読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「裏切られる市民

(略)

奇跡の経済成長は日本人にとって栄誉でもあった。(略)

だがアメリカの消費者たちが手にしたメリットはもっと大きかった。彼らは同じような製品をもっと安く買うことが出来たうえ、社会的な犠牲を払わなくてもよかったからだ。

 

 

しかしなぜ、こうした状態すべてが今なお続いているのだろうか?これは市民が折に触れて問いかけるべき質問である。その答えは単純ではない。本書の大部分をついやして議論しても、答えの一部しか明らかにできないだろう。(略)

 

 

日本が国家としてどのように運営されているかに関して、一番有用な、しかもあまり知られていない事実がある。それは誰一人としてこの国にとって果たしてなにがいいのか悪いのか、また長期的に見て、国民にとって一般的な意味で何が望ましく、なにがよくないのかを心配する人がいない、ということだ。つまり選挙されて公職についている人々のなかにそれを考える人間がいない、という意味だ。

 

 

多分、そのなかでも日本がどうなるのかを心配している人々は少なくないのだろうが、公職という立場にある彼らには、現状を変化させるようなことは何もできないのだろう。

 

 

首相というのはたてまえ上は日本国民の長期的な利益にかなうような行動がとれるはずだ。ところが首相ばかりでなく、政府内のだれに対してもそのような役割は期待されていない。

 

 

我々は「国益」という考え方を慎重に扱わなければならない。これはかなり漠然としている。しかも政策や緊急措置を講じるのに、本当はきわめて少数の、ひと握りの人々に利益をもたらすのであっても、国益のためだと言えば受け入れられやすいことから、多くの国々ではこれが悪用されてきた。

 

 

それでもなにかが本当に国益にかなったものであるかどうかを判断できる、客観的な基準はある。まぎらわしい政治的なレトリックを取り除けば、なにが国にとっていいか悪いかに関して、ほぼ全員の意見が一致するような事柄は驚くほど多い。

 

 

たとえば、一九四一年に真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争に突入したことは、日本の国益に反していた点で、異論を唱える人間はいるだろうか?(略)

 

 

一九九四年、貿易相手国を敵にまわすことも、やはり国益に反していた。国をつくるのは人々である。長期的に見て、国民の利益にならないのであれば、それが国益であるはずがない。

 

 

このように考えれば、製造業者や金融機関に有利な政策を続ければ、日本の消費者に不利な状況はますます悪化していくのに、それでも方針をためないことは、明らかに国益に反している。

 

 

またすでに述べたように、経済組織が互いや政府官僚と密接に結びつくな社会、言い換えれば「政治化された社会」が続くことも、日本の国益に反している。なぜなら日本の国益とは、その市民たちが民主主義を実現することだからである。

 

 

責任を持って日本の国益を追求するような組織は、政府の官僚組織やビジネス界にいたるまでどこにもない。通常なら首相や大統領といった行政府の長がその責任を負う。そうした立場にある人間は、事態が悪化するのを防ぐため、あるいは市民の状況を改善するために、迅速に行動し、新しい政策を立案するようほかの人々に協力を求めなければならない。

 

 

世界中の首相たちがこうした職責を十分に果たしているわけではない。しかし彼らはそうするよう期待されている。ところがこの点に関して、日本は世界では例外的な存在である。(略)

 

 

 

こうした諸国において本来、首相が行うべきとされている決断を、日本の首相がしようとすれば、ほかの政治家たちから独裁者呼ばわりされるのである。特に有力紙などは、必ずと言っていいほどそれに調子を合わせて反首相キャンペーンを繰り広げる。

 

 

たてまえのうえでは日本の首相にも決断を下す権限があったとしても、現実は違う。日本の政治家のひとり、小沢一郎は日本にとってこのことがいかに大きな弊害であるかを理解しており、日本の政治のどこがおかしいかを説いた自著のなかでの、中心的なテーマとしてとり上げている。

 

 

 

新聞の編集者たちと協力した司法官僚たちは、小沢がその発展に多大に寄与し、選挙での圧勝へとみちびいた民主党政権初の首相になるのを妨害した。つまりほかの政治家たちとは異なるやり方をしようとする政治家を、非公式な権力が阻止あのだ。すでに述べたが、このときもまた彼が腐敗しているという偽りの現実が利用されたのである。」

 

 

〇このカレル・ヴォン・ウォルフレン氏は、繰り返し小沢一郎がどれほど有能かについて述べています。私の中の、小沢一郎のイメージは、自民党的なやり方をする人で、公正な民主的な方法ではなく、裏取引や根回しや陰の力で、物事を動かし、人々には「寄らしむべき、知らしむべからず」の態度で丸め込もうとする人、というものです。

 

でも、この度の安倍政権と官僚、マスコミ、財界のやり方を見ていると、そのような力と戦うには、そのやり方を知り尽している人でなけれは闘えない、ということなのだろうか、と思いました。

 

そして、今思うのは、結局私たちは全員、何も信じることが出来ない状況に追い込まれている、ということです。

 

具体例を挙げて説明してみます。

民主党が崩壊し、枝野氏が立憲民主党を立ち上げた時、希望を持ちました。

でも、野党がたくさんの政党に分裂したことで、自民党を有利にする状況を作り出してしまいました。

 

そこで、選挙協力という形で、自民党と闘おうとするのですが、片や利害で結託している自民党に対し、野党はそれぞれ違う理念を掲げています。その違う理念は、共闘の障害になります。

 

原発を掲げる政党が原発容認を掲げる政党と一緒になるなど、おかしいという声が上がります。消費税撤廃を掲げる政党が消費税は必要だとする政党と一緒には出来ない、となります。

 

それにも関わらず、一緒にやらねば安倍政権は倒せないと、共闘を訴えると、そのことで、枝野氏も「ダメな奴」というレッテルが張られます。

 

つまり、理想を掲げる人は、理想的でない状況に弱いのです。

理想的ではない状況で、それにも関わらず、少しずつ「マシな一手」を打って、

次に繋げ、状況を良い方へ向けていく…

というやり方をするには、それを理解し、支持する人々の力が必要になります。

 

あの、原発反対運動の時も、「原発即時廃止」という理想を掲げる人々と、

「十年後の廃止」を願う人々との間で、言い争いが起こりました。

こんな争いをして分裂し、互いに喧嘩状態になれば、喜ぶのは推進派です。

 

なぜ、いつもいつもこうなのだろう…と悲しくなります。

いつもこのパターンで、力を結集することが出来なくなるのです。

 

「何故、この国には、国にとって何が良いことなのか、心配する人がいないのか、何故他の国のように、首相がその役割を果たすことが、

期待されていないのか」という著者の問いを聞きながら、私が、このようなことを言いだしたのは、この国にとって何が良いのか、話し合おうにも、「共通の価値観」とか「土俵」のようなものがなく、必ず目先の利害でものを考える人の前に、そのような議論は、破綻してしまうから、と思ったからです。

 

論理的、倫理的にどうすることが善いことなのか…という考え方をすることが、私たち国民の間に定着していないのだと思います。

 

あの3.11の時でさえ、政権を担っていた人々の足を引っ張る政治家がいました。危機的状況の中で、協力し合うどころか、むしろ嘘の情報を流し、邪魔をするような人が政治家をやっているのです。

 

例えどこかに、本気でそのような心配をする人がいたとしても(実際、いたと思います)、そのような人々は、「出る杭は打たれる」で、潰されてしまうのです。

 

私は、「そのような首相がいないのはなぜか?」の前に、何故、この国の人々は、「何が良いことでどうすることが国にとって良いことなのか」の議論が出来ないのか。何故、そのような議論は真っ当な結論に行き着かないうちに、ごはん論法や東大論法でメチャメチャに破綻させられてしまうのか、ということが疑問なのです。