読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

「たしかにセラピストの本棚はフロイトユングの著作、一〇〇〇ページ近い「精神疾患の診断・統計マニュアル」(GSM)の重みでたわんでいるだろう。とはいえそれらは聖典ではない。(略)したがって、セラピストが患者の情事についてどう思っていようと、また、不倫の関係全般についてフロイトユングDSMがどう考えていようと、セラピストは自分の見方を患者に押し付けてはならない。そうする代わりに、患者が心の一番奥底を詳しく調べるのを手助けするべきだ。ほかならぬそこでのみ、患者は答えを見つけられる。

 

 

 

中世の司祭が神に通じるヒットラインを持っており、私たちのために善悪の区別をつけられたのに対して、現代のセラピストは、私たちが自分自身の内なる感情を知るのを手伝うだけにすぎない。

結婚制度の変化も、これで部分的に説明がつく。中世には、結婚は神が定めた秘蹟と考えられていた。(略)

 

 

したがって浮気は神の権威と親の権威の両方に対するあからさまな反抗だった。それは大罪であり、本人がそれについてどう感じ、どう考えていようと関係なかった。今日、人は愛のために結婚するのであり、本人の個人感情がこの絆に価値を与える。

 

 

したがって、かつてある人の腕の中へ自分を飛び込ませたまさにその感情が、今度は別の人の腕の中へと自分を駆り立てたなら、そのどこが間違っているというのか?(略)

 

 

人間至上主義の倫理におけるもっとも興味深い論議は、浮気のように、人間の感情同士が衝突する状況に関わるものだ。ある行動のせいで、1人が楽しい思いをし、別の人が嫌な思いをした場合にはどうなるのか?そうした感情の重みをどう比べればいいのだろう?浮気をしている二人が味わう楽しい気持ちのほうが、その配偶者や子供たちが味わう嫌な気持ちよりも大切なのだろうか?

 

 

 

この具体的な疑問にうちて、あなたがどう考えるかはどうでもいい。それよりはるかに重要なのは、双方がどんな論拠に頼っているかを理解することだ。浮気について現代人の意見はさまざまだが、彼らはたとえどんな立場を取ろと、聖典や神の戒律ではなく人間の感情の名に置いて、その立場を正当化する傾向にある。

 

 

物事は、そのせいで誰かが嫌な思いをする時にだけ悪いものとなりうることを、人間至上主義は私たちに教えた。人殺しが悪いのは、どこかの神が「殺してはならない」と言ったからではない。そうではなく、人殺しが悪いのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えるからだ。

 

 

盗みが悪いのは、どこかの古い文書に、「盗んではならない」と書いてあるからではない。そうではなく、盗みが悪いのは、所有物を失った人が嫌な思いをするからだ。(略)

 

 

それと同じ論理が同性愛に関する昨今の論議を支配している。もし二人の成人男性がセックスを楽しみ、その間に誰も害さないのなら、そのいったいどこが間違っているのか?そして、それをどうして不法とするべきなのか?

 

 

 

それはこれら二人の男性の間の私的な事情であり、二人は自分の個人的な感情に即して自由に決めることができる。中世に、二人の男性が愛し合っていることや、これほど幸せに感じたためしがないことを司祭に告白したら、二人が良い気分であっても、司祭の批判的な判断が変わることはあっただろう。(略)

 

 

 

それに対して今日では、二人の男性が愛し合っていたら、「もしそれで気持ちが良いのなら、そうすればいい!司祭などに心を乱させるな。ただ自分の心に従え。自分にとって何が良いかは自分がいちばんよく知っているのだから」と言われるだろう。

 

 

 

面白いことに、今日では宗教の狂信者さえもが、世論に影響を与えたいいには、この人間至上主義の主張を採用する。一例を挙げよう。

イスラエルLGBTレズビアン=女性同性愛者、ゲイ=男性同性愛者、バイセクシュアル=両性愛者、トランスジェンダー=心と身体の性が一致しない人の総称)コミュニティは過去十年間、毎年エルサレムの通りでゲイ・プライドパレードを行って来た。

 

 

これは、争いで引き裂かれたこの町では珍しく調和が見られる日だ。なにしろ、信心深いユダヤ教徒イスラム教徒とキリスト教徒が、突如共通の大義を見出し、一丸となって同性愛者たちのパレードにいきり立つのだから。だが、なんとも振っているのは、彼らが使う論法だ。

 

 

彼らは、「神が同性愛を禁じているのだから、これらの罪人たちは同性愛者のパレードなど催すべきではない」とは言わない。その代わりに、マイクやテレビカメラを向けられるたびに、すかさずこう説明する。

 

 

 

「聖なる町エルサレムを同性愛者のパレードが過ぎていくのを見ると、感情を傷つけられる。同性愛者たちは私たちに、自分の感情を尊重してもらいたがっているのだから、私たちの感情も尊重するべきだ」

 

 

 

二〇一五年一月七日、イスラム教の狂信者たちが、フランスの週刊新聞「ジャルリー・エブド」紙の編集長らを虐殺した。(略)

その後の数日間、多くのイスラム教組織がこの襲撃を糾弾したものの、そのうちのいくつかは、同紙への批判も付け加えずにはいられなかった。たとえば、エジプトのジャーナリスト・シンジケートは暴力に訴えたテロリストたちを公然と非難したが、同時に、「世界中の何億というラム教徒の感情を傷つけた」として同紙も責めた。同シンジケートが、同紙が神の思し召しに背いたと咎めていないことに注意してほしい。これこそ私たちが進歩と呼ぶものだ。

 

 

 

私たちの感情は、私生活にだけではなく、社会や政治のプロセスにも意味を与える。誰が国を統治するべきかや、どんな外交政策を採用するべきかや、どういった経済的措置を取るべきかを知りたいとき、私たちは聖典に答えを探し求めない。

 

 

ローマ教皇の命令に従うことも、ノーベル賞受賞者を集めてその意見に従うこともない。ほとんどの国では民主的な選挙を行ない、人々の当該の問題についての考えを問う。

有権者がいちばんよく知っており、個々の人間の自由な選択が究極の政治的権威であると、私たちは信じている。

 

 

 

とはいえ、有権者はどうすれば何を選ぶべきかを知ることが出来るのか?少なくとも理論上は、有権者は自分の心の奥底の気持ちに耳を傾け、それに従えばいい。だがそれは、いつも簡単とはかぎらない。

 

 

 

自分の感情を知るためには、空虚なプロパガンダのスローガンや、無慈悲な政治家の果てしない噓、狡猾な情報操作の専門家による、人の気を散らす雑音、雇われた専門家の学識に満ちた意見を篩にかけて取り除く必要がある。そうした騒音をすべて無視し、自分の正真正銘の内なる声にだけ注意を向けなくてはならない。

 

 

 

するとようやく、自分の正真正銘の内なる声が、「キャメロンに投票しなさい」「モディに投票しなさい」「クリントンに投票しなさい」などとささやくので、投票所でその人を選ぶ。誰が国を治めるべきかを、私たちはこうして知る。

 

 

中世にそんなことをしたら、愚の骨頂と思われただろう。無知な庶民の儚い感情は、重要な政治的判断の健全な拠り所とはおよそ言い難かった。イングランドがバラ戦争で引き裂かれていたとき、すべての田舎者がランカスター家かヨーク家に一票を投じる国民投票で争いに終止符を打と考える者は誰もいなかった。

 

 

同様に、ローマ教皇ウルバヌス二世が第一回十字軍を送り出した時、彼はそれが人々の意思だとは主張しなかった。それは神の思し召しだった。政治的権威は天から下されるのであって、死を免れない人間の胸や心から湧き上がってはこないのだ。」