読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

杉浦重剛の青年時代と自己形成

 

ここでまず、資料の最もはっきりしている杉浦重剛(通称・じゅうごう 一八五五~一九二四年)について、少し記さねばならない。彼はすでに忘れられた人であり、また様々な資料で彼の名を知る人も、だいたい写真でその風貌に接したのが限度らしい。(略)

 

 

彼は安政元年(一八五五年)、近江膳所藩の儒者の二男に生まれた。藩校で十四歳まで学び、成績優秀で十五歳で句読方という職に取り立てられた。彼は儒者の家の出身だが、幕末という時代の影響であろうか、藩校のほかに三人の師について漢学と洋学を学んでいる。

 

 

そしてこの青年期の彼への最大の衝撃が、最も尊敬する師の高橋担堂が、尊皇派の一員として、ある事件に巻き込まれて刑死したことであった。(略)

 

 

その後に杉浦が師事したのは、黒田麴盧(一八二七~九二年)である。この人は、有名な緒方洪庵や伊藤玄朴(幕末・維新期の蘭方医)に学び、江戸で蕃書調所に勤務した。この蕃書調所が大学南校となり、さらに東大へと発展していく。

 

 

彼はここでさまざまの言語に接し、かつ学んだらしく、漢学は言うに及ばず、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語さらにサンスクリットまで手を伸ばしたという。いわば草創期に出てくる典型的な″百科全書的学者"であろう。(略)

 

 

 

麴盧のほかに彼は、京都の岩垣月州(幕末・維新期の儒学者)にも学んだ。この人は弟子が多く、岩倉具視、近衛忠弘、篤麿(文麿の父)、富岡鉄斎日本画家)らがその弟子にいる。重剛が学んだころはもう老齢で、盲目であった。

 

 

この師がある日、空論ばかりたたかわせていないで、まず飯が食えるように注意したらよかろうと言った。当時の武士たちは、飯のことなぞ口にするのもいやしいことと考えていたので、重剛もこの師を一時、いやしんだらしい。そして彼は、廃藩置県のときに、この師の言葉の重要さを思い知らされる。以上の三師を彼は自己の生涯の師と考えていた。

 

 

明治二なると、政府は近代国家を担う人材の養成が急務であると感じ、全国各藩から優秀な青年一人ないし三人を推薦によって集め、蕃書調所の後身の大学南校で洋楽教育を行うことにした。総計三一〇人。彼らは文字通り新しい日本を担うエリートであり、その多くは、今までにない新しい学問を日本に根付かせた人たちである。

 

 

 

一方、彼らの苦労も大変だった。授業は外国人教師による外国語であり、とうていついて行けないと自殺する者や、故郷へ逃げかえる者もいた。無理もない。重剛も英語でいきなり数学や化学の抗議を受けるのだが、辞書と言えば「薩摩辞書」しかない。彼の成績は、はじめはどんじりの方であったが、猛勉強で二、三年のうちにトップクラスになり、明治九年に外国留学生に選ばれ、明治天皇の前で御前講義をする一人にも選ばれている。(略)

 

 

 

イギリスが杉浦に与えたその精神とは

 

明治九年六月、彼は外輪船(蒸気で水掻きを回す初期の汽船)アラスカ号で、アメリカを経由してロンドンに向かった。サンフランシスコに上陸し、はじめて米大陸の土を踏んだ時、彼は大変な文化ショックを受けた。

 

 

当時の日米の懸隔を思えばこれも当然で、幕末から明治初期に米国経由で西欧に行った者は、すべてサンフランシスコでショックを受けている。

ただそのショックの結果は人によって相当に違い、ある者は日本に失望して自己否定の欧化絶対となり、ある者は逆に「負けるものか」と日本人意識が逆に強くなる。強くなっても、それは欧米の絶対的優位を認めているわけだから、出来るだけ早く学ぶべきものを学んで相手を凌駕しようとあらゆる努力をする。

 

 

自己否定の欧化主義者も努力をするから、学ぶという点では両者は同じであろうが、ただその内なる心の持ち方は全く違うという結果になる。重剛は後者であったらしい。(略)

 

 

 

そこで彼は純正化学へと転じ、マンチェスターのオーエンス・カレッジに移って、ロスコー、シャーレマルという二教授について化学を学んだ。彼はこの二教授を深く尊敬して熱心に学び、イギリス人学生を抑えて首席となった。語学というハンデキャップを考えれば、超人的な努力であったろう。(略)

 

 

表面的には、イギリスも化学も忘れてしまったように見えるが「倫理御進講草案」を見ると、そう簡単には言えないという気がする。一例を挙げよう。「百聞不如一見(ひゃくぶんはいっけんにしかず)」の章で、彼は次のように述べている。

 

 

「思うに人間の知識なるものは、単に耳を以て聞き、書籍にて読みたるのみにては、いまだ真実を得がたきことあり。自らその境に臨み、あるいはその地を踏み、あるいはその物を実験して、初めて正確を期すべきものなり。

 

 

たとえば、政を施すには、自ら民情を視察するを有益なりとし、学問を修むるには、実験踏査等を必要とするが如し。(物理・化学・地理・歴史の如きは最も然り)。

その他、商業、工業、および軍事等凡百のこと、みな実地に就きてこれを見るを切要なりとす。

もし然らざれば、即ちいわゆる机上の空論の塀に陥るを免れざるべし」

 

 

と、大いに実験を主張している。

さらにこれだけでなく、彼は、歴史上のさまざまな例を用いて説明する時、しばしば帝王と科学者の関係を例に引いている。例えば「好学」のところでは、次のように述べている。

 

 

「かつて英国にディヴィー(一七七八~一八二九)といえる理学者あり。(略〕時あたかも英仏交戦中なりしが、仏帝ナポレオン一世は、特にこの名誉ある理学者をして、自由に仏国内を旅行しむることを許可せられたるのみならず、また拝謁をも賜りたり」

 

 

こういったことは、普通の歴史家も倫理学者も知らないであろう。やはりこれは彼が化学を専攻し、それに興味を抱き続けた結果であり、同時に帝王の「好学」は、単に自分が学問が好きなだけでなく、学者は政治を越えてナポレオンのように待遇すべきものだという意識が、彼にあったことを示している。」