少し戻って…
「黒蝶は檻にとらわれる」のあとがきに、
「人間くさく完璧でない面を見せるキャラたち…」とありました。
確かにすごく人間くさいほほえましさが満載です。
でも、一方私は、この物語の感想で、「神話のようだ」とも
書きました。神様のように「できすぎ」のキャラクターばかりだと。
そのことに少し引っかかったので、ちょっと考えてみました。
なぜ人間くさいのか、なぜ神様のようなのか。
鳳叙牙 「……俺、悪いコトって、あんまりスキじゃなくてさー。
ちっちゃいことでも、なーんか心に鬱々としたものがたまってくってゆーか。
でも、別に正義感なわけでもないから、新米進士イジメも止められないし、目の
前でポイ捨てされた塵もどーしよーどーしよーって思いつつ、
結局拾えないし。結局なにもしないでヘラヘラきたんだけど」
ここを読みながら、
「そうそうそう!そうなのよ~」って思いました。
これが、人間。
でも、秀麗は…
鳳叙牙「ぐずぐず言い訳こいてやらないことを、真正面からやって
くれちゃうんだもん」
なので、叙牙は秀麗を見てるのが好きになった。
なのです。
私も、叙牙と同じです。だから、秀麗を見てるのが好きになりました。
そして、この物語のキャラは、このタイプの「できすぎ」ばかりではないかと、
思ったのです。
本来まともな人間だったら、こうあって当然、という流れで、
「できすぎ」てる。
でも、こんな「まともな人間」って現実にはいないような気がします。
昔、まだ少女だった頃には、人間はこうあって然るべき。
こうでない人間は、人間失格、と思ってました。
もちろん、私など圧倒的に人間失格。
でも、歳をとる中で、わかってきたのは、こんな人間は、
理想の世界のものであって、目指すべき姿ではあっても、
現実にはいない、ということです。
でも、これがまっとうな人間と思っていると、互いに相手の
ダメな所が許せなくなる。
自分のダメなところも許せなくなる。
自分を責め、互いに責め合い、窮屈で生きにくい社会になる。
理想像は理想像として、そこを目指すのは大事だけれど、
現実の人間はもっと叙牙のような人の方が多いし、
80%が秀麗のように見える「素晴らしい人」にも、20%の叙牙の
ような部分があるのは、不思議ではないと思うのです。
それを、その20%を論って、「あの人は酷い奴だった」みたいな
評価をすることが多いのが、とてもおかしいと感じるのです。
それで、「できすぎ」な人間像を、あえてまるで「神様」のようだ、
と言ったのです。