでありましょう」と言われたのであります」

この話を私はフィリピンの収容所で聞き、デマだろうと思っていたが、内地に帰って「真相箱」を読んだとき、フィリピンで聞いたとおりなので少々驚いた。もっとも天皇の言葉が英訳され、それがまた日本語に訳されているのだから、歪曲はなくとも、相当にヌアンスの違ったものになることはあり得る。(略)

 

 

 

収容所にこのニュースが伝わった時、「それは天皇を退位させて秩父宮運部が擁立するという意味だ」といった解釈があったが、これは少々考えにくい。軍部にそれだけの決意があったとは、資料を調べても、裏付けることはできない。

 

 

もっとも「(天皇は)凡庸で困る」「天皇が改革に反対されるなら、某宮殿下(秩父宮)を擁して陛下に代うべし」といった言葉があったことは、後述するとおり事実であろう。しかし具体的計画があったらしい形跡は見当たらない。

 

 

そうではなく「新しい天皇」とは、天皇を実質的に棚上げして憲法を停止し、軍部およびそれを代表する者が実質的に天皇になるという可能性を口にされたのなら、これはあり得たであろう。

 

 

 

天皇は親ファシズム的な近衛文麿の行き方に危惧の念を抱いていたらしい。近衛が大政翼賛会をつくり、日本憲政史上はじめての「無政党時代」に進もうとしたとき、天皇は少々皮肉な言葉で、これを批判している。すなわち、結成式の前日に近衛が発足について天皇に報告すると「このような組織をつくってうまくいくのかね。これは、まるで、昔の幕府が出来るようなものではないか」と言われ、近衛も返事が出来ず絶句した。

 

 

確かに翼賛会が議会を完全に抑え、その翼賛会を軍部が支配すれば、「軍部党」の「一党独裁」というナチスばりの政権が出来得るから、まさに幕府の出現である。

 

 

 

天皇がそういう状態を、説明を簡略にするため「新しい天皇が立てられ」ると表現したのなら、これはあり得たであろう。「幕府」などと言っても、その意味はマッカーサーには分からないであろうから――。

 

 

」「なぜ、これほどまでに憲法を絶対化したのか

以上を通観していくと、天皇には「五箇条の御誓文憲法あっての天皇」という意識がきわめて強く、これが自己規定の基本であったように思われる。これは、五・一五事件後の新首相選定への「ご希望」にも示され、その中に「ファッショに近きものは絶対に不可なり。憲法を擁護せざるべからず。然らざれば明治天皇に相済まず」という言葉がある。(略)



昭和十五年八月三十一日の「木戸幸一日記」に次のように記されている。
憲法の改正を必要とするのであるならば、正規の手続きにより之を改正するに依存はないが、近衛がとかく議会を重んぜない様に思われるが、我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他、常に二つの勢力が対立して居る、この対立を議会において為さしむるのは一つの行き方で、わが国では中々一つに統一ということは困難の様に思わる」

いわば対立があるのを当然として、それを憲法というルールのもとで、議会内で行うがよい、大政翼賛会のような組織はよろしくないという発言である。(略)


天皇の自己規定は、これ以外にも、調べていくとさまざまの興味深い面がある。まずいわゆる「英雄」になる気は全くなかった。

「我が国は歴史にあるフリードリッヒ大王やナポレオンのような行動、極端にいえばマキアベリズムの様なことはしたくないね」 (「木戸幸一日記」昭和十五年六月二十日付)(略)」