読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「明治の政治リーダーシップが安定しなかったのは、彼ら自身が指導者にふさわしいと自らを見なしていなかったからだと思われる。彼らは国民を決して信用しなかった。その意味で、明治の元老たちも、農民をまるで信用しなかった江戸時代の武士となんら変わらない。

 

 

明治政府はときに武力を用い、また絶えずプロパガンダをまくし立て、偽りの現実を作り出しながら、自由民権運動やはじまったばかりのほかの政治運動を弾圧した。

 

 

なかには日本に大変な害悪をんもたらした者もいた。日本にとって望ましい政治を損ねたという意味で、だれにも増して大きな損害を与えた悪者を一人挙げるとしたら、それは山県有朋だ。(略)

 

 

 

また一九四五年以降、アメリカ占領軍が日本の状況を完全に誤解していたことも、日本にとっては不運だった。彼らは日本の政治家も、アメリカと同じように、戦後は官僚を支配するようになると当然のように考えていた。日本が真珠湾攻撃を行ったのは、この国に政治的な空白があったからなのだが、彼らはそれを理解していなかった。(略)

 

 

 

吉田茂は「知っておくべきことがいかに欠如しているかも知らないおめでたさ」ゆえに、アメリカ人たちが手を焼いたと述べていたが、言い得て妙である。たしかに実情を知らないまま日本の民主的な支配が発展しているとアメリカが楽観視していなかったら、そして経済官僚たちがマッカーサー率いる占領軍からこれほど多くの特権を与えられなければ、オリガーキーが苦も無く形を変えて存続することはなかっただろう。

 

 

 

さらに不運だったのは、占領期が冷戦のはじまりに、そして共産党が中国を掌握した時期に重なったことだった。もしマルクス主義に影響された日本の左翼が、政界で思う存分争うことを許されていたら、日本の国民にとって何がベストであるかという問題をめぐって、真の政治闘争が繰り広げられていたかもしれない。

 

 

そしてそのような政治闘争が行われていたら、無限の産業発展などという目標が、なんの抵抗もなく国民に押し付けられることはなかっただろう。占領軍は冷戦がはじまると方針を変え、日本はアメリカ消費者向けの工場という役割を与えられた。

 

 

 

議論の不在

ヨーロッパの国々のなかには、私が生まれたオランダなど、日本と同じように第二次世界大戦が終わった時、経済がすっかり荒廃していたところもあった。そしてこうした国々が最初に取り組んだのも、日本と同様、産業を復興し、健全な経済基盤としてのインフラを再建することであった。しかしそれが再建されると、ヨーロッパ諸国では次になにをなすべきかという政治議論が繰り広げられた。(略)

 

 

 

アメリカが極端に消費者を重視していると見なされているのとは対照的に、日本は「生産者中心」の極端な事例とされ、ドイツやフランスといったヨーロッパ諸国がその中間に位置していると考えられている。

 

 

では生産者中心経済を打ち立てるのに、日本の国会ではどれほどの政治行動がなされたというのだろうか?(略)

日本では生産拡大政策が、国民に目に見えるような利益をもたらさなくなってからも、引き続き行われた。つまりは戦後の復興努力が相変わらず続いているということだ。(略)

 

 

国会は経済発展を無理やり推進するための制度や機構を調整しようと、何百という法律や改正法を承認した。ところがその是非が議論されたことは一度としてなかったのである。(略)

 

 

 

この意味では池田勇人首相は所得倍増計画に寄って、高度経済成長政策に反対する意見を押さえ込むのに重要な役割を果たしたと言える。

しかし特に自民党が結成された一九五五年以降、政治家たちはおしなべてみずからの責任を放棄し、国の目標と、それを達成するためにどうするか、といった問題について真剣に考えようとしなくなったのだった。(略)

 

 

 

一九三〇年代にはそれぞればらばらに天皇の意思を実行してきた省庁の間で、以前から続いて来た対立ももちろん続いた。しかし経済的な使命に対して、これら官僚グループが異議を唱えることはなかった。それ以外の選択肢が考えられなくなるような状況が生まれていたのだ。(略)

 

 

経済大国になるという使命は一度として検証されたことがなかったために、日本人の大半はそれを空気と同じくらい自然なこと長い間受け止めて来た。(略)

だが使命は空気と同じではない。(略)

 

 犠牲に甘んじる日本人の謎

 

(略)

 

いずれにせよ、だれかがこんな目標など投げ出したいと考えるかどうかにかかわらず、日本はいずれこれを放棄しなければならなくなるだろう。国際社会が変化したことで、日本は調整を強いられている。しかしそれには痛みをともなう。

 

 

さまざまな国のふるまいは、つねに世界に日本政府の手に余るような問題を生じさせてきた。そして海の向こうで歴史が動く時、それは日本を巻き込まずにはいないだろう。

 

 

一九世紀の半ば、時代遅れとなって孤立した軍事独裁体制が、使命を遂行する政治的な意思も活力も失ったときがそうだった。いまの日本の独善的な官僚は、徳川政権末期の役人と比べれば温厚だろうが、非現実的という点では当時と大差がない、と私はときどき思う。(略)

 

 

すでに述べたように、日本は産業面で部分的に、従来のやり方を変えざるを得なくなってきている。もしこれ以上の変化が起きるとしたら、願わくばこの国の政治が、もっとましなやり方で国民をみちびき、予期せぬ事態や社会的なダメージを最小限にとどめるようであってほしい。(略)

 

 

戦後の日本の社会経済システム、政治化された社会、そして生産マシーンはどのように誕生したのだろうか?なぜ人生を価値あるものにしてくれるはずの多くのものを犠牲にしてまで、日本人はそんな生き方をいまなお変えようとしないのだろうか?(略)

 

 

だが我々は市民であるからには、自分の行動について、そしてなぜ自分の人生や仕事の方向性を他人まかせにするのかについて、疑問を持たないわけにはいかない。我々は自らの社会を、自分たちにとって最善のものへと再建するため、こうした疑問に答えを見つけ出す必要がある。(略)

 

 

しかし大半の人々は相変わらず、日本はこれまでのようなやり方をそのまま続けていくと、当然のように考えているようだった。当時、あるスキーのインストラクターが日本人スキーヤーのレベルについて私に、「彼らは技術面ではうまくなったが、止まり方を知らない点はいただけないな」と言ったのを覚えているが、日本の状況もそれと同じだった。(略)

 

 

我々は国々を人間になぞらえて表現することがよくある。たとえば「日本はなによりも平和を望んでいる」とか「日本は国際社会でもっと責任ある役割を果たすべく決断しなければならない」といったものだ。(略)

 

 

 

しかし我々は個人のふるまいと、国の行動を分けて考える必要がある。なぜならば国を個人になぞらえていては、結論を誤ってしまうことがあるからだ。(略)

 

 

すでに述べたように、日本の政治エリートたちは、これまで日本の人々になにかを相談する習慣を持たなかった。各省庁に設置されている審議会も偽りの現実の一部である。

 

 

 

そのため「日本はこれこれを望んでいる」とだれかが言うと、私はいつも「どういう意味なのか」とたずねることにしている。戦後、国が無限の産業発展という政策を採用するにあたって、日本の人々がそれについての相談を受けたことは一度もなかった。

 

 

しかしこの非公式ながら、きわめて重要な国家政策を、管理者たちが完全に国民の意見を無視して推進してきたわけではなかった。彼らはかなり信頼されてきた。そして恐らくは、これについて深く考えたであろう人々の多くも、この経済戦略を妥当だと認めていたのであった。」

 

〇なぜ「犠牲に甘んじているのか」について、自分自身のことを

振り返ってみました。私も日本人ですので。

 

先日、日本の政治家が北欧の少女の発言に対し、「未熟な者の言葉に振り回されてはいけない」と言ったととり上げましたが、未熟な者、よく分かっていない者は、みだりに発言するべからず、という感覚が、私自身の中にもあるような気がします。

 

様々な問題があっても、大昔の極貧の日本人よりは、マシな暮らしをしているような気がします。そうなると、よくわからないままに、あれこれ不平ばかり言ってもしょうがないのかなぁ、と思って、自分を納得させていました。

 

例えば、アベノミクスの評価に関しても、一方には評価するという見方があり、一方には、あれは「どアホノミクスだ」という身方があります。

多分浜さんの言うことの方が、道理にかなっている、とは

思っていても、結局、私の頭では、本当の所は何もわかりません。

どうなんだろう…とただ不安に思いながら、誰かしっかりしている人が、発言し、行動し、なんとかしてくれますように…と

願うしか出来ないのです。

 

ただ、あの原発事故の時は、保安院をはじめとする官僚や役人たちのいい加減さが、はっきりと目の前に繰り広げられたので、もう黙っていてはいけない、と思ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第二部 日本に運命づけられた使命

 

第一章 日本の奇妙な現状

 

我々が生きるべき社会状況は、偶然の産物ではない。それは「自然の摂理」がもたらしたものでもない。地震や台風とはわけが違う。私がことさらにこのことを強調するのは、日本には、中国やアメリカに対する戦争など、過去の悲惨な出来事が、人間の手には負えない不可抗力が働いた結果であるかのように見なしている人々が大勢いると感じるからである。人々が集団でなした行為の責任は生身の人間にある。

 

 

 

政治化された日本社会を維持してきたのもまた人間であった。彼らには使命がある。それは工業生産を通じて力をたくわえることであった。一九四五年以降、これは非公式ながら、日本の国民にとってはきわめて重要な使命であった。

 

 

我々はここでこの使命と、それをになってきた彼らについて詳しく検証する必要がある。というのも私には、この使命を遂行し続けたのでは、日本は絶望的な結末を迎えることにあるという気がするからだ。(略)

 

 

 

官僚と民主主義の絶えざる緊張関係

 

日本を動かす人々について語るには、まず官僚からはじめる必要がある。なぜなら彼らが一番重要な存在であるからだ。(略)

日本の官僚制度は政治現象としてもっとも興味深く、また重要なもののひとつではあっても、本書でいま論じているこの問題についてじっくり考えた人はほとんどいないのではないか。(略)

 

 

つまり官僚が多大な権力を握り社会を支配するようになっては困るからこそ、読者は官僚に強く関心を持つべきなのである。(略)

 

 

官僚制度というのは、相手が国民であれ、経済であれ、公共事業であれ、それらを政治支配するための道具なのである。すべての官僚制度にはこの基本的なコントロール機能が備わっていること、そして政治システムが複雑になれば必ず官僚が必要となる事実を考えれば、おのずと市民にとっての根本的な問題がなにかが明らかになる。

 

 

つまり市民には政治システムを選ぶことができない、ということだ。全体主義体制や独裁体制を市民が望むはずはない。もちろん民主主義以外のものを好む人は大勢いるだろう。しかし市民となった読者なら、究極的には、国民が主権を持つような、民主主義と称される体制を望むはずだ。(略)

 

 

 

政治について論じる作家の中には、民主主義と官僚は実質的に相対立する関係にあると述べた者もいる。両者の間には決して解消できない緊張状態がある。(略)

 

 

では官僚の手腕や能力を維持しながら、政治を支配させないにはどうするのが適切なのだろうか?それこそが恐らく現代の民主主義社会が検討すべきもっとも重要な課題だろう。

 

 

民主主義に逆らう日本の官僚

 

日本の官僚制度には、単に興味を引かれるというにとどまらず、驚嘆すべきものが備わっている。これをつくり上げた明治政府という寡頭政治のリーダーたちは、はっきりした政治意図を持った強力な人々であった。彼らは「天皇のしもべ」なる機構を生み出し、それを支配した。これは疑いのない事実であった。

 

 

しかし薩摩藩長州藩出身の重鎮たちは、民主主義者ではなかったので、独裁支配者にありがちな過ちをおかした。彼らが表舞台から消えた後に、その地位がとどこおりなく引き継がれるようなメカニズムを構築しなたったのだ。(略)

 

 

日本の官僚制度に関して私がもっても興味をそそられ、また一番恐ろしいと思うのは、それをだれも支配していないということだ。これは日本の市民たちからすれば、正しく認識しづらい事実である。(略)

 

 

一〇〇年前に、日本の官僚制度が異なる発展を遂げることは可能だっただろうか。そして当時、芽生えはじめた民主主義との間に、いまとは違った関係を育むことは可能だっただろうか?可能だったと私は思う。(略)

 

 

明治の元老たちの中には、官僚の権力を規制しなければ危険なことに気づいていたものがいた。しかし大衆の力を恐れていた彼らは、それに対処しようとはしなかった。インテリも当時の新聞の紙面編集者たちも、明治の元老たちが死んだ後には官僚しか残らないこと、そして彼らが国家を運営すべきではないことを、十分に理解していなかった。

 

 

多分、明治のオリガーキーの基盤が不安定だったこともわざわいして、日本はより賢明な方向をめざすことが出来なかったのだろう。」

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「そこでいま検察官の胸の内をしばし考えてみようではないか。なぜ日本の検察官たちは、前任者たちと同じように権力を行使し続けようとするのだろうか?(略)

容疑者の運命を決定する権限を与えられているのは、自分の所属する機構がずっとそうしてきたからだと考えているのではないだろうか。

 

 

社会秩序を守るというこの機構の任務は、神聖視されていると言ってもいい。そして日本の官僚は社会秩序を守るべきだという妄想に近い思い込みがある。

日本の政治エリートたちは秩序ある社会は望ましいと思っている。それは正義よりはるかに望ましいものなのである。

 

 

そのため、日本の司法システム内には、社会に正義が行われるよう目を光らせる立場の人間がいない。裁判官は検察の決定にしたがうが、それは多少なりともそうせざるを得ないからだ。そして検察庁にとっての最大の関心は現体制の維持である。それは既存の体制にしがみつくことが、秩序を保つやり方としては一番いいように思えるからなのだろう。

 

 

 

このことは日本の民主主義にとってきわめて重大な意味がある。既存の体制の中で政策を決定するのは、選挙された政治家ではなく、政府省庁のキャリア官僚たちである。しかし日本に民主主義を実現するためには、政治家が官僚の意思決定に支配力を及ぼせるようでなければならない。つまり現体制は大幅に変わる必要がある、ということだ。官僚はなんとしてでも、それを阻止しようとするだろう。

 

 

 

日本の検察は法務省支配下にある。つまり官僚機構全体に従属しているということだ。官僚が強い政治家を恐れるようになると、検察官がそれを始末してやる。田中角栄金丸信たちがそうだった。強い姿勢で改革を推進しようとする政治家であればだれでも、同じような目に遭うだろう。(略)

 

 

弊害を生む社会秩序へのこだわり

 

検察官を駆り立てるのは正義感が強いからではない。社会秩序を守らなければならないとの強い思い込みがそうさせるのである。(略)

厚生省が日本女性を間接的に管理していたのも、社会の秩序を守ろうと考えてのことであった。文部科学省は日本の青少年の精神的な発育をうながすことよりも、画一的な学校システムを維持することに力を注いでいる。

 

 

 

日本は少なくとも表面的には秩序正しい国である。抗議集会やデモ行進もほとんどの場合は実に整然と行われる。私は一九六〇年代の警察と左翼学生たちとの衝突を覚えている。学生たちが投石し、機動隊が催涙弾で応酬していた時でさえ、私はわかりきったバレエの演目でも見ているような気がしたものだ。(略)

 

 

いわゆる終身雇用制の恩恵に浴したのは、日本の労働者の三分の一にすぎないだろうが、それはシンボルとして大きな意味を持っていた。社会秩序を維持するためには、たとえアメリカやヨーロッパの規準からすれば倒産してもおかしくない状態がしばらく続いたとしても、大企業の倒産をごく少数にとどめておく必要があった。

 

 

もしサラリーマンの大多数が職を失えば、国民は慈悲深いはずの管理者たちに不信を抱くことになり、そうなれば別の労働市場が登場しかねず、政治化されていたはずの日本社会は不穏な状況に突入する可能性がある。管理者たちはなによりもそれを恐れている。

 

 

 

私は定年を迎えた高官と何度も話したことがある。彼らは政治家による官僚支配非常に重要だという私の意見に基本的には同意してくれた。経済の多くの面で自由化が必要であることを、彼らも理解している。また日本に民主主義を実現させることは、決して必要もない贅沢品などではなく、安定した将来には不可欠であることも理解している。

 

 

だがそれでも彼らはやはり混乱を恐れている。もし官僚が従来のように社会を支配しなくなった場合、国民はそのような現実を生きるのに必要な訓練を受けてはいない、と彼らは心配するのである。そしてたてまえが信じられなくなれば、国民は反抗し手に負えなくなるのではないかと恐れている。彼らは正しい。心配するのは当然だ。

 

 

だが私には、日本の民主主義の実現が先延ばしされればされるほど、混乱の危険性は高まるように思えるのである。

さんざん管理者たちを批判してきた私がこう述べては、矛盾するように聞こえるかもしれないが、私は日本の市民は管理者たちに共感を持つべきだと思う。そうなってこそ、官僚が直面するジレンマについてはっきりと理解できるようになるからだ。本書が論じて来たような結果が生じたのは、彼らが「悪かったから」でも「間違っていたから」でもない。官庁のお役人の大半は、自分が正しいことをしていると信じている。

 

 

 

私は自分がこれまで日本という国や個人を批判してきたわけではないことを、読者にわかってほしいとお願っている。私はあくまで日本の政治という不運な現実を分析してきたからだ。さらにはそうした現実を維持する仕組みや習慣、構造を分析してきた、ということなのだ。(略)

 

 

秩序を維持するという任務を受け継いだ彼らは、政治化された社会を維持する以外に、そのやり方を知らなかったのだ。

ちなみにそのような社会には混乱が生じる危険性が多分にある。何故なら政治化された社会は法律や民主的な制度といった、人間以外の要因をよりどころにしているわけではないからだ。

 

 

日本には偽りの現実があるために、それが中産階級の政治活動をさまたげているのだが、官僚自身もそのために正しい判断ができずにいる。彼らが自分たちの置かれた状況について、問題の核心に触れるような率直な議論をするのを恐れるのはそのためだ。

 

 

 

本書の第三部では官僚たちが自分たちは権力を行使しておらず、しかも彼らの権力など日本の政治システムの中では重要ではないと偽りながら、実は自分自身を欺いている、という実態について論じるつもりである。

 

 

事実を率直に認めようとしないからこそ、自分自身の置かれた立場をはっきりと理解することができないのである。

 

 

 

他国の官僚たちは、合理的な議論や、知的な警告、真の意味での政治討論に応じた行動を促すような、知的な伝統や政体に支えられているわけだが、日本の官僚にはそれがない。

 

 

日本の市民にはこうした官僚を助けることが可能であるのみならず、自分自身のためにもそれは重要である。いい人生を送りたくとも、政治化された社会がそれをいかに妨害しているかを、市民は繰り返し訴えるべきである。そして別のやり方があるはずだと声を大にして主張すべきなのである。

 

 

 

さらには本書でこれから明らかにしようとしている事がら、管理者たちを震撼させるとしても、理解しなければならない事柄について、はっきりと知るべきなのである。

 

 

すなわち日本の官僚独裁主義が維持しているはずの統治機構そのものを、実は彼らが支配できずにいるという事実である。そしてたとえどんなにささいなことであったとしても、必要な支配を確立すべく寄与できるかどうかは読者であるあなた次第なのである。」

 

〇 具体例を挙げて、考えてみたいと思います。先日、北欧の少女が環境破壊について、訴えるために行動している、ということが話題になりました。それについて、日本の政治家が、「少女の意見に振り回されるな」的な発言をしたと聞きました。

 

詳しく調べたわけではありませんが、報道されたものを読むと、「少女の中身の

ない発言に振り回されてはだめ。15歳はまだ経験も少ない。大人として、真剣に対峙し、その未熟さを指摘してあげなければ…」というような内容だったと思います。

 

私は、思うのですが、彼女は、環境破壊の恐怖を語り、その具体的な怖れについては、科学者の意見に耳を傾けてほしい。科学者の警告を受け入れてほしい、と言っているのです。

 

この発言のどこに「少女だから」とか「未熟者の言うことに振り回されるな」と言われなければならない問題があるでしょう。

 

環境破壊によって、将来酷い目に遭うのは、まさにこの年代の人たちです。

そして、そのために、科学者の言葉を聞いてほしい、と言っているのです。

とても、「合理的」で「知的」だと思います。

そのことも理解できずに、「少女」だから「十五歳」だから、と真剣な議論から

逃げようとする態度は、本当に情けない姿勢だと思います。

 

何が本質的で大事な問題なのか、何がどうでもいい問題かについて、

いつもごちゃごちゃにして、目くらましをし、本気で考えようとしない

態度が見え見えで、恥ずかしくなりました。

 

「他国の官僚たちは、合理的な議論や、知的な警告、真の意味での政治討論に応じた行動を促すような、知的な伝統や政体に支えられているわけだが、日本の官僚にはそれがない。」

官僚のみならず、今や社会全体に「それがない」状況になっていると思います。

 

何故なのか。何故いつも「それ」がないのか。私はそれが知りたいのです。

どうすれば、「それ」がある社会になるのか、知りたいのです。

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「日本のあらゆる法の上に立つ憲法で、よくメディアがとり上げるのは

第九条である。(略)日本人のなかには、この国は世界で三番目もしくは四番目に相当する巨額の防衛費を使って軍隊を維持しているのだから、憲法に違反しているという人もいることだろう。

 

 

だが憲法違反は第九条二止まるものではなく、その範囲は一般の人々が気づいているよりはるかに大きく、またそこにはっきりした傾向も認められる。

 

 

なぜなら第一五条[公務員の選定・罷免権、全体の奉仕者性ほか]、二〇条[信教の自由、政教分離]、三八条[不利益供述の不強要、自白の証拠能力]、四一条[国会の地位・立法権]、六五条[行政権と内閣]、七六条[裁判官の独立ほか]、九八条[憲法最高法規性ほか]といった条項は、ほとんどの場合、完全に無視されているのではないかと思える。

 

 

そしてこうした条項のほとんどが戦前や船中のような非公式な官僚支配を抑えるために起草されたのだから、なんともおかしな話である。」

 

 

労働基準法も無視されてきて、今や、骨抜きになってしまった。

共産党のポスター、「8時間働けば、普通に暮らせる社会に…」というフレーズを見るたびに、そうなってほしいと、心から思います。

 

 

「管理者たちはずっと以前に非公式権力の方があるかに有効で、しかも公式の法にもとづいた権力よりもふるいやすいことに気づいていた。国を問わず政治経験の豊かな人間であればみなこのことを知っている。

 

 

有力者の知り合い、同窓会のネットワーク、家族の結びつきといったものが、政治的な野心を抱く者たちが大事業を成し遂げ、出世するのに役立つ。(略)

 

 

私は戦後の融資のやり方を通じて、いかに製造業者が日本銀行に、そして大蔵省にいまだかつてないほどに依存するようになっていったかを、本書の第二部で検証しようと思う。(略)

 

 

行政指導は日本的な手法として国際的に有名になった。非公式であればあるほど、彼らにとっては都合がよかったのだ。日本の「奇跡の経済」はやんわりと圧力をかけることから、笑顔での脅しにいたるまで、彼らのさまざまな戦術に負うところが大きい。

 

 

 

これに関して通産省には有名なエピソードがある。昔、同省であるとき、官僚たちがそれまで何年も用いていた一連の慣行を正式に法制化しようとしたことがあった。ところが、この「特定産業振興臨時措置法案」は、大蔵省やビジネス界、銀王業界の強い反対で、国会を通過できなかった。

 

 

 

この法律が成立すれば、通産省には産業カルテルをつくる正式な権限が与えられるはずであった。ところが何年も後に元通産省審議官の天谷直弘が語ったところによれば、同省は長年同じようなことを手掛けてきていたので、この法律はまったく必要なかったのであった。(略)

 

 

大企業は政府に依存し、その指示におとなしくしたがっていたが、大企業と零細企業の中間レベルの企業の数が非常に多かったので、通産省やほかの経済関連省庁はそうした企業を監視し、指導するので手一杯であった。そこで官僚たちはあらゆる機会をとらえては企業家たちを業界組織の網目に縛り付けることで、彼らを抑えようとした。(略)

 

 

 

日本の民主主義の敵、検察官

 

あらゆる国にはそれを守る人々、ガーディアンがいる。彼らは社会のなかでの文化的な生活を破壊しかねない、犯罪や行き過ぎた搾取を防ぐよう期待されている。官僚から政治家にいたるまで、統治機構に属するだれもが、めいめいに割り当てられた場所で、多少なりとも、こうした役割を果たすよう期待されている。

 

 

 

ところが社会的な貢献に見合う以上の影響力をおよぼしたがる人々というのは必ずいるものである。個人や、グループや企業といった組織など、なんらかの利害を持つ人々だ。すると彼らが分不相応な権力、利権を獲得するという状況が生じることになる。(略)

 

 

 

真の民主国であるならば大抵は、メディアがある程度そうした役割を演じている。日本社会における特異で興味深いメディアの役割については、後で詳しく検証しなければならないだろう。だがここでは、少なくとも最近まではスキャンダルが起きるたびに、日本の人々から大いに尊敬されてきたある存在に焦点を絞って論じるつもりだ。

 

 

世間一般の人々は、彼らこそ社会を良好な状態に保ってくれる、信頼に足る存在、つまりスーパー・ガーディアンと見なしている。それがすなわち検察である。(略)

 

 

日本の検察官がつねに神聖なる雰囲気をただよわせていることこそが、実に嘆かわしいのだ。なぜなら彼らのこうしたイメージは現実とかけ離れた絵空事なのであり、そこには日本の司法の実態が現れているからだ。(略)

 

 

日本の検察こそ、この国に民主主義を実現させるまいと最後まで抵抗を続ける、もっとも手強い勢力だとさえいえるのだ。(略)

 

 

日本の検察官は重犯罪や軽犯罪をおかしたと疑われる人間を逮捕し、取り調べ、起訴するかどうかを独自に決定できるなど、とてつもなく大きな権力を有している。仕事を通じて司法システムとかかわりのある多くの外国人たちが、日本の司法制度を研究しにやってくると、この国の検察官がこれほどの自由裁量権を与えられていると知って驚く。(略)

 

 

つまり論理的に考えるならば、本当の意味での裁判は行われていない、ということになる。あるいは、裁判は裁判官が登場する前、つまり検察官のオフィスで行われる、とも言えるだろう。(略)」

 

〇つい最近、このことが身に沁みた出来事がありました。

二つの記事を載せておきます。

 

検察審査会とは」

「検察官が独占する起訴の権限(公訴権)の行使に民意を反映させ、また不当な不起訴処分を抑制するために地方裁判所またはその支部の所在地に設置される、無作為に選出された日本国民(公職選挙法上における有権者)11人によって構成される機関。 」

 

〇2019年3月15日「佐川元国税庁長官の不起訴は不当だ」との議決がなされたという記事を読み、まだ民主主義は機能していると思ったのもつかの間、

8月10日の記事で、その結論がひっくり返されたことが報じられました。

 

 

「校法人「森友学園」を巡る財務省の決裁文書改ざんで、有印公文書変造・同行使容疑などで大阪第一検察審査会の「不起訴不当」議決を受けた佐川宣寿(のぶひさ)元国税庁長官(61)ら当時の財務省理財局幹部ら六人について、大阪地検特捜部は九日、再び不起訴とした。(2019年8月10日東京新聞)」

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

 「一九九六年になると、厚生大臣だった菅直人が、一〇年前に起きた汚染された血液製剤を流通させたことは政府に責任があると認め、被害者に直接謝罪する一方で、厚生官僚たちに一〇年前になにをしたか正確に説明するよう迫った。彼のこの行動は説明責任とは何かを直接的に示すものであった。彼以前の大臣でこんなことをした人間はひとりもいなかった。(略)

 

 

もっと一般的に考えてみても、日本でエイズが拡がる可能性があるにもかかわらず、厚生官僚がそれに真剣に取り組もうとしなかったことだけでも、非難に値する。彼らは大勢の日本人が苦しむ可能性があったにもかかわらず、それを最小限に食い止めるための措置をなんら講じなかったのだ。

 

 

官僚が思うがままに権力をふるうことで日本の人々に害をおよぼすとしたら、それは当然、日本の国土にもおよぶそして残念ながら、それを止めさせる有効な手立てはない。建設省(現在は国土交通省)はダムやトンネルといった建設プロジェクトを推進し、日本に残された大切な自然環境を破壊してきた。公共事業がどんなに無計画に行われているかを、十分に認識している日本の納税者はあまりいないだろう。(略)

 

私は実際に、日本市場にいくつかの製品を参入させないよう、政府が規制をしていることについて、日本の消費者がうるさいからと官僚が言いわけするのを聞いたことがある。これも真実とはほど遠い現実であるわけだが、そのことを素直に信じている彼らの大半は、そう確信しているらしかった。だが読者には、「コンセンサス民主主義」が官僚独裁主義を婉曲に言い表しているにすぎないことを忘れないでほしい。

 

 

 

この独裁主義がどのように始まったかはほとんど知られていない。事実、日本の権力システムを理解するカギのひとつは、非公式権力がいかに政治的現実の形成にかかわっているかを認識することである。(略)

 

 

たしかに日本社会にはたくさんのルールがある。実際、外国人のなかには日本にはルールが多すぎるとコメントする者もいる。日本人の暮らしのあらゆるレベルには、職務を遂行し秩序を維持するために利用できるたくさんの規則がある。

 

 

ところが日本で一番肝心なものは、公式的なルールによって規制されないのである。私はたびたびそれを目の当たりにしてきた。日本の政治構造には法的基盤がない。すでに述べたように、日本の巨大経済機構のなかで一番重要な部分も、法律にもとづいて形をなしているわけではない。

実際、日本で行われる経済の全般的な活動は多くの面で法律に違反しているのである。

 

 

 

系列グループという構造からして、日本の独占禁止関連法(アメリカの法律をまねたもの)そのものを物笑いの種にしているようなものだ。(略)

 

 

ここで重要な疑問が思い浮かぶ。成文法の原則は、不文律によってつちかわれた慣例に勝るのだろうか?そして成文法を起草し、成立させ、それにしたがって裁くのはだれなのだろうか?このことをはっきりさせておくべきではないだろうか?

 

 

日本ではこのふたつ目の質問の答えは単純明快である。法律はそれをつくった官僚たちが支配している。法律は官僚がなににも増して、よく利用するツールなのだ。官僚たちは法律を使って社会秩序を守るのみならず、望み通りの制度や条件を確立する。それはたとえば経済発展における一定の目標を達成するのに役立つ。

 

 

日本史の中で、法律はこれまで権力者を支配するのに役立ったことがなく、したがって日本国民全体を統制するような超然たる地位をみとめられたこともない。

 

 

 

またごくわずかな例外を除いては、日本の個人も法律を自分たちに役立つものとは見ていない。官僚に支配されている彼らには、自分たちの生活に影響をおよぼすような変化を求めて、法に訴えるという習慣がない。また日本の国民は官僚を相手取って訴訟を起こすための有効なすべを持たない。(略)

 

 

法的根拠はなにもないのに、官僚たちは消費者に精油を大幅に安く供給できたはずのこの取引を中止させたのだ。日本の銀行はライオンズ石油に融資しないよう指示された。さらに驚いたことに、通産省の非公式な影響力はシンガポールの銀行にも及んだのであった。

 

 

 

ほかの先進国であれば、ライオンズ石油の経営者は損害賠償を受けることができただろう。だが日本ではそのようなことはない。日本でも建設事業などをめぐって、特に地方自治体の官僚などに訴訟を起こす団体はある。しかしそうしたケースはきわめて少ないばかりか、興味深いのは、当の官僚が、この種の法的措置を不当な暴力を加えられたかのように受け止めることである。(略)

 

 

もうひとつ忘れてはならない重要な点は、日本の司法制度もまた官僚に掌握されているということだ。この最高機関である最高裁判所を支配するのは事務総局であり、事務総局は保守的な法務官僚の支配下にある。これは日本の大半の人々が認識している以上に重大な問題である。

 

 

 

もし官僚が気まぐれや思いつきで支配する社会ではなく、だれもが平等にあつかわれるような法の支配する社会に暮らしたいのであれば、そうした社会を実現するためには、行政権と司法権の分離が絶対に必要である。当然、日本国憲法によってその必要性は認められている。ところが日本の実態は憲法に完全に逆行している。

 

 

 

裁判官は検察を含めた法務官僚から独立していなければならないはずだが、現実は違う。下級裁判所などには、独自性を失わない裁判官がたまにいるが、彼らとて官僚たちの意向にどの程度さからえるのか、注意しなければならない。(略)」

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第四章 民主主義にひそむ官僚独裁主義

(略)

工業を絶えず発展させるという政策は、社会全体に大きく影響するのだから、政治の話題として議論するのが当然である。ところが、そのような議論は起きなかった。戦後の経済復興という非常に理にかなった政策が、推進されているうちにいつのまにかこうなっていたのである。

 

 

国民の代表者たる政治家がなぜこれほど無力なのかといえば、それは彼らがほとんど支持されていないからだ。それだけ十分に信頼されていないのだ。彼らを抑えつけておくひとつの方法は、たびたび生じるスキャンダルである。

 

 

政治かはもともと腐敗し、金銭に動かされやすく、利己的だという、事実に反する現実を強調する役目を果たすものこそがスキャンダルなのである。

こうしたすべての相互作用によって、日本のような大規模で高度な経済システムなら当然期待できるようなメリットが、なんら国民に与えられることのないまま、現在にいたっているのだ。

 

 

しかも中産階級政治勢力になり得ないので、それを獲得しようと闘うこともできない。そのためにほんの民主主義は中身のともなわないうわべだけのものになってしまった。そして偽りの現実を維持しながら、日本の市民たちを欺くような多くの「民主的」な儀礼が行われている。だがその権力システムの内実は「官僚独裁主義」である。

 

 

慈悲深さを装う管理者たち

 

日本の独裁主義が特異なのは、私も知っている普通の独裁主義的な政治システムとは違って、ひとりの人間か特定のグループに権力が集中しているわけではないからだ。逆に、日本の政治権力は、官僚や、ビジネス、そして政治エリートの上層部というかなり厚く、幅広い層をなす人々の間に分散されている。

 

 

この分散された権力が政治の世界を形成しているわけなのだが、日本社会が政治家されているために、国民はどこで権力が行使されているのかが実感できない。実のところ、権力はいたるところで行使されているように見えるのである。

 

 

我々はもう少し詳しく日本の官僚独裁主義について検証する必要がある。社会が徹底的に政治化され、しかも公共部門と民間部門の境界が見分けがつかなくなってしまった日本では、我々には政府省庁の官僚と、高度に官僚化された業界団体や系列企業や銀行の幹部たちを総称する言葉が必要である。彼らを「管理者」と呼ぶべきだろう。

 

 

日本の管理者たちは、みずからを慈悲深い存在と見なしたがる。彼らは国民のために最善の成果を上げようと、国家運営という困難な任務に私心を捨てて尽力していると、人々に印象付けたがっている。彼ら自身、また日本の大抵の人々も、官僚は欲得ずくで、身勝手な政治家とは正反対の目的をめざしていると考えている。そしてそれは「安定」にほかならない。(略)

 

 

 

日本の管理者たちからすれば、国民がみずからを市民と見なしては困るのである。なぜなら市民にとって慈悲深いかどうかはさして意味がないからだ。市民は政治システムの上層部の人間が必ずしも利他的だとは思わないものだ。そして市民は国の管理者たちがなにをもくろんでいるかを疑う。(略)

 

 

厚生労働省の不健全なやり方

 

最後に述べた厚生労働省に関しては、情け深いはずの官僚が、実際には日本の人々に大変な害を及ぼしている事実を伝える格好の事例がある。同省は病状を和らげ、あるいは病気を治療することが、みずからの最優先課題だとは考えず、ほかの省庁と同じように日本の産業を守っている。(略)

 

そのため同省はなにをおいても日本の医薬品業界を護ろうとする。(略)

ところが同省はなにか決定をする際には、日本の患者たちの利益を考えようとしない。医療機器の輸入に関しても、日本メーカーに歓迎されない競争を最小限に抑えるという方針にしたがってその大半が規制されている。(略)

 

 

そんな彼らが嫌うものはふたつある。すなわち日本の出生率の低下と、女性解放である。(略)

彼らは日本女性にヨーロッパやアメリカ女性のまねをしてほしくなかったのだ。というのも女性が解放されれば、いっそう統制しにくくなるからだ。そのため副作用の弊害など、ナンセンスとしか言いようのないたわごとをまくしたてては、同省の役人たちは長いこと、避妊用の低用量ピルの販売を禁止してきた。(略)

 

 

この発表によって、日本の民主主義をさまたべるふたつのおもな事柄がいまち明らかになった。ひとつは審議会が危険な組織だということである。有識者や利益団体のメンバーたちが構成するこうした機関は、民主的なメカニズムを通じて、官僚の政策決定に影響をおよぼすことができるはずである。

 

 

ところが現実には日本の審議会は所属する省庁の出先機関に成り下がっている。そして官僚たちはそれを狡猾なやり方で支配している。

つまり審議会がどんな結論を出すかは、省庁によってあらかじめ決定されているのである。そして審議会はあたかもコンセンサスにもとづいて方針が決定されたかのように、見せかけの現実作りに手を貸している、ということだ。(略)

 

 

この審議会は、避妊用ピルの販売を九つの製薬会社が申請したことに関連して、その安全性を調査するよう委任されたのであって、エイズや、コンドームの使用が減る可能性について議論する立場にはなかった。

 

 

「答申」を出すまでに七カ月を要した同会の一二人のメンバーのうち、三人は厚生省の役人であり、それ以外はみなそれぞれ大学の教授だった。私にはこの事実が、日本の学界がいかに堕落し、反民主的な傾向にあるかを示しているとしか思えなかった。

 

 

日本の民主主義の実情に関して気づいた二番目の問題は、抗議の声がまったく上がらなかったことである。同省は日本の女性の便宜をはかるため、市場を開放すると数年前から約束していたにもかかわらず、約束を撤回すると勝手に発表するだけで済んだ。それに対してだれも抗議しなかった。(略)

 

 

当局は血液製剤が危険であると、アメリカの保健機関から警告され、その事実をすでに知っていたにもかかわらず、多くの血友病患者がそれで治療を受けるのを黙認した。すでに海外では識別検査法が開発されていたが、日本の官僚たちは、それを採用しなかった。採用しなかった理由のひとつは、日本企業にみずから検査法と機器を開発させたかったから、というものだった。

ふたつの被害者グループが国を相手取って訴訟を起こし、しばらく争っていたが、ほとんど世間の注目を集めることはなかった。」

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

〇 一二行ずつ簡単にメモして行こう、と思いながら、気になる部分については、ついメモが長くなってしまいます。

 

「公式的な行政の長がまったく実権を持たないという国もある。しかしそうした国でもそれに代わって権力を行使する別の人間や組織がある。ところが日本では統治システムのなかには、それを支配する人間も組織もまったく存在しない。

 

 

政権を築く政治家たちは、たてまえ上は支配下にある省庁に対して、ほとんど影響力を持たない。政策を立案し、それを調整するのはキャリア官僚や官僚たちである。だがほかの官僚すべてを支配する権限を持ち、だれもが同意するような日本の政策を決定できる官僚グループなど、ひとつもない。

 

 

事実上のトップとして行動できるような集団が日本にはいないのである。

私はこれこそ日本という国についてのもっとも重要な点だと思う。なぜならこれこそが日本が抱える大きな問題の数々の元凶だからだ。根本的な欠陥はここにあるのだ。

 

 

私はこれを「政治的説明責任の中枢の不在」と呼んでいる。この欠陥があるからこそ、日本は近代国家と見なされもしなければ、この国の方向性をみちびく満足のいく「舵とり」も存在しないのである。

 

 

第二部で詳しく述べるように、「舵とり」がないからこそ日本はあてもなく漂っているのだ。日本は説明責任ある「国家」ではない、いわば国家なき国である。そのような日本のいまの政治システムは、市民としての日本の人々を裏切っている。

 

 

なぜならだれも説明責任を負わず、国の指針もなければ、リーダーも不在であり、市民としての国民が国の命運について理にかなった話の出来るような彼らの代表者、すなわち議員もいないからだ。

 

 

 

説明責任を果たさぬ支配者たち

日本の政治評論家のなかには、この欠陥を明らかにし、日本の政治責任に言及した者がいる。よく知られているのが日本の政治史学の泰斗・丸山真男である。丸山教授はこれについて戦前の状況に関連づけ、次のような一節にまとめたことで名高い。

 

決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為関係(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。<中略>無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。

   (「日本の思想」岩波新書 一九六一年)

 

 

もちろんその通りなのだが、特にいまの状況については、「責任」と「説明責任」を区別する必要があると思われる。(略)

私も多くの日本の官僚たちが強い責任感を示すのを、目の当たりにしてきた。

彼らに欠けているのは説明責任である。つまり自分たちがなにをし、なぜそうるうのかを、省庁外の人々に向かって説明するよう求められることがない、ということだ。(略)

 

 

説明責任が重視される主な理由は、それをまっとうすることで、独断的う非公式な権力をできるだけ排除し、古い政策が国民の利益にならないことが明らかになった場合、新しい政策を採用する道を開くことに繋がるからである。

 

 

日本の官僚制度の本質をひとことで言い表すならば、それは自分たちの縄張り、つまり公式に管轄する経済や社会活動といった分野の中で、省庁はなんでも好き勝手にできるということだ。しかも自分たちの決定にて説明する必要もない。(略)

 

 

こうした官僚たちは自分たちが本気で国益を考えていると思っている。この事実は重要である。(略)しかし彼らが言う国益とは、自分の省庁の立場から解釈したものにすぎない。彼らは日々の活動の中で、国にとって何が望ましく、政府組織にとって何が有利であるかの見分けがつかないのである。そしてたとえどんなベテラン官僚であっても、両者の間に違いがあることが理解できないのだ。(略)

 

 

日本の役人たちは、彼らが所属する省庁にとって最善なら、日本にとっても一番いいと当たり前のように考えている。ところがほかの省庁がそれとはまったく違うことを、日本にとってベストであると見なしていることが明らかになるや、頭を抱えてしまう。

 

 

戦前、さまざまな官僚グループは一様に、自分たちは「天皇の意思」を実行しているのだと主張していた。しかしその「天皇の意思」が命じる事柄に関して、相矛盾する見方をしていたために、結果として彼らは日本をそれぞれ別々の方向に引っ張っていくことになった。そしてだれもが知っているように、そこに軍部が介入したために、日本は破滅に追い込まれた。

 

 

戦後、国民は官僚による政策決定をみちびく存在ということになった。しかし旧時代の思考パターンの大半はそのまま受け継がれた。だからこそいまなおなにが国民にとっていいかに関して、官僚同士の間では見方が大きく異なっているのだ。

 

 

しかも官僚同士は対立し合うばかりで、自分たちにとってなにが望ましいのかを国民にたずねようともしないのだ。(略)

 

 

つまり日本にとって重大な意味をもつ多くの問題について、だれも考えようとすらしない、ということだ。これは危険である。もし役人たちが説明責任を求められなければ、自分の行動を納得がいくようなやり方で分析するスキルを身に着けることはできない。だからこそ彼らは国家の命運にかかわるきわめて重大な事柄についても、どうやって説明していいかわからないのである。」