読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「裏切られる市民

(略)

奇跡の経済成長は日本人にとって栄誉でもあった。(略)

だがアメリカの消費者たちが手にしたメリットはもっと大きかった。彼らは同じような製品をもっと安く買うことが出来たうえ、社会的な犠牲を払わなくてもよかったからだ。

 

 

しかしなぜ、こうした状態すべてが今なお続いているのだろうか?これは市民が折に触れて問いかけるべき質問である。その答えは単純ではない。本書の大部分をついやして議論しても、答えの一部しか明らかにできないだろう。(略)

 

 

日本が国家としてどのように運営されているかに関して、一番有用な、しかもあまり知られていない事実がある。それは誰一人としてこの国にとって果たしてなにがいいのか悪いのか、また長期的に見て、国民にとって一般的な意味で何が望ましく、なにがよくないのかを心配する人がいない、ということだ。つまり選挙されて公職についている人々のなかにそれを考える人間がいない、という意味だ。

 

 

多分、そのなかでも日本がどうなるのかを心配している人々は少なくないのだろうが、公職という立場にある彼らには、現状を変化させるようなことは何もできないのだろう。

 

 

首相というのはたてまえ上は日本国民の長期的な利益にかなうような行動がとれるはずだ。ところが首相ばかりでなく、政府内のだれに対してもそのような役割は期待されていない。

 

 

我々は「国益」という考え方を慎重に扱わなければならない。これはかなり漠然としている。しかも政策や緊急措置を講じるのに、本当はきわめて少数の、ひと握りの人々に利益をもたらすのであっても、国益のためだと言えば受け入れられやすいことから、多くの国々ではこれが悪用されてきた。

 

 

それでもなにかが本当に国益にかなったものであるかどうかを判断できる、客観的な基準はある。まぎらわしい政治的なレトリックを取り除けば、なにが国にとっていいか悪いかに関して、ほぼ全員の意見が一致するような事柄は驚くほど多い。

 

 

たとえば、一九四一年に真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争に突入したことは、日本の国益に反していた点で、異論を唱える人間はいるだろうか?(略)

 

 

一九九四年、貿易相手国を敵にまわすことも、やはり国益に反していた。国をつくるのは人々である。長期的に見て、国民の利益にならないのであれば、それが国益であるはずがない。

 

 

このように考えれば、製造業者や金融機関に有利な政策を続ければ、日本の消費者に不利な状況はますます悪化していくのに、それでも方針をためないことは、明らかに国益に反している。

 

 

またすでに述べたように、経済組織が互いや政府官僚と密接に結びつくな社会、言い換えれば「政治化された社会」が続くことも、日本の国益に反している。なぜなら日本の国益とは、その市民たちが民主主義を実現することだからである。

 

 

責任を持って日本の国益を追求するような組織は、政府の官僚組織やビジネス界にいたるまでどこにもない。通常なら首相や大統領といった行政府の長がその責任を負う。そうした立場にある人間は、事態が悪化するのを防ぐため、あるいは市民の状況を改善するために、迅速に行動し、新しい政策を立案するようほかの人々に協力を求めなければならない。

 

 

世界中の首相たちがこうした職責を十分に果たしているわけではない。しかし彼らはそうするよう期待されている。ところがこの点に関して、日本は世界では例外的な存在である。(略)

 

 

 

こうした諸国において本来、首相が行うべきとされている決断を、日本の首相がしようとすれば、ほかの政治家たちから独裁者呼ばわりされるのである。特に有力紙などは、必ずと言っていいほどそれに調子を合わせて反首相キャンペーンを繰り広げる。

 

 

たてまえのうえでは日本の首相にも決断を下す権限があったとしても、現実は違う。日本の政治家のひとり、小沢一郎は日本にとってこのことがいかに大きな弊害であるかを理解しており、日本の政治のどこがおかしいかを説いた自著のなかでの、中心的なテーマとしてとり上げている。

 

 

 

新聞の編集者たちと協力した司法官僚たちは、小沢がその発展に多大に寄与し、選挙での圧勝へとみちびいた民主党政権初の首相になるのを妨害した。つまりほかの政治家たちとは異なるやり方をしようとする政治家を、非公式な権力が阻止あのだ。すでに述べたが、このときもまた彼が腐敗しているという偽りの現実が利用されたのである。」

 

 

〇このカレル・ヴォン・ウォルフレン氏は、繰り返し小沢一郎がどれほど有能かについて述べています。私の中の、小沢一郎のイメージは、自民党的なやり方をする人で、公正な民主的な方法ではなく、裏取引や根回しや陰の力で、物事を動かし、人々には「寄らしむべき、知らしむべからず」の態度で丸め込もうとする人、というものです。

 

でも、この度の安倍政権と官僚、マスコミ、財界のやり方を見ていると、そのような力と戦うには、そのやり方を知り尽している人でなけれは闘えない、ということなのだろうか、と思いました。

 

そして、今思うのは、結局私たちは全員、何も信じることが出来ない状況に追い込まれている、ということです。

 

具体例を挙げて説明してみます。

民主党が崩壊し、枝野氏が立憲民主党を立ち上げた時、希望を持ちました。

でも、野党がたくさんの政党に分裂したことで、自民党を有利にする状況を作り出してしまいました。

 

そこで、選挙協力という形で、自民党と闘おうとするのですが、片や利害で結託している自民党に対し、野党はそれぞれ違う理念を掲げています。その違う理念は、共闘の障害になります。

 

原発を掲げる政党が原発容認を掲げる政党と一緒になるなど、おかしいという声が上がります。消費税撤廃を掲げる政党が消費税は必要だとする政党と一緒には出来ない、となります。

 

それにも関わらず、一緒にやらねば安倍政権は倒せないと、共闘を訴えると、そのことで、枝野氏も「ダメな奴」というレッテルが張られます。

 

つまり、理想を掲げる人は、理想的でない状況に弱いのです。

理想的ではない状況で、それにも関わらず、少しずつ「マシな一手」を打って、

次に繋げ、状況を良い方へ向けていく…

というやり方をするには、それを理解し、支持する人々の力が必要になります。

 

あの、原発反対運動の時も、「原発即時廃止」という理想を掲げる人々と、

「十年後の廃止」を願う人々との間で、言い争いが起こりました。

こんな争いをして分裂し、互いに喧嘩状態になれば、喜ぶのは推進派です。

 

なぜ、いつもいつもこうなのだろう…と悲しくなります。

いつもこのパターンで、力を結集することが出来なくなるのです。

 

「何故、この国には、国にとって何が良いことなのか、心配する人がいないのか、何故他の国のように、首相がその役割を果たすことが、

期待されていないのか」という著者の問いを聞きながら、私が、このようなことを言いだしたのは、この国にとって何が良いのか、話し合おうにも、「共通の価値観」とか「土俵」のようなものがなく、必ず目先の利害でものを考える人の前に、そのような議論は、破綻してしまうから、と思ったからです。

 

論理的、倫理的にどうすることが善いことなのか…という考え方をすることが、私たち国民の間に定着していないのだと思います。

 

あの3.11の時でさえ、政権を担っていた人々の足を引っ張る政治家がいました。危機的状況の中で、協力し合うどころか、むしろ嘘の情報を流し、邪魔をするような人が政治家をやっているのです。

 

例えどこかに、本気でそのような心配をする人がいたとしても(実際、いたと思います)、そのような人々は、「出る杭は打たれる」で、潰されてしまうのです。

 

私は、「そのような首相がいないのはなぜか?」の前に、何故、この国の人々は、「何が良いことでどうすることが国にとって良いことなのか」の議論が出来ないのか。何故、そのような議論は真っ当な結論に行き着かないうちに、ごはん論法や東大論法でメチャメチャに破綻させられてしまうのか、ということが疑問なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

「第一部 よき人生をはばむもの

 

ただしこの「護送船団」システムが公式に認められたことは一度もない。日本は法律によって銀行を保護してきたのではないからだ。日本の多くの経済活動の実態は、法律によって許容されている内容とは大きく異なっているのである。(略)

 

 

政治化された社会がどのようなものかを説明するのは容易ではないため、事例を挙げたうえで後述したい。なぜならこれは日本の市民が覚えておくべき一番重要な概念のひとつだからだ。(略)

 

 

抑圧される中産階級

ちなみに政治化された日本社会というのは、先ほども簡単に触れたように、戦後に日本が成し遂げた第二の偉業でもある。真に民主的な国ならば、利益を度外視してでも生産能力を無限に拡大するといった国家目標を掲げるなど不可能である。(略)

 

 

欧米の先進諸国と比較しながら、日本の政治社会をつぶさに見る時、ある特異な事実に気づくはずだ。それは政治に影響力を持つ中産階級がこの国にはほぼ完全に欠けているということだ。これについては少し説明を要するだろう。(略)

 

 

日本の中産階級はなぜ政治的に無力になってしまったのだろうか?なぜ日本の当局者は日本社会の中で強力な要素になる可能性を秘めた中産階級を抑圧するのだろうか?これを理解するために、我々はふたたび企業に目を向ける必要がある。そして今度は内部からそれを検証することにしよう。(略)

 

 

もし働く中産階級のための本当の意味での労働市場が日本にあるのなら、話はまったく違ってくる。サラリーマンの大半に仕事を変える可能性があり、そしてもっと給料の高い、あるいは労働条件のいい別の会社に転職する可能性があるとすれば、日本の労使関係は劇的に変化するだろう。(略)

 

 

日本人の集団をめぐる神話

(略)

新入社員はみんな一斉に箒を手に道路掃除をさせられ、冷たい川につかり、あるいは山を行進して登らされ、屈辱的で、心身がへとへとになるようなことをやらされる。集団での徹底的な訓練や互いに告白し合ったりと、文化人類学者ならこれぞ浄化、イニシエーションの儀式であると大喜びするような訓練の数々には、重要な目的がある。つまり軍隊の新兵訓練と同じで、個人の意思を打ち砕こうとしているわけだ。(略)

 

 

 

日本の若者たちが成長の過程ですっかり調教され、会社と一体化するうえでの心理的な抵抗がすべて取り除かれていたとしたら、新入社員に対して、仕事は生計を立てる手段というより、むしろ神聖な任務であるなどと、大騒ぎをして教え込む必要などない。(略)

 

 

この数年、日本人の中には世間にはびこるのが偽りであることを暴き出そうとする者がいる。たとえば有名なソニー盛田昭夫は、「文芸春秋」誌の中で、進出先の地域とは相容れないのに、自分のやり方を変えずにいれば、日本は困難な事態に陥るだろうと述べて、世界的に注目された。しかし経営手法については曖昧に述べただけで、ほかの国々との大きな相違点をはっきりさせることはなかった。

ソニーの社員の何人かは新聞の中で、もし盛田が提唱したように、世界の多諸国に合わせてやり方を変えたのでは、この会社は終わってしまうだろうと発言していた。彼らにはなにがおびやかされようとしているかがわかっているらしい。(略)

 

 

なおざりにされる家族

(略)

しかし日本人の場合は、温かい感情を示そうとしても、それを阻まれることがある。これもまた大抵の場合、企業の圧倒的な影響力が原因だ。サラリーマンは会社と「結婚」するよう期待されているので、彼らの妻の多くは、本来なら夫から与えられるはずの愛情が欠けた分を埋め合わせなければならない。そこで息子に過剰な関心を寄せることになる。

これが不健全な影響をおよぼすことについては、これまでたびたび指摘されてきた。(略)

 

 

プライバシーと女性たちの抗議

(略)

女性たちには「良妻賢母」となる義務があった。彼女たちはどんな形であれ、政治に拘ることは許されなかったが、赤ん坊を産むという政治的に重要な役目をになっていた。というのも生まれた赤ん坊の半分、つまり男の子たちは日本をさらに強い国にするため、兵士や労働者に育てられるからだ。

 

 

一九四五年以降、日本人すべてにさらなる自由が認められたことで、当然、日本女性の地位は大きく変化した。(略)

公式的には政治活動を禁じられてはいないので、日本女性はたてまえ上は市民である。そして実際、彼女らの多くがその権利を行使した。一九六〇年代と七〇年代の婦人会やほかの女性活動グループは、日本各地で政治的にも人々の注目を集めるような重要な存在になった。

 

 

ところがそれを見た官僚やビジネス官僚たちはほぼ同時に、この政治現象の封じ込めに乗り出した。

そのため、たとえば消費者運動は大幅に政府によって「乗っ取られ」てしまい、消費者ではなく当局にとって有利な基準を支持するようになってしまった。また日本の農業市場からさまざまな海外産食品の相当数を締め出していくことにも一役勝って来た。(略)

 

 

エコノミストたちの論理にしたがえば、円の価値がこれだけ上がったのだから、物価が大幅に下落するのが当然であった。ところが物価にそれが反映されていないということは、消費者運動が政府やビジネス界に丸め込まれてしまったことを意味している。(略)

 

 

 

ほとんどの読者はよく知っていると思うが、いまや日本人女性は世界のどの国の女性よりも晩婚である。しかも結婚しないと決めた女性の数も増えている。(略)

日本の社会評論家たちのなかには、これを現代のサラリーマン生活に対する無言の抗議のあらわれだと認める者もいるが、本書の議論の視点でこの問題を見る私には、いまやより多くの日本女性たちが、この国の戦後のもっとも偉大な成果のつけはあまりに高すぎると訴え、ひとり孤独な人生に逃げ場を求めているのではないか、と思えてならないのである。」

 

〇「戦後のもっとも偉大な成果のつけ」というのが、何を表しているのか、私の理解で書いてみたいと思います。

 

・「政治化された社会」の一員として、際限なき経済成長を追求する目的を担う男や子どもを支え、育てる役割を果たすこと。会社と「結婚」した男と結婚し、会社と結婚する男を育て、その男と結婚する女を育てるという役割を、機嫌よく果たすには、どうすれば良いのか。

「愛」など求めなければ、それなりにやっていける。でも、それを求めるなら、最初から結婚などしない、となってしまう。

 

 

だから「母親」なのだと思いました。

つまり、「母親というのは、愛するけれど愛されようとはしない人」

ということで、です。

そんな形で、一応「愛」のある家庭がなりたっていたというのが、

日本の家庭だったのかな、と。

 

あの「死にゆく人のかたわらで」の中で、三砂さんは、「育児や介護など、弱い人のお世話をするときには、女性性が必要とされる。だから女性が担って来た。」として、「家で看取ることはよきことで、女がその仕事を担うのが本来の姿」と主張されていました。

 

そして、私はそのように言う三砂さんが好きだと書きました。

でも、「女性に育児や介護を押し付ける考え方が好きだ」ということではありません。そんな形ででも「愛のある家庭」、もっと厳密にいうなら「愛のある人間関係」を女が主体的に作ろうとしましょうよ、と言っている姿勢が、好きだと思ったのです。

 

 結婚を愛し愛されることと考えるなら、「風俗」に行くのが当然だという男を相手に、どうすれば、愛など信じられるのか、となります。女に便利な母親を求める男と結婚などしない、となると思います。

私も、「抗議」ではなく、孤独の中に「避難」していると見る方が、当たっていると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム

〇カレル・ヴァン・ウォルフレン著 「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」を読みました。

 

1994年発行の「人間を幸福にしない日本というシステム」を読んだのは、多分、’97~8年頃だったのではないかと思います。古本屋で見つけて、読みました。

 

「私は女性にしか期待しない」も同じころだったかもしれません。子育てには一段落した…にもかかわらず、次男が不登校ぎみになり、気持ち的にとても苦しい時期でした。

 

子どもが出来て間もなくの頃から、夫が父親として存在することが出来ない状況というのが不満でたまりませんでした(早朝から夜遅くまでの長時間労働)。だからといって、夫を責めてもどうにもならないのは、わかっていました。

労働基準法」というものがあり8時間労働規定がありながら、何故こんなにも「拘束時間」が長いのか、と一人で怒っていました。

 

ちなみに、現在は娘が同じことを嘆いています。一応週休二日という規定はあるのに、頻繁に土曜日の出勤が続くのです。それでも、私などから見ると、

かなりマシにはなっているように見えるのは、「夫」のキャラクターの違いに

よるのかもしれません。

 

 

そんなわけで、私は、「いまだ人間を幸福にしないシステム」を現在進行形で実感しています。

 

古本屋で見つけた最初の本はもう手元にありませんし、内容も忘れています。

この「いまだ…」の本が、どの程度最初の本と同じことを書いているのかも、

わからないので、前半(第一部と第二部)は、引っかかった言葉を、

1~2行メモしていこうと思います。

 

そして、第三部を少し丁寧にメモすることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

前世は兎

吉村萬壱著「前世は兎」を読みました。

短編集です。最初に読んだのは、「前世は兎」。次に「宗教」、「沼」、「梅核」、「ランナー」を読みました。

「前世は兎」は、すぐに物語に引き込んでくれて、ありがたいと思いました。

私は、読書があまり得意ではありません。好きな本は、本当に好きで、趣味は読書、などと思っていた時期もあるのですが、読めない本の方が圧倒的に多いことに、気づき、それほどの読書好きではないのだとわかりました。

 

そんなわけで、先ず物語にスッと引き込んでくれる本は、嬉しいです。

モノには何でも名前がある。だから世界はダメなのだ…(文章は違っています。図書館で借りた本を返してしまったので、記憶を頼りに書いています。)

 

本来は、全てのモノが渾然一体となって、世界は一つであるはずなのに、

名前があるために、わけのわからないものになっている(ここも、原文通りではありません)。

ここを読みながら、あの鈴木大拙の「東洋的な見方」の中の、

言葉のとらえ方を思い出しました。

 

私たち人間も本来は動物なので、自分の中の動物的な面に気づかせてくれる本は、わりと好きです。でも、こちらの精神状態が、あまり良くないと、そうなってしまうのか…。読み終えて、次の作品を読む気になりませんでした。とても絶望的な気持ちになってしまいました。

 

それで、しばらく時間を置き、気をとりなおして次の作品を読みました。返却日が迫り、もっと丁寧に読みたかった「ランナー」は、飛ばし読みのようになってしまい、ちょっと残念です。

 

返却前にコピーしておいたページから、一部メモします。

 

「ランナー」

 

「我々は日々汚染された食べ物を口にし、汚染された空気を吸って生きていくしか生きる術がなく、そしてそのことに慣れ切っていた。

即ち、大きな諦念の帳が我々の生活全てを完全に覆い尽くしていたのである。」

 

〇ここは、まさに今の私の気持ちそのものです。放射能汚染に止まりません。現政権は、民主主義を破壊し、都合の悪い公文書を隠蔽、廃棄し、国民主権や人権を尊重する考え方を葬り去ろうとしています。マスコミに圧力をかけ、経済システムを牛耳って、戦前の日本を取り戻そうとしています。

 

今や、財界も著名人も沈黙し(マスコミが機能不全になっているので、そう見えます)、もうそんな「空気」を吸って生きるしかなくなっています。

 

「ランナーが国家レベルで賞賛され、全国民から英雄視されるのに対して、辞退者は国賊であり、その罰は係累にまで及び、刑期を終えて出所した後も白眼視され、攻撃され、いくら身を隠しても探し出され、誰とも分からぬ群衆の私刑を受けて殺される運命にあることは誰もが知っていた。

 

もし姉が自分がランナーに選抜されたことを誇りに思い、声を上げて喜んだとすれば父も母も私もそれを共に祝わぬ理由は持たなかったろう。しかし彼女はそうではなかった。これに対して父は、少なくとも娘がランナーに選抜されたことに対する喜びの表情は見せなかった。

 

ただ声に出して通知書を読み上げ、蕎麦殻の枕の上に頭を転がしてテレビ画面に向き直っただけだったと記憶する。母は父から通知書を受け取り、破れ目をセロハンテープで張り合わせた筈である。

 

 

ランナーの家族は、着順に応じた年金を支給されることになっていた。この薄っぺらな通知書を受け取った瞬間、我々家族は最底辺の暮らしから抜け出せることが約束された。家庭によっては祝いの宴を催したりするというが、我が家にはそういう空気はなかった。

 

 

しかし決定通知を誰も喜ばなかったかと言えば、それは嘘だった。姉を気の毒に思う気持ちは胸に溢れんばかりだったにも拘わらず、その夜は未来へと続く一筋の光を夢想して私は殆ど寝付くことが出来ず、低い天井を凝視しながら自分の登頂部の  を撫で回し続けた。そしてその未来を手にするには、間違っても姉が自殺や逃亡を企てないということが絶対条件であった。

 

 

 

翌日の月曜日の早朝、姉と私は定刻に二人一緒に家を出た。我々は同じ国営第六工場の労働者だった。姉の様子は、いつもと変わらないように見えた。必要以上の言葉は口にせず、顔の両側に垂らした髪を盾にして世界から身を隠すようにしている様子も普段通りで、我々は決まったバス停の行列に並び、決まった灰色の送迎バスに揺られて第六工場へと向かった。

 

 

我々の暮らすバラックの集合住宅の住人の約六割は、第六工場の工場労働者で占められている。月曜日の午前五時にバスターミナルに集まる人々の顔は、刑場に引かれていく死刑囚の群れのように沈鬱の色一色に塗りこめられていた。

 

 

労働者達は二交代制で一日十二時間拘束される。エリア内の発電施設の建造物や機械部品は、計算上の耐用年数を著しく下回って加速度的に消耗した。その為、発電施設に対する部品補給や補修工事は常に焦眉の急だった。

 

 

部品の製造・修理を行う第一~第七工場のノルマは絶対で、ベルトコンベアや機械を停止させたり故障の原因を作ったりすることは反国家的行為と見做され、遺族年金なしの決死隊への強制異動の対象とされた。不可抗力な理由でもない限り、どんな単純なミスでも命取りとなり得た。」

 

 

〇どの作品も、「絶望」「不幸」が行間からにじみ出ていました。そして、その感覚は、とても馴染みあるものでした。でも、私は、そんな絶望や不幸から逃げたいと思って生きてきました。

 

もし、ものの見方や考え方や受け取り方で、多少なりとも、そこから逃げ出し、「希望」や「幸福」を味わえるなら、そちらに行く努力をして生きようと思って、やってきました。

 

そんな自分の原点を思い出させてくれるような本でした。

 

もう一か所、「ランナー」の中から印象に残った文章をメモしておきたいと思います。

 

「まだ物心つかない頃、狂犬病の犬にくわえられた猫が死に至るまで振り回されるのを、母の足につかまりながらじっと見ていたことがあった。

 

私は自分がいま猫だと思った。こんな無慈悲極まる非道な扱いを受け続けなければならない恐ろしい運命に打ち震えながら目を覚ますと暗闇だった。」

 

〇ここは、地震が起こった時のことだったと思います。

世の中はそんな無慈悲極まる非道な扱いに苦しむ人の悲鳴に満ちています。恐ろしくて苦しくなります。今は免れていても、いつ自分や自分の家族がそんな「猫」になるかわからない…。そう思いながら生きるのは、恐ろしすぎます。

 

少しずつでも、マシな世の中にしよう、と思って生きる生き方。

どうせそんな恐ろしい世界なのだから、今のこの瞬間を楽しんで生きよう、と思う生き方。人権や民主主義は、マシな世の中にしようと思った人がいたから、今、私たちはその恩恵を享受できているんだろうな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「あとがき

 

夫は悪く言えば、不器用というか、考えなしというか、適当というか、そういうところのすごくある人だった。(略)

ある年末の日、カーテンを洗濯機に入れたものの、そのまま出かけなければならなくて、夫に「カーテン、洗ったから、フックを付けてカーテンレールにかけておいてね」と頼んだ。このとき、頼んだカーテンは、薄いオーガンディーのような記事のカーテンだった。

 

 

帰宅してみたら、カーテンはちゃんとカーテンレールに、かかっては、いた。しかしよく見ると、薄い方のカーテンの長さが妙に揃っていない。(略)

 

 

夫は、おそらく一度もカーテンを洗ったことがなかったのだろう。カーテンフックをカーテンの上部にどうやって取り付けたらいいのか、わからなかったらしい。(略)

 

つまり夫は、カーテンフックをカーテンにつけるにあたり、それを差し込む所がわからないから、ぶすっとフックで薄いカーテン生地に適当な穴を開けてしまって、ランナーに取り付けていたのだ。(略)

 

 

唖然としたものである。どこに差し込んだらいいか分からないからと言って、カーテンフックでカーテンに穴を開けていいはず、ないだろうが。オーガンディーのカーテンは、丸井で買ったのだけど、それなりに高いカーテンだった。それに一二個も穴を開けていいはずないでしょう。

 

 

私は真剣に怒ろうかと思ったが、そういうことをやりそうな人に頼んだ私が悪いのである。(略)

 

 

ことほどさように、というか、なんというか、そんな感じの人だったから、あまり細かいことは考えなかったし、丁寧に何かをやる、というのも苦手だったと思う。何かやって、と頼む時には、いつもこのカーテンのエピソードが思い出された。何かを頼むときには、全てを丁寧に説明してわかってもらえるようなことでないと頼めない。結局、面倒くさいから、頼まないで自分でやっちゃったりしたものである。(略)

 

 

 

と、まあ、何事につけても器用な人だった、とか、よく気の付くマメなひとだった、とは言い難いのだが、でも、本当に、おもてうらのない、素直な愛すべき人だった。

いまとなって、ただなつかしく思い起こすのは、このカーテン事件みたいに、その時は唖然としたけど、あとになったらもう、大笑いできるようなことばかりだ。(略)

 

 

喪中が三年くらい続いたけれど、今年は久しぶりに年賀状を書ける年始だった。近所の神社にお札を納に行った。梅が咲き始めていて、まだ寒いけれどうっすらと春の雰囲気が漂っている。甘酒とかおしることか売る茶店が出ている。気楽に、誰かと一緒に、どうでもいいようなことを言いながら買い物をして、神社に寄って、なんとなく神社まで散歩して、そこで一緒に甘酒とか飲みたいな。そういうことをする人を亡くしてしまったことをわたしは痛感した。

 

 

失ってしまったのは「どうでもいいこと」を共有する人。それが配偶者なんだなあ。配偶者を失う、とはどうでもいいことを延々としゃべったり時間をただ共にしたりする人を失う、ということだ。特別な時間を共にして、輝く様な瞬間を愛でる……ような恋人をつくるのは、おそらくこれよりはずっと簡単なことなのかもしれない。

 

 

金ちゃん、あなたが本当になつかしい。わたしの日常を支え、毎日を護り、海外生活の長かった私を日本に着地させてくれた人。怒ったり泣いたり喧嘩したりすねたり、私が誰にも見せられないようなことをあなたは見て来た。そういうことを共有するあなたは、もうこの世にいない。そのさびしさはこの「あとがき」を書いていると、ひたひたと私に迫る。(略)

 

 

もちろん、不慮の死、とか、突然の死、というものもあるだろう。でもそういうものならいっそうのこと、本人は全く死ぬ気などなくて、自分が死ぬことを考えてもいなかったんじゃないか、と思う。ふと、気づいたら、自分は生きていない。死はそんなふうに訪れるのではないのか。

 

 

生きて、生活して、その先に、死、という道がある。というか、死という道があることもある。それは、本人にも周囲にも明確に、ドラマチックに訪れるものではなくて、ふと、道に踏み入ったように、訪れるもの、のようなのだ。(略)

 

 

しかし、夫を腕の中で看取って思うのは、死はあまりに身近で、この生と繋がっている、という、厳然たる事実であった。(略)

からだがあたたかく、やわらかいうちに、私たちがやらなければならないことは、あの冷たさを思い出すと、ただ、明らかであるような気がする。あたたかいからだのあるうちは、ただ、愛し合いたい。

 

 

 

「夫を家で看取る」ということが、現代の東京でできたのは、本文にも出てくるが、我が家から五分のところに、訪問診療の草分けのひとりである新田國夫先生が開業しておられたからである。(略)

 

 

一年半経ったいまなら、書けない。思い出せないし、思い出したくないこともある。夫の亡くなった直後に、書かせてもらったことに、感謝するばかりである。

 

 

私は自分の本が役に立つように、とはいままであまり思ったことがない。しかしこの本だけは誰かの役に立ってほしい。自宅で死にたい、自宅で家族を看取りたい、という人への励ましになってほしい。それが私たち夫婦がもたらすことのできるなにかではないか、夫の生きた証ではないか、と思うからである。

 

最後に、亡き夫、川辺金蔵に心よりの愛と感謝を。ありがとう、金ちゃん、あなたの妻にしてくれて。

 

 

二〇一七年二月           三砂ちづる   」

 

〇…ということで、この本は終わっています。

何故自宅で家族を看取るのか…

家族が死ぬということを、自分の生活の中に取り戻すこと。

産まれることも、病気も、介護も、死も、自分が生きている場所とは別の場所で展開されることで、私たちは生まれて死ぬまで、そんな濃密で深い体験をせずに過ごしてしまいます。

 

戦争や災害や事件の体験など味わいたくもありませんが、でも、一つの生命が生まれる、病む、死ぬということは、本来もっと身近にあって、そこから教えられることもたくさんあるはずなのではないか…。

 

そんな「教え」をたくさん受け取って、人間は今のような社会を営むようになったはずなのに、と思います。

 

ただ、本当になかなか難しいことだと思います。

それが望ましい姿だと言っても、そう出来る人と出来ない人がいるだろうな、と思います。

 

私自身は、もし、夫が自宅で…と望むならやるかもしれない、と思います。でも、私は家で看取ってほしいとは思いません。むしろ、病院で機械的に死ぬということで十分です。どんな「死」になるかは、「死」に任せようと思います。

 

だからそれまでは、しっかり生きようと思います。

そんなことを考えさせられました。

 

これで、「死にゆく人のかたわらで」のメモを終わります。

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「第8話

 

人生最大のストレス

 

二〇一五年六月に末期ガンの夫を家で看取った。配偶者の死、というのは人間にかかる「ストレス」のうちで最も大きいもののひとつであるという。ライフイベントとストレスに関する有名な尺度があって、「配偶者の死」の次には「離婚」「夫婦別居」「刑務所収容」「近親者の死」などと続くが、「配偶者の死」は、抜きん出てストレスが高いイベント、とされている。

 

 

ちなみにストレスとは、「人間がもともと生きて続いていく方向にそぐわないような刺激がからだに加わった結果、身体が示すゆがみや変調」のことである。このところ、妊娠、出産、子どもを育てることが女性にとってストレスなので…などという言い方をよく聞くし、子育ては毎日がストレスでいっぱい、とか平気で言ったりしているのだけれど、これは実は「ストレス」と言う言葉の正しい使い方ではない。

 

 

 

生物である人間が、次世代を宿し、産みだし、育てることは、「人間がもともと生きて続いていく方向」に沿うことである。このプロセスがないと、人間はこの世代で終わり、となってしまう。人間がもともと生きて続いていく方向、というものには、なんらかの喜びがビルトインされているはずで、それがよきもの、ではないようにとらえられるようになり、つらい、と思わざるを得ないようになっている状況自体が「ストレス」、なのである。

 

 

この、人間の本来生きていく方向自体をつらくしているもの、たとえばすべての人が賃労働に参加することこそが生き甲斐だ、とか、社会的評価が得られないのは価値のないことだ、といった考え方とか、具体的には、仕事が忙しすぎることとか、時間がないこととか、そういうことがストレスなのである。

 

 

 

「母性のスイッチ」が入るとき

 

(略)

人の世話をする、ということは、夜は自分の好きなようには寝ない、ということでもある。

授乳期の母親は、幼い子どもがかたわらに寝ているときは、子どもの気配で即座に目覚める。「添い寝したら子供に覆いかぶさって危険だ」などということが真剣に議論され、だから「添い寝をしてはいけない」と言われていたこともあったが、今は日本人が昔からやってきた「母親の添い寝」は、むしろ推奨されている。(略)

 

 

妊娠、出産、授乳、人の世話、という人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た女という生物は、なんらかの形でスイッチ(あえて「母性のスイッチ」と呼ばせていただこう)が入れば、自分のことは二の次にして、黙々と清々と働けるのである。

 

 

そしてそれは前述したように、苦行、ストレス、ではなく、喜びとして行えるのだ。生命の存続の方向にかなうことだから。

それをいまは、「妊娠すると仕事ができない」「出産するとキャリアに関わる」「子育ては女性の人生を邪魔する」などということになって、身体的に「母性のッチ」が入る機会をつぎつぎと奪っている状況なのである。残念なことだ。この国の子どもがどんどん減ってゆくのも、仕方のないことだと思える。

 

 

 

私的に近しい人の「手の内」にあること

 

わたしのかたわらに寝ていたのは、授乳期の子どもではなくて、末期ガンの夫だったのだが、そういう「弱い時期の人」「人の助けがいる人」がかたわらに寝ていると、女は、”はりきる”。スイッチが入っているので、ほんの少しの動きにも敏感にからだが反応する。夫は最後まで自分で立ってトイレに行けたが、ふらふらするので、ほうっておくと危ない。夜トイレに立ったり、痛み止めを飲んだりするたびに、即座に反応するわたしであった。起こされるわけではないし、夫は私を気遣っていたから、いつもそっと動いてくれていたのだけれど、わたしが気づくのであった。(略)

 

 

しかし、やっている方、やったことがある方はおわかりだと思うが、この人間のもとの形、「生の原基」に関わる部分、まあ、簡単に言えば、次世代を産み育てる、先に逝くものを見送る、さらに、いまふうの言葉で言えば、妊娠、出産、子育て、介護などは、根本的に人間の「私的領域」に関わっていることであり、個人的な関係性の中でしか存在しえないものである。

 

 

公的なシステムがそれに完全に取って代わってしまうことは難しい。(略)

簡単に言えば、子どもを産んだり、子どもを育てたり、子どもをつくることに繋がるような愛の暮らしを営んだり、弱った人を助けたり、人生の終わりに向かう人を送ったり、そういったことは、誰か私的に近しい人の「手の内」にある、ということだ。育ちゆく本人や、死にゆく人の安寧は、誰か親密な関係を持つ人に委ねられるということなのだ。(略)

 

 

介護する人は選ばれた人

 

「子育て」をする人は、子どもに親であることを選ばれた人である。あなたの子どもは偶然にあなたの元に届いたわけではない。別にスピリチュアル系の話でもうて、子どもはあなたに続く長いご先祖様の歴史の果てに、なんらかの必然と関係性の元にあなたの前にあらわれた。あなたは子どもに選ばれたのだ。

 

 

それと同じように、介護する人は、選ばれる。家族の中から、ほかでもないあなたが、介護する人に選ばれるのである。選ばれたものの、誇りと矜持、そういうものがたしかにある。生まれる人の親になることも、死にゆく人のかたわらに寄り添うことも、選ばれることなのであるが、いまはその選ばれたものの誇りを口にすることが本当になくなり、子育ても介護も大変です、という苦労自慢ばかりになってしまった。(略)

 

 

そもそも、「育児」と「介護」は似ている、とよく言われる。父の介護をしているときも、夫の介護をしているときも、しみじみと、「子どもを育てること」と「人の介護」は同じプロセスだと思った。方向性が違うだけでやっていることは同じ。ちょうどコマを逆回しにしている感じである。(略)

 

 

「お父さんが出張でこの時間しか帰って来ない」とお母さんが言っていると、お父さんを待って生まれてくることは、珍しくないらしい。赤ちゃんはなんでもわかっている、と痛感させられることが多いからこそ、お産はできるだけ自然に、産む女性と赤ちゃんが自分の力を生かせるようにしていく必要があるのだ、と言う、助産師たちの言葉は重い。(略)

 

 

どう生きて、関わって来たか

 

自然なお産で生まれて来た赤ちゃんは、自分の力で生まれて来た誇りで輝いている。自分の力を使って産んだ女性は、出産という経験だけで、母性のスイッチが入り、見事に落ち着いて、社会的認識に開かれ、母として生きる自信に満ちるようになる。(略)

 

 

 

「自然なお産」とはどういうものか、様々に議論されてきているのだが、わたし自身は、生まれて来た赤ちゃんが達成感に満ちた表情をして、女性が別人のように自信に満ち、介助してきた人も心の底から励まされるような、そういう出産が「自然な出産」だと思う。医療介入を実際に行ったかどうか、は実はどちらでもよいことで、母子、介助者が全て光につつまれるように励まされるお産が、人間がもともと行って来た「自然な出産」なのではないだろうか。(略)

 

 

 

「自然な死」についても議論が深まっているが、医療介入をしたかしなかったか、自宅で死んだか施設で死んだか、そういうことは、おそらく、実は些末事で、どちらでもよいのである。

 

 

死にゆく人が静かに時間を過ごし、寂しいながらも満ち足りてあり、介助していた人間が、その死と共に、悲しくはあるがなんとも言えず、励まされる、という死は、「自然な死」なのではないか、と思う。

 

 

 

そのように静かに逝き、励まされて看取る、と言う経験はだから、医療介入するかしないかとか、施設か自宅か、という議論ではなく、死にゆく人と最後までそのかたわらにいるであろう人との関係性によってのみ、決まっていくことなのだ、とあらためて思わずにはいられない。

 

 

だからこそ、その関係性は、病を得たり、死にそうになったりして突然始まるものではなく、それまでその人がどのように生きてきて、どのように周囲や家族や人と関わって来て、最終的に自分を看取ってくれる人とどのように関わって来たか、によって決まってゆくのだ。それは結局、その人がどのように生きて来たか、の反映となるしかない。

 

 

 

介護には終わりがある

(略)

 

 

 

子育てには終わりがないが、介護には終わりがある。死は永遠の別れで、たしかに悲しいものだけれど、それは永遠の和解でもある。もうこれ以上の軋轢もなければ、刃向かわれることもない。よき思い出だけが手元に残り、見送ったものには静かな励ましが残る。厳しいことだけではないのだ。子育てと介護は似ているが、ある意味、介護のほうが救いがあることも少なくないのかもしれない。(略)

 

「女」がになってきた仕事

 

「子育て」と「介護」は似ているから、両方やると、もちろん上手になる。(略)

女の人生は……とこのように書くと、「子育てと介護を女に押し付けて女性の社会進出を妨げるのでけしからん」と言われるのであるが、「全ての女性は社会的評価を受けるような仕事を望んでいて、それができるようになるのが世の中の発展である」という考え方自体、いまの時代に広く生き渡っている単なるイデオロギーのひとつである、「金を儲けてくることがいちばん大切」という産業消費社会の要求と一致しているがために、広く人口に膾炙しているにすぎない。

 

 

 

もちろん、「子育てと介護は女の仕事」で、全て女がやれ、などと言うつもりはない。男がやっても女がやってもいいけれど、子育てや介護において必要とされるのは、その人の「女性性」だから、「女のやること」と、つい、言ってしまいたくなるのである。

 

 

 

男であろうが女であろうが、ひとりの人にはその生物学的性にかかわらず、男性性と女性性が共存している。男性性、女性性、というもの自体が社会的に規定されたものだ、と言われることもあるけれど、産む性である女性が男性と同じとは言えないことは、DNAから考えてもその通りであろうし、ひとりひとりが自分のことを考えてみても、自らのうちに女性なるもの、男性なるもの、のどちらもある、と感じると思う。(略)

 

 

幼い子供や助けのいる人たちのお世話をする、というのは、それぞれの人のうちにある「女性性」の発現が期待されている分野であると思う。だから、男の人が肩代わりすることもあるけれど、これはやっぱり長い人類の歴史の上で、「女」がになってきた仕事である、と思う。(略)

 

 

それでもやはり、家で死ぬのはよいこと

 

あらためて、家で看取ったことをふりかえってみると、この人を家で見送ったことで、いまこのときへの集中はずっと上がったということが確実だ。そして、家で見送ったことで悔いが残らなかった、家で看取ったことはよい経験でした、その経験がいまもわたしを支えてくれます…。亡くなった夫のお悔やみの言葉を言って下さる方に、そのように言うことが多かったのだが、ほどなく、気づいた。

 

 

わたしがいうことは「やらなかった人」「出来なかった人」に、悔いを残させるらしい。ガンをわずらった大切な人を病院で死なせた、と後悔させるようだ。「私がいつまでも悲しのは、家で看取れなかったからなんですね」という方も出てくるにおよんで、あまり、家で看取ってよかった、と言い募るのはよろしくないなあ、と思ったりしはじめた。(略)

 

 

今も夫が死んだときのことを思い出す。施設で看取った父や義母は、そのまま葬儀場に運ばれ、家に戻ってくることはなかった。家にずっといなかった人を、死んでから家に迎えるのは、なんだか気持ちよくなかったのである。はっきり言って、ちょっと怖かった。家に死人を安置する、ということがなんとなく怖かったのである。

 

 

しかし、夫は家で死んだ。わたしの腕の中で死んだ。死んだ彼はさっきまでは生きていた人であり、生きていても死んでいてもわたしの愛する夫であり、ひとつづきの流れの中に存在する人なのであった。だから、死んだ彼のことは少しも怖くなかった。(略)

 

 

人間はおそらく、本来は、家族の場所を持ち、そこで生まれ、そこで憩い、そこから出て、またそこに戻り、癒され、また出て行き、そして、最後に帰ってきて、そこで死ぬのが、あるべき姿なのであろう。

 

 

健康とはそのような暮らしの中でこそ、「医療」や「サービス」に頼らずに立ち上がってくるものであるのに違いない。

人間としてのあるべき姿から遠く隔たってしまったことに悔いはないとはいえ、私たちが、この近代のもたらした衣食住の見事な豊かさと、何を引き換えにしたのかを、家で看取ることを機に、わたしはさらに深く考えるのである。」

 

 

〇一番気になったのは、

「妊娠、出産、授乳、人の世話、という人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た女という生物は、なんらかの形でスイッチ(あえて「母性のスイッチ」と呼ばせていただこう)が入れば、自分のことは二の次にして、黙々と清々と働けるのである。」

という文章です。

多分、その通りだと思います。でも、現在、人間の「育ち」は、人類の存続にかかわる部分を営々と担って来た時代とは違う育ち方をしているのではないかと感じるのです。

本来群れで育つ人間が、それぞれバラバラに個室の中に入れられ、育っています。本来は、自然と共に自然の中で生きていた人間が、人工的な環境で育っています。それにも関わらず、「女は本来そのような役割を担えるのだ」としかも喜びを持って担えるのだ、と言われることに、素直にうなずけない気持ちになります。

 

家で看取ることはよきことで、女がその仕事を担うのが本来の姿、と主張することは、今の時代、結構勇気がいることではないかと思います。私としては、「そうすべきだ」と強いられるのは、嫌ですが、でも、こんな風に考える人は好きだなぁ、と思いました。

 

また、介護する者には誇りと矜持がある、ということも、確かにそうだ…と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死にゆく人のかたわらで

「第7話

 

総論としてはよきこと

 

延命治療はしてもらいたくない。そういう人は増えた。遺漏や、経管栄養や、あるいは人工呼吸器や、いわゆる命をながらえるためだけの措置は、できるだけしてほしくない。自分に意識がなくなってしまったらな、もちろん家族にそうしてほしくないし、自分に意識があるなら、なおのこと、そうしたくない。そのように考えておられる方はこのところずいぶん増えて来た。

 

 

一般論としてはわかりやすい。生きるとはなにか、寿命とはなにか、そういう問いには答えられないとしても、意識も清明でなく、判断も出来ないような状態にあるのならば、命だけを引き延ばすようなことはやりたくない、ということだ。

総論としてはそうなのであるが、たとえ本人がそのように考えていたとしても、家族もそのように思っていたとしても、実際の「各論」になると、それはまた別の話だ。(略)

 

 

 

まして、最後まで頭がしっかりしているガン患者の場合は、自分で最後までいろいろ希望も言えるし意見も言える。それは基本的によきことだが、はっきり、しっかりしているからこそ、むずかしいこともある。

 

 

夫婦で決めた親の治療方針

 

二〇一五年六月に末期ガンで亡くなった夫と、わたしには、それなりの介護経験があった。二〇一三年にはわたしの父が亡くなり、二〇一四年には義理の母が亡くなった。双方とも認知症を患っていて、日々症状が進み……とここまで書き始めても、この「認知症」という言葉への違和感は大きい。

 

 

二〇〇五年くらいから、英語dementiaの訳が「痴呆症」だったのが、「認知症」になったのだ。「痴呆」とか「ボケ」とかいう言い方はあまりにもひどい、人権を侵害している、ということで、新しい名前が作り上げられ、認知障害と紛らわしいことこの上ないが、demenntiaの訳は「認知症」となったのだ。(略)

 

 

 

どちらにせよ、二人とも認知症であり、延命治療をするかどうか、という決定をしなければならない時には、全く口もきけず、わたしたちの言うことを理解できているようには見受けられず、身体を動かすこともできず、ほぼ寝たきりの状態であったから、わたしたち夫婦は「延命治療」についての方針をよく考えながら、ある意味わたしたちで「勝手に」進めることができた。今考えるとそう思う。

 

 

 

父の治療をやめるという決断

 

けっこう長くひとり暮らしをしていた父は、わたしの次男、すなわち父いとっては孫が、大学進学のため同居し始めた頃から、時計の中に虫がいる、電線が部屋まで引いてあって気になる、知らない女がベッドに座っている、と言い始め、介護保険のお世話になるようになってから約一年後、俳諧や、排泄場所がわからない、という問題が始まり、グループホームに入った。(略)

 

 

認知症の方が、骨折やら腸閉塞やら肺炎やらで入院すると、病院側も悪気はないのだが、治療をするのが病院の役目だから、治療を進めるため、うろうろしないように、身体を拘束する。

 

 

簡単に言えば、腰にベルトをしてベッドの縛り付け、点滴の管を抜いたりあいように、手にミトンをつける。いまどきのことだから、こういう身体拘束は病院側も勝手にはできず、本人か家族が承諾しなければ行えないが、治療してもらわなければならない身としては、身体拘束しないで下さい、などとは言えない。

 

 

いま書いていても本当にかわいそうだった、と思い、涙ぐんでしまうのだが、治療をする必要があるのだからいかんともしがたい。(略)

 

 

何度目かの誤嚥性肺炎で入院したころ、治療中の父はもうすでにほとんど目も覚まさなくなっていて、口からはなにも食べなくなっていた。点滴はしているが、点滴はあくまで点滴で、水分と生命維持が可能な最低限のカロリーを含んでいるに過ぎない。(略)

 

 

優良病院の先生と話し、看取りのために父を施設に戻すことにした。つまりは、夫とわたしは、夫が亡くなる約二年前、わたしの父のことで、「延命治療をしない」という決断をする機会を持つことになったわけだ。

 

 

食べられないし、飲めない状態になっていて、もう極端に痩せていて、とろとろとしていてほぼ反応のない父は、病院から水分補給の点滴をつけたままストレッチャーに乗せられ、介護タクシーで施設に戻る。小さな有料老人ホームだが、働いておられる方は施設長さん以下、とても穏やかな方ばかりで、「看取り」の経験もおありだという。(略)

 

 

点滴をはずして枯れるように逝った

 

(略)

若いドクターは、まだ点滴を受け続けている父を見ながら、わたしに穏やかに説明した。点滴を続けている限り、鼻水や痰が切れません。お父さんは、自分で痰を出すことができませんから、吸引の措置をしなければなりません。吸引は本人にとって苦しいことです。もう、点滴を取りませんか。

 

 

点滴を取ってしまう、ということは、文字どおり命綱を絶たれる、ということを意味する。有体に言えば「もう死んでもいい、仕方ない」ということを受け入れるということだ。とはいえ、この状態の父を今さら痰の吸引で苦しませたくない。

 

 

あの、とわたしはドクターに聞いた。でも点滴を抜いて水分補給をやめてしまったら、父は喉が渇いて苦しみませんか。渇きに苦しむなんて、あまりにかわいそうなことじゃないか、とわたしはやっぱり思う。

 

 

しかしドクターは、喉が渇いて苦しそうだったら、また考えましょう、でも、普通、この段階で渇きに苦しむことはない、ゆっくりと眠るように、身体から水が切れていくのだ、と言う。枯れるように死んで行く。そういうことらしい。

 

 

葬儀屋さんが、最近は遺体が重い、と言っている、という話はきいていた。最後の最後まで点滴で水分を補給している身体は、「重い」。以前は、亡くなった人は水分が切れて軽かったのだ。

 

 

 

点滴をはずした父は、少しも苦しそうではなかった。穏やかに眠り続けていた。わたしが話しかけてもほとんど反応はない。聴覚は最後まで残るというから、お父さん大好きだよ、ありがとう、と言いながら彼の大好きだった谷村新司さんの「昴」をイヤフォンで聴かせ続けた。

 

 

吉本ばななさんがお父さんの晩年、はちみつを口元に垂らしてあげたりしていた、とおっしゃっていたから、真似をして、はちみつをちょっぴりたらしたり、口元が乾かないように脱脂綿でふいたりした。

 

 

点滴を抜いて、つまりは一切水分をとらなくなると、七、一〇日くらいしか生きていられない。父を見舞いながら、来週の今頃は父はこの世にいないのか、と思うことは、ただ、ふわふわと現実味のない感覚だったことを思い出す。

 

 

父はなんにもほとんど反応せず、気づいたら呼吸をしていませんでした……、と言う亡くなり方をした。

 

 

夫とわたしは、ここで「点滴を止める」ということを学んだ、と言える。これは延命治療をしない、という具体例の一つである。わたしたちはそれが父の死期を早めた、とは思えず、父の死の尊厳を守った、と感じた。

 

 

この父の亡くなり方にについて、そして「点滴をはずすことに合意する」という自分たちがとった決断について、後悔はしなかった。やっぱり延命治療はしないほうがいい、としみじみとわたしたちは思ったのだ。

 

 

施設で眠るように逝った義母

 

父が亡くなった翌年、二〇一四年のこと、夫が亡くなる半年ほど前、長く認知症をわずらっていた義母も他界した。彼女は全く寝たきりになって、目を開けて話すこともなくなってからも、ずっと三度三度ご飯は食べていた。スプーンを口元に持っていくと口を開け、食べる。夫はそれが自分の母親との唯一のコミュニケーションと受け取り、元気なときは週に一度は義母のいる特別老人ホームに通い、ご飯を食べさせていたものだ。(略)

 

 

そうは言っても、亡くなる数か月前くらいから、義母はスプーンを口に持って行ってもほとんど口をあけなくなった。たまには食べるのだが、食事をとる量は目に見えて減っていった。

 

 

 

この施設からは、二〇一〇年を過ぎた頃だったか、「延命治療をしない」旨、「救急車はもう呼ばない」旨など、最後に病院に搬送したりせず施設で看取る、ということについての書類に、同意すれば、サインをしてほしい、と言われていた。

 

 

当初は、この書類の意味についてよくわからなかったのだが、これが「胃婁や経管栄養、不要な点滴などはしない、気管切開などをして呼吸を続けさせようとしない、もう医療行為はせず、静かに亡くなることを受け入れる、そして、それを訪問診療の医師のもと、施設で行う」ということを意味していることを、わたしたちも理解した。

 

 

 

病院ではなく、施設で「延命治療をせずに」看取ることが、プロセスとしてあちこちで進んでいるのである。

そして、義母は、食べなくなり、だんだん血圧が落ちて行って、ある日、夫とわたしが見守る中、鼻についていた酸素吸入器を施設の方がはずしてほどなく、あ、おかあさん、もう、息をしていないね、というふうに、まさに眠るように亡くなった。

 

 

「死ぬならガンがいい」

(略)

こういう経験があったものだから、夫もわたしも、「延命治療はしない」ということに、素人ながら、割と明確なイメージを持っていた。なんらかの理由で、食べ物が口に入らなくなってきたら、もうそこまでだ。そこで無理なことをしなければ、静かに、枯れるように、苦しむことなく死んでいける。

 

 

 

父と義母は、施設の助けもあって、実に見事に静かに死んで行った。親として、この時期にこの経験をわたしたちにさせてくれたことの意味は実に大きかった。だから、夫が「家で死にたい」と言うのも、だいたいそういうプロセスではないか、と、夫も私も、思うに至る。

 

 

わたしたち双方には、明確なこの「最後のイメージ」が残っていたのだ。しかし、もちろん生と死は当然、イメージどおりにいかない。(略)

 

 

父と義母は「認知症」であり、判断能力はない文字通り寝たきりの状態って、彼らに延命治療をするのかどうか、は、家族であるわたしたちに委ねられていた。(略)

 

 

だが夫はガンで死んだ。(略)

 

 

日本では二〇一五年に公開され、ジュリアン・ムーアの主演で話題になった「アリスのままで」は、大学教員である主人公が、若年性アルツハイマーをわずらい、症状が進んでいく様子を描いた映画である。

 

 

病気が進んでいくプロセスで、彼女は自分が若年性アルツハイマー病を患っていることをはっきりと知っている。だんだんものごとの辻褄が合わなくなり、意のままには行動できず、周囲も苛立っていることに気づいて「なぜこんな病気になってしまったの。ガンで死ぬのならよかった。ガンで死ぬなら、みんなに敬意を持たれたままで死んで行けるのに」というシーンがある。

 

 

おそらく、そのとおりである。ガンは、最後の段階まで、「ボケ」ることなく、意識が明晰で居られることが多く、だからこそ、少なからぬ臨床医が「死ぬならガンがいい」と言うのだ。

 

 

 

意識は明晰で、そして脳卒中心筋梗塞などのように後遺症が残ることもなく、死ぬまでの時間をだいたいであるが、予測できて、死ぬ準備ができる。だから死ぬならガンがいいのだ、と。この「意識の明晰さ」は、しかし、からだが弱っていく過程では、やはりかなりの混乱を引き起こす可能性がある。

 

 

 

意識がはっきりしているゆえの混乱

 

今思えば、あれは、中咽頭ガン頸部リンパ節転移の夫が亡くなる一五~一六日くらい前のことだったと思う。彼は病状が進んでも、ずっと家に、入院は考えていなかった。(略)

 

 

 

しかしこのとき一度だけ言い合いになった。彼は「胃婁をしたい」と自分で言い出したのである。中咽頭ガンが原発だから、だんだん、喉のとおりが辛くなって、食事をとることはおろか、水を飲むのも、薬を飲むのも、本当につらそうになってきていた。(略)

 

 

訪問診療の彼の担当医と、三人で延命治療について以前に話したことがあった。胃婁も経管栄養も望んでいない、という彼に、ドクターは、「首のガンの場合、胃婁をして元気になる人もいますよ。食べられなくなるんだから、胃婁にすれば栄養もとれるし、胃婁をつけて講演活動を続けた、という方もおられるくらいですよ」という話をなさった。彼は、それを覚えていたのだ。「こんなに食べるのがつらいんだったら、胃婁にしたい」と言う。

 

 

 

私はちょっと狼狽した。胃婁にして長く生きられるのなら、そのほうがいい、と思うような、いや、もうこれだけ痩せてつらそうにしているのに胃婁にして何をいったいどうするんだ、というような混乱した思い。

 

 

こういうふうに、混乱しないように、もともと「延命治療はしない」という方針を立てていたのではなかったか。いや、しかしながら、「方針」などという堅い言葉は、職場としての医療福祉環境では使えるが、普段の生活にはやはり馴染まない。

 

 

「胃婁をしたい」という彼に、「延命はしない、という方針だったよね」とつぶやいたわたしに、彼は激怒した。「そんなにいやなら病院に行く。入院させてくれ」と。(略)

 

ドクターに「胃婁をしたいと言っています。以前、先生に胃婁にして元気になったガン患者さんのことを聞いたからでしょうか」と言うと「すがってるんですね、それに」とおっしゃる。本人から、ドクターに直接、胃婁にしたい、という希望を伝えてもらったが、答えは、非常に明瞭で「もう遅いです」ということだった。本人はかなり弱っていて、もう、胃婁の処置に耐えられないだろう、というのだ。その代わり、ドクターは九〇〇ミリリットルの経管栄養(高カロリー輸液)ならつけられる、そして、そうすれば、もう、口から飲んだり食べたりしなくてもよくなる、薬も全てパッチにすることができる、と彼に伝えた。(略)

 

 

 

夫は、口から物を入れなくなったことで、苦しみが減り、また脱水症状も改善されたので、穏やかに過ごすことができた。「延命治療」と一口っても、認知症の場合と、意識のはっきりしている病気の場合とは事情が異なる。本人の意思をはっきり示せるときは、そう簡単には決断ができないこと、それぞれのケースでその場の苦しみが減るように対応することについて、ドクターの明確なアドバイスも必要であることを学ぶことになった。

 

 

最後の日々に口ずさんだ歌

 

経管栄養にして、穏やかになったある日、夫は歌を歌いはじめた。この人は団塊の世代ど真ん中の人だから、まあ、普通にビートルズ井上陽水を聴いていたし、藤圭子や西田佐知子も好きだったし、石原裕次郎なんかも好きだった。

 

 

しかし、本当に最後の最後の日々、彼が、こんな歌を思い出すんだよなあ、と歌い始めた歌は、「わたしのラバさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」と、「一ノ谷の戰破れ討たれし平家の公達哀れ」の二つであった。(略)

 

 

調べて見ると「わたしのラバさん…」は一九三〇年ごろヒットした、ミクロネシアに移住した日本人をモチーフにした演歌師の歌らしい。(略」)

 

 

〇 「わたしのラバさん……」は、わたしもよく知っています。何故知っているのかはわかりませんが…。「一の谷…」は知りません。

 

延命治療をしないとか、いざとなっても、救急車を呼ばない、と決めていても、実際にそうなってしまったら、なかなかそうは出来ない…という話はよく聞きます。

 

そして、親の介護や死から、たくさんのことを学ぶことが出来た、というのは、私も同感です。私の実父は、私の兄弟家族が最後を看取ってくれたのですが、父は自分の最後を覚った時に、家族に、人が死ぬということがどういうことなのか、しっかり見ておけというようなことを言ったそうです。私はこの話を聞いて、少し救われたような気もちになりました。

 

父は、自分の死を受け入れて死んだのだと…。