読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

遠い山なみの光

〇 カズオ・イシグロ著 「遠い山なみの光」を読みました。
訳者が違うからなのか、読み始めた時、会話があの小津安二郎の映画のようだ、
と思いました。

と言っても、小津安二郎の映画もそれほどしっかり見ているわけではありませんが。
何がいいたいかというと、日本の良家の人々が描かれている、と感じたのです。

そんな中、色々なエピソードが断片的に出て来ます。「私」とその他の人々との関係は?とか、「私」の今と昔の関係は?とか、この「私」とこっちの「私」の関係は?とか、この先の展開を想像しながら読みました。

そういえば、あの「日の名残り」の時は、スティーブンスとミス・ケントンの関係が、どんなものだったのか、そしてどうなったのかについて、ずっと気になりながら、先を読まずにはいられない気持ちになりました。(映画を見てある程度分かっていたのですが、でも、小説を読むとまた別で、引き込まれました。)


忘れられた巨人」の時は、息子とこの両親の関係が気になりましたし、
記憶が蘇った時に、この夫婦はどうなるのかが、気になりました。


そして、それと同じような「気になること」が、この「遠い山なみの光」にもありました。それが、緒方さんと「私」の関係です。
緒方さんは、義父です。つまり、「私」は緒方さんの息子、二郎と結婚していて、現在妊娠中なのです。

それなのに、会話から感じられるのは、緒方さんと「私」の仲の良さです。
それがなんとも不思議で、でも、ある意味よくある話のようでもあり、一体この先、どうなって行くのか、気になりました。

でも、結局どうにもならず、そういう意味では少し肩透かしにあったような気がしました。


一番心に残ったのは、佐知子が猫を捨てるシーンです。これは、嫌な話です。でも、私の中にも、同じような記憶があるので、何故イシグロ氏が「遠い記憶」の中に、
このエピソードを入れたのか、考えてしまいました。


私の母も多分同じようなことをしていました。うちは、犬でしたけど。
子どもの頃飼っていた犬が子どもを産んで、母はその子犬たちを箱に入れて、多分川に捨てたのです。

子どもの頃は、そのことをどう心に収めればよいのかわからず、「そんなものなんだ」「しょうがない」と思ってやり過ごすしかなかった…。
うちは貧乏でしたし、しょうがないと、子供心にもわかっていました。

命は大切だ…などと言っても、一方で簡単に色々なものを殺しているのが、
現実。私は、大人の言葉からではなく、そのような現実から色々なものを汲み取って、成長し、大人になったのだと思います。


以前、野良猫や野良犬の命を救うのは、私たちの心を救うこと、という言葉を聞いたことがあって、私は文字通り、救われた気持ちになったことがあります。
そのことを思い出しました。


この小説には、その他にもいろいろな怖いエピソードがあるので、もう一度読み直し、繋がりを復習しどういうことなのか考えてみなければ、と思っています。

でも、もしイシグロ氏が遠い日本のイメージを形にするために、この物語を書いたのであれば、私にも共感できる日本のイメージになっていると思いました。


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5月1日

〇細切れに、少しずつ読んでいたので、それぞれの断片の繋がりが、いまいち
よくわかっていませんでした。
もう一度読み直し、これは、一人の「わたし」のお話しなのだ、とわかりました。

気になった文章をメモしておきたいと思います。

「そのうちに、それとは別の、草のあいだを蛇が這ってでもいるような音がうしろで聞こえるのに気がついた。立ち止まってみると、原因はすぐにわかった。いつのまにか足首にからまった古い縄を、草のあいだを引きずっていたのだ。私はたんねんにそれを外した。指でつまんで月の光にかざしてみた縄は、濡れていて泥だらけだった。


「あら、万里子さん」私は声をかけた。子供はすぐ目の前の草の中に、膝をかかえこんで座っていたのだ。(略)


「それ、なあに?」万里子が訊いた。
「何でもないわよ。歩いてたら足にからまっただけ」
「でも、何なの」
「何でもないわ。ただの縄よ。どうしてこんなところまで来たの」
「おばさん、子猫飼ってくれる?」
「子猫?」
「お母さんは、家じゃあの子猫たちは飼えないって言うの。一匹飼ってくれる?」
「無理ね」
「でも、早く飼ってくれる家を見つけなきゃならないんだ。そうでないと川に捨てちゃうってお母さんが言ってるから」(略)



「どうしてそんなもの持ってるの?」
「言ったでしょ。何でもないのよ。足に引っかかっただけ。」わたしはまた一歩近づいた。
「どうしたの、万里子さん」
「何が?」
「いま、変な顔をしてたじゃない」
「変な顔なんかしないよ。どうしてそんな縄持ってるの」
「変な顔してたわよ。とっても変な顔」
「どうして、縄持ってるの」
私はまじまじと子供を見た。その顔には恐怖の表情がうかんでいた。(略)」




「けれども、こんなことを言ってわたしを励ましてやらなくてはと考えたニキは、やはり僭越だった。だいたい彼女には、長崎時代の最後のころのことなど本当はろくにわかっていはしないのだ。おそらく、父親に聞いた話から勝手なことを想像したのだろう。そういう想像はどうしても不正確なものになる。事実、夫にしても、日本についての立派な論説はいくつも書いているが、日本文化のいろいろな性格などわかってはいないのだ。まして二郎のような人間のこととなれば、なおさらだった。



二郎を懐かしむ気持ちはわたしにもないが、だからと言って、二郎はけっして夫が考えているような愚かな人間ではなかった。彼は家族のために一所懸命働き、わたしにも同じことを期待していた。彼は彼なりに誠実な夫だったのだ。そればかりか、娘と暮らした七年間は、娘にとってもいい父親だったのである。長崎時代のさいごのころには、わたしも他のことについては納得していたにせよ、景子が父親との別れを悲しまないとは、さすがに考えられなかったのだ。(略)」



「あくまでも自分の私生活を守ろうとする、このいささか挑戦的な態度を見ていると、ほんとうに姉の景子のことを思い出さずにはいられない。というのも、夫はどうしても認めようとしなかったが、わたしの娘たちはじつによく似ていたのである。


夫に言わせれば、二人は正反対だという。それどころか、彼は景子は生まれつき癖のある人間で手のつけようがないとまで考えるようになっていた。しかも、はっきり口にこそ出さなかったものの、景子の性格は暗にその父親ゆずりだと見ていたのだ。私はつよく反論もしなかった。悪いのは二郎でわたしたちではないなどという解釈は、いかにも安易だったからだ。(略)



それなのに、一人は明るく自信のある女になり ―わたしはニキの将来を完全に信じている ― 一人はどこまでも不幸になっていったあげく、みずから命を絶ったのである。(略)」



「「どこの女の子?」
「このあいだブランコにのっていた子よ。村でコーヒーを飲んでいたとき」
ニキは肩をすくめた。「ああ、あの子」彼女はこう言っただけで、顔も上げなかった。
「でも、ほんとうはね、あの女の子なんかじゃないのよ。今朝、それに気がついたの。あの女の子みたいだったけど、そうじゃないのよ」
ニキはまたわたしを見ると、「あの人だって ― 景子だっていうんでしょう」と言った。
「景子?」わたしはちょっと笑った。「妙なことを考えるのね。どうして景子なの?違うわ。景子とは関係ないの」
ニキはいぶかしげにわたしを見た。
「昔会った女の子なのよ。ずっと昔」
「どの子?」
「あなたの知らない子。ずっと昔に、わたしが会った子なの」(略)



「じつは、今朝別なことに気がついたの。あの夢について、ちょっと別なことに」
娘は聞いていないらしい。
「じつはね、その女の子はブランコなんかのってないの。初めはのってるみたいな気がしたんだけど。でも、のってるのはブランコじゃないの」
ニキは何かつぶやいたきりで、新聞を読み続けていた。」


5月4日

「「そうよ、悦子さん。希望はたくさんあるわ」
万里子がそばへやってきた。二人の話を小耳にはさんだのだろうか、彼女はこんなことを言いだした。
「あたしたち、また靖子さんのとこへ行くのよ。お母さんに聞いた?」
「ええ、聞いたわ」とわたしは言った。「またあのお家で暮らすの、楽しみ?」



「こんどは子猫が飼えるかもね」と女の子は言う。「靖子さんの家なら広いもの」
「それはまだよ、万里子」
佐知子が言うと、万里子はちょっと母親の顔を見たが、また「でも靖子さんは猫が好きよ。マルだって、あたしたちが飼う前は靖子さんの猫だったじゃない。だから子猫てみんな靖子さんの猫よ」
「そうね、でもその話はまだ。靖子さんのお父さまが何ておっしゃるかよ」
女の子はふくれっ面で母親を見たが、もう一度わたしのほうを向いた。「また猫を飼えるかもしれないわ」と言った表情は真剣だった。」




「「この年頃の男の子は、まだ警官になりたいとか、消防士になりたいとか言ってるものですけど、晃はもっと小さい時から三菱に勤めたいって言ってるんですのよ」
「きみのお父さんの会社はどこさ?」男の子はまた訊く。こんどは母親もたしなめもせずに万里子を見て、様子をうかがっていた。
「動物園の園長さん」と万里子は言った。
一瞬、みんなが黙り込んだ。不思議なことに、男の子はこの返事にひるんだらしく、ふくれっ面でベンチに腰かけてしまった。」




「いま考えてみれば、緒方さんがあの夏にいつまでもわが家にいたわけもはっきりわかる気がする。息子がよくわかっている緒方さんは、松田重夫が雑誌に書いた論文について二郎がどう対応するかを見抜いていたのだろう。



夫のほうは、ひたすら、緒方さんが福岡へ帰ってくれて何もなかったことになってしまう時を待っていたのだ。そのくせ口では、一門にたいするこういう侮辱には時をおかず断固として対応しなければならないとか、これはお父さんだけではなくぼくの問題ですとか、あいつには暇ができしだい手紙を書きますなどと、あいかわらず調子のおとを言っていたのである。



今となればわかるのだが、これは何か厄介になりそうな問題が持ち上がったとき、きまって二郎が使う手だった。それから何年か後に訪れたあの危機の時にも、彼がこのときと同じ対応をしなかったなら、わたしは長崎を離れなかったかもしれないのだ。だが、それはまた別の話である。(略)



それに二郎はその晩も疲れていたから、そんな話を持ち出せば怒り出しそうな不安もあったのだ。いずれにしても、わたしたち夫婦の間柄は、そういうことをはっきり口に出して話し合うようなものではなかった。」




「ただ、これだけは言わせてください。ぼくはたしかにあそこに書いたことを一から十まで信じています。今でもそれは変わりません。緒方さんの時代には、日本の子どもたちは恐るべきことを教わっていました。じつに危険な嘘を教えられていたんです。
いちばんいけないのは、自分の目で見、疑いをもつことを教えられなかったことです。だからこそ、日本は史上最大の不幸に突入してしまったのです」



「戦争には負けたかもしれないがね」と緒方さんはさえぎった。「だからと言って敵の猿まねをすればいいというものじゃない。われわれが負けたのは大砲や戦車がたりなかったからで、国民が臆病だったからでも、社会が浅薄だったからでもない。


重夫くん、きみにはぼくらのような人間がどんなに努力したかわかっていない。ぼくだの遠藤博士(せんせい)のような人間がね。きみは遠藤さんのことも非難しているが。ぼくらは心から国のことを思って、立派な価値のあるものを守り、次の時代に伝えるように努力したんだよ」



「それは疑いません。あなたが誠実に努力なさったことを疑っているわけではないんです。そんなことは、ちょっとでも疑ったことなんかありません。ただ、その努力の方向が結果的にまちがっていた。悪い方向へ行ってしまったんです。


あなたにそれがおわかりになるはずはなかった。けれども、それは事実だと思うんです。ただそれも今では過去のことになったわけで、その点はよかったとおもうばかりなんですよ」



「これは驚いたな、重夫くん。きみは本気でそんなことを信じているのか。誰がそんなことを言えと教えたんだ」



「緒方さん、ご自分に正直になって下さい。あなただって心の奥では、ほくの言ってことが本当なのはわかっておいでのはずなんです。そして公平に言えば、ご自分の行為の結果がわからなかったからといって、責めるのは酷だと思うんです。


あのころ将来が読めた人はほとんどいなかったんですし、また読めた人は、そういう思想を口にしたために投獄されたんですから。しかし、今ではそういう人たちも自由になりました。そういう人たちがわれわれに新しい夜明けを教えてくれるんです」(略)


「じつを言いますとね、ぼくはあなたのお仕事のある面について知ってるんです。たとえば西坂の教師が五人、馘になって投獄されたでしょう。一九三八年の四月でしたかね。しかしその人たちも今では釈放されました。その人たちがぼくらに新しい夜明けを教えてくれるんです。では、失礼します」彼は鞄を持つと、わたしたちにかわるがわる頭をさげた。「二郎さんによろしく」彼はそうつけたすと、背を向けて立ち去った。」




「このあいだ聞いた話があるんですがね。ある男の話なんですが、じつを言うと二郎の会社の仲間です。どうやらこの前の選挙の時、その男の細君が、どの党へ入れるかで亭主と意見が食い違ったんですな。


とうとう殴ったらしいが、それでも譲らなかったそうです。けっきょく、夫婦で別の党に投票したんですよ。昔だったら、そんなことは考えられないでしょう。驚くじゃありませんか」
藤原さんも首をふった。「世の中がまるで変ったんですよ」そう言って、彼女は溜息をついた。「でも、悦子さんのお話しだと二郎さんはすっかり偉くおなりなんですってね。さぞお喜びでしょう、緒方さん」
「ええ、あれはまあ順調だと思います。実は今日も、会社の代表でひじょうに重要な会議に出ていましてね。どうやら昇進させてもらえるらしい」」





「やがて、前方の土手にあの小さな木の橋が見えて来た。橋を渡る途中でわたしはちょっと立ち止まり、夜空を見上げた。そのとき橋の上で、ふしぎな静かな気持ちに襲われたことは今でも忘れられない。


わずかな間だったがわたしは手すりにもたれて、下を流れている川の音に聴き入った。そしてまたふりかえってみると、提灯の灯を浴びた自分の影が橋の板の上に向こう側までのびていた。



「こんなところで何をしているの」わたしは声をかけた。万里子は目の前で、向こう側の手すりの下にうずくまっていたのだ。わたしはそばに近づくと、その姿を提灯の明かりで照らしてみた。女の子は両手の掌をみつめているだけで、何も言わなかった。


「どうしたの。なぜこんなところに座っているの?」
虫がたくさん、提灯のまわりに集まって来た。それを前に置くと、子供の顔がくっきり照らし出された。長い沈黙ののちに、万里子はやっと口をひらいた。「あたし、行きたくない。あたし、あした行きたくない」



わたしは溜息をついた。「でも楽しいわよ。誰だって、知らないところはすこしは怖いものだわ。でも行ってしまえば好きになるわよ」
「あたし、行きたくない。そして、あの男(ひと)も嫌い。あの男なんか豚みたい」
「そんなことを言うものじゃないわ」わたしは怒った声を出した。一瞬おたがいの目が合ったが、万里子はまた自分の手に目を伏せてしまった。



「そんなことを言っちゃいけないわよ」わたしはおだやかに言いなおした。「その男(ひと)はあなたが大好きなんだから。新しいお父さんのようなものよ。きっとみんなうまくいくわ」
子供が黙っているので、わたしはまた溜息をついた。
「とにかく、行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ」
こんどは、万里子は何か訊きたげにわたしを見上げた。


「そう、ほんとうなのよ。行ってみて嫌だったら、すぐ帰ってくればいいのよ。でも嫌かどうか、まず行ってみなくちゃ。きっと好きになると思うわ」
女の子はまじまじとわたしを見ていたと思うと、「なぜ、そんなものを持っているの」と訊いた。



「これ?サンダルに引っかかっただけよ」
「なぜ、持っているの?」「言ったでしょ。足にからまっただけ。万里子さん、どうしたの」わたしはちょっと笑った。「どうしてそんな顔でわたしを見るの。わたしが怖いことなんかないでしょ」



万里子はわたしに目を据えたまま、そろそろ立ち上がった。
「どうしたの?」わたしはくりかえした。
女の子は走り出した。その足音が気の橋に太鼓のようにひびいた。彼女は橋を渡り切ると立ち止まって、うさんくさそうにわたしを見た。わたしがにっこり笑って提灯を持ちあげると、子供はまた走り出した。



川の上に、半月が出ていた。わたしは何分か橋の上に佇んだまま、ひっそりとその月を見つめていた。一度だけ、家に向かって土手を走っていく万里子の姿が暗がりの中で見えたような気がした。」



〇サンダルに引っかかった縄をもった悦子を恐れる万里子の話が二度出てきます。
ちょうど、あの日の名残りの中でも、スティーブンスが、あの記憶はいつのものだったか…と振り返った時のように、この記憶も曖昧で、でも強烈なものだったのだろうと思います。


〇5月15日

「パパは、もう少し姉さんのことを考えてあげるべきだったんじゃないかしら。ほとんど相手にしなかったでしょう。あれではひどいわよ」
まだその先があるかと思ったのに黙ってしまったので、私は言った。「まあ、それもわかるわ。何て言っても自分の子じゃないんですもの」(略)



「あなたのお父さまは、ときどき観念的になってね。あのころだって、こっちへ来れば景子は幸せになれると本気で信じていたのよ」
ニキは肩をすくめた。わたしはしばらく彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でもね、ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。こっちへ来ても景子は幸せにはえないと思っていたの。それでも、わたしは連れて来る決心をしたのよ」



娘はちょっと考えている様子だった。「バカなこと言わないでよ」ニキはわたしのほうを向いた。「そこまでわかったはず、ないじゃない。しかも、お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんかいないわよ」




わたしは黙っていた。化粧をしていないと、ニキの顔はひどく幼かった。
「とにかく、時には賭けなくちゃならない場合があるわ。お母さまのしたことは正しかったのよ。ただ漫然と生きているわけにはいかないもの」
わたしは手にしていたカップを置くと、ニキの背後の庭にじっと見入った。雨の気配はなく、空はこの数日よりも明るいかんじだった。



「お母さまがそのころの生活で満足して、そのままじっとしていたとしたら、バカよ。すくなくとも努力はしたじゃないの」
「そうかもしれないわね」わたしはややきっぱり言った。「もうその話はやめましょう」
「漫然と生きている人たちなんて、みんなバカだわ」(略)



「おかしなものよ。最初の結婚のときには、夫がお義父さまといっしょの家で暮らさないというので、さんざん言われたの。そんころの日本では、まだそれが当然だったのよ。そのことでは、ずいぶん言われたわ」
「お母さまはほっとしたでしょうね」ニキは野原を見つめていた。
「ほっとする?どうして?」
「そのお義父さんと暮らさなくてすんで」



「むしろ、その人がいっしょにいてくれたら、わたしは幸せだったんじゃないかしら。それに、その人にはもう奥さんがいなかったの。昔の日本の習慣というのも、けっして悪くはなかったのよ」
「今だから、そんなことが言えるのよ。やはり、そのときのお母さまはそうは考えなかったにきまってるわ」


「でもね、ニキ、あなたにはとてもわからないわ。わたしは夫の父が大好きだったの」わたしはちょっと彼女を見たが、けっきょく笑ってしまった。「やはり、あなたの言うとおりかな。やはり、あの人といっしょに暮らすことにならなくてほっとしたのかしら。今じゃわからないわ」(略)


〇 「漫然と生きてる人たちなんて、みんなバカだわ」という想いは、わたしの中にも、あったような気がします。若い頃はそう考えるのかもしれません。でも、今は漫然と生きようとしなければ、私たちの社会では生きられないのでは?…と思います。漫然と生きようとする人だけが、生きていられる、と。