読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「維新体験者の「御誓文」に込められた思いとは

 

そして次に「五箇条の御誓文」にうつる。「趣旨」のその部分を次に引用しよう。

 

「わが国は鎌倉時代以後およそ七百年間、政権武家の手に在りしに、明治天皇に至りて再びこれを朝廷に収め、更に御一新の政を行なわせられんとするに当たり、まず大方針を立てて天地神明に誓わせられたるもの、すなわち五箇条の御誓文なり。

 

 

爾来世運大いに進み、憲法発布となり議会開設となり、わが国旧時の面目を一新したるも、万般の施政みな御誓文の趣旨を遂行せられたるに外ならず。単に明治時代に於いて然るのみならず、大正以後に在りても、正道の大本は永く御誓文に存するものというべし。

 

 

故に将来、殿下が国政を統べさせ給わんには、まず能く御誓文の趣旨を了得せられて、以て明治天皇の宏謨(広大な計画)に従い、これを標準として立たせ給うべきことと信ず」

 

本文の「五箇条の御誓文」は独立した相当に長い一文だが、それに進む前に、重剛だけでなく彼の時代に人々が、天皇制について昭和生まれとはやや違う感覚を持っていることに少し触れておこう。

 

 

前述のように重剛自身、徳川時代の生れであり、廃藩置県の際の経済的困窮を経験している。いわば青少年期を徳川時代に過ごした人は、一一九二年の鎌倉幕府創立以前の天皇制と、明治維新以後をはっきりと分けて考えても、七〇〇年の武家時代を無視して、この二つの天皇制が継続しているとは考えなかった。というより、それは彼らの実感であった。

 

 

 

いわば天皇制がつづいていたということは、天皇制がそのまま続いていたということではない。そして天皇家によって新しい天皇制が樹立されたとき、その基本は何かということを、否応なく意識しないわけにはいかなかった。いわばこの時代の人たちにとって、明治維新は激烈な革命であったから、無条件で過去とつなぐことは、体験として、とうてい出来なかったわけである。(略)

 

 

重剛の世代は、多かれ少なかれ、このような、生涯忘れることのできない体験を胸中に秘めていた。この点では、私の世代が、太平洋戦争における同僚の無残な死を生涯忘れ得ないのと似ている。

 

 

山川は烈々たる国家主義者だが、それは血であがなった新生国家への熱烈な愛ともいうべきもので、白虎隊への涙と裏腹の関係にあったというべきであろう。それを単純に、昭和の浮ついたナチスかぶれの超国家主義と同一のものと見てはならない。

 

 

そしてこの人たちにとって絶対なのは、明治の基本の「五箇条の御誓文」であり、これが、維新という革命後の新生日本のドクトリンであった。重剛の記述が熱を帯びてくるのは不思議ではない。

次に引用しよう(第四学年の最初の項)

 

 

「本学年の最初に当たり、まず五箇条の御誓文の大意を申し述べんとす。これ、地理は外国地理、歴史もまた外国歴史となり、軍事学も御修得あらせらるることとなりたれば、日本帝国も鎖国時代の旧日本にあらずして、世界の一帝国として立ちたる維新大政の方針を説述せんがためなり。

 

慶応三年正月、明治天皇践祚あらせらる。この年十月、徳川十五代の将軍慶喜、大政を奉還せしかば、朝廷にては新たに制度を立てて、以て王制維新の政を行なわせらるることとなりぬ。(略)

 

 

かくして政権朝廷に復帰したるが、朝廷にては如何の方針を立てて以て維新の政を行なわせらるるべきか。これ天皇におかせられても、また公家においても、また勤王の諸士においても、等しく心を苦しめたる所なり。慶応四年(明治元年)三月、ついに五箇条の御誓文なり、天皇は公卿諸侯を率いて、これを天地神明に誓わせられ、以て王政復古たる維新政府の大方針を定めさせられたり」

 

 

 

(略)

俗にいう天皇の「人間宣言」は、そのまま読めば、実は、五箇条の御誓文の再確認と再宣言であることが分かる。

 

 

すなわち「須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ……」であり、天皇と国民との紐帯は「単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」で、いわばこの五箇条を共に誓ったという「相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」たる一体化だという。事実「倫理御進講草案」には神話は出てこない。三種の神器は非神話化されて「知仁勇=知情意」の表象とされ、それでおしまいである。」