読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

一下級将校の見た帝国陸軍(言葉と秩序と暴力)

「「死の谷……」については後述するが、この中の「サント・トマス……」はちょうどわれわれとは逆の立場にいた人たちの記録である。
日本軍はマニラのサント・トマス大学を接収して、在比米英人等をここに収容した。(略)


その一女性が、終始日本軍に管理されていた収容所内の生活を、日記の形態で、こまごまと三十六冊の大型ノートに記し、それを編集したのがこの本である。(略)


といってもちろん、すべての日本人が立派なわけではない。(略)彼女は日本人が気に入っていた……彼らは、仲間の抑留者からよりは、ジャップたちから親切にしてもらうことの方がずっと多かった……」のくだりで、「日本軍も案外立派だったじゃないか」という感想を持つだけなら、何の意義もないであろう。


問題はそこにはない。彼らは強固な自治体を造り、その組織内に摩擦があって逆に”ジャップの方が親切”と見えても、日本軍は実は一種傍観的管理者にされたという事実が、われわれとの違いなのである。



私が、読み始めて受けたもう一つのショックは、Oさんの言ったことが本当だったことである。彼らは最初、抑留は二、三日だと思っていた。しかしそれがいつまで続くかわからないとなると、たちまち自らの手で組織をつくり、秩序を立てはじめる。その部分を引用しよう。



「三日たち、やがて一週間がすぎた。(略)……どうやらキャンプが組織化されなければならないことが、はっきりした。ジャップたちは、そこに全員がそろっていることを確認すること(員数確認!)以外は、それをどう管理するかとか、捕虜たちがどうなるかとかにはいっさい関心がないようだった(秩序立てへの無関心!)。



規律正しいアングロ・サクソン魂があとを引き受けるときだった。管理機関として、すぐれた専門家屋ビジネスマンたちの実行委員会がつくられ、……が委員長に選ばれた。引き続き、警察、衛生、公衆衛生、風紀、建設、給食、防火、厚生、教育……の委員会や部会が作られ、それぞれ委員長がえらばれた」



それだけでない。彼らは、その秩序を維持するため自らの裁判所まで作ったのである。「裁判は秩序の法廷でおこなわれ、そのための男女からなる陪審員が任命された……」
そして彼らはまず、ゴミの一掃、シラミ・ノミ退治からはじめ、全員が統制をもって、病院、厨房、学校等の任務を分担して行き、イズラ自身が、「二、三週間のうちに荒地に整然とした「コミュニティをつくり、限られた枠内であらゆる施設を整えたさないを造り上げた抑留者たちの組織と器用さ」に驚くのである。



だがそれは絶対に、彼らが、個人個人としてわれわれより立派な人間だったということでもなければ、知識が高いということでもない。(略)



ただ彼らは、自分たちで組織をつくり、自分たちで秩序をたて、その秩序を絶えず補修しながら、その中に自分たちが住むのを当然と考え、戦後の日本人がマイホームを建ててその中に住むため全エネルギーを使いつくすのと同じような勢いで、どこへ行ってもマイ秩序すなわち彼らの組織を、いわば自らの議会、自らの内閣、自らの裁判所とでも言うべきものを、一心不乱に自分たちの手でつくってしまう国民だというだけのことである。



Oさんが指摘したのは、ただその事実なのである。(略)Oさんには、われわれのいるこのカランバン収容所と、あのサント・トマス収容所との間の距離が、はっきりとわかっていた。それがOさんの嘆きの原因だった。




だが、この距離を全く知らなかった小松さんも、秩序の維持は結局は暴力のみ、そして米軍が介入して暴力を一掃すればたちまち秩序がくずれる収容所内の実情を見て嘆声を発している。そしてそれは、その場にいる九十九パーセントの人間の嘆きだっただろう。



ではなぜ何もできなかったのか?なぜ暴力支配になるのか。これはわれわれだけの問題ではない。同様の事件はシベリアの収容所にもあった。では敗戦が理由か、否、帝国陸軍には悪名高い私的制裁(リンチ)があり、それは天皇の命令に等しいはずの直属上官の直接の厳命でも、やまなかった。




従って、暴力支配は、勝利敗北には関係なく、一貫してつづいているのである。なぜ、なぜなのか?



考えてみれば、収容所とは、サント・トマスであれカランバンであれ、少々残酷な言い方だが「民族秩序発生学」を研究する実験場のような所である。(略)



ただ彼らとわれわれとの違う点は、日本軍が秩序をつくろうとせず放置していたのにして、米軍はその”民主主義教育癖”を発揮して、しきりと民主的秩序を造らすべく指導したことである。(略)



だがその内実は、帝国陸軍の内務班同様、自然発生的な別秩序に支配されていた。帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。



兵の階級は上から兵長上等兵一等兵二等兵である。私的制裁というと「兵長一等兵をブン撲る」ようにきこえるが、実際はそうでなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。



従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内実的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、三年兵・二年兵・初年兵という秩序であり、これが階級と混ざり合い、両者が結合した独特の秩序になっていた。




そしてこの秩序の基礎は前述の「人脈的結合」すなわち”同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。二年兵の兵長が三年兵の一等兵にちょっとでも失礼なことをすれば、三年兵は、三年兵の兵長のもとに結束し、三年兵の兵長が二年兵の兵長を文字通りに叩き潰してしまう。



従って二年兵の兵長は三年兵の一等兵に、はれものにさわるような態度で接する。表面的にはともかく、内実は、兵長という階級に基づく指揮などは到底できない。それが帝国陸軍の状態であった。



このことは「古兵殿」という言葉の存在が的確に示している。一等兵は通常、階級名をつけずに呼び捨てにする。しかし二年兵の上等兵は、三年兵の一等兵を呼び捨てにできず、そこで「〇〇古兵殿」という呼びかけの尊称が発生してしまうのである。」


〇私は内気で社交的な場が苦手です。就職し社会に出ることが、怖くてたまらなかったのは、その自分の性格のせいだと思っていました。
でも、こんな私が男で、この軍隊に入らなければならなかったら、どれほど大変だっただろう、と思います。恐ろしすぎる…。

でも、こんなにも複雑な人間関係と恐ろしい暴力に神経をすり減らしていたら、「互いに力を合わせて何かをする」などということは不可能になるのではないかと思いました。