読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス 上 (第3章 人間の輝き)

チャウシェスクとその一派が二〇〇〇万のルーマニア人を四〇年間支配できたのは、三つの不可欠な条件を満たしていたからだ。

 

第一に彼らは、軍や種別組合、さらにはスポーツ協会まで、あらゆる協力ネットワークを忠実な共産党員の役人に管理させた。

 

第二に、反共産主義の協力の基盤となりかねない競合組織は、政治的なものであれ経済的なものであれ社会的なものであれ、いっさい創設させなかった。

 

 

第三に、ソ連や東ヨーロッパの同じ共産党の支援に依存していた。(略)

 

 

こうした状況下で、二〇〇〇万のルーマニア国民は、エリート支配層によってあれほど苦難や苦しみを味わわせられたにもかかわらず、効果的な反抗精力を組織できなかった。

チャウシェスクが権力の座からついに転落したのは、ようやくこれら三つの条件がどれ一つ満たされなくなったときだった。(略)

 

 

 

イオン・イリエスクはルーマニアの大統領に選出され、彼の一派は大臣や議員、銀行の取締役、富豪になった。今日まで国を牛耳るルーマニアの新たなエリート層は、主に元共産党員とその親族から成る。

 

 

 

ティミショアラやブカレストで命を危険にさらした一般大衆は、残りかすで我慢するしかなかった。協力する術も、自分たちの利益を守ってくれる効率的な組織を生み出す方法も知らなかったからだ。(略)

 

 

二〇一一年のエジプト革命も似たような運命をたどった。(略)

ルーマニアの元共産党員とエジプトの将軍たちは、以前の独裁者やブカレストとカイロのデモ参加者よりも知能が髙かったり、指先が器用だったりしたわけではない。彼らの強みは柔軟な協力にあった。彼らは群衆よりもうまく協力し、融通の利かないチャウシェスクムバラクよりもはるかに高い柔軟性を示すのを厭わなかった。

 

 

 

セックスとバイオレンスを越えて

 

(略)

それはそもそも何のおかげで人間がこれほどうまく協力できるのか次第だ。なぜ人間だけが、これほど大規模で高度な社会制度を構築できるのか?(略)

ピグミーチンパンジー(別名ボノボ)の場合は、だいぶ様子が違う。ボノボは緊張を解消し、社会的絆を結ぶために、しばしばセックスを使う。その結果、驚くまでもないが、同性間の性交が非常によく見られる。(略)

 

 

サピエンスはこうした協力のコツをよく知っている。チンパンジーのものと似た権力のヒエラルキーを構築することもあれば、ボノボとちょうど同じようにセックスで社会的絆を結ぶこともある。(略)

 

 

 

サピエンスが(敵対的なもの、好色なもののどちらでも)密接な関係を結べる相手は一五〇人が限度であることが、調査でわかっている。人間が大規模な協力のネットワークを組織するのを何が可能にしているにせよ、それが親密な関係でないことは確かだ。

 

 

これを聞いたら、心理学者や社会学者や経済学者など、研究室での実験で人間社会を解明している人は頭を抱えるだろう。実験の大多数は、計画と資金の両面の制約のせいで、個々の参加者や少人数のグループを対象に行われるからだ。

 

 

 

だが、小さなグループの振舞に基づいて巨大な社会のダイナミクスについて推論するのは危険だ。一億の国民を擁する国家は、一〇〇人から成る生活集団とは根本的に違った形で機能する。(略)

 

 

 

なぜエジプトの農民とプロイセンの兵士は、最後通牒ゲームやオマキザルの実験に基づいて私たちが予期していてもおかしくないような行動を見せなかったのか?それは、大人数の集団は少人数の集団とは根本的に違う行動を取るからだ。(略)

 

 

 

大規模な人間の協力はすべて、究極的には想像上の秩序を信じる気持ちに基づいている。想像上の秩序とは、私たちの創造の中にのみ存在しているにもかかわらず、重力と同様、冒すべからざる現実であると私たちが信じている一群の規則だ。(略)

ある土地に住んでいるサピエンス全員が同じ物語を信じているかぎり、彼らは同じ規則に従うので、見知らぬ人の行動を予測して、大規模な協力のネットワークを組織するのが簡単になる。

 

 

サピエンスはターバンや顎髭やビジネススーツといった、視覚的な目印をしばしば使って、「あなたは私を信頼できる。私はあなたと同じ物語を信じているから」と合図する。チンパンジーは人間に近い動物ではあるけれど、そのような物語を創作して広めることができない。だから彼らは大勢で協力できないのだ。

 

 

 

意味のウェブ

 

人々が「想像上の秩序」という概念を理解するのに手を焼くのは、現実には客観的現実と主観的現実の二種類しかないと思い込んでいるからだ。客観的現実では、物事は私たちが信じていることや感じていることとは別個に存在する。

 

 

たとえば重力は客観的現実だ。重力はニュートンよりもはるか以前から存在していた。そして、その存在を信じている人ばかりではなく信じていない人にも、まったく同じように作用する。

一方、主観的現実は私個人が何を信じ、何を感じているか次第だ。たとえば、激しい頭痛がして病院に行ったとしよう。医師が念入りに診察してくれるが、悪いところは見つからない。(略)

 

 

 

結果が出ると、医師は、健康そのものですと言って私を帰す。それでも激しい頭痛は治まらない。ありとあらゆる客観的検査で、私はどこも悪くないことがわかり、私以外、誰一人としてその痛みを感じていないにもかかわらず、私にとってその痛みは一〇〇パーセント現実のものだ。(略)

 

 

 

ところが、第三の現実のレベルがある。共同主観的レベルだ。共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。(略)

 

 

 

人々が信じなくなった途端に消滅してしまいかねないのは、貨幣の価値だけではない。同じことが法律や神、さらには一帝国全体にも起こりうる。それらは、今、せっせと世界の行方を決めていたかと思えば、次の瞬間にはもはや存在しなくなったりする。(略)

 

 

貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。(略)

ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。

 

 

 

私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。

 

 

意味は、大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される。(略)

では、なぜこれらの人々はみな、それが有意義だと考えるのか?それは、彼らの友人や隣人たちも同じ見方をしているからだ。人々は絶えず互いの信念を強化しており、それが無限のループとなって果てしなく続く。

 

 

互いに確認し合うごとに、意味のウェブは強固になり、他の誰もが信じていることを自分も信じる以外、ほとんど選択肢がなくなる。

それでも、何十年、何百年もたつうちに、意味のウェブがほどけ、それに代わって新たなウェブが張られる。

 

 

歴史を学ぶというのは、そうしたウェブが張られたりほどけたりする様子を眺め、ある時代の人々にとって人生で最も重要に見える事柄が、子孫にはまったく無意味になるのを理解することだ。(略)

 

 

 

このようにして、中世の文明は一本また一本と糸を編んで意味のウェブを作り、ジョンや彼の同時代人をハエのように絡めとっていった。これらの物語がすべてただの想像の産物であるとは、ジョンには思いもよらなかった。(略)

 

 

やがて月日が流れた。歴史家が見守る中、意味のウェブがほどけ、その代わりに別のウェブが編まれる。ジョンの親が亡くなり、兄弟姉妹や友人もそれに続く。吟遊詩人たちによる十字軍遠征の歌に取って代わって、悲劇的な恋愛についての 舞台劇が流行する。(略)

 

 

そしてさらに歳月が過ぎていく。かつて城のあった場所は、今ではショッピングセンターになっている。(略)

歴史はこのように展開していく。人々は意味のウェブを織り成し、心の底からそれを信じるが、遅かれ早かれそのウェブはほどけ、後から振り返れば、いったいどうしてそんなことを真に受ける人がいたのか理解できなくなる。

 

 

 

後知恵をもってすれば、天国に至ることを期待して十字軍の遠征に出るなど、愚の骨頂としか思えない。今考えれば、冷戦は狂気の極みだ。三〇年前、共産主義天国を信じていたが故に、核戦争による人類の壊滅の危険を喜んで冒す人々がいたとは、どういうことか?そして今から一〇〇年後、民主主義と人権の価値を信じる私たちの気持ちもやはり、私たちの子孫には理解不能に思えるかもしれない。」

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「賢い馬

 

二〇一〇年、科学者たちはラットを使った並外れて感動的な実験を行った。彼らは一匹のラットを小さなケージに閉じ込め、それをずっと大きなケージに入れ、別のラットが大きなケージの中を自由に動き回れるようにした。

 

 

閉じ込められている方のラットは「遭難信号」を発した。すると、自由なラットも不安とストレスを感じている様子を見せた。ほとんどの場合、自由なラットは閉じ込められている仲間を助けにかかり、何度か試みるうちに、ケージの扉を開けて中のラットを解放することにたいてい成功した。(略)

 

 

 

多くのラットは、まず仲間を救い出し、チョコレートを分かち合った(ただし、もっと利己的に振舞うラットもかなりの数にのぼったので、卑劣なラットもいることがわかった)。

懐疑的な人は、自由なラットが閉じ込められた仲間を助けたのは、共感からではなく、苛立たしい「遭難信号」を止めるためにすぎなかったと主張して、実験の結果を退けた。(略)

 

 

 

私たち人間は、本質的にはラットや犬、イルカ、チンパンジーとそれほど違わない。彼らと同じで、私たちも魂を持たない。私たちと同じで、彼らも意識を持っているし、感覚と情動の複雑な世界も持っている。(略)

 

 

二〇世紀の初頭、「賢いハンス」と呼ばれる馬がドイツで有名になった。ハンスはドイツの町や村を巡りながら、ドイツ語の驚くべき理解力や、なおさら素晴らしい数学の技術を披露した。(略)「20-11はいくつ?」と書かれた紙を見せられると、ハンスはいかにもプロイセン風の見事な正確さで九回足を踏み鳴らした。(略)

 

 

 

一九〇七年に心理学者のオスカル・プフングストが新たに調査を始め、ついに真実を明るみに出した。じつはハンスは、質問者のボディランゲージや表情を注意深く観察して、正しい答えを出していたのだった。4×3はいくつかと訊かれたとき、蹄を特定の回数だけ踏み鳴らすことを質問者が期待しているのを、ハンスは過去の経験から知っていた。

 

 

そこで蹄で地面を叩き始め、その人の様子を一心に見守る。叩く回数が正解に近づくにつれて、質問者はしだいに緊張し、ハンスが答えの数に達する瞬間、その緊張が頂点に達する。ハンスはそれを、その人の姿勢や表情から読み取ることができた。そこで踏み鳴らすのをやめて見守っていると、驚きや笑いによってその緊張が解ける。こうしてハンスは、自分が正解したことを知る。(略)

 

 

 

ところが、じつはハンスの教訓はそれとは正反対だ。この一見は、私たちが動物の擬人化によって、動物の認知的能力をたいてい過小評価し、人間以外の生き物の特有の能力を無視することを実証している。(略)

もし私が中国人に4×3はいくつかと中国語で訊かれても、その人の表情やボディランゲージを観察しているだけでは、一二回足を踏み鳴らすことはとうていできないだろう。

 

 

 

ハンスにこの能力が備わっていたのは、馬たちが通常、ボディ乱ケージで意思を疎通させるからだ。(略)

もし動物たちがそれほど賢いなら、なぜ馬が人間を荷馬車につないだり、ラットが私たちを使って実験を行なったり、イルカが私たちにジャンプして輪をくぐらせたりしないのか?(略)

 

 

 

ホモ・サピエンスは他の動物とは完全に異なる次元に存在している、人間は魂や意識のような独特の本質を持っている、といったうぬぼれた身方を退けたところで、私たちはようやく、現実のレベルに降りて行って、私たちの種を優位に立たせる具体的な心身の能力について考察することができる。(略)

 

 

 

 

 

もし協力がカギなら、アリやハチは私たちよりも何百万年も前に集団で協力することを学んでいながら、なぜ私たちよりも先に核爆弾を開発しなかったのか?それは、彼らの協力には柔軟性が欠けているからだ。(略)

 

 

 

 

ゾウやチンパンジーなどの社会的哺乳動物は、ハチよりもはるかに柔軟に協力するが、それは少数の仲間や家族の間に限られている。彼らの協力は、直接の関係に基づいている。もし私がチンパンジーで、あなたもチンパンジーで、私があなたと協力したかったら、私はあなたを直接知っている必要がある。

 

 

 

あなたはどんなチンパンジーなのか?親切なチンパンジーなのか?邪悪なチンパンジーなのか?もしあなたを知らなかったら、いったいどうしてあなたと協力などできようか?私たちの知る限りでは、無数の見知らぬ相手を非常に柔軟な形で協力できるのはサピエンスだけだ。私たちが地球という惑星を支配しているという事実は、不滅の魂や何か独特の意識ではなく、この具体的な能力で説明できる。

 

 

 

革命万歳!

 

歴史を振り返ると、大規模な協力の決定的重要性を裏付ける証拠がたっぷり見つかる。勝利はほぼ例外なく、協力が上手だった側が得た。ホモ・サピエンスと他の動物たちとの戦いだけではなく、人間の異なる集団どうしの争いでもそうだった。

 

 

 

たとえばローマがギリシアを征服したのは、ローマ人の方が脳が大きかったからでも、優れた道具製作技術を持っていたからでもなく、効果的に協力できたからだ。歴史を通して、統制の取れた軍隊が、まとまりのない大軍を楽々打ち破り、結束したエリート層が無秩序な大衆を支配してきた。(略)

 

 

 

ついにロシア革命が勃発したのは、一億八〇〇〇万の農民と労働者が皇帝に対して立ち上がったからではなく、一握りの共産主義者が適切な時に適切な場所に身を置いたからだ。

 

 

 

ロシアの上流階級と中流階級が少なくとも三〇〇万人を数えていた一九一七年に、共産党(訳註 当時の名称はロシア社会主義民主労働党で、一九一八年にロシア共産党に改称)の党員はわずか二万三〇〇〇人だった。それにもかかわらず、共産党員たちは自らを巧みに組織したので、広大なロシア帝国を掌握できた。(略)

 

 

 

共産党員は一九八〇年代末までその手を緩めなかった。彼らは効果的な組織のおかげで七〇年以上も権力の座にとどまっていたが、やがてその組織にひびが入り、ついに倒れた。

 

 

 

一九八九年一二月二一日、ルーマニア共産主義独裁者ニコラエ・チャウシェスクは、首都ブカレストの中心部で大規模な政権支援集会を催した。それに先立つか月間に、ソヴィエト連邦が東ヨーロッパの共産主義政権への支援を打ち切り、ベルリンの壁が崩壊し、ポーランド東ドイツハンガリーブルガリアチェコスロバキアを革命が席巻した。

 

 

 

だが、一九六五年以来ルーマニアを支配してきたチャウシェスクは、一二月一六日から一七日にかけて国内の都市ティミショアラで彼の取裡に対する暴動が起こっていたにもかかわらず、その大津波に耐えられると信じていた。チャウシェスクは対策の一環として、民衆の大多数が依然として彼を敬愛している(あるいは少なくとも恐れている)ことをルーマニア国民と全世界に証明するために、ブカレストで大規模な集会を開く手筈を整えた。(略)

 

 

 

 

ところがそのとき、とんでもないことが起った。あなたもYou Tubeでそのときの光景を目にすることができる。「Ceausescu's last speech (チャウシェスクの最後の演説)」で検索するだけで、歴史が作られる瞬間が見られる。

 

 

 

You Tube の動画では、チャウシェスクがまたしても長たらしい文を始めて、「ブカレストにおけるこの偉大な催しの発起人と主催者諸君に感謝し、それを――」と言いかけたところで急に沈黙し、目を大きく見開き、信じられないという顔で凍り付く。彼はついにその文を言い終えることはなかった。

 

 

 

その瞬間に、一つの世界がまるごと崩壊するところが見られる。聴衆のうちの誰かが野次を飛ばしたのだ(大胆にも野次を飛ばしたその最初の人物が誰なのか、今日でもまだ議論は尽きない)。続いて、一人、また一人と野次を飛ばし、ものの数秒のうちに群衆は口笛を吹いたり、罵詈雑言を浴びせたり、「ティニショアラ!ティミショアラ!」と連呼したりし始めた。

 

 

 

これはすべて、ルーマニアのテレビで実況され、国民の四分の三が胸をドキドキさせながら画面に釘付けになった。悪名高い秘密警察セクリターテが放送の停止をただちに命じたが、テレビ局の現場チームがそれに服従せず、放送はほんのしばらく中断されただけだった。(略)

 

 

 

エレナ夫人は「静かに!静かに!」と聴衆を叱り始めたが、やがてチャウシェスクが振り向き、「お前こそ、静かに!」と怒鳴りつけた。その声は、万人の耳に届いた。それからチャウシェスクは、広場の興奮した群衆に懇願するように、「同志たちよ!同志たちよ!静かにしたまえ、同志たちよ!」と訴えた。

だが、同志たちは静かにする気にはならなかった。

 

 

 

ブカレストの中央広場を埋めた八万の人々が、毛皮の帽子を被ってバルコニーに立っている老人よりも自分たちのほうがはるかに強力だと気づいたとき、共産主義国ルーマニアは脆くも崩れた。

 

 

 

とはいえ、真に驚愕するべきなのは、体制が崩壊した瞬間ではなく、その体制が何十年もまんまと生き延びてきたことだ。革命はどうしてこれほど稀なのか?一般大衆が長年にわたって拍手喝采し、バルコニーの男の命じるままに行動するなどということがなぜあるのか?理論上はいつでも突進して行ってその男を八つ裂きにできるというのに。(略)」

 

 

〇 今の安倍独裁体制と重ね合わせて、読みました。

 

見知らぬ人と協力できるためには、共通の価値観(道徳)が必要

共通の価値観を破壊しながら、その体制(独裁体制)を維持しようとするとき、

強制力が必要になる。共通の幻想(大本営発表・マスコミ統制)、もしくは、奴隷や牛馬を管理するような力づくの管理が必要になる。

力づくの管理は、「見知らぬ人との協力」を破壊する。

互いに相手を信じられない人々の集団になる。

独裁体制は本当の意味での国民の協力を引き出さない。

故に一部の既得権益を持つ人々だけに支持されている

安倍独裁政権は、一刻も早く打ち壊して、多くの人々が真に

協力し合える国(情報を隠蔽し改竄する国ではなない民主主義が機能している

国)を目指さなければ、結局誰にとっても不幸な悲惨な行政しかない、

今のような国になってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「実験室のラットたちの憂鬱な生活

 

心とは何かを検討し、じつは心についてはほとんどわかっていないことを知ったところで、人間以外の動物に心があるかどうかという疑問に戻ることにしよう。犬をはじめ、いくつかの動物は、チューリングテストの修正版に間違いなく合格するだろう。

 

 

あるものに意識があるかどうかを私たちが判定しようとするときにたいてい探し求めるのは、数学の才能や優れた記憶力ではなく、私たちと情動的な関係を結ぶ能力だ。(略)犬は人間との情動的関係を結ぶことができる事実を踏まえて、犬の飼い主のほとんどは、犬は心を持たない自動機械などではないと確信している。

 

 

とはいえ、懐疑的な人はそれで満足するはずもなく、情動はアルゴリズムであり、既知のアルゴリズムのうちには、機能するために意識を必要とするものはないことを指摘する。動物が複雑な情動的行動を見せるときにはいつも、それが、非常に手の込んだ、それでいて非意識的なアルゴリズムの産物ではないと証明することはできない。この主張はもちろん人間にも当てはめられる。(略)

 

 

サルやマウスを使った初期段階のテストからは、少なくともサルとマウスの脳は意識のシグネチャーを現に示すことがわかっている。ところが、動物の脳と人間の脳の違いを考え、私たちが意識の秘密をすべて解き明かす段階には依然として程遠いことも考慮すると、懐疑的な人を満足させられる決定的なテストが開発されるのは何十年も先かもしれない。(略)

 

 

 

犬は、意識があることを立証されるまでは、心を持たない機械と考えるのか、誰か説得力がある反証をみつけるまでは、意識ある生き物として犬を扱うのか?(略)

 

 

 

多くの企業も動物は感覚のある生き物だと認めているが、皮肉にも、そのせいで実験室での不快な試験に動物たちがさらされることが多い。製薬会社は抗うつ薬を開発するときに、ラットを使うのがごく普通だ。広く使われている手順に、次のようなものがある。

 

 

 

ラット一〇〇匹(これだけの数を使うのは、統計的信頼性を得るため)、水の入ったガラスの容器に一匹ずつ入れる。ラットは容器の内側を登って逃げ出そうと何度も試みるが、うまくいかない。ほとんどのラットが一五分後には諦めて動かなくなる。容器の中を漂うばかりで、周囲の状況に無関心になる。

 

 

 

次に別のラットを一〇〇匹、容器に放り込むが、一四分後、彼らが絶望する直前水から掬い出す。体を乾かして、餌をやり、少し休ませてから、また容器に放り込む。

 

 

 

今度は、ほとんどのラットが二〇分間諦めずに奮闘する。なぜ一回目よりも六分余計に頑張るのか?それは過去の成功の記憶が脳内で何らかの生化学物質の分泌を促してラットに希望を与え、絶望の到来を遅らせるからだ。この物質を単離できさえしたら、抗うつ薬として人間に使えるかもしれない。

 

 

だが、どの瞬間にもラットの脳にはおびただしい種類の化学物質があふれている。どうすれば適切な物質を特定できるか?

そのためには、それまでのテストに参加していないラットを新たに何グループも用意する。そしてそれぞれのグループに、抗うつ薬として期待の持てそうな化学物質を一種ずつ注射する。

 

 

 

それからラットを水に放り込む。Aという物質を注射したラットが一五分もがいただけで元気を失えば、Aはリストから抹消できる。Bという化学物質を注射したラットが二〇分手足をばたつかせ続ければ、CEOと株主たちに連絡し、大発見をしたかもしれないことを告げる。

 

 

懐疑的な人は、このような描写全体がラットを必要以上に擬人化している、と異議を唱えるかも知れない。ラットは希望も絶望も経験しない、素早い動きを見せる時もあれば、じっとしているときもあるが、けっして何も感じてはいない、非意識的アルゴリズムに動かされているだけだ、というのだ。

 

 

 

だが、もしそうなら、こうした実験のいっさいに何の意味があるというのか?(略)

製薬会社がそのような魔法の薬に役立てようとしてラットを使った実験を行うのは、ラットの行動には人間のものと同じような情動が伴うことを前提にしているからこそだ。そして実際、これは精神医学の研究所では一般的な前提だ。

 

 

自己意識のあるチンパンジー

 

人間の優越性を崇める試みは、他にもある。ラットや犬やその他の動物には意識があることは認めるものの、人間とは違って彼らには自己意識がないと主張するのもその一つだ。動物は憂鬱や幸福、空腹や充足は感じるかも知れないが、自己という概念は持っておらず、自分が感じる憂鬱や空腹が、「私」と呼ばれる唯一無二のものに属している自覚はない、というのだ。

 

 

 

この考え方は一般的ではあるが、理解し難い。犬は空腹を感じると、肉に食らいつき、他の犬に食べ物を提供したりはしない。近所の犬たちが尿をかけた木の臭いを犬に嗅がせると、それが自分の尿の臭いか、隣家の可愛いラブラドールレトリバーのものか、それともどこかの知らない犬のものか、たちどころにわかる。

 

 

犬は自分の臭いと、交尾相手や競争相手の候補の臭いとでは、見せる反応の仕方がまるで違う。それならば、彼らには自己意識がないというのは、どういう意味なのだろう?(略)

 

 

 

この問題を浮き彫りにするためには、スウェーデンのフールヴィック動物園にいるオスのチンパンジーのサンティノの例を考えるといい。サンティノは飼育場での退屈を紛らわすために、胸の躍るような娯楽を考え出した。

 

 

 

動物園の来園者に石を投げつけるのだ。それ自体には、独自性はないに等しい。(略)ところがサンティノは、あらかじめ自分の行動を計画していた。朝早く、動物園の開園時間のずっと前に、サンティノは怒っている気配を少しも見せずに、石を集めて積み上げておく。

 

 

 

ガイドや来園者は間もなく、サンティノは警戒しなくてはいけないことを学んだ。とりわけ、彼が石の山の近くに立っている時は。そのため、彼は標的にする人を見つけるのがしだいに難しくなった。

 

 

二〇一〇年五月、サンティノは新しい戦略で対応した。彼は早朝、就寝場所から藁を持ってきて、飼育場の壁のそばに置いた。そこは来園者がたいていチンパンジーを見に集まる場所の近くだった。彼はそれから石を集め、藁の下に隠した。一時間ほどして最初の来園者たちが近づいてくると、サンティノは涼しい顔を保ち、苛立ちも攻撃性も、片鱗さえも見せなかった。

 

 

犠牲となる人々が絶好の距離まで寄って来た時にようやく、サンティノは突然隠し場所から石をつかみ取って投げつけ、恐れをなした人間たちは慌てて散り散りに逃げ出した。二〇一二年の夏には、サンティノは軍拡競争を加速させ、藁の下だけではなく、木の幹や建物をはじめ、隠し場所にふさわしいところにはどこにでも石を隠すようになった。

 

 

 

それにもかかわらず、このサンティノでさえ懐疑的な人は満足させられない。あちこちに石を隠している午前七時に、来園した人間たちめがけて正午に石を投げるのがどれほど面白いかサンティノが想像していると、どうして確信し得るのか?ひょっとすると彼は、冬を一度も経験していない幼いリスが「冬に備えて」木の実を隠しているのとちょうど同じように、何らかの非意識的アルゴリズムに動かされているのではいか?

 

 

 

同様に、オスのチンパンジーが何週間も前に痛めつけられた競争相手を攻撃していても、本当に過去の侮辱の仕返しをしているのではない、と懐疑的な人はいう。彼は束の間の怒りの感情に反応しているだけであり、その感情の原因は、彼には理解のしようがない、(略)

 

 

私たちにはこうした主張を立証することも反証することもできない。それらはじつは、他我問題の変種だからだ。私たちは意識を必要とするアルゴリズムにはまったく馴染みがないので、動物がすることは何であれ、意識的な記憶や計画ではなく非意識的アルゴリズムの産物と見なせる。(略)

 

 

なにしろ私たちは、人が一生懸命に過去を思い出したり未来について夢見たりしていないときにさえ、自己意識があると考えているのだから。たとえば、人間の母親が、往来の激しい道路に幼い我が子がよちよち足を踏み入れようとしているのを目にしたら、立ち止まって過去や未来について考えたりしない。

 

 

先ほどのゾウとちょうど同じように、彼女も駆けつけて我が子を救おうとするだろう。それならば、ゾウについてと同じことを彼女についてもなぜ言わないのか?すなわち、「迫りくる危険から自分の赤ん坊を救うために母親が駆け出したい、まったく自己意識を持たずにそうした。彼女は束の間の衝動に動かされていたにすぎない」と。

 

 

 

同様に、最初のデートで熱烈なキスをしている若いカップルや、傷ついた戦友を救うために激しい敵の砲火の中へ突っ込んでいく兵士、猛烈な筆の動きで傑作を描いている画家を考えてほしい。

 

 

 

その一人として、立ち止まって過去や未来についてじっくり考えることはない。それならば、彼らには自己意識がないのか?そのときの彼らの状態は、過去の実績や将来の計画について選挙演説を行っているときの政治家の状態に劣るのか?」

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「ことによると、生命科学はこの問題を間違った角度から眺めているのかもしれない。生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる、生き物は計算を下す機械であると考えられている。とはいえ、生き物とアルゴリズムとの間のこの類似性は、私達を誤った方向に導きかねない。(略)

 

 

二一世紀の今、人間の心を蒸気機関に例えるのは子供じみて見える。今日、私たちはそれと比べ物にならないほど高性能のテクノロジー、すなわちコンピューターを持っているので、人間の心を、圧力を調節する蒸気機関ではなくデータを処理するコンピューターであるかのように説明する。だが、この新しいたとえも、けっきょく幼稚なものなのかもしれない。(略)

 

 

これまでのところ、私たちにはこの問題に対する妥当な答えがない。哲学者たちがすでに何千年も前に気づいていたように、私たちは自分以外の人に心があると、反論の余地がないまでに証明することはけっしてできない。実際、他人の場合には、私たちはただ、意識があると推定しているだけで、本当に意識があると確実に言えることはできない。

 

 

ひょっとしたら、全宇宙の中で何かを感じる生き物は唯一私だけで、他の人間と動物はすべて、心を持たないただのロボットなのか?ことによると、私は夢をみており、出会う人はみな、夢に出てくる人物にすぎないのか?(略)

 

 

科学の大躍進のうち、他人にも自分と同じような心があるかどうかという、悪名高いこの「他我問題」を克服してのけたものは一つもない。これまで学者たちが思いついた最善のテストは「チューリングテスト」と呼ばれるものだが、それは社会的慣習しか検討しない。

 

 

チューリングテストでは、コンピューターに心があるかどうかを判定するために、コンピューターと本物の人間を、どちらがどちらとは知らずに同時に相手にして言葉を交わす。何でも好きな質問をしたり、ゲームや議論をしたりしていいし、なれなれしく戯れることさえしてかまわない。

 

 

 

時間も好きなだけかけられる。それから、どちらがコンピューターでどちらが人間かを判断する。もし区別できなかったり、判断を誤ったりしたら、そのコンピューターはチューリングテストに合格し、本当に心を持っているものとして扱われるべきであるということになる。

 

 

とはいえ、もちろんそれは本物の証明とは言えない。自分のもの以外にも心があると認めるのは、社会的・法的慣習にすぎないのだ。

チューリングテストは一九五〇年に、コンピューター時代の創始者の一人であるイギリスの数学者アラン・チューリングが考案した。彼は同性愛者であったが、

当時のイギリスでは同性愛は違法だった。

 

 

 

一九五二年、チューリングは同性愛行為のかどで有罪とされ、化学的去勢処置を強制的に受けさせられた。二年後、彼は自殺した。チューリングテストは、一九五〇年代のイギリスですべての同性愛者が日常的に受けざるをえなかったテスト、すなわち、異性愛者として世間の目を欺き通せるかというテストの焼き直しにすぎなかった。

 

 

 

チューリングは、人が本当はどういう人間なのかは関係ないことを、自分自身の経験から知っていた。肝心なのは、他者に自分がどう思われているかだけなのだった。チューリングによれば、コンピューターは将来、一九五〇年代の同性愛者とちょうど同じようになるという。コンピューターに現実に意識があるかどうかは関係ない。肝心なのは、人々がそれについてどう思うかだけなのだ。」

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

チャールズ・ダーウィンを怖がるのは誰か?

 

二〇一二年のあるギャラップ世論調査によると、ホモ・サピエンスが神の介入をいっさい受けずに、自然選択だけによって進化したと考えるアメリカ人はわずか一五パーセントしかおらず、三二パーセントが、人間は何百年も続く過程の中で、先行する生き物から進化したかもしれないが、神がそのショー全体を演出したと主張し、四六パーセントがまさに聖書に書かれているとおり、過去一万年間のある時点で、神が人間を現在の形で想像したと信じているという。

 

 

 

大学で数年学んでも、こうした見方にはまったく影響が出ない。同じ調査で、学士号を持つ大学卒業生の四六パーセントが聖書の創造物語を信じているのに対して、神の監督を少しも受けずに人間が進化したと考える人はわずか一四パーセントであることがわかった。(略)

 

 

 

 

相対性理論に腹を立てる人がいないのは、この理論は私たちが大切にしている信念のどれとも矛盾しないからだ。(略)それとは対照的に、ダーウィンは私たちから魂を奪った。もしあなたが進化論を本当に理解していたら、魂が存在しないことも理解できているはずだ。この考えにぞっとするのは敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒だけではない。何一つ明確な宗教的教義は持っていないものの、人間の一人ひとりに、一生を通じて変わることもなければ、死さえ無傷で生き延びられもする、不滅の個人的本質が備わっていると信じている、多くの世俗的な人々にしても同じだ。(略)

 

 

 

 

私の真の自己は分割することのできない、不変で、不滅かもしれない本質であるという考えを、進化論は残念ながら退ける。進化論によると、以下のようになる。ゾウやオークの木から細胞やDNA分子まで、あらゆる生物学的存在は、結合と分離を絶え間なく繰り返す、もっと小さく単純な部分から成る。ソウも細胞も、新しい結合と分裂の結果として、徐々に進化した。分割することも変えることもできないものが、自然選択を通じて現れるはずがない。(略)

 

 

 

 

だから進化論は魂という考えを受け容れられない —— 少なくとも「魂」が、 分割することのできない、不変の、不滅かもしれないものを指しているとしたら。そのようなものは、漸進的な進化からは生じ得ない。(略)

 

 

 

というわけで、魂の存在は進化論と両立しえない。進化は変化を意味し、永久不変のものを生み出すことはできない。(略)

これに恐れをなす人は多く、彼らは魂を捨てるよりも進化論を退ける道を選ぶ。

 

 

 

 

証券取引所には意識がない理由

 

人間の優位を正当化するときに持ち出される説には、地球上のあらゆる動物のうち、意識ある心を持っているのはホモ・サピエンスだけだというものもある。だが、心は魂とは完全に別物だ。心は神秘的な不滅のものではない。(略)

 

 

 

魂とは一つの物語であり、それを受け容れる人もいれば退ける人もいる。それに対して、意識の流れは私たちがどの瞬間にも直接経験する具体的な現実だ。この世でこれほど確かなものはない。(略)

 

 

 

 

では、動物たちは?彼らには意識があるのか?彼らは主観的経験をするのか?(略)すでに指摘したとおり、現在では生命科学は、すべての哺乳類と鳥類、そして少なくとも一部の爬虫類と魚類には感覚と情動があると主張している。

 

 

 

ところが、最新の理論は、感覚と情動は生化学的なデータ処理アルゴリズムであるとも主張している。(略)実は人間の場合さえ、感覚と情動の脳回路の多くは、完全に無意識にデータを処理し、行動を起こすことができる。だから、空腹感や恐れ、愛情、忠誠心といった、動物が持っていると私たちが見なす感覚と情動のいっさいの陰には、主観的経験ではなく無意識のアルゴリズムだけが潜んでいるのかもしれない。

この節を支持したのが、近代哲学の父ルネ・デカルトだ。(略)

 

 

 

 

動物には私たちのものに似た意識ある心があるかどうかを判断するためには、まず、心の機能の仕方と心が果たす役割をもっとよく理解しなくてはならない。どちらもきわめて難しい問題だが、少し時間をかける価値がある。(略)

 

 

 

 

率直に言って、心と意識について科学にわかっていることは驚くほど少ない。

(略)

何千台もの自動車が東京の通りをのろのろと進む時、私たちはそれを交通渋滞と呼ぶが、そこから巨大な東京の意識が生まれて、渋谷の繁華街の上空高くを漂いやおや、私は渋滞してしまったようだ」などと独り言を言ったりはしない。(略)

 

 

 

一流の科学者たちでさえ、心と意識の謎を読み解く段階には程遠い。科学の素晴らしい点の一つは、科学者が何か知らないときには、あらゆる種類の仮説や推測試してみられるとはいえ、最後には自分の無知をあっさり認められることだ。」

 

 

 

生命の方程式

 

科学者は、脳の電気信号の集まりがどうやって主観的経験を生み出すのかを知らない。それ以上に重要なのだが、そのような現象にはどのような進化上の利点がうるのかも、科学者は知らない。それは生命についての私たちの理解にとって、最大の泣き所だ。(略)

 

 

 

皮肉にも、この過程をうまく叙述するほど、意識的な感情を説明するのが難しくなる。脳をよく理解するほど、しだいに心が余分に思えてくる。あちらへこちらへと伝わる電気信号によって全システムが機能しているのなら、いったいぜんたい、なぜ私たちは恐れを感じる必要まであるのか?一連の電気化学的反応が目の神経細胞から脚の筋肉の動きにまで、はるばるつながっているのなら、なぜこの連鎖に主観的経験を加えるのか?主観的経験は何をしているのか?(略)

 

 

 

私たちに心が必要なのは、心が記憶を保存したり、計画を立てたり、完全に新しいイメージやアイデアを自発的に生み出したりするからだと主張する人もいるかもしれない。ただ外部の刺激に反応しているだけではないのだ。たとえば、人がライオンを見かけた時、その人は捕食者を目にして自動的に反応したりはしない。

 

 

一年前に伯母がライオンに食われたことを思い出す。ライオンに八つ裂きにされるのはどんな感じかを想像する。親を失った我が子の運命を予想する。だから人は感じる。(略)

 

 

だが、ちょっと待ってほしい。こうした記憶や想像や思考とはみな、何なのか?どこに存在するのか?現在の生物学の説によれば、私たちの記憶や想像や思考は、どこか高い所にある非物質的な領域に存在したりはしないという。じつはそれらも、何十億というニューロンによって発せされる膨大な数の電気信号だ。したがって、記憶や想像や思考を考慮に入れる時にさえ、何十億というニューロンを通過して副腎や脚の筋肉の活動で終わる一連の電気化学的反応から、依然として逃れられないのだ。(略)

 

 

 

哲学者たちはこの謎を要約し、次のような厄介な質問にまとめた。脳で起こらないことで、心で起こることは何か?もし、ニューロンの大規模なネットワークで起こること以外、心の中で起こることが何もなければ、私たちはなぜ心を必要とするのか?逆に、もし神経ネットワークで起こること以上のことが心で本当に起こっているのなら、それはいったいどこで起こっているのか?(略)

 

 

 

現在の仮設によれば、それは観念的な五次元世界のような場所では断じて起こらないらしい。じつは、たとえばこれまで結びついていなかった二つのニューロンが突然互いに信号を発し始めた場所で起こる。(略)

 

 

この疑問は数学の言葉で問い直すことができる。今日では生き物はアルゴリズムり、アルゴリズムは数式で表せるというのが定説になっている。(略)

もしそうなら、そして、意識的経験が何か重要な機能を果たすなら、そのような経験には数学的な表現があるに違いない。

 

 

 

なぜなら、それはアルゴリズムの不可欠な部分だからだ。恐れのアルゴリズムを書いて、「恐れ」を一連の厳密な計算に分解したら、「これだ。・計算プロセスの第九三ステップこそが、恐れの主観的経験だ!」と指摘出来ていいはずだ。だが、数学の広大な領域に、主観的経験を含むアルゴリズムなどあるのだろうか?(略)

 

 

ことによると、私たちは自分自身について考えるために主観的経験を必要としているのだろうか?サバンナを歩き回りながら生存と繁殖の可能性を計算している動物は、自分お行動と決定を自分自身に示したり、ときには他の動物にも伝えたりしなければならない。

 

 

 

脳は自らの決定のモデルを生み出そうとすると、無限の堂々巡りに陥る。すると、あら不思議!このループから、意識がひょっこり現れる。

五〇年前ならこの説明は妥当に聞こえたかもしれないが、二〇一六年の今は、そうはいかない。グーグルやテスラといったいくつかの企業が自動運転車を造って、そのような自動車はすでに道路を走っている。

 

 

 

自動運転車を制御するアルゴリズムは、他の自動車や歩行者、交通信号、路面の窪みなどについて、毎秒何百万もの計算を行う。(略)自動運転車はそれをすべて難なくこなす―― まったく意識もなしに。なにも自動運転車が特別なわけではない。他の多くのコンピュータープログラムも自らの行動を考慮に入れるが、そのどれ一つとして意識を発達させてはいないし、何一つ感じたり望んだりしない。

 

 

 

心を説明できず、心が果たす役割がわかっていないのなら、あっさり切り捨ててしまえばいいではないか。科学の歴史には、捨て去られた概念や仮説が累々と横たわっている。(略)

 

 

 

同様に、人間は何千年にもわたって神を使っておびただしい自然現象を説明してきた。(略)だが過去数世紀の間、科学者たちは神が存在するという実験的証拠を何一つ見つけられない中、落雷や降雨や生命の起源については、はるかに詳細な説明を現に発見してきた。

 

 

 

その結果、哲学のいくつかの下位分野を除けば、専門家の査読がある科学雑誌に載る論文のうちには、神の存在を真剣に受け止めているものは一篇もない。(略)

 

 

 

最後に、次のような立場を取る科学者もいる。意識は現実のもので、重大な道徳的・政治的価値を持つかもしれないが、生物学的機能は何一つ果たさない。意識は特定の脳の作用の、生物学的には無用な副産物だ。(略)

 

 

 

同様に、意識は複雑な神経ネットワークの発火によって生み出される、一種の心的汚染物質だ。意識は何もしない。ただそこにあるだけであるというのだ。もしこれが正しければ、何億年にもわたって無数の生き物が経験してきた苦痛や快楽は、ただの心的汚染物質にすぎないことになる。

 

 

これはたとえ正しくないとしても、たしかに一考に値する。だが、二〇一六年の時点で現代科学が提供できる意識の仮設のうち、これが最高のものであるとは、なんと驚くべきことだろう。(略)」

 

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第3章 人間の輝き)

「第3章 人間の輝き

 

人間がこの世界でいちばん強力な種であることは疑いもない。ホモ・サピエンスは、自分がひときわ高い道徳的地位を享受し、人間の命はブタやゾウやオオカミの命よりもはるかに価値があるとも考えたがる。だが、果たしてそれが正しいかは、それほど明白ではない。(略)

 

 

 

アメリカはアフガニスタンよりもはるかに強力だ。それならば、アメリカ人の命はアフガニスタン人の命よりも本質的な価値が大きいことになるのだろうか?

実際問題として、アメリカ人の命のほうが高く評価されている。(略)アメリカ国民が殺害されたら、アフガニスタン国民が殺害されたときよりもはるかに激しい国際的な抗議が湧き起るだろう。とはいおえ、これは一般に、地政学的な力の均衡の不当な結果にすぎないと受け止められている。(略)

 

 

 

伝統的な一神教なら、サピエンスだけが不滅の魂を持っていると答える。肉体は衰え、やがて朽ちるが、魂は救済あるいは永遠の断罪に向かって旅を続け、楽園で永久に続く喜びを経験するか、あるいは地獄で未来永劫、悲惨な状態にとどまる。ブタやその他の動物は魂を持たないので、この壮大なドラマには参加しない。

 

 

彼らはほんの数年生きるだけで、それから死んで無に帰する。したがって私たちは儚いブタよりも人間の不滅の魂にはるかに多く気を遣うべきなのだ。

これは幼稚園で語られるおとぎ話ではなく、ニ一世紀初頭の今も、何十億という人間と動物の生活を形作り続けている、はなはだ強力な神話だ。(略)

 

 

 

ところが、最新の科学的発見はみな、この一神教の神話をきっぱりと否定している。たしかに、研究室での実験で、この神話の一部が正しいことが裏付けられてはいる。まさに一神教信者の言う通り、動物たちには魂はない。(略)

 

 

残念ながら、同様の実験によって、一神教神話の第二の、そしてずっと重要な部分、すなわち、人間には現に魂があるという部分も切り崩されている。科学者たちはホモ・サピエンスに何万という奇怪な実験を行ない、私たちの心臓や脳を隅から隅まで調べて来た。だが、これまでのところ、不思議な輝きは見つかっていない。ブタとは違ってサピエンスには魂があるという科学的証拠は皆無なのだ。(略)

 

 

ところが生命科学者たちが魂の存在を疑っているのは、証拠がないからだけではなく、魂という考えそのものが、進化の最も根本的な原理に反するからでもある。

進化論が敬虔な一神教信者の間にとどまる所を知らない憎しみを引き起こすのは、この矛盾のせいだ。」

 

 

 

 

ホモ・デウス (上) (第2章 人新世)

「五〇〇年の孤独

 

近代の科学と産業の台頭が、人間と動物の関係に次の革命をもたらした。農業革命の間に、人間は動植物を黙らせ、アニミズムの壮大なオペラを人間と神の対話劇に変えた。そして科学革命の間に、人類は神々まで黙らせた。この世界は今や、ワンマン・ショーになった。人類はがらんとした舞台に独りで立ち、独白し、誰とも交渉せず、何の義務も負わされることなしに途方もない力を手に入れた。物理と化学と生物学の無言の法則を解読した人間は、今やそれらを好き勝手に操っている。

 

 

 

太古の狩猟採集民がサバンナに出ていくときには、野生の牛の助けを求め、牛は狩猟者に何かを要求した。古代の農耕民が自分の牛に乳を多く出してもらいたい時には、天の偉大な神に助けを求め、神は条件を提示した。だが、ネスレ社のっ研究開発部門の白衣をまとった職員が乳製品の生産量を増やしたいときには、遺伝子を研究する —— が、遺伝子が何か見返りを求めることはない。(略)

 

 

ニュートン自身は信仰の篤いキリスト教徒で、物理の法則の研究よりも聖書の研究にはるかに多くの時間を捧げていたとはいえ、彼が開始に貢献した科学革命は、神を脇へ押しのけた。ニュートンの後継者たちが登場して自らの「創世記」を書いた時には、もう神もヘビもお呼びではなかった。(略)

 

 

 

農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。(略)

 

 

 

科学のおかげで、現代の企業は牛やブタやニワトリを、伝統的な農耕社会で一般的だった状態よりもなおさら厳しい状態に置くことが可能になった。(略)

もし野心的な農民が狭苦しい小屋に何千頭もの動物を押し込めようとしたら、おそらく致命的な感染症が起こり、すべての動物ばかりか多くの村人も命を落としていただろう。(略)

 

 

今や何万というブタや牛やニワトリを幾列も整然と並んだ窮屈なケージに詰め込み、肉や牛乳や卵を前例のないgほど効率的に生産することができる。

そのような慣行は、近年、人間と動物の関係を人々が見直し始めたため、しだいに批判にさらされるようになってきた。

 

 

 

私たちは突然、いわゆる「下等な生き物」の運命に、今までにない関心を見せている。それはひょっとすると、私たち自身が「下等な生き物」の仲間入りをしそうだからかもしれない。(略)

 

 

 

人間には高い知能と大きな力に加えて、何らかの不思議な輝き(スパーク)があり、そのおかげで、ブタやニワトリ、チンパンジー、コンピュータープログラムのどれとも一線を画しているのか?もしそうなら、その輝きはどこに由来するのか?そして、AIがそれを絶対に獲得しえないと私たちが確信しているのはなぜか?

 

 

 

もしそのような輝きがないとすれば、コンピューターが知能と力で人間を越えた 後にさえ、人間の命に特別な価値を持たせ続ける理由があるだろうか?(略)

 

 

次の章では、私たちと動物との関係をさらに深く理解するためだけではなく、未来には何が私たちを待ち受けており、人間と超人との関係がどのようになりそうかを正しく認識するためにも、ホモ・サピエンスの性質と力を詳しく考察する。」