読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「第五章 国外護持の政治神学

     (戦後レジーム:形成期②)

ポツダム宣言受諾と国体護持

▼「国体護持」の実相

ポツダム宣言受諾の際、日本側が付けようとした唯一の降伏条件として「国体護持」が問題となったことはよく知られている。

(略)

 

 

この過程が意味深いのは、ポツダム宣言受諾の条件をめぐる連合国とのやり取りにおいて、戦争指導部は「国体」概念を客観化することを迫られているからである。(略)

 

 

ここにおいて、「国体」を実質的に意味する部分は、the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler であり、「天皇ノ国家統治ノ大権」と公式には訳されている。

つまり、「天皇が統治の大権を握る国家体制」が「国体」であり、ポツダム宣言受諾はこれをprejudice(「変更スル」—ただし、prejudiceという言葉は「損なう」という意味合いが強い)ことを意味するのであれば受け入れられない、ということだ。(略)

 

 

 

この部分は、ポツダム宣言に掲げられた連合国による占領の目的が達成された(ポツダム宣言一二項に言う「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルル」)暁には占領が終結し、「最終的ノ日本国政治ノ形態」は日本の意思によって決定できるようになるのであって、連合国としては「君主制の廃絶」といったことを強要する意図はない、と解釈可能である(そして、日本人が天皇制の廃絶を望むわけがない)との主張が優越して、ポツダム宣言の受諾が最終的に決断される。(略)」

 

 

2「国体ハ毫モ変更セラレズ」

▼国体は護持されたのか?

これらの文言の解釈から降伏・占領・新憲法制定、さらにはサンフランシスコ講和条約の発効(占領終結)に至る過程に関して、「国体は変更されたのか、されなかったのか」をめぐって多数の論争が闘われてきた。(略)

 

 

 

そこで、首相の吉田茂は、五か条の御誓文を引き合いに出しながら、君臣一如の国である日本はそもそも民主主義国だったのであり、したがって新憲法によって国体は「毫モ変更セラレナイ」云々と論じ、憲法担当国務大臣金森徳次郎は、国体を「[天皇を]憧レノ中心トシテ、天皇ヲ基本トシツツ国民ガ統合ヲシテ居ルト云フ所ニ根底ガアル」と定義し、「水ハ流レテモ川ハ流レナイ」のと同じく、国民主権の体制になっても国体は変わっていないと答弁した。(略)

 

 

 

これに対し、美濃部達吉宮沢俊義ら有力な憲法学者たちは、新憲法にやって主権者が明白に変更されたことをもって、国体は変更されたとの論陣を張った。

 

 

▼禁じられた論点 ― 主権の所在

このように国体護持をめぐる論争は、主に「主権の所在」を中心的論点としてさまざまな立場から闘わされたのであったが、法学者の長尾龍一は、論争の構図を次のように整理している。

 

 

ポツダム宣言受諾から対日講和条約発効までの日本の法体制に関する法的構成は、占領体制を捨象して論ずる立場と、占領体制自体を固有の法体制となす立場とに大別される。以下前者をA説、後者をB説とよぶ。

 

長尾の見るところ、国体護持論争は論者の立場の見掛け上の多様性に反して、すべてA説内部での論争にすぎない。(略)

 

 

これに対してB説は、次のような論理構成をとる。

 

 

 

占領体制とはポツダム宣言憲法とし、マッカーサーを主権者とする絶対主義的支配体制である。新旧両憲法共にこの主権者の容認する限度でのみ効力をもち、主権者は両憲法に全く拘束されない。

 

 

主権者が法に拘束されるのが法治国家であるならば、日本は法治国家でない。日本国民の意思は議会や政府を通じて表明されるが、主権者はこれに拘束されず、これを尊重するのはあくまで恩恵である。民意による政治が民主主義なら、これは民主主義ではない。

 

 

 

A説とB説どちらに道理があるか、ポツダム宣言受諾の過程を見たわれわれにとっては明らかであろう。

天皇にせよ日本政府にせよ、はたまた日本国民にせよ、その国家統治の権限はGHQに「隷属する」という命題がポツダム宣言受諾の意味するところであった。

 

 

 

したがって、「主権の所在」を焦点とする国体護持論争は、そもそも存在しないものの位置取りをめぐって争う不条理な論争である、と結論されざるを得ない。(略)

 

 

 

しかも、A説は、GHQが新憲法の起草者は日本人であると偽装することによって支持を与えた立場であると同時に、B説は、占領下においてプレス・コードによって検閲され禁止された言論にほかならなかった。「本当の主権の所在」は、論じてはならないテーマだったのである。」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼なぜ日本人はこの神話を手放さないのか

(略)

それは、この神話を信じたい動機が戦後の日本人にあるからだろう。その動機とは、自分たちの戴く君主が高潔な人格の持ち主であってほしいという願望だけではない。天皇の高潔さにマッカーサーが感動し、天皇に敬意を抱いた、つまりアメリカは「日本の心」を理解した、という物語を日本人は欲しているのである。(略)

 

 

▼変節と依存

周知のように、アメリカによる日本占領は、驚くべきスムーズさをもって行われた。(略)

その直接の理由が、天皇による日本国民に対する戦争終結宣言(玉音放送)にあったことは明らかだった。(略)

 

 

ひとことで言えば、途轍もない変節が生じたのである。八月一五日以前の「自分の言葉」に責任を持とうとした日本人は、きわめて稀であった。ゆえに、戦後の全期間を通じて多くの知識人が、この変節の問題を繰り返し主題化することとなる。

だが、それはともかく、敗戦後の日本人が、現実に生きてゆくためには、「鬼畜」とまで呼んでいた敵に、抵抗するどころか依存するほかなかった。多数の同胞を殺した敵に、である。

 

(略)

 

なぜ変節が正当化されうるのか、なぜそれが裏切りにならないのか。その答えを、日本人はあの美しい物語において見つけ出すことができる。マッカーサーが、あるいはマッカーサーによって代理表象されるアメリカが、天皇に対して理解を持ち、敬愛の念を持つのならば、かつての敵が「鬼畜」呼ばわりされたことは、不幸な誤解として処理することが可能となり、死んで行った同胞たちの遺志を継いで抵抗しなければならない義務から戦後の日本人は解放される。アメリカの庇護の下、「幸福に暮らす」ことが許される。

 

 

 

司馬史観英米協調

同時に、かつての英米派政治家・外交官(幣原喜重と吉田茂に代表される)の登板によって戦後政治の主流が形成されることにより、「明治維新以来の日本外交の本筋は英米協調路線であり、第二次世界大戦の時代は狂気じみた軍人がそれを逸脱させたために、大失敗を犯した」という印象がつくられ、「不幸な誤解」という変節的心理操作は補強される。(略)

 

 

 

▼「抑圧されたものの回帰」

(略)

対米従属的な国家は世界中に無数に存在するが、「アメリカは我が国を愛してくれているから従属するのだ。(だからこれは別に従属ではない)」などという観念を抱きながら従属している国・国民など、ただのひとつもあるまい。まさにここに、「わが国体の万邦無比なる所以」がある。(略)

 

愛に基いた従属ならば、それは従属ではない。在日米軍を「思いやり」、もてなすという精神に、この衝動は最も明瞭に現れている。

 

 

 

2 天皇制民主主義

▼支配の否認がもたらすもの

そしてまた、こうした日米関係をめぐる観念が、今日露呈した戦後民主主義の限界を画している。

「主を畏るるは知恵の始まり」(「旧約聖書」、箴言一章七節)。この箴言の解釈はさまざまあろうが、ひとつの解釈は、「われわれが何によって支配されているのかを知ることによって初めて、知性が働き始める」ということだ。つまり、この箴言によれば、われわれは自分が自由であると何となく思い込んでいるが、実は全知全能の神(=主)によって完全に支配されている。

 

 

ゆえに当然、主は恐るべきものであり、主が何を望んでいるのか、われわれは理解しないわけにはいかない。したがって、「主の意志を知ろうとする」ところから知性の運動が始まる、とこの箴言は述べているわけである。

 

 

 

それは、逆に言えば、「主を畏るる」ことがなければ知恵は始まらない、ということを意味する。われわれが何によって支配されているかを意識せず、支配されていることを否認し続けるならば、永久に知恵は始まらない。今日、日本人の政治意識・社会意識が総じてますます幼稚化していること(=知的劣化)の根源は、ここにあるだろう。

 

 

 

戦前のデモクラシーの限界が明治憲法ジームによって規定された天皇制であったとすれば、戦後のデモクラシーもまたその後継者によって限界を画されている。いずれの時代にあっても、「国体」が国民の政治的主体化を阻害するのである。

 

 

 

被支配とは不自由にほかならず、支配の事実を自覚するところから自由を目指す探求が始まる以上、支配の事実が否認されている限り、自由を獲得したいという希求も永遠にあり得ない。つまり、日本の戦後民主主義体制とは、知性の発展も自由への欲求に対する根本的な否定の上に成り立っている。

 

 

占領政策の道具としての天皇

こうしたきわめて特殊な外見的民主主義体制の成り立ちを、歴史家のジョン・ダワーは「天皇制民主主義」と呼び、その発明をマッカーサーに帰している。(略)

 

 

この「民主主義」の茶番性は、今日でもたとえば「主権者教育」— 「主権者たれ」と上から号令をかける教育 ― において、反復されている。

 

 

アメリカの「愛情」の裏側

日本人が戦後の日米関係に投影したファンタジーから離れて、実際に何があったのかを見てみるならば、そこにあったのは、愛情や敬意どころか、人種的偏見と軽蔑であった。

一九四五年春にマニラで開かれた米英合同軍の心理戦担当官会議で配布された秘密資料には、次のような事柄が書かれていた。

 

日本人は自分自身が神だと信じており、以下に示されるような民主主義やアメリカの理想主義を知らないし、絶対に理解も出来ない。

 

(1)アメリカ独立宣言

(2)アメリカ合衆国憲法

(3)太平洋憲章

(4)他人種、他宗教を認める寛容の精神

(5)公正な裁判なくして処罰なしの原則

(6)奴隷制反対

(7)個人の尊厳

(8)人民への絶対的信頼

 

こうしたむき出しの人種的偏見ならびにシニシズムと、アメリカの理想主義にこそ世界普遍的に理解されるべき価値が無条件にあるとする傲慢との混合物(エドワード・サイードがいうところの「オリエンタリズム」の典型)が、後のGHQが擁した民主主義改革の実行者たち全員に共有されていたとは、もちろん言えない。(略)

 

 

小泉八雲に傾倒する日本通であったフェラーズにとってさえ、天皇制の存続それ自体はどうでも良いこと柄であった。それは円滑な占領のために必要だったのである。

 

▼「天皇制民主主義」の本質 ― 軽蔑・偏見・嫌悪の相互投射

(略)

それよりもわれわれが問うべきは、「いまの占領が継続する間」とは、一体何時のことを指すのか、という問いではないのか。それは、いわゆる占領期を超えて延長され今日にまで続き、そしてまさにフェラーズがここで言っているように、「天皇制も存続」—形を変えながら ― してきたのである。

 

 

 

そして、今日の日本の戦後民主主義の腐朽に徴して、日本人にはデモクラシーの理念は根本的に理解不可能だとするヴィジョンがますます正確なものとなりつつあるように見えるという事実を、単なる歴史の皮肉であると済ませて素通りするわけにはいかない。

 

 

(略)

 

 

民主主義改革プロジェクトの理想主義よりも、それが従来の天皇制、すなわち国体を否定しながら、他方である側面ではきわめて自覚的かつ積極的に国体を維持・救済しようとしたということの意味が、いまとなっては圧倒的な重要性を帯びている。

 

 

 

彼らは、彼らの軽蔑と偏見ゆえに国体を救済し、それを敬意と愛情による行為だと装ったのであった。(略)

こうした二重構造の心理は、事あるごとに「日米は自由民主主義を共通の価値として奉ずるがゆえに、緊密な同盟関係にある」として日米間の友情を強調しながら、民主主義改革の重要な一部として位置づけられた新憲法を「みっともない」(安倍晋三)ものとして軽蔑・嫌悪する、親米保守派の姿勢に明瞭に現れている。(略)

 

 

そして、天皇制民主主義の成立とは、「国体護持」(変容を通過しつつも)そのものである。その具体的経過を次章では見ておかなければならない。」

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「第四章 菊と星条旗の結合 ―「戦後の国体」の起源

     (戦後レジーム:形成期①)

1「理解と敬愛」の神話

▼「戦後の国体」の起源 ― 昭和天皇マッカーサー会見

(略)

戦前と戦後、このふたつの「国体」がどのように違い、何が継続しているのかを見るには、その形成期を比較検討することが必要であるからだ。(略)

 

 

だが、「戦後の国体」を考察するために決定的に重要なのは、この発言が「あったか、なかったか」ということではない。「私は全責任を負う覚悟である」という趣旨の発言があったとして、問題は、それ自体では潔い天皇のこの発言がどのような神話を形成することになったのかというところにあり、そこに「戦後の国体」を構成する政治神学の原点が潜んでいる。

 

 

▼「会見」の神話

昭和天皇の上述の発言の後、マッカーサーの「回想記」は次のように続く。

私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の私の知りつくしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。

 

 

私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上級の紳士であることを感じ取ったのである。(略)

 

マッカーサーは、昭和天皇の高潔な人柄を理解し感動した。そこから神話が始まる。(略)

マッカーサー天皇の言葉に深い感動を覚えたのは事実かもしれない。しかし、マッカーサーがこの会見からどのような印象を受けたのかということと、なぜ免責を決定したのかということは、全く別次元の事柄である。(略)

 

 

 

つまり、昭和天皇の戦争責任を問わないことや象徴天皇制として天皇制を存続させるという大枠の政策判断は、長い時間をかけた研究と議論の末に導かれたものであり、会見の際にマッカーサー昭和天皇に対して好意と敬意を抱いたことによってその場で決断されたというような、即興的なものでは全くなかった。(略)」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「3 明治の終焉

▼「坂の上の雲」の先の光景

立憲政体としての体裁をとにもかくにも整えた大日本帝国は、日清・日露戦争の勝利によって本格的な帝国主義国家の地位を獲得するに至る。一九一一年には、幕末以来の悲願であった不平等条約の改正も完了する。(略)

 

 

 

一九〇〇年前後から労働運動が勃興し始め、一九〇一年には社会民主党が結成されるが、政府は即座にこれを禁止する。こうした運動を領導した社会主義者無政府主義者たちの多くが、キリスト教からの影響を受けていたが、確立された国体と最初に衝突したのがキリスト者内村鑑三であったことは示唆的である。(略)

 

 

▼転換期の必然性

(略)

しかし第二に、大逆事件の発生にもかかわらず、時代は大正デモクラシーの時代へと転換する。

明治の末には大正デモクラシーの風がすでに吹き始めていた。大逆事件を生き延びた社会主義者無政府主義者たちは、一時「冬の時代」を経験するものの、労働運動の本格的な始まりと一九一七年のロシア革命にも後押しされるかたちで思想・運動両面で昂揚期を迎える。

 

 

一九一一年には青鞜社が結成され、女性解放運動の画期となることにも見て取れるように、維新以来の近代化による国家の独立の維持という大目標において一定の成果が上がった時、それまで自己主張の手段を持たなかった社会的諸集団が続々と声を上げ始めるという趨勢を、止める術はなかった。

 

 

 

何んと言っても、国民大衆は、この目標の達成のために究極の犠牲、血の犠牲を払い(日清・日露戦争)、重税にも耐えてきたのである。犠牲を払う義務の一方での無権利という状態を背景とした怒りは、一九〇五年のポーツマス条約締結をきっかけとした日比谷焼き打ち事件においてすでに爆発していた。

 

 

▼乃木将軍の死

そうしたなかで、明治天皇が一九一一年に没する。明治天皇の死は、それ自体ひとつの時代の終わりを印した出来事ではあっただろうが、それ以上の巨大な衝撃力を持った象徴的な出来事は乃木希典と婦人静子の殉死であった。(略)

 

 

実際乃木は、日露戦争後すぐに死のうとしたが、明治天皇から思いとどまるよう諭された。「死は易く生は難し今は卿の死すべきの秋(とき)に非ず卿若し強ひて死せんと欲するならば宜しく朕が世を去りたる後に於いてせよ」と言われ、その言葉に文字通り従ったと解釈かのうだからである。

 

 

だが、そもそもなぜ、乃木において天皇への忠誠が度外れたかたちで絶対化されたのか。封建社会の君主への忠誠がその対象を移し替えただけであったのか。仮にそうであったとすれば、乃木は完全な前近代人にすぎず、殉死が漱石や鴎外といった当代きっての知性に強い感動を喚起することはなかったはずである。(略)

 

 

しかも、乱の勃発に先立って、弟は兄を前原陣営に引き入れようと幾度も説得を試みていたという。しかし、乃木はこれを斥け、深く愛した弟を死に追いやることになる。重要なのは、この時点で、乃木の採った選択に義がある保証はどこにもなかったことである。(略)

 

 

こうした場合、傷を抱えた人間がその後、傷を癒し心の安定を得て生きていくために求めずにいられないものは、あの時の自分の選択は正しいものであった、と保証してくれる正当化の論理である。(略)

 

 

この「論理」にこそ、明治に成立した天皇制が国民の統合作用において強い力を発揮し得た理由の核心が存在するように筆者には思われる。薩長藩閥政府が担ぎ出した天皇の権威は、新政府の中核となった旧下級武士が自己の権力を正当化するための見え透いた方便にすぎなかったという説明がしばしばなされてきたが、仮にそうだとすれば、藩閥政府からはじき出された勢力や旧佐幕派の系譜に属する勢力に対して、その統合作用は力を及ぼすことが到底できなかったはずである。

 

 

 

だが実際には「戦前の国体」が安定へと向かう過程で、天皇の権威は広まりつつ高まってゆく。

萩の乱における乃木の経験は、かつての同志(乃木の場合は親族まで)と敵味方に分かれ、これを討たなければならなくなるという革命に宿命的に孕まれる悲劇的な次元に関わるものであった。

 

 

 

幕末から西南戦争に至るまで、数多のこうした悲劇が発生した後に、いかにしても実現されなけれはならなかったのは、何らかの形での「和解」にほかならなかったはずだ。天皇が担うことを期待されたのは、まさにこの和解のシンボルではなかったか。

 

 

 

そして、革命によって流されたすべての血に対する贖いたりうるために、「天皇の正義」は、「不動の真実」でなければならなかったのであり、現実にそうである限りにおいて、明治の天皇制は統合作用をもたらし得る。(略)

 

 

乃木の殉死に対する最も辛辣な反応は、志賀直哉が日記に書きつけた「馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方でかんじられた」というものだった。

 

 

 

この言葉には酷薄なものすら感じられるが、それでもやはり、やがて来る、治安維持法特高警察と間断なき戦争が国民の統合作用の事実上の主柱となってゆく時代に「乃木的なるもの」がどのように活用されることになるかを、言い当ててもいるのである。」

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 明治憲法の二面性 ― 天皇は神聖皇帝か、立憲君主

(略)

明治憲法の最大の問題は、それが孕んだ二面性であった。すなわち、この憲法による天皇の位置づけは、絶対的権力を握る神聖皇帝的なものであったのか、立憲君主制的なそれであったのか、という問題である。

 

 

敗戦後に、占領当局は前者であると判断し、憲法の全面的な改正を要求したが、この判断には矛盾が含まれている。なぜなら、そうであるとすれば、昭和天皇の戦争責任がなぜ免ぜられうるのか、説明がつかないからである。

 

 

他方、憲法改正を要求された当時の日本のエリート層は、困惑し、最小限の変更でその場を切り抜けようとした。そこに彼らの自己保身の動機があったことは否定できないが、同時に彼らの当惑も理由なきものではなかった。なぜなら、大正デモクラシーの時代の記憶を持つ彼らにとって、明治憲法は民主主義的に運用され得る立憲君主制を定めたものと認識されていたからである。

 

 

とはいえ、昭和の神がかり的なファシズム体制が、明治憲法を基礎とする法秩序を舞台にして作り出されたこともまた、確かであった。

こうした認識の齟齬が生じる両義性は、明治憲法それ自体に含まれていた。

 

 

 

戦後に、鶴見俊輔久野収は、明治憲法ジームは、エリート向けには立憲君主制として現れ、大衆向けには神権政治体制として現れたのであり、前者は明治憲法密教的側面、後者は顕教的側面としてそれぞれ機能した、と論じた。そして、昭和の軍国主義ファシズム体制の出現とは、神権政治体制の側面が立憲君主制の側面を呑み込んでしまった事態であった。

 

 

▼権力の制約

(略)

この二面性は、条文レベルでは次のように現れている。

 

第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

 

(略)

 

つまり、ここで伊藤は、憲法に基く政治は「専制」の反対物であるとはっきり述べており、憲法が君主をも拘束するものであることを強調している。

さらに、「統治権の総攬」という概念は、素人目には「天皇自らが絶対的統治権を行使する」ことを指すかのように映るが、法学的常識によれば、その意味するところは正反対である。

 

 

 

すなわち「統治する」のではなく「統治権を総攬する」が含意するのは、統治する行為を具体的な次元で決定し担うのは天皇の輔弼者であり、元首たる天皇はこれを裁可するという形式的な行為をするに過ぎないということだ。(略)

 

 

しかしこれも、立憲君主制における君主無答責を意味しており、ヨーロッパの立憲君主国の憲法を参照して採り入れられたものであった。君主無答責とは、国家が誤ったことを行なっても、国王が責任を問われる(罰せられる)ことはなく、大臣(輔弼者)が責任を負うことを意味する。

 

 

なぜなら、立憲君主制国家において、国王の権力は形式的なものであり、政策を具体的に立案し実行するのは、大臣であるからだ。権限が無いものには、責任もない、という論理である。

 

 

▼ 権力の正統性の源泉としての天皇

しかし現実には、明治憲法ジームの全歴史を通じて、天皇の意思は単なる形式的なものとして機能したわけではなかった。

たとえば、伊藤博文明治憲法の起草者のうちでも立憲主義憲法観を持ち、藩閥政治からの脱却を目指して山県有朋と対立したこともあったが、その伊藤でさえ、第四次内閣を率いていた当時の第一五回帝国議会(一九〇〇~〇一年)で、増税に強硬に反対する貴族院を屈服させるために、勅語を用いた。

 

 

 

これに対して「憲法違反ではないのか」という批判が衆議院で起こるが、この批判に対して、政友会の星亨は、こう反論した。すなわち、「天皇の「大権の中に於いて憲法は成立」しているのだから、「憲法を以て陛下の口を噤み陛下が為さるることを妨げたものではない」と主張し」、こうした反論が実質的に通ってしまうのである。

 

 

 

その後の明治期の帝国議会では、計一〇回もの明治天皇の「御沙汰書」「勅語」が出されている。(略)

かくして、昭和ファシズム期においては、明治憲法立憲主義的解釈は主流の地位を失ったどころか、禁止されるに至った(一九三五年の天皇機関説事件ならびに国体明徴声明)。そしてその果てには、ポツダム宣言の受諾という政治的にこの上なく重要な決断を天皇自らが下さねばならない事態を出現させることとなる(「御聖断」)。(略)

 

 

 

憲法とは権力への制約である」という基本命題を、このレジームは国民大衆に対してひた隠しにしただけでなく、レジームの運用者たるパワー・エリートたちがこの点を曖昧にする(あるいは無理解である)ことによって政争を闘ったのである。(略)

 

ゆえに民主制に不可欠な、国民の意思や批判的視線が国家を監視し制約するという発想は、「君側の奸」が不当に天皇の意思を操っている、あるいは天皇の徳政を邪魔している、という推断のかたちをとるほかなくなる。(略)

 

 

 

このようにして、天皇を中核とする国家権力そのものへの宗教的崇拝を必然化する要因が、可能性としては立憲主義の基礎となりうるはずの憲法自体に孕まれていた。

事情は、教育勅語に似ていると言えるかもしれない。今日でも「教育勅語には現在でも尊重されるべき教訓が書かれている」として、擁護し復権させようとする動きがあるが、問題は、勅語の内容 ― 「親孝行しろ」とか「友を信頼しろ」とか ― ではなく、その形式、すなわち国家元首が国民の守るべき徳目を直接命じているという点にある。

 

 

国家元首の盲目的崇拝に基く道徳など、道徳の名に値しない。これと同様に、憲法の内容(立憲主義=権力の制約)を憲法の形式(欽定憲法神権政治=無制約の権力)が裏切っているのである。」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 憲法制定権力としての自由民権運動

かくして、物理的暴力によって新政府に対抗する途を閉ざされた抵抗勢力は、言論闘争を軸とした闘争(自由民権運動)へと転換を余儀なくされる。(略)

 

 

言論闘争の場が公式に与えられることが予定されているにもかかわらず、自由民権運動が穏健化するどころか逆に過激化したのは何故だったのか。

それは、自由民権運動がすでに確立された制度の内部で国民の権利を拡張しようとする運動ではなく、制度そのものを確立する主体たろうとする運動であったからだった。

 

 

 

政府によって与えらえた舞台としての国会で民衆の意見を主張するのではなく、民衆が自らの意見を主張し、法を制定する舞台を自らの主導で作り出すことを、それは目指していた。一八八〇年に結成され、後の自由党の母体となる国会期成同盟は、歴史学者、松沢裕作によれば次のような考えを持っていた。

 

 

 

国会期成同盟は、単に政府に国会の開設を働き掛ける運動体ではない。国民の権利として、国会は当然開設されなくてはならない。(略)だから、仮に政府が国会開設を決めたとしても、その具体的な方法については、国民を代表して国会開設を主張している国会期成同盟が意見を述べなくてはならない。

 

 

 

民権を高らかに謳う数々の「私擬憲法」が作られるのも国会期成同盟の結成を契機としてであるが、それらが物語るのは、この時期には革命がある意味でまだ続いていたということである。

何故なら、西南戦争によって、革命による暴力の独占のプロセスこそ一応の終わりを迎えたものの、自由民権運動が打ち立てようとしたのは、政治学・法学で言う所の「憲法制定権力」(制憲権力)にほかならないからである。

 

 

 

憲法は権力運用の規則であり、権力への制約である。したがって、その憲法を生み出す力である制憲権力は、無制約の権力(=革命権力)であり、主権そのものである。(略)

 

 

 

憲法・議会に随伴した教育勅語

ここで注目すべきは、憲法および議会をセットとして、一八九〇年に教育勅語が発布されたことである。(略)

 

 

 

天皇の名において出された教育勅語は、このような文脈において、封建時代を生きてきた国民にとって馴染み深い儒教的な通俗道徳を援用することで、権利主張と要求に対してタガをはめるものとして企図された。(略)

 

▼国民大衆への天皇制の浸透という点では、この時期にあの有名な「御真影」が製作され流通(下賜)し始めたことも特筆に値する。(略)その容貌は理想化され、超人格的であり、明らかに社会的政治的な環境において人々に受け入れられる、権勢のイメージとして、作為されているのを感じないわけにはいかない。(略)

 

かくして、一方では憲法と議会によって立憲政体の体裁を構築しつつ、他方では、国民の内面を「天皇の国民」としての規範の統制に服せしめる試みが同時に行われた。(略)言い換えれば、ここにおいて、明治維新から二十年余りを経て、近代前半の「国体」は一応の確立を見たのである。(略)

 

 

 

当時第一高等学校教員であった内村鑑三勅語天皇の署名に対して最敬礼しなかったという、それ自体ではささいな出来事が事件化されるに際して、大きな役割を果たしたのは御用学者とマスコミであった。言うなれば、市民社会からの自発的な動きが、後の「国体」を大義名分とした激しい思想弾圧・内面支配を予感させる事態を生ぜせしめたのである。(略)

 

 

 

2 明治憲法の二面性

▼「国体」概念の内実 ― 「国体と政体」の二元論

(略)

この頃から対外的危機感の高まりのなかで「国体」という語は多数の文献に現れるようになるが、当初は論者によってまちまちで一定しなかった国体の意味内容は、やがて近代日本の公式イデオロギーとなる国体概念、すなわち、「神に由来する天皇家という王朝が、ただの一度も交代することなく、一貫して統治しているという他に類を見ない日本国の在り方」という観念へと定まってくる。(略)

 

 

 

ただ、こうした動きは廃仏毀釈運動の激化をもたらしはしたものの、結局のところ神権政治的理念は近代国家の建設・制度整備と相容れず、紆余曲折を経て祭政一致国家の試みは挫折する。その意義について、宗教学者島薗進は次のように述べている。

 

 

 

こうした経過は、「神道国教化」政策が撤回、ないし修正されていった過程と理解されている。だが、「神道国教化」の「撤回」ということが何を意味するか、必ずしも明確ではない。というのは、その後も神道はある種の国教的地位を保持し、次第に高めていったとも言えるからである。確かに「政教分離」へ向かって行く内実も含まれていた。しかし、「祭政一致」の理念もまた堅持されたのだ。

 

 

政教分離」と「祭政一致」の両方向が同時に存在した、という事態を島薗は指摘している。(略)

 

 

 

しかし、そこに付けられた重大な留保、「安寧秩序を妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」の意味するところは、後に肥大化してゆくこととなる。(略)

ここにおいて、政教分離が本来保障すべき「信教の自由」「内面の自由」は完全に没却され、政治的権力(軍部)と精神的権威(天皇)は一致させられた。」

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「第三章 近代国家の建設と国体の誕生

1 明治維新と国体の形成

▼ 若き北一輝の嘆き

本章では、「戦前の国体」が形成された時期、すなわち「戦前レジーム」の確立過程にスポットをあてる。具体的には、明治維新(一八六八年)に始まり、大日本帝国憲法の制定(一八八九年発布、翌年施行)を経て、おおよそ日露戦争(一九〇四~〇五年)から大逆事件(一九一〇年)および明治の終焉(一九一二年)頃までの時代を「戦前の国体」が形成確立された時期とみなすことができる。

 

 

 

この時期に基本的な形が定まった「国体」とは何であったのか。若き北一輝が「国体論及び純正社会主義」に次の言葉を書きつけたのは、一九〇六年(明治三九)年のことであった。

 

 

此の日本と名付けられたる国土に於いて社会主義が唱導せらるるに当たりては特別に解釈せざるべからざる奇怪の或者が残る。即ち所謂「国体論」と称せらるる所のものにして、 ― 社会主義は国体に抵触するや否や ― と云ふ恐るべき問題なり。

 

 

 

是れ敢て社会主義のみに限らず、如何なる新思想の入り来る時にも必ず常に審問さるる所にして、此の「国体論」と云ふ羅馬(ローマ)法王の諱忌に触るることは即ち其の思想が絞殺さるる宣言なり。政論家も其れあるが為に其の自由なる舌を縛せられて専政治下の奴隷農奴の如く、其れあるが為に新聞記者は醜怪極まる便侫阿諛の幇間的文字を羅列して恥ぢず。

 

 

其れあるが為に大学教授より小学教師に至るまで凡ての倫理学説と道徳論とをき毀傷汚辱し、其れあるが為に基督教も仏教も各々堕落して偶像教となり以て交々他を個体に危険なりとして誹謗し排撃す。

 

 

これはまさしく鬼才にふさわしい透徹した認識であったと言えよう。(略)

 

 

あれほど熱心に近代化を推し進め、近代化の推進力として西洋のあらゆる文明・思想・宗教等々を導入することに熱心だった社会は、受け入れに際してたったひとつの、しかしきわめて重大な留保を伴っていた。

それが「国体に抵触しない限りにおいて」という留保である。

 

 

 

しかも厄介なことには、「国体」とは何であるのか、論者によって見解は一定せず、最大公約数的な定義をするならば、それはたかだか「天皇を中心とする政治秩序」というような抽象的な事柄を意味するにすぎない。

 

 

にもかかわらず、それは曖昧なままに、否むしろ曖昧さを利点として「思想を絞殺」した。(略)

 

 

▼ 近代的国家の成立 ― 「暴力の独占」が完成するまで

具体的過程を見てみよう。戊辰戦争(一八六八~六九年)を経て成立した明治政府にとって、イロハのイとなる課題は「暴力の独占」を実現することであった。(略)

 

 

 

マックス・ウェーバーの有力な定義によれば、「国家とは、ある一定の領域の内部で ― この「領域」という…が特徴なのだが ― 正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」であり、このような「暴力の独占」が近代国家に特有の現象であることに、ウェーバーは注意を促している。(略)

 

 

 

新政府は、国民皆兵の理念に基づく徴兵制を敷くことによって近代国家の許で新しく組織された暴力によって士族反乱に対抗し、勝利する。一八七七年の最後にして最大の士族反乱たる西南戦争をもって、「暴力の独占」は完成したと見ることができる。」