読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「道徳では負けないが、科学で劣っている」

 

ついで重剛は各条の解説に入る。(略)

まず第一に、重剛は、「広ク会議ヲ興シ」の会議とは、町村会、群会、

県会、帝国議会などを指すのだとして、次のように述べていることである。

 

 

「第一条においては、門閥専横の政を斥け、天下の政治は、天下の公論によりてこれを決せんとす。天下の公論を聴かんとするには、広く会議を興して、つぶさにこれを問わせられんとするの御思召なり。(略)

大小の政治、これら会議によりて議せらるるは、すなわちこの御趣の実行せられたるものなり」

 

この「門閥専横の政を斥け」を「軍閥専横」とすれば、それは昭和の十年代ということになる。天皇にとっては、五箇条の御誓文とそれに基づく明治憲法を否定されることは、自分が否定されることであった。」

 

 

〇 この「門閥専横の政を斥け」を「安倍日本会議専横」とすれば、それは第二次安倍政権(平成24年~現在まで)ということになる。

なぜ、同じような愚かなことを何度も繰り返すのか。

それが、不思議でならないのです。

安倍首相一人が、問題ではないということが、これまでの状況を見ているとよく、わかります。あのような狂った安倍首相のやり方を、支える多くの人々が居るから、こんなおかしな政治が長く続くのです。

 

 

「二条以下は、特にこれといった面白い解説はないが、第五条の「知識を世界に求め……」に関連して、重剛は「御進講」の中で特に「科学者」という一章を設けて、西欧の科学者や技術者を紹介している。

 

 

そしてその冒頭に彼は、日本は科学において西欧に劣っている点を指摘し、御誓文の第五条を極力実施に移すよう強調する。こういう点、彼はやはり、イギリスで学んだ化学者であった。次に引用しよう。

 

「さて諸外国、ことに西欧諸国の長所は、果たしていずれの点に存するか。これ疑いもなくその科学の進歩にありと断ずべきなり。わが国には古来忠孝一本の道徳発達して、世々その光輝を発揚せることは、あえて西欧諸国に譲らざるのみならず、さらに数等を抽んでたるものあり。

 

 

しかれども理化学的の研究に至りては、彼に比して大いに遜色あるを免れず。故によろしく彼が最大の長所たる理科の諸学を取りてわが短所を補うべきなり」

 

 

原子論の創始者ダルトンの生涯を語る

 

道徳を最高の精力と見た彼が、道徳では「譲らざる」なのに、国力の基本である「理科の諸学」で劣ることを認めているのは少々矛盾のようだが、ついで彼は、科学の振興もまた道徳の力が基になっているというに等しいことを、次のように主張する。

 

 

「西欧の学者が科学の研究に従事するや、奮励努力、夜を以て日につぎ、百折不撓の忍耐を以てこれにあたり、あえて世のいわゆる名利に拘泥せず、超然として一身を学理の闡明に捧ぐるの態度すこぶる崇高なるおなり。

 

 

これを以て科学大いに進歩し、これを実地に応用しては即ち文明の利器の続々として発明せらるるあり。たとえば汽車、電信、電話などの如き、これみな理化学の応用に外ならざるなし。

されば我国においても、将来大いにこれを奨励し、彼に比してあえて譲らざるに至るを期せざるべからず」(略)

 

 

マルコニー(イタリア人)を除くとすべてイギリス人だが、この中で、一種の感動を込めて語っているのがダルトンである。重剛自身が化学者で、神経衰弱になるほど勉強したから、親近感があったのであろう。次に引用しよう。

 

 

「ジョン・ダルトンは英国に有名な化学者なり。もとカンパーランドの一小村に生まれる。羊毛を織ることを業としたる貧者の子なり。十一歳えは村の学校にて教育を受け、十二歳よりは半ば学校教師となり、半ば農園に労働して自ら生活し、後には教師を以て専業とするに至れり。

 

 

彼はマンチェストルに在りたる日、色盲に関する研究を発表して初めて世に認められたり。当時彼はジョンスといえる牧師の家に寄寓うしたるが、その日常の生活につきてドクトル・アンガス・スミスは左の如く語れり。

 

彼は毎朝、冬にても八時に起き出で、提燈(カンテラ)を手にして実験室に入り、火を点じおきて朝食に来る。家族の人々のほとんど食しおわるころなり。しかるのにまた実験室に入りて中食のときようやく出で来り、ほとよく食事をしてただ水を呑み、また実験室に帰り、午後五時ごろ茶に出で来り、急ぎてまた実験室に入り、九時まで継続し、それより出でて夕食を取り、しかる後喫煙し、一家の人々と談笑す。云々。(略)

 

 

一八四四年、七十八歳にして没す。

ダルトンは、人の己を称して、英才衆に越えたりと言えるを聞くごとに、これを承認せずして曰く、「予はただ勤勉と積累とによりてわが業を成就したり」と」

 

 

重剛も一時は将来のダルトンならんと心に決めていたのであろう。いずれにせよ彼は、科学上の発見や技術的な発明は、継続的な努力の結晶であると見ていた。(略)

 

 

彼はその他のさまざまの例を挙げ、科学の進歩とその実地応用によって大いに国力を増し、人類の進歩に貢献した旨を述べ、日本は「理化学の研究においては、遺憾ながら彼に譲らざるを得ず」と素直に認める。そこで「よろしく彼の長所を取りて、以てわが短所を補うげきなり」「これ御誓文第五条の御趣旨なりと拝察す」と結論付けている。

 

 

 

硬軟とりまぜた杉浦の名講義

 

五箇条の御誓文の中で特に一章を設けたのはこれだけだが、興味深いことは、この「倫理御進講草案」には、「科学者」の章はあっても「文学者」の章がないことである。もっとも「詩歌」と「万葉集」の二章があり、和歌と漢詩、万葉の歌について述べており、また「絵画」もあって主として日本の絵画について述べているが、文学、特に近代文学は西欧も日本も登場しないといってよい。

 

 

生前、天皇は新聞記者の質問に答えて、自分は文学については全く知らないといった意味のことを述べておられたが、「倫理御進講草案」を見ると、「なるほど」という気がする。(略)

 

 

 

もちろん固い話はあるが、そこは中学教育の経験者だから、それでは聞く者が飽きてしまうことを重剛はよく知っていたらしい。固い話が少しつづくと、まことに面白い話が出てくる。

 

 

さらに関係者の思い出によると、重剛はその風貌とは違って実に明るい人で、自らも笑うとともに、よく生徒を笑わせたらしい。彼はノートも取らせず、リラックスして自分の話を聞かせるという方針だったようである。(略)」