読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「空気」の研究

山本七平著 「「空気」の研究」を読んでいます。

何故日本はこうなのか。何故日本人である自分はこうなのか。それがずっと気になっています。
それで、ハンナ・アーレントの本も読んでみたのですが、もう少しこのことを考えてみます。

抜粋した文章は「 」で、感想は 〇 でメモします。


「道徳は一国の首相を辞職に追い込むほど強力で、これから見ても、そういった規範は明らかに存在するのですから、それがどういう規範かを教えておかねば、その子供が社会に出てから非常に困ると思います。」


〇…と、山本七平氏は「ある教育雑誌の記者」に答えます。
そして、挙げた日本の道徳とは。

・差別の道徳(知人には親切にする。知人以外は無視する。)
・現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じている。
・それを口にすれば、たとえそれが事実でも”口にしたということが不道徳行為”とみ
 なされる。

…という流れがあって、「空気」が出てきます。

「彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、彼はそれから自由になれない。

従って、彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてでなく、「空気」に適合しているからである。

採否は「空気」が決める。

従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。
人は、空気を相手に議論するわけにいかないからである。」

「(略)この言葉は”絶対の権威”の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力をふるっているのに気づく。(略)至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人でなく空気」である、と言っている。」

〇 私たちの社会では、よく「外国では〇〇だ」とか「外国では〇〇ではない」
と欧米諸国のやり方を引き合いに出します。 
私自身も言ったことがあるような気がします。そして、そのことを批判する言葉も、
耳にします。

確かに、日本人がなぜいつも「外国」を例に出してものを考えたり、説得したりしなければならないのか、おかしな話です。

でも、あのアーレントの本を読んで思ったのは、私たちの国には「基準」がないのだ、ということです。

人びとを「強制」する「真理」がない。
何故なら、強いものが白と言えば、黒いものも白くなる社会なのですから。

基準は、水戸黄門だったり、その場の「空気」の中で偉い人だったりで、
その人が「こうだ!」と言えば、そうなるのです。論理ではない。
議論をしようにも、簡単にその前提が覆される中での議論は、時間の無駄です。

でも、「外国」には、基準があって、その基準に従って「外国」では、ダメだとされていたり、良いとされていたりする。

だから、何らかの基準に基づいた議論をしたい人は、外国を引き合いに出して、言うしかないのだと思います。

何故、私たちの国には、「基準」がないのか。
それは、みんなが「空気」に従うから、ということなのでしょうか。