読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る(十四章 天皇の”功罪”)

〇中断していた「昭和天皇の研究」のメモを続けます。

十三章のつづきです。)

 

「十四章  = そして「戦争責任」をどう考えるか

 

歴史的”功罪”を論ずることのむずかしさ

 

歴史上の功罪の評価は、非常にむずかしい問題である。というのは、「功」は裏返せば「罪」となり、「罪」は裏返せば「功」となるからである。(略)

大体、江戸時代が評価されるようになったのは、最近のこと、私が資料を集めたころは、全く無価値で文字通り紙屑の値段だった。(略)

 

少々杉浦重剛のまねになるが、五代目といえば徳川綱吉の時代、元禄時代(一六八八 ― 一七〇四年)はそのまま彼の治世に入る。だが、多少は江戸時代が復権しても、綱吉の功罪などを論ずる者はいないであろう。彼は「犬公方」「犬将軍」の一言で否定される。

 

 

たとえ柳沢吉保(綱吉時代の老中)が「憲廟実録」で、

「常に宣いしは、国家の制度、神祖の宏謨(大いなる企て)より出で、その後歴朝相議して潤色を尽くせり。いま一事の増損すべきなし。ただ教道立たたざるゆえ、義理明らかならず、戦国の旧俗大夫の道となり、残刻を認めて武とし、意気を以て義とし、世人不仁の所為多くして、人道の本意に背くこと、これによって聖人の道を尊崇ましまし……」

とベタホメしても、「この側用人あがりのゴマスリめが」で終わりになる。

 

 

彼がやや評価されるようになったのは、皮肉なことに明治になってからだが、同時代の人では、オランダ商館医師ケンペルがいる。

「ケンペルは、鎖国下の「元禄時代の日本」を、別世界のパラダイスのように見ている」、という批判は当然にあり得るであろうが、当時のヨーロッパと比べれば平穏無事な平和郷であったであろう。

 

 

日本が鎖国の間にヨーロッパが繰り返した戦乱を見ると、「西欧元禄」の到来は、夢想も出来ない。

なぜこのような平和な時代が来たのであろうか。

 

 

 

「憲廟実録」が書いているように、国家の制度は家康がその基本を樹立し、その後、代々補足して、制度的にはすでに平和体制が出来上がっている。

しかし、「戦国の旧俗」がまだ「士大夫の道」であり、これがあらたまっていない。事実、戦国時代を見れば、相手を殺してその首を取れば初めて認められる。

 

 

五つ首を取って「首供養」をすれば抜擢される。いわば人を殺すことで出世出来る社会である。制度は変わっても、この「戦国の旧俗」は簡単に変わらない。戦国以来という当時の日本の「歴史的実体」と「幕藩体制下の平和という青写真」との乖離である。

 

そしてこの気風を一変させ、「乖離」をなくそうとしたのが、綱吉の徹底した文治主義、それを庶民に否応なく教え込んだのが、「生類憐愍令」だと彼は言う。

いわば、人を殺せば認められる世界から、犬を殺しても死刑になる世界への転換、いわば価値観の徹底的な転換である。

 

 

確かに弊害はあった。これが「罪」である。しかし、「価値観の徹底的な転換」、これは「功」であり、この暴力なき平和な社会が元禄時代を生み出すのである。

 

 

私が西洋史を読んで少々驚いたのは、決闘の半ば公然なる黙認が、第一次大戦ころまであったことである。代表的なのは、第一次大戦のときの仏首相クレマンソーだが、彼は「虎」と仇名され、生涯、数え切れぬほどの決闘を行ったという。

 

 

民主主義の言論の自由と、この決闘の公認を、どう解すべきなのか、少々戸惑うが、同時代の原敬首相が決闘をしたなどという話は聞かない。確かに戊辰戦争はあが、観戦武官として普仏戦争(一八七〇年)を見た大巌彌助は、猛牛が激突するようなそのものすごさに呆れ、維新の戦いなどは、しょせん「鶏の蹴り合い」のようなものだと記している。

 

 

 

そして明治が過ぎ、大正ともなると「元禄的風潮」にまた戻る。昭和の戦後は言うまでもない。そしてこの意識の大転換を行ったのが綱吉である。もっとも、津田宗吉博士の指摘する「建国の事情」(271ページ参照)がその根底に流れてであろうが —。

しかし、いまこれを「綱吉の功績」と考えるものがいるであろうか。その状態が当然となれば、それを招来した「功」は忘れられ、「生類憐愍令」その他の「罪」だけが記憶されている。(略)

 

 

以上は、ただ「守成」の「功」の評価がどれくらい難しいかの一例である。そしてこれが「守成」を担当した者の運命であろう。

その点では昭和天皇の「功」を連想させる。柳沢吉保的に言えば「国家の制度、憲法の公布は、明治天皇の宏謨より出で、その後、大正時代に重臣相議してその運用を尽くせり。

 

 

いま一事の増損すべきなし」であるが、「憲政」とはなにかは、いまだ定着していない。

憲政の「教道」がいかに定着していなかったかは、当時の記録を見れば分かる。確かに「憲政」を定着させようと努力した人々、簡単に言えば「憲政の伝道師」は、確かにいた。その代表のように尾崎行雄を挙げたが、もちろん、その努力をしたのは彼だけではない。」

 

 

〇 野良猫や野良犬が「大量に」殺されている状況の中で、そのことを少しも考えずに暮らしている自分を含めた大勢の日本人を思う時、犬公方とバカにされていた綱吉のような権力者が出てきて、「殺すな!」と命じてくれればどんなに良いだろう…、と思ったことがあります。

 

そして、ひょっとしたら「犬公方」はもっと大きな視野で「生類憐みの令」を出したのかも…と妄想を膨らませたことはあります。本来、命の大切さを説きたかったのに、その失脚を狙う「抵抗勢力」が、「バカ殿説」を流布し、権力を嘲笑うのが好きな庶民がそれに乗っかったのかな…というような…。

 

でも、結局は、「権力」が上からの押し付けで、命の大切さを強制しても、「犬を殺せば死刑にする」などという本末転倒の矛盾した話になり、

いわゆる「普遍的な」教えには、ならなかったのだろうな、と思いました。

 

 

また、「憲政」が今に至っても定着していないということを思い知る時、上から押し付け、強制して定着させようとするこの日本的な体質に問題があるのでは?と思えてきます。これをやっている限り、どこまで行っても、民主主義や、憲政は定着しないのでは?と。

 

というのも、今とても心配なのは、地方自治体で、政治家のなり手がない、ということです。また、町内会などの担い手も居なくなっています。子供から青少年になり、壮年になる…その過程で、本来は社会的な働きを担う訓練が必要だと思います。

 

私などは、社交的ではないので、とても苦手なのですが、だからこそ、もっと自発的に関わりやすい、社会的なつながりの中で育つ枠組みを作っていかなければ、日本の社会はどうなってしまうんだろう、と心配になります。