読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

安倍官邸とテレビ

「「中立」「政治的公平」とは何なのか?

(略)
今回の「お願い文書」には、次のような問題があります。

(1)「中立」という誤った考え方を放送局に要求……対立する両者から等しく距離を置き、どちらの味方もしない「中立」は、言論報道機関が必ず守るべき原則ではありません。


仮に政党Aが独裁政治を目指して政党Bと対立すれば、民主主義社会の言論報道機関が政党Aを批判して当然です。「健全な民主主義の発達」を謳う放送法の趣旨からは、放送局は政党Aを必ず批判しなければなりません。

(2) 放送の「政治的な公平」を番組単位で要求……放送法が放送局に求める「政治的な公平」は、単一番組で必ず実現すべきものではありません。政治的な公平は、一定期間に流された放送番組全体で判断すべきです。このことは、放送を所管する総務省(旧郵政省)の過去の答弁からも明らかです。


(3)街頭インタビューなど取材・報道の「公平中立」を要求……街頭インタビューに応える人々の声は、場所によって偏って当然です。企業城下町の都市と、大震災の被害が深刻な農漁村では、生活の苦しさや政治や行政への期待が違うはずです。仮にそのインタビュー結果を放送局が操作し、政府与党の制作への支持・不支持のバランスを取ったら、これは事実を曲げた報道であり、捏造というべきです。



こうした「錯誤」に満ちた「お願い文書」を渡された放送局が、政治的な圧力を恐れ、番組のテーマ設定や出演者選定で過度の忖度や自粛をすれば、視聴者にわからないままに事実上、放送番組が政党から干渉され、規律されることになりかねません。



いまや放送法第一条が謳う「放送による表現の自由」や「放送が健全な民主主義の発達に資する」ことが危機に瀕している、と私たちは考えます。
放送局は、言論報道機関の原点に立ち戻り、「表現の自由」を謳う放送法を尊重して自らを律し、民主主義を貫く選挙報道をすべきです。


政治的圧力を恐れる自主規制によって、必要な議論や批判を避けてはなりません。政治家も、「錯誤」に満ちた要望書を放送局に送るような愚行は慎み、放送が伝える人々の声に耳を傾け、放送を通じて堂々と政策を議論すべきです。私たちの社会は、メディアの「中立」とは何か、「政治的な公平」とは何かについて、一層議論を深め、合意を形成していく必要があります。


また私は、この問題について、別の観点から、メディアの取材に対して以下のような大意でコメントした。

「ほかの先進国では政府から独立した機関が放送免許を交付するのに対して、日本は宋に対する政府の関与が大きい。放送法第四条には「政治的に公平であること」の後に「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにうこと」とあり、それが公平公正ということの意味である。今、国民が知っておくべき論点は何かを考える中で、テレビ局が自律的に判断するしかない」



報道量は極端に減った

二〇一四年の総選挙報道については、政治学者の逢坂巌氏が、二〇一五年三月二七日にインターネットのニュースサイト「THE PAGE」で配信した」<政治とメディア>テレビの選挙報道は史上最低に~データが示す2014選挙報道の実態~」で次のように分析している

解散日から投票日までの総報道量は70時間17分。これはこの10年間で最も報道量の多かった05年総選挙の5分の1、最も少なかった03年選挙と比べても半分にあ過ぎない少なさである。(中略)(略)



自民党が出した文書の効力は実証できないが、結果として報道量が減ったのは事実であった。自民党は、テレビ恐るるに足らず、との自信を深めただろうか。」


〇 放送免許の交付は政府がする。民主的政府である時は問題ないが、独裁者が政権を取った時には、放送も政府の意向に従うように仕向けられる。

政府に都合よくデータを改竄、捏造、隠蔽される時、国民は独裁者によって誤魔化されコントロールされていることに気付かない。

情報の改竄・捏造・隠蔽を報じない報道機関は、独裁政権に加担し、その犯罪の共犯者となっているに等しい。でも、放送免許で縛られているのでそうするしかない。

必要なのは、独裁政権を倒すことなのだけれど、国民は、報道を信じているので、変えられない。堂々巡り。悪循環。
私たちの国は、過去に一度、このような良識ない人々によって、
酷い戦争に引きずり込まれているのに、何故そのことから学ばないのか。

何故、同じ過ちを繰り返すのか…。やりきれなくなる。