読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 上  第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

「人類は250万年にわたって植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。そして、これらの動植物は、人間の介在なしに暮らし、繁殖していた。」


ホモ・サピエンスは、東アフリカから中東へ、ヨーロッパ大陸とアジア大陸へ、そして最後にオーストラリア大陸アメリカ大陸へと広がったが、サピエンスもどこへ行こうが、野生の植物を収集し、野生の動物を狩ることで暮らし続けた。


他のことなどする理由があるだろうか?なにしろ、従来の生活様式でたっぷり腹が満たされ、社会構造と宗教的信仰と政治的ダイナミクスを持つ豊かな世界が支えられているのだから。


だが、一万年ほど前にすべてが一変した。それは、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めた時だった。


人間は日の出から日の入りまで、種を蒔き、作物に水をやり、雑草を抜き、青々とした草地にヒツジを連れていった。こうして働けば、より多くの果物や穀物、肉が手に入るだろうと考えてのことだ。

これは人間の暮らし方における革命、すなわち農業革命だった。」


「今でさえ、先進的なテクノロジーのいっさいをもってしても、私たちが摂取するカロリーの9割以上は、私たちの祖先が紀元前9500年から紀元前3500年にかけて栽培化した、ほんの一握りの植物、すなわち小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦に由来する。(略)


私たちの心が狩猟採集民のものであるなら、料理は古代の農耕民のものと言える。


かつて学者たちは、農耕は中東の単一の発祥地から世界各地へ広がったと考えていた。だが今日では、中東の農耕民が自らの革命を輸出したのではなく、他の様々な場所でもそれぞれ完全に独立した形で発生したということで、学者たちの意見は一致している。」


「私たちの祖先が狩猟採集した何千もの種のうち、農耕や牧畜の候補として適したものはほんのわずかしかなかった。それらは特定の地域に生息しており、そこが農業革命の舞台となったのだ。

かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、次第に知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。


そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。

だが、この物語は夢想に過ぎない。人々が時間と共に知能を高めたという証拠は皆無だ。(略)

人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を確かに増やすことは出来たが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。


むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べものは劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。」

 

「ここで小麦の立場から農業革命について少し考えてほしい。(略)生存と繁殖という、進化の基本的規準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折りの成功を収めた。(略)世界全体では、小麦は225万平方キロメートルの地表を覆っており、これは、日本の面積の約6倍に相当する。この草は、取るに足りないものからる所に存在するものへと、どうやって変わったのか?

小麦は自らに有利な形でホモ・サピエンスを操ることによって、それを成し遂げた。(略)


2000年ほどのうちに、人類は世界の多くの地域で、朝から晩までほとんど小麦の世話ばかりを焼いて過ごすようになっていた。楽なことではなかった。小麦は非常に手がかかった。


岩や石を嫌うので、サピエンスは汗水たらして畑からそれらを取り除いた。(略)
小麦は多くの水を必要としたので、人類は泉や小川から苦労して運び、与えてやった。小麦は養分を貪欲に求めたので、サピエンスは動物の糞便まで集めて、小麦の育つ地面を肥やしてやることを強いられた。

ホモ・サピエンスの身体は、そのような作業のために進化してはいなかった。石を取り除いたり水桶を運んだりするのではなく、リンゴの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していたのだ。

人類の脊椎や膝、首、土踏まずにそのつけが回された。古代の骨格を調べると、農耕への移行のせいで、椎間板ヘルニアや関節炎、ヘルニアといった、実に多くの疾患がもたらされたことがわかる。


そのうえ、新しい農業労働にはあまりにも時間がかかるので、人々は小麦畑のそばに定住せざるをえなくなった。そのせいで、彼らの生活様式が完全に変わった。


このように、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。」


「それでは小麦は、どうやってホモ・サピエンスを説得し、素晴らしい生活を捨てさせ、もっと惨めな暮らしを選ばせたのか?見返りに何を提供したのか?より優れた食生活は提供しなかった。(略)


小麦は経済的安心を与えてはくれなかった。(略)もし雨が十分降らなかったり、イナゴの大群が来襲したり、その主要食糧の品種をある種の菌類が冒すようになったりすると、農耕民は何千から何百万という単位で命を落した。


小麦はまた、人類どうしの暴力から守られるという安心もあたえてくれなかった。(略)

村落や部族以上の政治的枠組みを持たない単純な農耕社会では、暴力は全死因の15パーセント、男性の死因の25パーセントを占めていたとする、人類学や考古学の研究が多数ある。


現代のニューギニアでは、ダニ族の農耕部族社会での男性の死因の30パーセントが暴力に帰せられる。(略)


やがて、都市や王国、国家といった、より大きな社会的枠組みの発達を通して、人類の暴力は抑え込まれた。だが、そのような巨大で効果的な政治構造を築くには、何千年もの月日がかかった。


たしかに村落の生活は、野生動物や雨、寒さなどから前よりもよく守られるといった恩恵を、初期の農耕民にただちにもたらした。とはいえ、平均的な人間にとっては、おそらく不都合な点の方が好都合な点より多かっただろう。」


「それでは、いったいぜんたい小麦は、その栄養不良の中国人少女を含めた農耕民に何を提供したのか?実は、個々の人々には何も提供しなかった。(略)


野生の植物を採集し、野生の動物を狩って食いつないでいた紀元前一万三千年ごろ、パレスティナのエリコのオアシス周辺地域では、比較的健康で栄養状態の良い人々およそ100人から成る放浪の集団を一つ維持するのがせいぜいだった。


ところが、紀元前8500年ごろ、野生の草が小麦畑に取って代わられたときには、そのオアシスでは、もっと大きいものの窮屈な、1000人規模の村がやっていけた。ただし、人々は病気や栄養不良にはるかに深刻に苦しんでいた。」


「これ、すなわち前より劣悪な条件下であってもより多くの人を生かしておく能力こそが農業革命の神髄だ。

とはいえ、この進化上の算盤勘定など、個々の人間の知ったことではないではないか。正気の人間がなぜわざわざ自分の生活水準を落してまで、ホモ・サピエンスのゲノムの複製の数を増やそうとするのか?


実は、誰もそんな取引に合意したわけではなかった。農業革命は罠だったのだ。」

〇野生動物に襲われて死ぬ恐怖というのは、大きいと思います。私ならそう思います。たとえ、生活水準を落しても、その恐怖から逃れられるなら、定住して農業に、という気持ちはわかるような気がするのですが。

 

<贅沢の罠>

 

「この変化は段階を追うもので、各段階では、日々の生活がわずかに変わるだけだった。」


「他の多くの哺乳動物と同じで、人類は繁殖を制御するのを助けるホルモンや遺伝子の仕組みを持っている。」

 

「他にも、完全な、あるいは部分的な性的禁欲(文化的タブーの後押しがあったかもしれない)、妊娠中絶、ときおりの間引きといった方法も採られた。」


「最初のうちは、収穫期に四週間ほど野営していたかもしれない。二、三〇年すると、小麦が増えて広がり、収穫の野営も五週間、六週間と延び、ついには永続的な村落になった。そのような定住地の証拠は、中東、とくに紀元前一万二千五〇〇年から紀元前九千五〇〇年にかけてナトゥーフ文化が栄えたレヴァント地方で発見されている。」


「野生の小麦を採集していた人と、栽培化した小麦を育てていた人とは、何であれ単一のステップで隔てられているわけではないので、農耕への決定的な移行がいつ起こったかを正確にいうのは難しい。」


「だが、食べさせてやらなければならない人が増えたので、余剰の食物はたちまち消えてなくなり、さらに多くの畑で栽培を行わなければならなかった。」


「時がたつにつれて、「小麦取引」はますます負担が大きくなっていった。子供が大量に死に、大人は汗水垂らしてようやく食いつないだ。


紀元前8500年にエリコに住んでいた平均的な人の暮らしは、同じ場所に紀元前9500年あるいは一万三千年に住んでいた平均的な人の暮らしよりも厳しかった。

だが、何が起こっているのか気づく人は誰もいなかった。各世代は前の世代と同じように暮し、物事のやり方に小さな改良を加える程度だった。皮肉にも一連の「改良」は、どれも生活を楽にするためだったはずなのに、これらの農耕民の負担を増やすばかりだった。」


〇今も同じようなことが起こっているようです。いわゆる「安売りスーパー」のような所で、安い物を買う、その行動が結果として、安売りスーパーの従業員の給料を低くし、その物を作っている人々の給料も低くする。

儲かるのは、オーナーだけ、というシステムになっていると、聞いたことがあります。

そして、「何が起こってるのか気づくのは誰もいない」状態です。


「人々はなぜ、このような致命的な計算違いをしてしまったのか?それは、人々が歴史を通じて計算違いをしてきたのと同じ理由からだ。人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉えきれないのだ。」


「より楽な暮らしを求めたら、大きな苦難を呼び込んでしまった。しかもそれはこのとき限りのことではない。苦難は今日も起こる。」


「歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。」


「贅沢の罠の物語には、重要な教訓がある。(略)数人の腹を満たし、少しばかりの安心を得ることを主眼とする些細な一連の決定が累積効果を発揮し、古代の狩猟採集民は焼けつくような日差しの下で桶に水を入れて運んで日々を過ごす羽目になったのだ。」

 

<聖なる介入>

 

「以上の筋書きは、農業革命を計算違いとして説明するものだった。じつに説得力がある。(略)だが、生産違い以外の可能性もある。農耕への移行をもたらしたのは、楽な生活の探求ではなかったかもしれない。

サピエンスは他にも強い願望を抱いており、それらを達成するためには、生活が厳しくなるのも厭わなかったかもしれないのだ。」

 

「1995年、考古学者たちはトルコ南東部のギョベクリ・テペと呼ばれる場所で遺跡の発掘を始めた。(略)


一つひとつの石柱は、最大で七トンあり、高さは五メートルに達した。近くの採石場では、削り出しかけの石柱が一つ発見された。重さは50トンもあった。全部で10を超える記念碑的構造物が発掘され、最大のものは差し渡しが30メートル近くあった。」


「ところがギョベクリ・テペの構造物は、紀元前9500年ごろまでさかのぼり、得られる証拠はみな、狩猟採集民が建設したことを示している。(略)


古代の狩猟採集民の能力と、彼らの文化の複雑さは、従来考えられていたよりもはるかに目覚ましかったようだ。(略)


そのような事業を維持できるのは、複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかない。」

 

「最近の発見からは、栽培化された小麦の少なくとも一種、ヒトツブコムギがカラカダ丘陵に由来することが窺える。この丘陵は、ギョベクリ・テペから約30キロメートルのところにある。


これはただの偶然のはずがない。(略)
だが、ギョベクリ・テペの遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がその周りに形成されたことを示唆している。」

 

<革命の犠牲者たち>

「野生のヒツジを追い回していた放浪の生活集団は、餌食にしていた群れの構成を少しずつ変えていった。おそらくこの過程は、選択的な狩猟とともに始まったのだろう。」

 

「人類が世界中に拡がるのに足並みを揃えて、人類が家畜化した動物たちも拡がって行った。(略)


だが今日の世界には、ヒツジが10億頭、豚が10億頭、牛が10億頭以上、ニワトリが250億羽以上いる。(略)

あいにく、進化の視点は、成功の物差しとしては不完全だ。この視点に立つと、個体の苦難や幸福はいっさい考慮に入らず、生存と繁殖という基準ですべてが判断される。

家畜化されたニワトリと牛は、進化の上では成功物語の主人公なのだろうが、両者はこれまで生を受けた生き物のうちでも、極端なまでに惨めなのではないか。


動物の家畜化は、一連の残酷な慣行の上に成り立っており、そうした慣行は、歳月が過ぎるうちに酷さを増す一方だった。」

 

ニューギニア北部の農耕民は、ブタが逃げ出さないように、鼻先を削ぎ落す。こうすると、ブタは匂いを嗅ごうとするたびに、激しい痛みを覚える。ブタは匂いを嗅げないと食べ物を見つけられないし、ろくに歩き回ることさえできないので、鼻先を削ぎ落されると、所有者の人間に完全に頼るしかない。


ニューギニアの別の地域では、行先が見えないように、ブタの目をえぐる習慣がある。」


「図15 工場式食肉農場の現代の子牛。子牛は誕生直後に母親から引き離され、自分の体とさほど変わらない小さな檻に閉じ込められる。そして、そこで一生(平均でおよそ4カ月)を送る。檻を出ることも、他の子牛と遊ぶことも、歩くことさえも許されない。

すべて、筋肉が強くならないようにするためだ。柔らかい筋肉は、柔らかくて肉汁がたっぷりのステーキになる。子牛が初めて歩き、筋肉を伸ばし、他の子牛たちに触れる機会を与えられるのは、食肉処理場へ向かう時だ。


進化の視点に立つと、牛はこれまで登場した動物種のうちでも、屈指の成功を収めた。だが同時に、牛は地球上でも最も惨めな部類の動物に入る。」

〇かわいい目の子牛が檻に入れられている写真が載っています。子牛の目がこちらを見ていて、辛くなります。涙が出ます。

「すべての農耕社会が家畜に対してそこまで残酷だったわけではない。(略)
家畜飼育者と農耕民は歴史を通して、飼っている動物たちへの愛情を示し、大切に世話をした。


それはちょうど、多くの奴隷所有者が奴隷に対して愛情を抱き、気遣いを見せたのと同じだ。王や預言者が自らヒツジ飼いと称し、自分や神が民を気遣う様子を、ヒツジ飼いがヒツジたちを気遣う様子になぞらえたのは、けっして偶然ではない。」

 

進化上の成功と個々の苦しみとのこの乖離は、私たちが農業革命から引き出しうる教訓のうちで最も重要かもしれない。(略)


サピエンスの集合的な力の劇的な増加と、表向きの成功が、個体の多大な苦しみと密接につながっていたことを、私たちは今後の章で繰り返し目にすることになるだろう。」


〇私たちの国の文化は、「集合的な力」を讃えるものではあっても、「個体の多大な苦しみ」を想像するものではない、としみじみ思います。