読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

天皇の反面教師 —— ウィルヘルム二世

 

一方、天皇が何に基づいてこのような行動を取られたか、これは謎として残る。というのは天皇に「敗戦教育」をした人間はいないし、いるわけがない。戦前の日本で天皇に「無条件降伏の際はこのように行動されますように……」などと天皇に教育出来るわけがないからである。(略)

 

 

しいてその「教育例」をあげるとすれば、杉浦の「倫理御進講草案」の「前ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の事」であろう。これを読むと、ウィルヘルム二世は生涯を通じて天皇の「反面教師」であったように思われる。これは人物評としても大変に面白いので、次にそのほぼ全文を引用したいと思う(原文の国名の漢字表記をカタカナに改む)。

 

 

「最近における世界の大戦乱は、列国の形勢を一変したるのみならず、各国民の思想その他においても一代変化を与えたる稀有の事件なり。たとえばロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリア等の諸帝国は崩壊したるのみならず、崩壊後に創立せられたる共和政府も、果たして確立し得べきや否やも疑問なり。

 

 

また諸国民の思想も、富の分配に関する経済上の問題、および平等自由の政治的問題に関して動揺しつつあるなり。かかる点より観察すれば、最近の大戦乱は、実に全世界に不安と苦難とを与えたるものというべし。

 

 

さてこの大戦乱は、何が故に破裂したるかは、外交上その他種々の関係によるものなることもちろんなり。しかし、戦乱を惹起したる中心的人物を求むれば、何人も、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世を以てその人となさざるなし。

 

 

ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、そもそも如何の人ぞ。これに関しては世上すでに種々の評論あり。いまさらに言うべきものなしといえども、近ごろ偶然にも一書を手にするを得たり。この書は「世界戦乱に関して」と題し、全オーストリア=ハンガリア帝国外務大臣ツェルニン伯の著にかかれり。いまこの書を読みて感ずる所あるが故に、一言、申し述べんとす」

 

 

とあって、次にこの本がどのようにして日本に送られてきたかが記されている。杉浦にこれを贈呈したのは穂積陳重(明治・大正期の法学者)で、おそらく「反面教師」としてぜひ、若き裕仁親王に講義するようにとあったらしいが、そのあたりは省略されて明らかではない。杉浦はつづける。

 

 

「該書中、前ドイツ皇帝ウィルヘルム二世に関する論評あり。先ずその要点数条を左に抜粋す。

 

(一) 各個人は門地、教育、経験の産物なり。ウィルヘルム二世を判断するにつけても、帝が少年時代より成人に至るまで、常に欺かれ、決して存在せざる社会をのみ示されたるものなることを、先ず念頭に置かざるべからず。云々。

 

 

(二) 予は、ドイツ皇帝よりも更にまさりて善意を有する王者の存するを思わず。帝は己が観じたる天職のために生存したるなり。すべての考慮、希望はことごとくドイツに集注せられたり。帝の愉快、娯楽はすべてドイツ国民を偉大に、かつ幸福になさんとする唯一の理想に随うのみ。もし単に善意にして大事を為し得るものとせば、帝はこれを成し得たるならん。云々。

 

(三) 帝は決して自身の行動の真実の結果を知り給わざりき。帝は実に親近者のみならず、すべてのドイツ国民に依りて誤り導かれたるなり。

 

(四) 帝王は実生活の学校における訓練を欠く。故に人情の見積もりを誤るを常とす。

 

(五) 予の知れる範囲にては、皇帝に対して率直に談話するの習慣を有したる大将一人あり。これをアルヴィス・ションブルグとなす。

 

(六) 帝が生活せられたる空気は、最も健全なる植物をも枯死せしめたるならん。帝の言行は、善悪いずれにもせよ、直ちに熱心なる称讃を博し得たり。空中にまで帝を称揚する人物の一ダースほどは、常に手近に居りたり。

 

(七) もし帝の行為の悪果を、帝に対して明言し、世界を通じて帝への不信の増加しつつあることを知らしむる人物ありしならば、すなわち、かかる人物一、二人ならずして、十数人ありたるならんには、必ず帝に反省を促し得たるならん。

 

(八) 帝は全く親切にして、かつ善良なる人物なり。善事を為し得る以て真実の愉快となし、敵をすら憎むことを為さざりき」

 

 

以上について、ツエルニン伯は事実を挙げて詳細に論じていると彼はつづける。ここに記されているウィルヘルム二世は、当時一般に持たれて

いた印象と非常に違う。(略)

彼は大野心家で、第一次世界大戦は、彼が勃発させたと見るのが普通だからである。ついで杉浦は「次に所感を述べんとす」としてつづける。

 

 

「ドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、鋭敏にして才略あり、天性また善良人物たりしこと、宗教的には信仰あり、倫理的には道徳あり、一代の明君たるべき素質を有せられたること明瞭なるに、四囲の空気不健全なるがため、ついに国を誤り、身を誤るに至りたるなりというは、ツェルニン伯所論の大要なり。

 

 

王者は常に深宮にあるが故に、ややもすれば世の実情に通ぜず。これ古今東西の歴史において常にしかる所なり。故に歳月を経るに随いて、その明智もまた陰翳を生ぜんとするの恐れあり。故に古来明君の為す所はよく直言を納れ、よく諫を聴くを怠らざりしなり。(中略)

 

 

もしそれ王者が一々自己の言行を称讃せられ、意満ち心傲るに至りては、その人必ず眜し。古のいわゆる暗君は、おおむねみな、かくの如し。(略)

その他秦二世皇帝の如きは日々趙高の甘言を喜びて、人心の離反を知らず、天下の大乱を知らず、これまた、たちまち滅亡す。

 

同じドイツにおいても、ウィルヘルム一世はよく人を知るの明あり。ビスマルクモルトケのニ大人物を任用して、以てドイツ帝国創建の大業を完成したり。ビスマルクの如きは忠君愛国の念旺盛なれども、ウィルヘルム一世に対しては、往々顔を犯し(恐れることなく、諫めること)、理のある所を直言するの雑事をあえてしたりき。

 

 

ウィルヘルム二世は、即位前よりビスマルクと相善からず、これを以て帝の位に登るや、久しからずして、老宰相は職を辞したりき。帝はビスマルクに代わるべきほどの大人物を用いることなく、かえってルウデンドルフら一派の人々を重用し、多くは万事を自ら処決したりしなり。

 

 

しかして忠言を聞くことを喜ばず、以て一身と国家との破滅を招くに至れるは惜しむべきなり。いかに鋭敏にして才幹勝りたるにもせよ、かくの如きは王者の道より見て、以て大なりとすべからず。これらの問題に関しては、かつて鏡、納諫(諫言を受け容れること)、明智、任賢等の諸項(「倫理御進講」の項目)において、幾たびか繰り返して申し述べたる所なり。

 

 

 

ことに欧州諸国の歴史は、王権と民権の争い、換言すれば圧制と自由との争いを以て、数百年を一貫せるものなり。故にロシアのロマノフ王朝が倒壊するにあたりても、十数万の貴族中、一人として起って、王事に身命を捧げたるもの無きなり。

 

 

ドイツはロシアよりもさらに強固たる国家なりしも、ウィルヘルム皇帝倒るるにあたりて、また猛然として死力を致したるものあるを聞かず。これ一半は歴史の自ずから然らしむる所なるも、また一半は皇帝および上流諸士の自ら招く所の禍なりというべし……」」

 

〇 今の私たちの国の状況と重ねて考えてしまいます。

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「五章「捕虜の長」としての天皇 = 敗戦、そのときの身の処し方と退位問題

 

天皇マッカーサーの単独会見

 

天皇は、天皇家の神祇を実にまじめに実施されている。これは「大宝律令」以来、天皇神祇官太政官の長であるという伝統に基づくものだが、この場合の天皇もあくまでも「祀る人」であって「祀られる対象」ではない。このことを杉浦は「大宝令」の章で述べている。

 

 

だがそれがそのまま現代に継続したのでなく、武家政治で中断され、更新された天皇制は「五箇条の御誓文」にはじまる。これは「倫理御進講草案」の「五箇条の御誓文」に引用されている「明治元年三月十四日の御宸翰(ごしんかん)」の中に「朕自ら身骨を労し心志を苦しめ艱難の先に立ち」という言葉があるが、前記の詔書は、天皇がまずマッカーサーとの単独会見という少々驚くべきことを実行された後に公布されたことは、注意すべきであろう。(略)

 

 

戦後の天皇の処置についての二十年六月二十九日のギャラップの世論調査では、

「処刑せよ 33%、 裁判にかけよ 17%、 終身刑 11%、 国外追放 9%、 そのまま存続 4%、 操り人形に利用 3%、 無回答 23%」

であり、この「無回答」も絶対に好意的無回答ではあるまい。処刑から追放までが実に七〇パーセントである。「人気」を気にするマッカーサーが、この世論を完全に無視することはむずかしい。

 

 

「「骨のズイまでも揺り動か」されたマッカーサー

 

このマッカーサーを、天皇終戦の年の九月二十七日に訪問し、会談された。まことに、「艱難の先に立ち」だが、その内容は明らかにされていない。というのは「天皇マッカーサー会談」は、今後とも一切外部に漏らさない、という約束の下に行われたからである。(略)

 

 

 

天皇はこの約束を実に生真面目に実行された。後に(昭和五十二年八月二十三日)、記者会見でこの会談について質問されたいるが、

 

マッカーサー司令官と当時、内容は外に洩らさないと約束しました。男子の一言であり、世界に信頼を失う事にもなるので話せません」

と答えておられる。また側近の中にも、その内容を「漏れ承った」者はいない。

天皇は生涯この約束を守られ、一言も言われなかったが、マッカーサーの方は必ずしも約束を守っていない。そのため、内容が察知できるのは、彼のリークだけだが、日本側にも全くないわけではない。それは藤田侍従長のメモである。(略)

 

 

 

マッカーサーはまず、天皇が非常に憔悴して落着きがなかったと記しているが、これは事実であろう。当時は、私はまだ、フィリピンの収容所にいたので何も知らなかったが、帰国後に、終戦後にニュース映画や写真などで天皇を見た人たちが「憔悴しきっておられ、痛々しくて見ておられなかった」と語るのを聞いたからである。(略)

 

 

天皇の禁酒・禁煙、さらにこの時出されたコーヒーにも手をつけられなかったことからも、そう思わざるを得ない。ただ以下の記述はおおむね信頼できる。

 

 

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇戦争犯罪者に含めろという声がかなり強く挙がっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。

 

 

 

ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政を布かねばならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。結局、天皇の名は、リストから外されたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

 

 

しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

 

 

「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためおたずねした」

 

 

私は大きな感動に揺すぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」(略)

 

 

いわば天皇の要請は、戦犯裁判を自分一人に留めることによる実質的な中止と、国民の食糧難の解決の二点なのだが、この点は、マッカーサーの要約で少々ぼかされている。ただマッカーサーの雑談の中には「天皇はこう言った。自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ、と」というのがあり、これらの点では藤田侍従長の記述の方が正確であろう。

 

 

「私を絞首刑にしてかまわない」

 

少々不思議なことは、これに対してマッカーサーがどう答えたかの記録が全くないことである。(略)彼は自己顕示欲が強いから、それに対してどう言ったかを劇的な”名文”で記すのが普通であり、「回想記」には劇的な場面に必ずと言ってよいほどにそれが出てくる。それがないのはおそらく、この時のマッカーサーの最大の関心事は、この天皇の言葉が洩れないことであったからであろう。

 

 

 

というのは、もしアメリカの新聞に「ヒロヒト、戦犯第一号としてマッカーサーに自首 — 全責任は私に」という見出しが躍ったら、前記のギャラップの世論調査から見て、彼にも収拾できない事態を招来すると感じたのであろう。(略)

 

 

天皇の第一の目的が、戦犯裁判には自分一人が法廷に立てばそれで十分のはず、と言いに来たことは明らかである。というのは終戦後間もない八月二十九日の「木戸日記」に、

 

「戦争責任者を連合国に引渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」

というお言葉がある。この「退位でもして」は相当幅の広い意味であろうが、天皇マッカーサーへのお言葉はこの延長線上で考えるべきであろう。

 

 

 

なおマッカーサーのリークの中で、ある程度信頼できるのは、半藤一利氏が記されているヴァイニング夫人の記述であろう。次に引用させていただく(前出の論文より。70ページ参照)。

 

 

 

「ヴァイニングは十二月七日の項で、マッカーサーが語ったという会談の”一問一答”をこう記述した。(わかりやすく書くと)

 

元帥  戦争責任をお取りになるか。

天皇  その質問に答える前に、私の方から話をしたい。

元帥  どうぞ。お話しなさい。

天皇  あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け容れる。私を絞首刑にしてかまわない。

―― 原文では、”You may hang me" と記載されているという」

 

 

 

(略)

では天皇に何かの計算があったのであろうか。何もなかったであろう。マッカーサーはこれに「骨のズイまでも揺り動か」されたと記しているが、同時に困惑もしたであろう。というのは、彼は「よろしい、その通りにしよう」とも言えないし、「断る。あなたを起訴しないが、日本国民の飢餓に私は責任を持たない」とも言えないからである。

まことに、捨身の相手は扱いに困るとも感じたであろう。彼の応答が記されていないのは不思議ではない。(略)

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「明治における「神代史」研究の状況

 

では「明治時代の合理的説明」ではどうであったか。白鳥博士はまず次のように記されている。

「明治の代になって、西洋の文物が輸入せられ、国家の文運は各方面において全く面目を一新するほどに発展を遂げたのであるが、言語の学問は、ほとんど停滞して何ら進歩の成績を見ない。したがって神代史の研究なども、徳川時代ありさまで、別に新しい意見が発表せられなかった」

 

 

この記述は、明治初年の一面を表わしている。外人教師に日本の歴史についてたずねられた学生が「日本には歴史などありません」と答えて相手を驚かせた時代である。これとよく似た一時期が戦争直後にもあったが、明治にも過去を消して未来だけを見ようとする一面があった。(略)

 

 

 

当時は「言語学」や「神話学」などは「閑学問」で、そんなものは後回しで、ひたすらヨーロッパに追いつくのが学問の任務のように考えられていた。

 

新井白石を一歩も出ずに、ただ安直に「合理的に解釈しよう」とすればどうなるか。それは「神代史の神とは人である。人であるから歴史である」という解釈になる。これはまことにおかしな話で「アダムとエバは人であるから創世記は歴史書である」というようなもの。(略)

 

 

「神代史が普通の歴史物語のように解釈されて、この現世の上に出来た出来事を、比喩的に書き綴ったものと考えられたから、日本人種も単純なものでなく、土着の出雲系の民族と、外国から進入してきた異民族とが存在し、今日の日本人はその混合融和した複雑なものと思われるようになった。

 

 

それとともに、神代史の上に活動している神々は、無論、普通の人間と解せられたから、神典の中で至高の神と記されてある天照大神でさえ、後世の天皇の如き人間と見做されたのである。

 

 

それで、もしもこの神を天ツ神と見る時は大不敬事と思惟せられることになった。何となれば、これを神と見ればそれは思想上の話になって、事実虚空のものになるからと信じられたからである。この見解は今日においても大なる勢力を有している」

 

 

「今日」とは博士が講義をされた昭和三年のことである。まことに面白いことに、この時点ではまだ「皇国史観」は出現しておらず、天照大神を「人」と見なければ不敬罪になりかねない状態であった。そしてこれを「裏返し」にして天照大神を天ツ神とすると、天皇もまた「現人神」になってしまう。

こうなったのは結局、明治における「徳川時代的で神話学抜きの一見合理的な解釈」が基本となっているであろう。

 

 

「しかるに近年になって、ようやく神話は神話であって歴史でないという事が了解せられてきたので、我国の神話も他国の神話と同様に取り扱われて研究せられるようになってきた。

 

 

それで追々と新しい意見が提出せられて、従来の合理的解釈とされたものが排斥せられるようになってきたのは、実に斯界の一歩として慶賀すべきことである」

と記されて「神代史に関する古来諸家の解釈」は終わっている。(略)」

 

 

白鳥博士は、信念のままに御進講出来たか

 

(略)

そこで第二の問題、すなわちそれを何の妨害も掣肘もなく裕仁親王すなわち後の昭和天皇に講義できたのであろうか、という問題が残る。(略)明治以降の日本が、全期間を通じて昭和十年代と同じであったと考えてはならない。

 

 

ただ乃木(希典)大将が学習院長になったとき、白鳥博士は少々心配であったらしく、ある種の了解を求めた。これは前記の「小伝」の筆者石田幹之介氏の話である。

 

 

「(略)乃木さんに神話と歴史的事実は別のものであるということを篤と生徒に話したいと思うけれども、了解しておいてもらいたいということを言ったら、乃木さんはまことにもっともだ、神話は神話で歴史事実は歴史事実だ、ということで――ちょっとみるとそういうこととは反対のようにも思われるんだけれども、よく了解してくれた、ということを私にお話しになったんですがね。(略)

 

 

ことに御学問所に行かれるようになりましてから、皇太子様にはうそのことは申し上げられない。だから神話は神話だ、それから本当の歴史事実はこういうことだ、ということを申し上げるのだ。それは私は俯仰天地に恥じないということを言っておられたと思いますがね」

            (「東方学報」第四十四輯)

 

(略)

 

 

ただこのことは、彼が神話を無視したということではなく、「神話は神話として」教えたということである。(略)

 

「(略)

神代の巻は神の話であって、これは我々の祖先が皇室に対して如何なる考えを有していたか、その信念思想の現われであります」」

 

天皇は、その講義にどう反応されたか

 

こういう教育に対して、東宮御学問所の教職員のすべてが賛意を表したか否かは明らかではない。だが、問題はそこにはない。要はこの教育に対して天皇がどう反応されたかである。(略)

 

 

というのは、それが天皇であろうとなかろうと、生物学者で歴史に深い関心を持っている人に、「神代史」を「神話でなく歴史だ」と信じさせることが出来るであろうか、という問題になるからである。(略)

 

 

天照大神から四代目の彦火火出見尊が兄の釣針を失い、これを探しに海底に下り、海神の娘豊玉姫と結婚し、三年逗留する。しかし望郷の念に耐えがたく、妻の豊玉姫とその妹の玉依姫を連れて陸地に帰る。豊玉姫は妊娠しており、海辺に上ると産気づいたので産屋を造り籠もる。

 

 

そして出産が終わるまで中を見ないように言うのだが彦火火出見尊は密かに見てしまう。すると出産の時豊玉姫は鰐になっていた。見られたと知った豊玉姫は、生まれた子と妹の玉依姫を残して海にもどり、海への道を閉ざしてしまう。このようにして生まれた子が彦波瀲武鸕ガ草葺不合尊で、やがて長じて叔母の玉依姫を妻として、生まれたのが神日本磐余彦、すなわち神武天皇である。

 

 

以上に要約した神話は、神話としては大変に面白いし、神話学的にはさまざまな問題を提起するであろう。しかし「日本産一親属一新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ中類の検討」を公刊された生物学者天皇が、これを歴史的事実だと信じていると思う人がいれば、私はその人の頭脳を疑わざるを得ない。

 

 

もちろん神話は無価値なものではないが、それは歴史ではない。天皇が歴史に関心を持たれたのは、もちろん、これを神話と峻別された白鳥博士の教育によるであろう。

 

 

 

そして「朕と爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、始終相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」は、いつかはっきりと言っておきたい天皇の自己規定であったであろう。事実、上記の神武天皇の出生神話が、天皇と国民との紐帯になるとは、考えられないからである。これが明確に出てくるのがポツダム宣言受諾のときである。

 

 

 

敗戦国に待ち受ける皇室の運命

 

だがそれに進む前に、天皇東宮御学問所で学ばれている間に起こった第一次大戦終結を振り返ってみよう。まず大正六年、ドイツ降伏前に敗北同様になったロシアのロマノフ王朝が倒れ、ついで翌七年、オーストリア・ハンガリア帝国が降伏、トルコ帝国降伏、そしてついにドイツ帝国の降伏となる。

 

 

降伏は同時に王朝の滅亡であり、国王は退位・亡命あるいは虐殺という運命に陥った。無条件克服をしてなお存続した王朝のないことを、歴史に深い関心をもっていた天皇が知らないわけではなかった。

 

 

 

「自分は、この時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだろうか。かくの如き場合が到来した時には、総理(近衛)も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」

      (「西園寺公と政局」)

前にも記したが、昭和十五年九月十六日、独伊との三国同盟締結が閣議で決定されたとき、これを奏上に来た近衛首相についてのお言葉である。近衛の説明ではこれでアメリカが抑制できるということであったが、天皇はこの言葉をあまり信用されず、逆に対米開戦になるのではないか、そうなれば敗戦必至ではないかと憂慮されたときのお言葉である。

 

 

近衛の見通しは甘く、天皇の見通しの方が正しかったわけだが、もしそうなったときどうすべきか、すでに覚悟を定めておられたのかもしれない。(略)

 

 

日本政府は「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を八月十日連合国通告、十二日に回答が届いたが、その中に「日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき」という一文があり、軍部は天皇制廃止、共和制誘導の意思があると強く反対したが、天皇は次のように言われた。

 

「それでも少しも差し支えないではないか。たとい連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしょうがない。人民の自由意志にて決めて貰って少しも差し支えないと思う」

     (「木戸幸一関係文書 —— 日記に関する覚書」)

 

 

 

国民との紐帯がなくなれば、ドイツやトルコのように消えてしまう。このことは前記の詔勅にも新憲法にも現れているが、これは若き日に経験された第一次大戦の結末に影響されているのであろう。(略)

 

 

終戦の時、天皇は白村江の敗戦(六六三年、百済救済に向かった日本軍が、唐・新羅の連合軍に惨敗を喫した海戦)のことを口にされているが、この敗戦について白鳥博士からどのような教育を受けられたかは「戦捷を誇る勿れ」という、日露戦争後の博士の講演を読むとほぼ想像がつく。

 

 

この講演の中で博士は、「我国はこれまでの学校に用いられる教科書を始めとして、その他種々の書籍などを見るに、我国の勝利だけ記載して、敗北した事は一つも書いてない」と批判されている。白村江の敗戦

実は、戦前の国定教科書には載っていない。終戦後すぐ天皇がこれを口にされたのは、文部省管轄でない、白鳥博士の別の教育を受けておられたからであろう。」

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「白鳥博士は「神代史」をどう解釈したか

 

さてここで問題になるのはまず第一に、白鳥博士がどのような歴史観を持ち、日本の「神代史」をどう解釈されたかであり、第二は、それを何の妨害も掣肘もなく、裕仁親王すなわち後の昭和天皇に教えたか否か、という問題である。

 

 

これらの問題で、少々わかり難いのは、まず第一の点では、杉浦重剛の倫理の場合のような「歴史御進講草案」といったものが残っていないからである。「白鳥庫吉全集」末尾の「著作目録」を見ても、「未発表原稿」の中にさえ、それらしきものを見出すことはできない。

 

 

さらに、そのほかの博士の論文は内外の学術専門雑誌に発表されたものがほとんどであり、その全部を通読した上で、「白鳥史観」ともいうべきものを把握することは容易ではない。(略)

 

 

少々余談になるが、白鳥博士がヨーロッパに留学されたころが、大体、聖書への高等批評(ハイヤー・クリティーク)がはじまる時期である。いわばヨーロッパは自らの聖典に自らメスを加える時期に来ていた。

 

 

こういった当時の学問の傾向は、白鳥博士に強い影響を与えたのではないかと思う。

というのは、聖書にメスを加えて、資料別にばらばらにして研究するということ、さらにそれがエジプトやバビロニアから何を借用し、またどういう影響を受けて成立したかを徹底的に研究することは、別に、聖書が西欧の精神史において実に貴重な役割を演じていることを否定しているわけではない。

 

 

この考え方は、白鳥・津田両博士に共通している。しかし、こういう考え方への抵抗が西欧にも日本にもあったことは、また、否定し得ない事実である。

 

 

 

「神代史」研究に国学者が果たした役割

 

白鳥博士には「皇道について」という古めかしい題の未発表原稿があり、その中に次のようにある。

「すべて国に道のあり教のあるのは、あたかも人に精神のあるのと同様なことで、国家存立の上に片時も相離れることは出来ませぬ。支那儒教があり、印度に仏教があり、西洋に耶蘇教があります如くに、皇国にもまた固有の道がなくてはなりませぬ」

 

 

として、その中心は天皇だから、

「これを天皇教と称しても差し支えはないのであります」と。

 

 

だが、そのすぐ次に、

「神代史とはその文字の示す如くに、神々の記述であります。「日本書紀」には、特にこの巻を神代史と題してあります。しかるに従来の学者がこれを弁えないで、この巻を普通の歴史と心得ていたのは、大いなる謬見と言わねばなりませぬ。

 

 

もしもこれを普通の歴史と見做す時は、その全篇は、ことごとく不可解のものとなってしまうのでありますが、これを上代人の信仰、信念と考えるときは、そこに何らの矛盾もなく、また何らの不思議もないのであります」

 

とも記している。この二つは白鳥博士にとって何の矛盾もない。もっとも前の記述を「天皇は国民統合の象徴」と言い改めれば、表現が古いというだけで、別に戦後と変わりはないとも言えよう。(略)

 

 

白鳥博士は「国学は本居(宣長)氏によりて、ほとんど絶頂まで登り込められて、もはや、その上に出ことは出来ない」とされ、さらにこれをシナ・インドに広げ「これを神典に引きつけて説明するのに努めた」

 

 

平田篤胤は、国学には裨益(貢献)した点があるかもしれないが、「その結論にいたっては、ほとんど児戯に属するもので、何ら価値のないものになってしまった」とされる。

 

 

いわば国学は、宣長の業績をもって終わったのであり、もはや「神代史の新研究」に資するところは全くないと断定される。」

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「四章 天皇の教師たち(Ⅱ)  =歴史担当・白鳥博士の「神代史」観とその影響

 

天皇は、神話や皇国史観をどう考えられたか

 

アメリカ人が「日本人は天皇をGodと信じ、このGodが戦争の開始を命じたから戦争をし、停止を命じたからやめた」と信ずるのは彼らの自由である。説明すべきことをことごとく説明してもなお彼らがそう信じるなら、そう「信ずることを止めよ」という権利は誰にもない。また、これに同調する日本人がいても別に不思議ではない。外国人の日本観を金科玉条とする日本人は、昔からいたからである。いまそのことを採り上げようとは思わない。(略)」

 

〇 私は特別「外国人の日本観を金科玉条としよう」と思ったことはないのですが、でも、私もずっとそう信じていました。「日本人は天皇を神と信じたから戦争に行き、死ぬことを受け容れて死んで行ったのだ」と。

 

ドラマなどで、「天皇陛下バンザイ」と言って死んで行った…と聞き、天皇陛下と口にする時は、誰もが姿勢を正し、畏まって口にする態度などを見て、天皇に命じられたら、例えそれがどれほど理不尽な事でも、理不尽だとは、感じなくなったのだろうと思っていました。ちょうど、あのイスラムのテロリストが、平気で自爆テロをするように、天皇の命令=聖戦だと思うからこそ、それが出来たのだと。

 

でも、この本を読んで(実はもう最後まで読み終わりました。メモは、なかなか

進まず、少しずつになってしまいますが…)本来の天皇制と、一般庶民の感覚の間には、かなり大きな隔たりがある、と感じました。

 

そのギャップを利用し、庶民の「単純な感覚」を上手く誘導し、戦意高揚に利用しようとした人々が、「天皇は神」という空気を作ったのだろうと、今は思います。でも、それにしても、私は天皇をどう考えればよいのか、正直よくわかっていません。よくわからないまま、この本を読んで、少しその取っ掛かりが、出来たと感じました。

 

「だが問題は天皇ご自身が自らをどう規定していたか、である。天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を使っておられるが、「現人神」はもちろん「現御神として」という言葉も、いくら探しても発見できない。一体、天皇は、日本の神話や皇国史観歴史認識をどう考えていたのであろうか。(略)

 

 

次に神話が出てくるのが第二学年二学期の「御即位式大嘗祭」だが、この中で、時々さまざまな形で取り上げられる「大嘗祭」への杉浦の説明は、ごく簡単で次の通りである。

 

「……御即位の大礼に引き続き行わせらるる大嘗祭は、新帝即位後、始めて新穀を天祖および天神地祇(天の神と地の神)に供え給い、かつ親らも聞し食す所の大祭にして、天皇御一代に一度行わせらるる重大の神事なり」と。

 

 

そして次に、明治四年にこれが行なわれたとき神祇官が上奏した文書が掲載されている。これによると、昔は毎年、新穀が出来るたびに行っていたが、天武天皇のころから、

「毎歳の大儀を省き、全くの式は践祚の大祀を以てす」

となっている。(略)

 

 

ただ今回の維新に当たり、

「……衰頽修飾の虚礼を改め、隆盛純粋の本義に復し」

で、一代一回のみとする旨定められたとあり、その祭りの由来は、瓊瓊杵尊天孫降臨のとき、

「神器を賜り、かつ稲穂を与えさせ給いて」

の結果であるとする。杉浦の言い方はあくまで稲作民族の農業祭で、次のように記す。

 

 

天孫稲穂を携え来たり、これを播種して以て国家万民の食物を供給し給えり。我国において米の尊き事即ち言わずして知るべきなり。かるが故に、天皇新たに御登極の上は悠紀主基(新穀を備える東西の祭殿)の田を定め、ことに神聖に作り上げたる米を以て天祖および諸神を祭らせ給う。これ実に天祖より封ぜられたる日本国を統御せらるるにおいて、まず大祭を行ないて天職を明らかにし、同時に、政を統べさせ給うことの責任をも明らかにし給うの意義なり」と。

 

 

簡単に言えばオカルト的な要素は全くないと言ってよい。

この場合の天皇は祭主であり、祀る側であっても祀られる側ではない。(略)

後年、天皇は、新聞記者の質問に答えて、購入する本は「生物学と歴史」と答えておられる。生物学に生涯御関心を持たれたことはよく知られたことだが、この時のお答えから拝察すれば、研究成果は何も公表されていないとはいえ、歴史にも深い関心を持ちつづけられたと言ってよいであろう。

 

 

となると、他からの見方はさて措き、天皇御自身が「神代史」をどう解釈されておられたかは、きわめて重要な問題である。こうなると、歴史学において、生物学においける服部広太郎博士の位置にいた白鳥庫吉博士の「歴史観」は、きわめて重要な問題を提起する。

 

 

日本に「歴史学」は存在しなかった

 

白鳥庫吉全集の末尾にある「小伝」によれば、氏は慶応元年(一八六五年)千葉県に生まれ、明治二十三年(一八九〇年)帝国大学文科大学史学科を卒業、ただちに学習院教授に任じられている。卒業と同時に教授任命とは、いかに明治の草創期とはいえ少々不思議な気がするが、ここではまず、白鳥博士自らの記す「学習院に於ける史学科の沿革」を少し引用しよう。

 

 

 

「私の若い頃には今日のような小学校はなくて、私は寺子屋で勉強したのでした。もちろん私は寺子屋で歴史を習いはしませんでした。……八、九歳のとき小学校に進んだのでしたが、そこでも歴史科はありません。私が歴史と言い得るものに接したのは、やっと中学に入ってからです。ですから、私は結局 ”日本における歴史の歴史”を述べることになります」

 

と言った書き出しで始まるこの短い文章で、白鳥博士はきわめて重要な指摘をしている。それは日本には「歴史学」という学問はなく、中国史は漢学の付属物、日本史は国学の付属物であったという指摘である。(略)

 

 

「日本には歴史学はなかった」と要約できる白鳥博士の指摘は重要である。私が教育を受けた昭和のはじめは、もちろん明治の前半期と同じとはいえないが、日本史は国学の付属物、中国史は漢文の付属物といった状態がなお尾を引いていたといえる。

 

 

戦前の日本では「神話を歴史として教えた」という言葉は必ずしも正しくなく、「国学の付属物」のように扱われたと言うべきであろう。無理もない。白鳥博士はつづけられる。

「明治二十年、文科大学(帝国大学)には始めて歴史科なる独立した科が設けられ、講師としてドイツの学士であるルドヴィヒ・リース氏が迎えられて、私は最初の史学科の学生として入学しました」

 

 

氏がなぜ、卒業と同時に学習院教授に迎えられたかは、これで理解できる。簡単にいえば近代的な歴史学を学んだものは、他にいなかったからである。(略)

 

 

 

そしてこの白鳥博士の学統を継承されたのが津田左右吉博士だが、この問題については後述しよう。ただ昭和十七年、第二審で免訴となったとはいえ「出版法違反」で第一審で有罪判決を受けた津田博士と天皇が、ともに白鳥博士の弟子であったのは、興味深い。

 

 

 

日本で最初の「歴史学」教授

 

(略)

つづく白鳥博士の記述を読むと、当時の学習院は、新しいエリートを教育するため、新しい教育の先端を切っていたらしい。そして面白いことに、そのカリキュラムは特別で「文部省管轄学校」とは無関係であった。これは当時としては、当然のことであったかもしれない。というのは文部省の方は「文盲一掃」的な義務教育に主力を注がねばならぬ時代であったからである。(略)

 

 

ただ教授に任命されて白鳥博士がなんとしても困ったことは、日本史も東洋史も実は存在していないということであった。

 

「……元来「東洋諸国の歴史」といっては、当時知らないのは私たち二人(白鳥・市村両教授)だけではないので、世界中どこにもいまだ東洋史の研究家はなく、私たちが困ってしまったのは、学習院において改革案を施すに際し、遠く時勢に先んじていたからです。

 

 

東洋諸国の歴史を高等科に置いたことは、卓見と言えば卓見で、実際文部省では、これより十年後において各学校に東洋史を課した位ですから、その教授者があろうはずはありません」

 

 

と白鳥博士は記されているが、これは中学校以上のことで、義務教育では、私の世代になっても、東洋史西洋史もなかった。

以上の記述から見ると、まことに面白いことには天皇は「文部省教育」を受けていないのである。ここには時代の要請もあり、急速な近代化のためには、エリート教育と庶民教育は分けねばならぬといった意識もあったであろうし、学習院こそ全学の先頭に立って新しい教育を行わねばならぬといった意識もあったであろう。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「「道徳では負けないが、科学で劣っている」

 

ついで重剛は各条の解説に入る。(略)

まず第一に、重剛は、「広ク会議ヲ興シ」の会議とは、町村会、群会、

県会、帝国議会などを指すのだとして、次のように述べていることである。

 

 

「第一条においては、門閥専横の政を斥け、天下の政治は、天下の公論によりてこれを決せんとす。天下の公論を聴かんとするには、広く会議を興して、つぶさにこれを問わせられんとするの御思召なり。(略)

大小の政治、これら会議によりて議せらるるは、すなわちこの御趣の実行せられたるものなり」

 

この「門閥専横の政を斥け」を「軍閥専横」とすれば、それは昭和の十年代ということになる。天皇にとっては、五箇条の御誓文とそれに基づく明治憲法を否定されることは、自分が否定されることであった。」

 

 

〇 この「門閥専横の政を斥け」を「安倍日本会議専横」とすれば、それは第二次安倍政権(平成24年~現在まで)ということになる。

なぜ、同じような愚かなことを何度も繰り返すのか。

それが、不思議でならないのです。

安倍首相一人が、問題ではないということが、これまでの状況を見ているとよく、わかります。あのような狂った安倍首相のやり方を、支える多くの人々が居るから、こんなおかしな政治が長く続くのです。

 

 

「二条以下は、特にこれといった面白い解説はないが、第五条の「知識を世界に求め……」に関連して、重剛は「御進講」の中で特に「科学者」という一章を設けて、西欧の科学者や技術者を紹介している。

 

 

そしてその冒頭に彼は、日本は科学において西欧に劣っている点を指摘し、御誓文の第五条を極力実施に移すよう強調する。こういう点、彼はやはり、イギリスで学んだ化学者であった。次に引用しよう。

 

「さて諸外国、ことに西欧諸国の長所は、果たしていずれの点に存するか。これ疑いもなくその科学の進歩にありと断ずべきなり。わが国には古来忠孝一本の道徳発達して、世々その光輝を発揚せることは、あえて西欧諸国に譲らざるのみならず、さらに数等を抽んでたるものあり。

 

 

しかれども理化学的の研究に至りては、彼に比して大いに遜色あるを免れず。故によろしく彼が最大の長所たる理科の諸学を取りてわが短所を補うべきなり」

 

 

原子論の創始者ダルトンの生涯を語る

 

道徳を最高の精力と見た彼が、道徳では「譲らざる」なのに、国力の基本である「理科の諸学」で劣ることを認めているのは少々矛盾のようだが、ついで彼は、科学の振興もまた道徳の力が基になっているというに等しいことを、次のように主張する。

 

 

「西欧の学者が科学の研究に従事するや、奮励努力、夜を以て日につぎ、百折不撓の忍耐を以てこれにあたり、あえて世のいわゆる名利に拘泥せず、超然として一身を学理の闡明に捧ぐるの態度すこぶる崇高なるおなり。

 

 

これを以て科学大いに進歩し、これを実地に応用しては即ち文明の利器の続々として発明せらるるあり。たとえば汽車、電信、電話などの如き、これみな理化学の応用に外ならざるなし。

されば我国においても、将来大いにこれを奨励し、彼に比してあえて譲らざるに至るを期せざるべからず」(略)

 

 

マルコニー(イタリア人)を除くとすべてイギリス人だが、この中で、一種の感動を込めて語っているのがダルトンである。重剛自身が化学者で、神経衰弱になるほど勉強したから、親近感があったのであろう。次に引用しよう。

 

 

「ジョン・ダルトンは英国に有名な化学者なり。もとカンパーランドの一小村に生まれる。羊毛を織ることを業としたる貧者の子なり。十一歳えは村の学校にて教育を受け、十二歳よりは半ば学校教師となり、半ば農園に労働して自ら生活し、後には教師を以て専業とするに至れり。

 

 

彼はマンチェストルに在りたる日、色盲に関する研究を発表して初めて世に認められたり。当時彼はジョンスといえる牧師の家に寄寓うしたるが、その日常の生活につきてドクトル・アンガス・スミスは左の如く語れり。

 

彼は毎朝、冬にても八時に起き出で、提燈(カンテラ)を手にして実験室に入り、火を点じおきて朝食に来る。家族の人々のほとんど食しおわるころなり。しかるのにまた実験室に入りて中食のときようやく出で来り、ほとよく食事をしてただ水を呑み、また実験室に帰り、午後五時ごろ茶に出で来り、急ぎてまた実験室に入り、九時まで継続し、それより出でて夕食を取り、しかる後喫煙し、一家の人々と談笑す。云々。(略)

 

 

一八四四年、七十八歳にして没す。

ダルトンは、人の己を称して、英才衆に越えたりと言えるを聞くごとに、これを承認せずして曰く、「予はただ勤勉と積累とによりてわが業を成就したり」と」

 

 

重剛も一時は将来のダルトンならんと心に決めていたのであろう。いずれにせよ彼は、科学上の発見や技術的な発明は、継続的な努力の結晶であると見ていた。(略)

 

 

彼はその他のさまざまの例を挙げ、科学の進歩とその実地応用によって大いに国力を増し、人類の進歩に貢献した旨を述べ、日本は「理化学の研究においては、遺憾ながら彼に譲らざるを得ず」と素直に認める。そこで「よろしく彼の長所を取りて、以てわが短所を補うげきなり」「これ御誓文第五条の御趣旨なりと拝察す」と結論付けている。

 

 

 

硬軟とりまぜた杉浦の名講義

 

五箇条の御誓文の中で特に一章を設けたのはこれだけだが、興味深いことは、この「倫理御進講草案」には、「科学者」の章はあっても「文学者」の章がないことである。もっとも「詩歌」と「万葉集」の二章があり、和歌と漢詩、万葉の歌について述べており、また「絵画」もあって主として日本の絵画について述べているが、文学、特に近代文学は西欧も日本も登場しないといってよい。

 

 

生前、天皇は新聞記者の質問に答えて、自分は文学については全く知らないといった意味のことを述べておられたが、「倫理御進講草案」を見ると、「なるほど」という気がする。(略)

 

 

 

もちろん固い話はあるが、そこは中学教育の経験者だから、それでは聞く者が飽きてしまうことを重剛はよく知っていたらしい。固い話が少しつづくと、まことに面白い話が出てくる。

 

 

さらに関係者の思い出によると、重剛はその風貌とは違って実に明るい人で、自らも笑うとともに、よく生徒を笑わせたらしい。彼はノートも取らせず、リラックスして自分の話を聞かせるという方針だったようである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「維新体験者の「御誓文」に込められた思いとは

 

そして次に「五箇条の御誓文」にうつる。「趣旨」のその部分を次に引用しよう。

 

「わが国は鎌倉時代以後およそ七百年間、政権武家の手に在りしに、明治天皇に至りて再びこれを朝廷に収め、更に御一新の政を行なわせられんとするに当たり、まず大方針を立てて天地神明に誓わせられたるもの、すなわち五箇条の御誓文なり。

 

 

爾来世運大いに進み、憲法発布となり議会開設となり、わが国旧時の面目を一新したるも、万般の施政みな御誓文の趣旨を遂行せられたるに外ならず。単に明治時代に於いて然るのみならず、大正以後に在りても、正道の大本は永く御誓文に存するものというべし。

 

 

故に将来、殿下が国政を統べさせ給わんには、まず能く御誓文の趣旨を了得せられて、以て明治天皇の宏謨(広大な計画)に従い、これを標準として立たせ給うべきことと信ず」

 

本文の「五箇条の御誓文」は独立した相当に長い一文だが、それに進む前に、重剛だけでなく彼の時代に人々が、天皇制について昭和生まれとはやや違う感覚を持っていることに少し触れておこう。

 

 

前述のように重剛自身、徳川時代の生れであり、廃藩置県の際の経済的困窮を経験している。いわば青少年期を徳川時代に過ごした人は、一一九二年の鎌倉幕府創立以前の天皇制と、明治維新以後をはっきりと分けて考えても、七〇〇年の武家時代を無視して、この二つの天皇制が継続しているとは考えなかった。というより、それは彼らの実感であった。

 

 

 

いわば天皇制がつづいていたということは、天皇制がそのまま続いていたということではない。そして天皇家によって新しい天皇制が樹立されたとき、その基本は何かということを、否応なく意識しないわけにはいかなかった。いわばこの時代の人たちにとって、明治維新は激烈な革命であったから、無条件で過去とつなぐことは、体験として、とうてい出来なかったわけである。(略)

 

 

重剛の世代は、多かれ少なかれ、このような、生涯忘れることのできない体験を胸中に秘めていた。この点では、私の世代が、太平洋戦争における同僚の無残な死を生涯忘れ得ないのと似ている。

 

 

山川は烈々たる国家主義者だが、それは血であがなった新生国家への熱烈な愛ともいうべきもので、白虎隊への涙と裏腹の関係にあったというべきであろう。それを単純に、昭和の浮ついたナチスかぶれの超国家主義と同一のものと見てはならない。

 

 

そしてこの人たちにとって絶対なのは、明治の基本の「五箇条の御誓文」であり、これが、維新という革命後の新生日本のドクトリンであった。重剛の記述が熱を帯びてくるのは不思議ではない。

次に引用しよう(第四学年の最初の項)

 

 

「本学年の最初に当たり、まず五箇条の御誓文の大意を申し述べんとす。これ、地理は外国地理、歴史もまた外国歴史となり、軍事学も御修得あらせらるることとなりたれば、日本帝国も鎖国時代の旧日本にあらずして、世界の一帝国として立ちたる維新大政の方針を説述せんがためなり。

 

慶応三年正月、明治天皇践祚あらせらる。この年十月、徳川十五代の将軍慶喜、大政を奉還せしかば、朝廷にては新たに制度を立てて、以て王制維新の政を行なわせらるることとなりぬ。(略)

 

 

かくして政権朝廷に復帰したるが、朝廷にては如何の方針を立てて以て維新の政を行なわせらるるべきか。これ天皇におかせられても、また公家においても、また勤王の諸士においても、等しく心を苦しめたる所なり。慶応四年(明治元年)三月、ついに五箇条の御誓文なり、天皇は公卿諸侯を率いて、これを天地神明に誓わせられ、以て王政復古たる維新政府の大方針を定めさせられたり」

 

 

 

(略)

俗にいう天皇の「人間宣言」は、そのまま読めば、実は、五箇条の御誓文の再確認と再宣言であることが分かる。

 

 

すなわち「須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ……」であり、天皇と国民との紐帯は「単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」で、いわばこの五箇条を共に誓ったという「相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」たる一体化だという。事実「倫理御進講草案」には神話は出てこない。三種の神器は非神話化されて「知仁勇=知情意」の表象とされ、それでおしまいである。」