「二章 ニッポン精神分析 ―平和と安全の国ゆえの精神病理
格差社会って何だろう
「格差社会」という言葉が繰り返し紙面に登場する。
格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまの提言がなされている。
どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。
だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている。
「格差」とは何のことなのか?
メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。平たく言えば年収のことである。(略)
ここから導かれる結論は論理的には一つしかない。
「もっと金を」である。
しかし、果たして、この結論でよろしいのか。
私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか。
人々はより多くの金を求めて競争する。競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落され、そこに釘付けにされる。
その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越え難いギャップとして顕在化する……という悪循環には落ち込まないのだろうか。(略)
私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気遣いが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きの良い声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか……そういったさまざまな基準にもとづいて、私は人間を「格付け」している。(略)
私は個人的な度量衡で人間を格付けしている。
だから、私の眼から見れば、この世界は「ウチダ的格差社会」である。
勝手に格差をつけるのをやめろ、みんなひとしなみに扱えと言われても、こればかりは譲れない。
第一、私から「バカ」だと思われても、その人々は痛くも痒くもないんだから、どうでもいいじゃないか(私に成績査定される学生は別だが)。
私がしているように、みなさんもてんでに固有の度量衡を以て他の人々を評価し、同じ基準で自己を律するならばよろしいかと思う。そうすれば、いうところの「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう。(略)
当今の「格差社会」論の多くは「私たちの不幸のほとんどは金がないことに起因するのであるから、金の事を最優先で配慮することがもっとも政治的に正しいふるまい方である」という判断に同意署名するところから始まる。
私はこれに同意しない。
「金のことをつねに最優先に配慮する人間」は私の定義によれば「貧乏人」であるので、格差社会の是正のために「もっと金を」というソリューションを提示し、それを支持する人々は、論理的に言えば、これまでもこれからも未来永劫「貧乏人」であり続ける他ないと思うからである。
「格差社会論」に基づく社会改良政策はますます「金で苦労する人」を増やすだけだろう。
私の師であるエマニュエル・レヴィナス老師のさらに師であるモルデカイ・シュシャーニ師は、家庭を持たず、定住する家を持たず、世界を放浪し、気が向くと富裕なユダヤ人家庭に寄寓してタルムードを講じてわずかに口を糊する、年収限りなくゼロに近い人であった。
「師はひとからは乞食のように見えたであろう」と老師は語っている。(略)
私はシュシャーニ師のような人にいくばくかの年金が保障される社会よりも、師のような人が知的敬意を以て遇される社会の方が、ずっと人間的だと思う。
(二〇〇七・七・二四)」