読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「一章  天皇の自己規定  ―― あくまでも憲法絶対の立憲君主

 

なぜ、天皇は開戦を阻止できなかったのか

 

戦後に天皇について書かれたものは実に多い。(略)

そのすべてを調べることは不可能だが、私が調べた範囲内では、不思議なことに「天皇の自己規定」の研究といった内容のものは皆無である。これは、当然と言えば当然であろう。

 

というのは、これだけは天皇がそれを表明しないかぎり明らかにならないが、天皇自ら「自分はかくかくしかじかの自己規定のもとに生きて来たし、今後もその自己規定のもとに生きていくであろう」などと言われることはなかったし、またあり得ないからである。

 

しかし天皇が折りに触れて口にされた片言隻語、および詔勅のような公の文書のなかの言葉で、これが察知出来ないわけではない。

 

 

 

たとえば昭和二十一年二月の藤田侍従長への言葉である。これはアメリカで天皇の戦争責任追及の世論が強くなり、それに応じて日本の国内でも、天皇の戦争責任が論じられはじめたときのこと。

日本のマスコミは常に自主性がなく、アメリカ、中国、イギリスなどの世論に強く動かされて同調するが、このときのアメリカ世論の論調は、きわめて単純なものであった。

 

 

 

彼らは、日本人は天皇を神(ゴッド)と信じていると思っていたから、日本はその神(ゴッド)なる天皇が開戦を命じたから開戦し、終戦を命じたから戦いをやめたと思い込んでいる。そこですべての責任は天皇にあるという前提で論陣を張っている。

 

 

一部の知日家を除けば、多くのアメリカ人は、日本に憲法があったことすら知らず、日本国民は神権的独裁君主の命令に盲従している国民と信じていたから、この世論は一応無理ないといえる。

 

 

 

日本人は、この言論にそのまま盲従したわけではないが、その影響を受けて「終戦の断を下されたのなら、なぜ開戦を止められなかったのか」という議論にはなり得る。この論調は、一見、筋が通っており、今でも消えたわけではない。これに対する天皇の言葉の中に、その自己規定の一端がうかがわれる。次に引用しよう。

 

 

「……戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問は一応の筋は立っているようにみえる。

 

 

 

如何にも、もっともと聞こえる。そかし、それはそうは出来なかった。

申すまでもないが、我が国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上ちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。

 

 

 

この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙し干渉し、これを制肘することは許されない。

だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議を尽して、ある方策を立て、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。

 

 

もしそうせずに、私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持ちによって何とかなるかわからないことになり、責任者として国政に就き責任を取ることが出来なくなる。

 

 

これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。専制政治国ならいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことは出来ない」(藤田尚徳著「侍従長の回想」中公文庫)

 

 

立憲君主制とは、言葉を変えれば制限君主制である。そしてこの制限は、天皇にとっては明治大帝が定めたことであり、この制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされた。」