読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人間にとって法とは何か

「ルールブックがなぜできるのか

原っぱで、子供たちが草野球をしている。この時には、何がルールかなど考える前に、とにかく三角ベースとかで遊び始めるわけです。で、アウトとかセーフとか、適当にやっている。ときどき、アウトだったかセーフだったか、紛争が起こります。(略)



というように、ルールをめぐって紛争が起こる。そういうタイプの紛争が起こったときには、二つの解決方法があると思うのですが、ひとつは、野球のルールをすべて書き出して、ルールブックをつくります。(略)



ルールブックがなかった草野球は、じゃあ、野球ではなかったのか?
ルールブックにこだわると、草野球は、不完全な野球ということになります。でも言語ゲームの考え方に立つと、あべこべに草野球のほうが、本当の野球(一次ルール)です。最初の野球です。(略)



法律も同じです。無文字社会というものがあるが、無文字社会には法律はないのか。書いてないから、目に見えません。でもそこには、強制力をともなったルールがある。(略)



文字ができ、古代から中世、近代になっていくと、ルールブックがたくさん書かれて行って、私たちはそれが法律であると認識し始めるようになります。でもそれは法律の本質ではない。二次的な問題である。これがルールによる説明です。





3 審判のいるゲーム

審判とゲーム

もうひとつは、審判をおいて、ルールについて判定してもらうことです。
審判の役割は、ルールを体現していること。ぎりぎりのところで、セーフだとかアウトだとか、ホームラン性の当たりが隣の家に飛び込んだらどうするかとか、みんな決めるわけです。




審判がいる野球と、審判がいない野球とでは、野球として違うかどうか。これはいろいろ考えられると思いますが、結論としては、同じ野球である。ただ審判がいて、ルールがスムーズに適用されるようになっているだけ。(略)



私たちの社会は、そうやって複雑になっていますが、分析する時には、この「一次ルールと二次ルールの結合」という図式を下敷きにすると、きれいに分析できる。そうではなしに、近代法がモデルで、ほかの法のシステムは全部不完全なものだという考え方でいくと、人間社会の法の大部分は捉えられませんよというのが、「法の概念」のエッセンスではないかと、私は思っています。



いわゆる近代法学よりも、ずっと柔軟に、人間社会の実態を考えていると思いました。
以上が、審判のいるゲームです。



審判の役割は命令か

審判のいるゲームに関連して、ハートは面白いことを言っている。審判の命令に従うゲームと審判のいるゲームは違いますよ、と言うのです。(略)



そうじゃなく、審判には権限はあるけれども、審判の権限は、もともとのルールをどう適用するか、人によって判断の分かれる曖昧な部分(ハートは、これを「半影部」とよびます)についてルールを適用しているだけである。



黒白のはっきりしているところでは、審判の役割なんか本当はないんだ、と考えられる。これはサッカーについてはそのとおりなんですけれども、問題は、政治権力の役割についてどう考えられるかということです。





ひとつの学説は、権力というものは、権力者の勝手な命令に従うゲームだというものです。何を言われても、それに従わなくてはならない。そういう学説が、それなりに説得力を持っていた。




でも社会は、本来そういうものではない。基本的なルールがもともとあって、後から審判が出て来た。後から権力者や政治家が出て来た。彼らは権力を持っているように見えるけれども、社会の基本的なルールに反することはできない。



人民の利益に奉仕するという、公共の役割を果たすための存在だ。これは政治哲学の話になりますけれども、こういうふうに理解するのが、正しい政治だということになります。さっきのマルクスレーニン流の権力理解と違って、現実の社会を良くして 
いくというイメージの持ちやすいモデルではないかと思うわけです。」