読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「三章 「三種の神器」の非神話化  

     =道徳を絶対視しつつ、科学を重んじる杉浦の教育方針

 

三種の神器は「知・情・意」の象徴

 

「倫理御進講草案」には、その冒頭に「趣旨」が記され、次の言葉で始まる。

 

「今回小官が東宮殿下に奉持して倫理を進講すべきの命を拝したるは無上の光栄とする所なり。顧うに倫理の教科たる唯口にこれを説くのみにして足れりとすべからず。必ずや実戦躬行、身を以てこれを証するにあらざれば、その効果を収ること難し。故に、学徳ともに、一世を超越したるの士にして始めてこれを能くすべし。

 

小官の浅学非徳なる果たして能くこの重任に堪え得るや否や。夙夜恐懼して措く能わざる所なり。然れども一旦拝命したる以上は、唯心身を捧げて赤誠を致さんことを期するのほかなし。いま進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。

 

 

 

一、三種の神器に則り皇道を体し給うべきこと。

一、五か条の御誓文を以て将来の標準と為し給うげきこと。

一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うげきこと」

 

 

となっている。これが彼の倫理御進講の趣旨で、時代を考えればごく常識的といえる。(略)

彼はまず、「御進講」の最初の項「三種の神器」の冒頭を、

「皇祖天照大神、御孫瓊瓊杵尊大八洲に降し給わんとする時、三種の神器を授け給い……」とはじめるが、すぐにこれを非神話化して「知仁勇=知情意」の象徴であると、次のように説き始める。

 

 

三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以て至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹山鹿素行頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり」と。

 

 

いわば神話的要素を一気にはずして道徳基本論へと入り、ついで中国と西欧の基本的な発想に進み、再び日本に戻るという形で論を進める。すなわち――、

 

 

「これを志那に見るに、知仁勇三つの者は天下の達徳なりと、「中庸」に帰されたるあり。世に人倫五常(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信ありの五つ)の道ありとも、三徳(知仁勇)なくんば、これを完全に実行すること能わず。

 

 

言を換うれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せられるべきものなりとす。志那の学者すでにこれを解して、知はその道を知り、仁はその道を体し、勇はその道を行なうものなりといえり」

 

と彼は説き、ついで西欧に進む。

 

 

「またこれを西洋の学説に見るに、知情意の三者を以て人心の作用を説明するを常とす。知は事物を知覚すること、情は自然の人情にして悲喜愛憎みなこれなり。その至純にして至清なるものを仁となす。意は事を行わんとする志にして、困難に当たりても屈せず撓まず、これを断行するを貴ぶ。これ勇なり。知情意の完全に発達したる人を以て完全なる人物となす。換言すれば優秀なる人格の人は、完全なる知情意を有するなり」

 

と彼は説き、西欧も中国も同じことを主張していると締めくくって、また日本にもどる。

 

 

「以上述べたる如く、志那も西洋もその教えを立つること同一なり。要は知仁勇三徳を修養するを以て目的とす。ただ彼にありては理論よりしてこれを説き、われにありては皇祖大神が実物を以てこれを示されたるの差あるのみ」

 

と彼は結論づける。(略)」

 

 

〇 中国も西洋もそして日本も同じものを大切だと言っている、ということで、

とてもすんなりと受け入れられる内容だと思いました。彼(西洋・中国)にありては、理論で説き、我にあっては実物でこれを示された…という説明も納得でき、わかりやすいと思いました。

 

私たちの国には、倫理を教える宗教のようなものはない。それで平成天皇は象徴として、具体的に国民に寄り添う行為を通して、「実物」としての「仁」を伝えようとしているのでは?と感じたことがあります。

 

 

でも、「実物」で「優秀なる人格、完全なる知情意を有する人」を求めるというのは、無理があるのでは?と思います。生身の人間は、所詮ただの動物、どんなに頑張っても、完全ということはあり得ない。

 

「恋は盲目」状態にも似て、素晴らしい人、完全な人が、あり得ると

思っている時、ほんの少しの欠点も許せなくなります。

本来は、かなりいい人だと思うのに、ちょっとした傷を問題視して、

「あの人にはがっかりした」みたいな言われ方をするのを聞くとき、

私は、そんなことを言う人に、がっかりします。

 

「実物」で「優秀な人格、完全なる知情意を持つ人」を求める時、そんな人はこの世にいない、と、逆に、倫理的なものを求めることに絶望するしかなくなるのではないでしょうか。

 

あのチャップリンが「ライムライト」(だったかな…)で言っていたように、イメージでいいのだと思います。

倫理は、本来裸のサルでしかないヒトが、「〇〇でありたい…」とイメージして、人間らしく振舞うためのものだと思います。