読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「2 国体がもたらす破滅

▼ 破滅はどのように具体化するか

かくして、「戦後の国体」の幻想的観念は、強力に作用し社会を破壊してきた。論理的に言って、その果てに待つのは破滅であるほかないであろう。それがどのようなかたち― たとえば、経済危機とそれに対する日本の反応、戦争、その両方といった ― を取るのか、予言することはできないが、ここでは北朝鮮国家によるミサイルと核兵器の開発によってせり上がって来た戦争の危機とそれに対する日本の反応について、見ておきたい。

 

 

 

二〇〇四年に他界した経済学者の森嶋通夫は、一九九九年に「なぜ日本は没落するか」と題する著作を上梓している。この著作において、森嶋は二〇五〇年の日本の状態を予測するとして、教育の問題をベースに、経済、政治、価値観といった諸領域で、現代日本社会がどれほどのデッドロックに陥っているかを概観し、日本国は没落する、とりわけ政治的に無力になる可能性が高いと論じている。

 

 

森嶋の予測の実現は、二〇五〇年を待つ必要はなかった。この著作のなかでは右傾化や歴史修正主義の勢力拡大について懸念が表明されているが、森嶋が予測していた水準をはるかに超えて、またはるかに早く、悪性のナショナリズム(=排外主義)がすでに大手を振るようになった。

 

 

また、森嶋は貧困と階級格差の発生をわずかにしか考慮していないが、現実にはすでにそれらが明白に現れている。要するに、一九九九年の時点で森嶋の予測は十分に悲観的であったが、それよりもさらに悲惨な現実が、その後の約二〇年の間に急速に展開されてきたのである。

なぜこのような惨状に陥ったのか。森嶋は、卓抜な比喩を用いて戦後日本の経済発展とその行き詰まりを説明している。

 

 

 

私は国民経済は小さいエンジンを積んだ帆船であると思っている。自力で動かせることも可能であるが、その場合速力は小さい。しかし風が吹いている場合には、高速で帆走することが出来る。高度成長の時には、朝鮮戦争ベトナム戦争の風吹いていた。それらの風が吹かなくなれば船のスピードはエンジンだけのものになってしまう。

 

 

したがって、無風状態の時に船を走らせるには、自分たちで風を吹かせるか、外部の人に風が吹くようにしてもらうかのいずれかである。日本人の中で、風を吹かせる役のものは政治家である。しかし現在の日本にはそういう役割を果たせる政治家は不在であるし、日本の政治屋連には、風を吹かすのが自分たちの義務だという意識は全くない。(略)

 

 

 

 

そうした状況下で、森嶋はEU欧州連合)に範をとった「東北アジア共同体」の創設を呼び掛け、それによって形成される広域経済圏のなかで日本経済は成長の手立てを見つけるべきであると説いている。そうした地域統合が、森嶋の考える、政治家が吹かせるべき風である。

 

 

 

しかし、現実には、「東アジア共同体」構想を掲げた民主党鳩山由紀夫政権の挫折以降、アメリカ主導のTPP構想が急速に持ち上がり、政官財メディアの主流派は、批判には耳を貸さず、自民党に至っては有権者を瞞着してまで、この流れに飛び込んだ。(略)

 

 

 

 

以上の成り行きにおいて日本がやってきたのは、アメリカの顔色を窺いながらの右往左往だけである、と言っても過言ではない。言い換えれば、日本が主体的に「風を吹かせた」ことは、一度としてない。「吹かせようとした」ことさえもない。そして、それをする能力が宿命的に欠けているのであれば、われわれは外からの風に頼るほかないであろう。何がそれをもたらしてくれるのか。森嶋は次のようにも述べている。

 

 

 

今もし、アジアで戦争が起こり、アメリカがパックス・アメリカーナを維持するために日本の力を必要とする場合には、日本は動員に応じ大活躍するだろう。日本経済は、戦後― 戦前もある段階までそうだったが ― を通じ戦争とともに栄えた経済である。没落しつつある場合にはなりふり構わず戦争に協力するであろう。

 

 

 

「なぜ日本は没落するか」において森嶋の予言したことのうち、これほど不気味かつ鋭いものはない。というのも、この認識を基礎として安倍政権の日米安保体制強化へのコミットと二〇一七年から二〇一八年にかけての朝鮮半島の危機の高まりに対する振舞いを解釈すれば、そのすべてを整合的に理解できるからである。世界で唯一「北朝鮮にさらなる圧力を」とだけ叫んだこの政権は、要するに、朝鮮半島有事が発生することを期待していたわけであるし、そうする理由はあるのだ。(略)」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「終章 国体の幻想とその力

1 国体の幻想的観念

▼「国体」の再定義

以上、われわれは駆け足で「国体」の二度にわたる形成・発展・崩壊の歴史をたどってきた。(略)

ところで、戦後に天皇制を語る際に繰り返し参照されてきた、「一木一草に天皇制がある」という中国文学者の竹内好の有名な言葉がある。

 

 

 

この言葉は、「天皇制的なるもの」が、天皇と実際に近接・接触している政治機構上部の統治エリートのなかで発生し、社会全体に一方的に押し付けられて行ったのではなく、日本社会の至る所で「天皇制的なるもの」が形作られているとの指摘である。

 

 

 

あの天皇ファシズムという異様な統治構造は、それを受け入れる広範で肥沃な土壌があったからこそ、成立し得たのであると。

この指摘は、日本社会のさまざまな組織や共同体にボスと茶坊主たちによる不条理な支配が見られるという現実に照らして、正当である。(略)

 

 

 

それゆえ本書は、天皇制あるいは国体を、基本的にあくまで近代日本が生み出した政治的および社会的な統治機構の仕組みとしてとらえることに、自己限定した。一木一草の揺らぎにまで天皇制の痕跡を求めずとも、われわれは十分検証できるほど近い歴史的起源をたどることでその機能を把握できるはずだ、という確信に基いてのことである。(略)

 

 

 

天皇による宮中祭祀の起源が農耕社会を前提としているのだから、その社会基盤が根こそぎ入れ替わってしまえば、天皇の執り行う宗教的および儀礼的実践は、日本人にとって訳の分からないものとなるだろう、というのが赤坂の見立てである。

しかし、本書で見てきたのは、社会の主要な生産様式に支えられなくとも、近代日本において「天皇制的なるもの」は十分に機能し得る、ということである。

 

 

それはなぜなら、少なくともわれわれにとって身近な天皇制とは、古代的意匠をんまとった近代的構築物であり、天皇の存在そのものならびに天皇制という統治構造が、その出来の良し悪しはともかくとして、近代化を意図してつくられた装置に他ならなかったからである。

 

 

そうであるからこそ、戦後においては、アメリカニズムと天皇との間に、代替可能性が生まれ、アメリカニズムはわれわれをとりまく物質的生活において、それこそ「一木一草に」宿るものとなり得た。

歴史家の安丸良夫は、「近代天皇像の形成」において、「天皇制=近代的構築物」との見方に基いて、天皇制の基本観念を次の四つにまとめている。(略)

 

 

 

主として近代天皇制の形成過程を扱っている「近代天皇像の形成」は、末尾部分で現代における天皇制の機能について言及しているが、そこでは天皇が関与するさまざまな儀礼と国民の日常生活との乖離が指摘され、天皇制は「人畜無害の骨董品」のごときものとなり、国民国家の統合の原理として無力化する可能性が指摘されている。

 

 

 

しかしその一方で、同じ天皇制が、日本国家の統制する秩序の「基本的な枠組み全体のなかでもっとも権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している」とも述べられている。

 

 

 

率直に言って、この論旨は筆者には理解できない。なぜなら、一方で天皇制はもはや無力だと言われながら、他方で同時に、全く逆のことが主張されているからである。(略)

 

 

▼「戦後の国体」の幻想的観念

戦前の天皇制については簡にして要を得た特徴づけに成功している議論が、天皇制の現在を扱おうとするや否や甚だしい混乱に陥るのは、なぜだろうか。それは、「戦後の国体」はアメリカという要因を抜きにしては考えられないからである。(略)

 

 

すなわち、「①万世一系の皇統=天皇現人神と、そこに集約される階統性秩序の絶対性・不変性」における、「万世一系の皇統」の観念は、天皇による支配秩序の永遠性(天壌無窮)を含意するが、今日、外交の場面で大真面目で謳い上げられているのは、日米同盟の永遠性(天壌無窮)である。

 

 

 

ここにおいて米大統領は神聖皇帝的性格を帯びることになるが、安倍政権による米大統領やその近親者に対する接遇の様式は、それを報じるメディアの報道姿勢と共に、この観念を裏書きするものであった。(略)

 

次に、「②祭政一致という神政的理念」における「祭政一致」のそもそもの意味は、司祭者が政治権力を保持する神政政治である。(略)

今日の社会でこれに類似する昨日は、「グローバリスト」たちによって醸成される経済専門家(中央銀行関係者、経済学者、アナリスト等)集団が果たしている。(略)

 

 

 

そして、「③天皇と日本国による世界支配の使命」は、戦前国体の「八紘一宇」のイデオロギーと直結するものであるが、その戦後的形態は「パックス・アメリカーナ」に見いだされうる。後述するように、この観念こそが、今日最も差し迫った危険の原因として立ち現われつつある。(略)

 

 

アメリカが失策を続けている中東の情勢や、激変しつつある東アジアの情勢に鑑みれば、パックス・アメリカーナの追及は、日本に利益をもたらすとは限らない。にもかかわらず、「パックス・アメリカーナへの助力」以外の選択肢が一切思い浮かばないのであるとすれば、それはパックス・アメリカーナが合理的判断から推論される望ましい秩序ではなく、八紘一宇としてとらえられていることを意味するであろう。

 

 

 

最後に、「④文明開化を先頭にたって推進するカリスマ的政治指導者としての天皇」もまた、戦後におけるアメリカニズムの流入に鑑みれば、その機能を了解することが出来よう。(略)

 

 

労働慣行の改革や司法制度改革、大学改革等々、「グローバル化への対応」を旗印とした一九九〇年代以降の制度改革において、ありうべきモデルの参照先はまことにしばしばアメリカであった。(略)

 

 

目につくのは、これらの改革が総じて失敗しているにも関わらず、停止されないことである。(略)

あたかも「神国ゆえに負けるはずがない」という命題が、「アメリカ流なので間違っているはずがない」へと転化したかのごとき光景を、われわれは目にしている。そこには一片の合理性もない。」

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「4 ふたつのアイデンティティ

改憲論争の盲点

(略)

しかし、本書の議論からすれば、「改憲か護憲か」という問題設定は、疑似問題にすぎない。第五章で論じたように、最高法規であるはずの日本国憲法の上位に、日米安保条約とそれに付随する日米地位協定および関係する種々の密約がある。そのような構造を放置したまま、憲法を変えようが護ろうが、本質的な違いはない。

 

 

とはいえ、憲法九条の存在のために、日本はベトナム戦争のごとき不義の戦いに参戦せずに済み、イラク戦争においても部隊こそ派遣したがいわゆる戦闘行為には参加しなかったことを、筆者は心底幸いであったと考える。(略)

 

 

平和運動家の梅林宏道は、一九九五~九六年にかけて日米間で行われた「安保再定義」について、まずアメリカ側の認識を次のようにまとめている。

 

 

つまり、日米安保体制とは、締結時に意図した対ソ防衛体制ではもはやなく、米軍の全地球的(超地域的)な展開を支える体制であるというのが、米国の認識となり、公然と語られるようになっていたのである。

 

 

(略)

 

しかし、日米両政府はそのような意図を全く持たなかった。このアメリカ側の「認識」に対して日本政府の側は次のように応えたという。

 

(略)

 

要するに、日本にとっての脅威が存在しなくても米軍は駐留を続ける、ということである。「在日米軍は日本を守ってくれるために駐留している」という日本人の「漠然たる常識」は、ほかならぬ日本政府によって否定されている。(略)

 

 

その間、一九九六年の「安保再定義」が打ち出した方向性に従って、日米の軍事協力、より端的に言えば、軍事力の一体化は進み、二〇一四年の集団的自衛権を行使容認する閣議決定へと至る。(略)

 

 

米軍によるグローバルな戦争遂行、それによる激しい悲しみと憎しみの喚起ということにおいて、日本が集団的自衛権の行使を認めようが認めまいが、われわれはすでに十分に、米軍の共犯者である。つまり、憲法九条は現実にわれわれを平和主義者にはしていない。

 

 

 

▼ 矛盾の在り処 ― 憲法九条と日米安保体制

また、憲法論の次元で言えば、矛盾の根本があるのは憲法の条文と自衛隊の存在との間にではなく、憲法日米安保体制との間である。(略)

 

 

 

つまり、戦後日本が憲法九条を持つ「平和国家」であるということとアメリカの戦争への世界最大の協力者であるということが、矛盾であるとは認識されず、奇妙な共存を続けてきたのである。元防衛官僚であり、退官後の現在は安倍政権による集団的自衛権の行使容認の決定を批判する論陣を張っている柳澤協二は、次のように語っている。

 

 

現実の日本のアイデンティティーは、唯一の被爆国であるとか、戦争は二度としないのだということを敷衍していく中で、自衛であっても戦争は許されないのだというような発想になっていったと思います。

 

 

しかしもう一つのアイデンティティーとして、私が政府にいて推進していたのは何だと言ったら、アメリカにとってより良い同盟国であるというアイデンティティーでした。

だから特に冷戦が終わってから、日本のアイデンティティーは何だと問われて、アメリカの同盟国であるという以外になかなか出てこない。

 

 

結局、アメリカがやろうとすることをいかにお手伝いできるか、たくさん手伝えるほうがいい同盟国であるというものでしかありませんでした。

 

 

けだし率直な弁だと言うべきであろう。(略)

仮にわれわれに、「アメリカの良き同盟国」(正確には、「ジュニア・パートナー」あるいは「属国」)というアイデンティティーしかないのであれば、われわれは「アメリカ帝国の忠良なる臣民」としてアメリカの弾除けとなる運命を喜んで甘受すべきなのであり、安倍政権は戦後のどの政権よりも露骨にその方向へと舵を切った。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 新しい「皇道」

(略)

彼の常識では、辺野古新基地建設に反対する翁長雄志沖縄県知事をはじめとする「オール沖縄」は、「親中」で「反米」で「反日」であるということらしい。(略)

ここにおいて「反日=反米」、したがって逆に言えば、「愛国=親米」という図式が、ほぼ自動的に選ばれている。(略)

 

 

 

これは、奇怪なように見えてきわめてロジカルな帰結だ。なぜなら、「愚かしい右翼」にとって国体は無傷で護持されなければならないと同時に、現実問題として国体護持はアメリカによる媒介抜きにはあり得なかったのであるから、両者を両立させようとするならば、アメリカ自身に天皇そのものとして君臨してもらうほかないからである。

 

 

 

▼ 発狂した奴隷たち

かつ、特徴的なことには、「反日=反米」にはさらに、「=親中」という図式が定番的に付け加わる。沖縄の基地建設反対運動の参加者は中国から日当をもらっている、というような妄想がその典型である。

 

 

ここには「奴隷の思考」がわかりやすく表れている。この完全なる奴隷の思考回路においては、人間が自由な思考と意思から親米保守政権を批判し、行動することもありうるという現実を理解できない。ゆえに、その現実を自分の持っている間尺に合わせて理解しようとする。(略)

 

 

彼らの妄想は、自分の奴隷の世界観に合わせて世界を解釈した時の「現実」そのものなのである。

もちろんここには、レイシズムも絡んでいる。(略)

すなわち、欧米人の仲間入りをしたいというコンプレックス、そしてアジアにおいては自分たちだけが近代人なのだという差別感情を上手く活用すれば、日本人はアメリカに従属する一方、アジアで孤立し続けるだろう、とダレスは見通していた。(略)

 

 

したがって、結局のところ、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく、「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかった。

そして現在、「欧米人の仲間入り」の願いは、日本資本主義が対米進出を企てたバブル期に、アメリカのレイシズムの現実の前で挫かれ、経済的衰退と中国をはじめとするアジア諸国の台頭は、「アジアにおける唯一の一等国」という観念を無惨なほど根拠なきものとしてしまった。

 

 

 

その結果が右に見てきた、一種の集団的発狂である。発狂した奴隷というものがいかにおぞましいものであるのかを、日本人は日々証明しつつある。

二〇一二年末に始まった第二次安倍晋三政権の時代は、「戦後の国体」の崩壊期にまさにふさわしい光景が繰り広げられた期間であった。

 

 

 

重要なのは、安倍政権が消え去ったところで、社会と個人の劣化が自動的に止まるわけではない、ということだ。(略)

世論調査によれば、安倍政権支持者の最多の支持理由は「他に適任者が思い当たらないから」というものであるらしいが、言い得て妙である。

 

 

 

現在の標準的な日本人は、コンプレックスとレイシズムにまみれた「家畜人ヤプー」(沼昭三)という戦後日本人のアイデンティティをもはや維持することができそうにないことをうっすら予感しつつも、それに代わるアイデンティティが「思い当たらない」ために、鏡に映った惨めな自分の姿としての安部政権に消極的な支持を与えているわけである。この泥沼のような無気力から脱することに較べれば、安倍政権が継続するか否かなど、些細な問題である。」

 

〇 安倍政権の犯罪的なやり方が明るみに出るたびに、これほどまでに酷い人間をリーダーにしている私たちの社会に、最初は驚き、次に怒り、呆れ、どうすれば良いのだろうと思いました。でも、ごく一部の少数の人間だけがおかしいから、このような反民的な態度のリーダーが容認されているわけではない、と知る様になり、今は、心の内、密かに、子供を産んだことを悔いる気持ちにさえなることがあります。

 

こんな酷い社会で生きなければならない子や孫に、申し訳ない気持ちになります。

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 「愚かしい右翼」の台頭

自民党所属国会議員である山田宏は、二〇一八年一月一六日に自らのツイッター・アカウント上で、次のように書いている。

 

 

沖縄県名護市長選挙が始まる。翁長知事の「オール沖縄」という名の親中反米反日

勢力と共にある現職は、名護市政をすっかり停滞させてしまった。沖縄を反日グループから取り戻す大事な選挙。

 

 

(略)

一九八〇年代に中曽根康弘政権のブレーンを務めた政治学者の香山健一は、当時次のように述べていた。

 

 

左翼が強く、我が国にも社会主義政権が成立する危険が現実に存在し、また周辺の国際環境も冷戦とアジア共産主義の勃興、浸透が進んでいた一時期に、我が国の政権党であった自由民主党が戦前保守と戦後保守の大連合、リベラルと右翼的諸勢力の連合という形で辛うじて多数派を形成しなければならない時期があったことは政治の現実ではありますが、衆参同日選挙に示された民意は自由民主党が左右翼両翼を切って新たな健全な国民的多数派を形成しつつあることを明確に示しております。

 

 

労働組合のなかの自民党支持率も急上昇しつつあります。このようなことを考慮に入れますと、我が国社会の一部に存在する右翼的勢力 ― それは第一に戦争と侵略への深い反省がなく、第二に日本の国体、精神文化の伝統について全く誤った、ゆがんだ固定観念に凝り固まっており、第三に国際的視野も、歴史への責任感も欠いております。こうした愚かしい右翼の存在と二重写しにされることは馬鹿馬鹿しいことだと思います。

 

 

この一節は、戦後の穏健で理性的であることを親米保守派が何を見落としてきたかを赤裸々に物語っている。まず、前半部において、香山は、自らがコミットしている政治勢力が旧ファシスト勢力(「戦前保守」「右翼的諸勢力」)と手を結んだことを率直に認めている。(略)

 

 

 

つまり、共産主義はもはや脅威ではない。したがっていまや、かつて緊急措置として結ばれた旧ファシストとの同盟を解消しなければならない。なぜなら彼らは、どうしようもなく愚劣だからだ、と。

 

 

このような香山の認識が示されてから三十余年を経て、自民党は「愚かしい右翼」によって占拠されるに至った。(略)

 

 

なぜこのような悲惨な結果が招かれたのか。それは合理的な親米保守が「愚かしい右翼」をついに粛清しなかったからであり、そのことは「戦後保守」が自らを「戦前保守」から隔てるべき決定的な差異を自覚できなかったことを意味するだろう。

 

 

この無自覚は、「戦前保守」と「戦後保守」には明確な違いがあるとの香山の見方とはむしろ逆に、両者はシームレスにつながっていることを示唆する。

そして、そのつながりの核心とは、論じてきたように「国体護持」である。(略)

 

 

香山のような、合理的親米保守派の立場から「戦後保守」の旧ファシスト勢力との共犯の事実を正面から批判した者でさえ、その意味の重大性を見通すことが出来なかったし、今日でも「親米路線の合理性」を語る論者たちにおいて状況は同じである。」

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「3 隷属とその否認

▼奴隷の楽園

しかし、ヘゲモニー国家は軍事的にも最強国であるという一般的な原則は、現在の日本がこれまで踏襲してきた対米従属路線をさらに追及しなければならない理由にはならない。

端的に言えば、日本の対米従属の問題性の核心は、日米安保条約でもなければ、大規模な米軍基地が国土に置かれていることでもない。

 

 

 

ドイツを見てみればよい。かの国も、アメリカと軍事同盟(NATO)を結び、日本同様敗戦国として大規模な米軍基地を受け入れているが、日本のような卑屈な対米態度を取っていない。

 

 

 

戦後の日米間の国力格差もまた、問題の本質ではない。

フィリピンを見てみればよい。かの国は、一旦は米軍基地を追い出し、対中関係が緊張する中で今日また米軍の軍事力を利用しようとしている。アメリカは強く豊かで、我が国は弱く貧しかったから従属するほかなかったという言辞は、下手な言い訳でしかない。

 

 

日本が巨大な米軍基地を受け入れている理由も、歴史的に二転三転してきた。それは、始まりにおいては敗戦の端的な結果であったのが、「東西対立における日本防衛」へと転じ、日本への直接的な脅威という理由付けの説得力が薄れると「自由世界の防衛」へと転じた。そして、共産圏が消失すると「世界の警察」による「正義」の警察行為のためであるとされ、この「正義」も怪しくなってくると「中国の脅威」、「暴走北朝鮮の脅威」への抑止力であるとされるの至った。

 

 

 

これらの二転三転は、これら言われてきたことすべてが真の理由ではないことを物語っている。

つまり、対米従属の現状を合理化しようとするこれらの言説は、ただ一つの真実の結論に決して達しないための駄弁である。

 

 

 

そしてそのただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すら持っておらず、かつそのような状況を否認している、という事実である。

ニーチェ魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。

 

 

 

 

本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。深刻な事態として指摘せねばならないのは、こうした卑しいメンタリティが、「戦後の国体」の崩壊期と目すべき第二次安倍政権が長期化するなかで、疫病のように広がってきたことである。」

 

 

〇最近、報道1930をよく見るのですが、先日たまたまそれが始まるまで、と水戸黄門を見ていたら、いつものように、「控えおろう… この紋所が目に入らぬか…」となったのですが、あれって、結局、問答無用で、権威あるものに従うという姿勢です。

黄門様は善で、悪人たちをやっつけるので、見ているものは、スッキリして喜ぶのですが、問答無用で権威あるものに従うという態度は、権威あるものが悪だとしても、従うということになります。

 

 

それが奴隷的だとするなら、小・中・高と様々なわけのわからない校則に口答えせずに従うというやり方を通じて、しっかり奴隷になる訓練を受けて育っているのだと思います。逆に言えば、そのやり方でしか教育できない社会というのが、問題なのでは?と思います。

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「2 異様さを増す対米従属

▼ 収奪攻勢としてのグローバリゼーション

(略)

これらすべては、「グローバリゼーションへの対応・推進」の名の下に、アメリカに本拠地を持つ場合の多いグローバル企業が日本の企業へ参入する道筋をつくるものだった。(略)

つまり、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、論理上、この「障壁」にカテゴライズされ得るのである。この延長線上で今日懸念されているのは、たとえば、日本の国民皆保険制度に対する攻撃である。(略)

 

 

 

しかし、日本の場合、際立っているのは、こうした動向に対する批判の声があまりにも小さいことである。たとえば、大手新聞メディアにしても、TPPをアメリカあるいはグローバル企業による新たな収奪攻勢としてとらえるという論調は、ほとんど見られなかった。(略)

 

 

そしてその挙句に、アーミテージ=ナイ・レポートのごとき、公然たる内政干渉が大した違和感もなく通用する(政権の政策と一体化する)という状況が、二〇〇〇年代以降通常のものとなった。

 

 

 

▼ 対米従属の逆説的昂進

ひとことで言えば、「異様なる隷属」である。再びアリギを参照するならば、こうした状況に至る前には、次のような段階があった。

 

 

親米的な自民党政権のもとでさえも、日本はアメリカの命令に従う理由をみつけるのが、ますます困難になっていた。(略)

 

 

だが、アリギも見通せなかった驚くべきことは、紆余曲折を経ながらも、結局のところ、自民党を中核とする日本の政治権力は、「アメリカの命令に従う理由をみつける」ことに狂奔し、それに成功してきた、ということだ。(略)

 

 

 

そして、脱対米従属を志向した鳩山民主党政権の成立は、その過程における例外的な事例であったが、結果としてそれは、対米従属をこれまでになく露骨に強化する激しい反動を呼び起こすこととなった。

 

 

 

▼ 軍事的従属

なぜこうした異様な事態が生じるのか。頻繁に口にされる標準的な答えは、軍事的従属のためというものである。(略)

 

 

 

イラクのごとき重要な産油国が石油取引の通貨をドルから切り替えることは、この制度に対する挑戦を意味し、ドルの基軸通貨としての地位を脅かす。アメリカの官民の負債が増え続けるなかで、米ドルの価値が崩壊するのではないか、という懸念はすでに長い間ささやかれてきた。この憂いを絶つために、アメリカはイラク戦争を決行してフセイン政権を打倒した、と見られているわけである。

 

 

 

この見方が正しいとすれば、アメリカの巨大な軍事力は、常に財政状況を圧迫する火種であると同時に、アメリカにヘゲモニー国家としての地位を保たせている究極の要因である。」