読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「開戦

 

竹田 では、次の「太平洋戦争開戦時の天皇の行動」について、まず橋爪さんから話してください。

 

橋爪 開戦に至る経緯は、たいへん複雑なのですけれども、まず言えることは、誰かの一貫した方針や考え方によって準備されたものと言うよりも、その場その場の状況に応じた行き当たりばったりの政策や軍事行動を積み重ねた結果、次第にのっぴきならないところに追い詰められていった。

 

 

日本にとっては対米戦争そのものが、勝算のない、まったく不合理な選択であったということです。これにくらべれば、蒋介石政権、アメリカ、ソ連などの関係諸国は、それぞれの国益にもとづいて、ずっと賢明に合理的に終始行動し続けた。

 

 

ともかく、おおよその経過を言えば、日本は一九三一年に満州事変を起こし、満州に傀儡国家を建設、満州を日本の排他的な勢力圏とした。このことで、中国の門戸開放を定めたワシントン体制(英米中心の国際協調態勢)と真っ向から衝突し、国際連盟を脱退することになります(一九三三年三月)。

 

 

 

一九三六年には日独防共協定、一九三七年には日独伊防共協定を結びますが、これは陸軍がきたるべき対ソ戦争に備えるためのものでした。一九三七年の盧溝橋事件が拡大し日華事変となるのも、もともとは、対ソ開戦の際に背後から中国に攻撃されてはまずいので、中国の抗日運動を圧伏し、平和条約を締結するか親日的な政権を樹立するかしようとしたことが動機です。

 

 

対ソ戦争を重視した参謀本部石原莞爾などは、ですから、さきほど加藤さんの紹介にあったように、日華事変そのものに反対でしたが、主流から外されていきます。そして、枝葉であったはずの日華事変が泥沼化するにつれ、英米との対立がますます決定的になっていきます。そもそも日本が、対中戦争を「事変」と称したのは、戦争継続に必要な物資を外国から輸入するためだったのですが(「戦争」となれば、中立の既定によって、交戦国は多くの物資が輸入できなくなる)、同じように相手の蒋介石政権も抗戦に必要な物資を外国からの援助にあおぐことができてしまうという矛盾がありました。

 

 

 

当時の国際情勢は、ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭を軸に、激動していくのですが、日本はこうした国際情勢のなかで、どの国と協力し、どの国と敵対していくかをめぐって、揺れ動きます。最初、日本の仮想敵国は一貫してソ連ですが、最後になって南進論が勢力をえ、土壇場になって対米英戦争が選択されるのです。(略)

 

 

一方アメリカは、わかりやすく言えばいまの北朝鮮を見るような目で、日本を見ていた。日本が近隣諸国を侵略し、国際社会の秩序を破って勢力の拡張をはかっている以上、いずれ衝突はさけられない。(略)

 

 

日本は、事態が深刻であることが、よくわかっていなかった。(略)

 

 

ひとつのポイントは、近衛内閣が開戦前に総辞職してしまって、次に東条内閣が成立したというところにあります。

首班の指名は、憲法上、天皇が行うことですけれど、その際には慣例として元老に諮問する。つまり、元老が生きていた間は、元老が次のキングメーカーの役割を果たしていたわけです。西園寺公を最後に元老が死に絶えてしまったあとでは、重臣会議がその代わりとなり、重臣たちがいろいろ意見を述べた。それで東条英機が首班に指名されて東条内閣ができるのですが、東条は陸相として主戦論を展開して近衛文麿を退陣においこんだ当事者であるから、東条内閣が出現したということは完全な戦争準備の内閣であって、それを裁可した天皇には開戦に踏み切った大きな責任があったのではないか、という議論がよくあるわけです(たとえば、井上清昭和天皇の戦争責任」)。

 

 

けれども、猪瀬直樹の「昭和16年夏の敗戦」によると、その経緯はそんなに簡単ではない。むしろ東条の力量でもって陸軍をおさえて、近衛内閣のもとで決められた対米開戦の決定を白紙に戻す、という意味合いだったというのです。入江昭「太平洋戦争の起源」もこのような解釈をとっています。(略)

 

 

 

天皇がそういう期待をしたのは、対米英戦争に突入した場合の戦局や結末を天皇はかなり冷静に予測していたためで、戦争を回避するための最大限の努力をしたと言えるのではないか。ここがひとつのポイントです。

 

 

 

竹田 ひとつ質問です。東条英機を首相に指名したことについて、天皇のイニシアティヴはどのくらいあったと考えますか?

 

 

加藤 対米英開戦の回避にむけての指名という意味ではもう一〇〇パーセントでしょう。

 

橋爪 そこまではないと思います。(略)

 

加藤 大日本帝国憲法下で首相の任命権をもっているのは天皇です。(略)

 

(略)

 

 

加藤 そうかな。そのときの事情はこうなってますね。一九四一(昭和十六)年九月六日に近衛内閣が御前会議において、米英蘭に対して交渉はするけれど戦争準備は始めると決めた。それで、十月下旬まで武力発動するかどうかを決めるとタイムリミットを設けた。その決定にちょっとでも反対しようとすると、陸軍大臣だった東条が急先鋒で怒鳴り、もうだめなんです。結局、それで通っちゃった。

 

 

通っちゃえば、これは御前会議で決まったことだから、十月下旬までには決定しなければならない。そうしたらもう選択肢は戦争しかない。近衛文麿は、これが通っちゃったあと、これはだめだというので内閣を投げ出す。(略)

 

 

猪瀬氏の「昭和16年夏の敗戦」によれば、木戸を東条に会わせて、天皇の意思はこうだということを言い含めたうえ、東条に命じています。(略)

僕の判断材料はこの猪瀬さんの本が主ですから、それをくつがえす他の材料があるのかもしれない。

 

 

でも、そのあといろんなものを読むと、「東条というのは急先鋒で、その東条を首班に任命した天皇に戦争責任がある」というような通俗的な解釈はいまは少なくて、ここ十五年ぐらいの文献では、九月六日の決定を白紙撤回しろという天皇の意向を受けて東条が戦争回避に動いたということが常識になっている。そういう印象を受けています。

 

 

 

竹田 ようは天皇のガヴァナビリティ(governability 統治権力)というか、つまり政治的決定権限ですね、それをどの程度もっていたのかということがここでのポイントになっている。橋爪さんの話だとそれほどの権限はなかったということになるが、しかし、一般の人間の感覚からは、天皇大日本帝国憲法上では完全な最高責任者なんだから、相当程度の権限はあったはずだとまず考えるところですね。(略)

 

(略)

 

橋爪 なぜ質問攻めのようになるかというと、天皇には拒否権(ベトー)がない。憲法の条文上はあるようにも読めるけれども、運用や慣例も憲法であって、慣例として拒否しないことになっていた。(略)

 

 

加藤 いや、そうだろうか。(略)質問をしていること自体を反対の意思表示だというのは、ちょっと言い過ぎかと思う。

 

(略)

 

 

加藤 一九四一年九月六日の御前会議で、十月までにアメリカと戦争するかどうかを決めることになる。アメリカと戦争するなんていう選択肢はずっと考えていなかったんだから、それに対して天皇は反対です。その理由はね、国際協調のためだとか、立憲制から考えてとか、国際法から考えてとか、いろいろ言っているけれど、そういうことではない。アメリカとやったら負けるからです。これをやって勝ちそうだったら反対はしない。そういう意味での合理性です。でもそれは、ゴールを設定する一義的な合理性ではない。

 

 

設定されたゴールにどうたどり着くかという二義的な合理性です。そういう二義的な意味の合理性に立っているために、この人は、最初、とにかく反対する。自分が最高責任者で、最終決定は自分がしなければならないから、いつも手前ですごく慎重になる。(略)

 

 

そういう意味で僕は、この人の対応をみていると、すごく妥当だと思う。当時のいろいろな人間とくらべたら、非常に温厚で、反応は妥当。

 

(略)

 

 

橋爪 対米英戦争には勝てないであろうということは、ある程度の知識をもっている人間であれば容易に予想がつくことで、よくて引き分けか、講和なんですね。もし講和ができなくて追い詰められれば君主制自体にもひびが入って、自分の一身の問題にもなるということは、一般に君主がいちばん明確に意識するはずのことなんです。

 

 

現に第一次世界大戦で、たくさんの君主国が解体した。そういう戦争の危うさについては、天皇は誰よりも意識していたと思います。

 

 

加藤 (略)

それは人間だから誰にでもそういうことはあるだろう、そこまで責めるのは酷だという見方もありうるけれども、天皇とほぼ同じ状況にいた近衛文麿は、保守政治家として、一九四一年の十月段階からこの戦争は負ける、とみている。そして天皇はもう少し積極的に戦争に反対するのがよいと考えている。(略)

 

 

そして戦後になって死後発表の手記に、天皇が積極的に動けば対米開戦は回避できた、という意味のことを書いている。ただし、この近衛もかなり問題がある。さっき言ったみたいに、日華事変のときの責任は完全に近衛にある、不拡大と言いながら拡大しているのは近衛だから。(略)

 

 

僕は近衛という人もそんなには信用していないけれども、近衛がそういうことを言う根拠は、やっぱり天皇自身にもあるんじゃないかと思う。

 

 

 

橋爪 加藤さんが言っていることに反対はしないけど、フェアじゃないと思う。加藤さんは文学者だから、側近が書きつけた片言隻語をとらえて天皇の内面をおしはかり、オプチミストだとかと個人の人格に対する批評を加えているけれど、私に言わせれば、それは議論の本筋と関係ない。天皇が公人として、どう行動したかだけが大切なのです。(略)

 

 

 

加藤 当時の民衆の平均的意識を基準に考えるというのは違うんじゃないかな。天皇というのは、統治権者とか統帥権者としての責任をもっているわけだから。

 

 

(略)

 

 

橋爪 天皇は政治家ではないが、政治家一般の基準で考えても水準以上の見識を持っていたと言える。開戦にいたる力学について言えば、まず陸軍は、満州や中国の権益を放棄できない、ということが主たる理由で対米英開戦を主張した。

 

 

対米英開戦となれば、おもに海軍の戦いになるわけです。ところが、海軍はその準備はできていなかった。(略)

だから天皇は、会議の場で海軍に発言させて、戦争ができないと言わせたかったのだろうけど、海軍は言わなかったわけです。

 

 

(略)

 

 

竹田 当時、ドイツは日の出の勢いで頑張っていて、ひょっとしたら勝つかもしれないと考えられていた。勝てば日本がより栄えるわけだから、乗り遅れたらまずい。だから、それに乗っちゃったというのは、判断としてはそれほど脆弱な判断とは言えないと思う。(略)

 

 

 

こういう問題点が全部でてきて、天皇像が明確になるとすればそれはいいことだと思う。ただ、それが相当明らかになったといって、そのことが天皇の責任の有無ということとすぐ結びつくかどうか気になるけどね。

 

 

(略)

 

 

加藤 (略)

この時期に戦争当事者の西欧諸国では、ある国際ルール上のパラダイムチェンジ(paradigm change考え方の枠組みの変化)が起こっていたと考えられる。そのときまで列強は、みんな、汚いことをやってきた。植民地戦争、帝国主義のアフリカ争奪戦をやっていた。(略)

 

 

 

でも、第一次大戦の悲惨さをきっかけに、そのディフェンス・ラインが「上がる」(笑)。ヴェルサイユ体制、ワシントン体制というのはそのモードの切り替え、ディフェンス・ラインの「上げ」を意味している。(略)

 

 

 

事実、日本ではそう理解され、一種のイジメとうけとられたわけですが、たしかにそういう意味合いもあるとはいえ、それは一部で、主要には、この変化のもとになったのは、第一次世界大戦ロシア革命によって世界秩序の基準の感度に変更が生じ、全体としてハードな帝国主義からソフトな協調主義へと、国際社会のルールが変わったということだった。(略)

 

 

 

その意味で、不当だと言えば言えなくもない。でも、国際ルールというのは、キリスト教世界とか朱子学世界という中世的な普遍秩序をもつ一元的な構造を破壊させて近代社会になったあとは、正義だからこれをルールにする、というのではなく、基本的にゲームの規則になっている。

 

 

つまりプレーヤーの合意によって変更可能なものになっている。その関係の世界のメンバーが、それぞれの言い分の「真」はあるだろうけれど、これに従っていたらいつまでも殺し合いを続けるしかないから、とにかく「真」はおいておいて、共存できる合意点を探そう、という「善」の考え方、関係性にもとづく考え方で設定するという性格のものです。(略)

 

 

 

 

そういうわけで、ルール変更の際には、その理由を深く納得する認識があるかないかがこれに正しく対処するための大きな要因になる。一九二〇年代、それが日本の指導層、軍部、国民総体に、ほとんどなかったことが、その後の日本の孤立に大きく響いてくるわけです。

 

 

竹田 そういう考え方を天皇が知り得た可能性がある?

 

 

(略)

 

橋爪 昭和天皇こそそういう、ヴェルサイユ・ワシントン体制のような国際協調体制を尊重すべきであるという教育を受けた人物なんです。(略)

 

 

(略)

 

 

橋爪 日本がどこまでガヴァナビリティのある国家だったかというところが問題です。

大日本帝国憲法の特異な構造のもとでは、誰が国家戦略を立てるのか、誰が戦争をするか譲歩するかをきめるのか、というメカニズムが明確でない。統帥権の独立という制度のあるおかげで、軍は作戦命令に関して政府のコントロールを受けないでしょう。

 

 

重要な軍事機密情報も、首相は教えてもらえない。そして、両者をつなぐ位置にいる天皇にはなんの実質的な権力もないから、軍と内閣の調整がつかなくなってしまう。そうすると、内閣のイニシアティヴと軍のイニシアティヴと、どちらが強くなるかということになるわけですけれども、軍部大臣現役武官制という制度が、途中しばらく中断された時期もあるのだけれど、広田弘毅内閣のときから終戦までの時期にはずっと生きていたから、軍が内閣よりも優位に立ってしまうのは仕方がない、内閣をいつでも倒せるわけですからね。

 

 

そうなれば、誰も軍をコントロール出来なくなる。軍は国益を代表する立場にないわけだから、たとえば満州で事件を起こしてそこを軍事占領したり、中国大陸でいろんな作戦計画をして、兵員を配置していれば、そこから撤兵するという発想は軍の中からはでてこない。(略)

 

 

だから、憲法上の主権者である天皇がその利害を調整しようと思っても、じつは本当に僅かな影響力を行使することしかできなかった。(略)

 

(略)

 

 

橋爪 いま竹田さんがおっしゃった、天皇には統帥権があったんだから、戦争は抑止できたし、侵略戦争も防止できたはずだということですが、それは不可能なことだったと思う。それを旧憲法下で、天皇があえてやるとどういうことになるかというと、超法規的にやらざるをえないわけです。内閣の輔弼責任とか、参謀本部や軍部のメカニズムを飛び越え、国益にかなうかどうか、国際条約にかなうかどうかという国家制度内の議論をも飛び越えて、とにかくこれは絶対的な基準からみて侵略戦争である(と天皇個人が信じる)から、この命令は裁可しないとか、撤退を命じるとかいうことになる。(略)

 

 

(略)

 

 

加藤 天皇のやれることに限りがあったというのはまったくそのとおりですね。いくらどんなスーパーマンがその位置にいたって、軍部にまつわる錯綜した問題を解決できたとは思えない。その非をすべて天皇に帰して天皇を責めるとしたら逆天皇制的な在り方だろうと思います。

 

 

だから僕からすると天皇への批判は、天皇のやれたことのうち、やらなかったことがあって、それはやるべきではなかっただろうか、ということと、すべてをやれなかったのはわかる、その状況ではかなりしっかりとやってくれた、それでもかなりの線をやったのだから、なぜ戦後、これだけはやった、ここまでしかできなかった、と率直にその不十分さを自分で示さなかったか、という二点に集約される。(略)

 

 

橋爪 加藤さんは簡単に言うけれど、「罰する」というからには、軍刑法などの根拠法が必要になる。軍刑法の手続きは平時と戦時で違うのだけれど、大略を言えば、大佐以下の軍人については師団長が指揮して、各師団において行う。(略)

 

 

大日本帝国法治国家ですから、天皇といえども、こうした手続きを踏み越えていきなり罰することなどできないのです。しかも、現場の命令違反や命令無視をあとから追認し、陸軍中央がかばってつじつまのあうように後追いで命令をだしているという状態では、天皇としてもまったく手を下せない。(略)

 

 

(略)   」

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「日華事変・ノモンハン事件

 

(略)

加藤 (略)

まず、推移を簡単に述べておきます。きっかけは一九三七年七月七日の盧溝橋事件です。この夜、北京の郊外盧溝橋のほとりで夜間演習をしていた支那駐屯軍の一中隊長が、不意に中国軍の方向から飛んでくる十数発の銃声を聞きます。以下、井上清氏のものもあまり信頼できないので児島氏著作に従いますが、これは、その直前に演習で伝令を敵襲と間違え、一方の部隊が軽機銃を発射していたので(それは演習用の空砲だったのですが)、対峙する場所に駐屯していた中国軍がそれに誘われ、対応したものでした。

 

 

 

しかしたまたま伝令にでた兵士が一名、行方不明であったため、事態は緊迫します。後に、その兵士は用便を足していたというので無事現れるのですが、連絡に齟齬があり、最初の射撃のあと、一方では必死に現地の軍による戦闘回避の努力が行われていながら、やがて散発的に続いた応酬が本格的戦闘に発展していってしまう。

 

 

 

こうして小競り合いのあと、翌八日午後六時、歩兵第一連隊長牟田口廉也大佐の指揮のもと、中国軍兵営に本格的攻撃をかけることになります。これが事件の概要です。(略)

 

ですから、まず満州・中国をかたづけて自分たちの力をつけ、将来、ソ連と決しようというのが当時、関東軍作戦参謀だった石原莞爾らの考えだったのです。

それで最初に満州に手を付けた。これが一九三一(昭和六)年の満州事変です。しかし、やってみたら、それは成功したものの、次から次へと新しい事態を追わなければならなくなった。

 

 

それで、こんなことをいつまでも続けていたら、兵員もとられるし、予算もなくなるし、ソ連が攻めてきたら一挙にやられるというので、焦り始める。(略)

先の石原は一九三五年八月に参謀本部作戦課長に就任しているのですが、就任して見て日ソ間の兵力差に愕然とする。(略)

 

 

 

そこで石原は、なんとか紛争を回避して時間をつくり、そのあいだに対ソの兵力格差を埋めなければならないと、軍需のための統制経済化を含む軍備充実計画に着手します。そうしたところに二年後、一九三七年七月七日に盧溝橋事件が起こる。石原は参謀本部の作戦部長になっています。そのときには石原の考えは満州事変時とまるきり逆転している。彼は、いまは戦力拡充の時期で、戦線を拡大すべきではないと考える。(略)

そして最終的に強硬派におしきられる。(略)

 

 

このとき天皇は戦線拡大に懐疑的です。だから天皇はまともです。参謀総長に二度、あと軍令部早朝にも一度会って、本当に大丈夫かと質問して、そのあとでこの華北派兵を裁可している。(略)

 

 

つまり、このときには現地軍ではなく、軍部中央、政府が実質的な拡大の力となった。そして、天皇はそれを承認したかたちです。最初、不拡大を唱えながらも、現地軍の意向を無視して、戦線拡大を承認している。(略)

やはり、例の「結果オーライ」のパターンに近い。

 

 

橋爪 ご指摘はわかりました。(略)

ところでこちらも、いろいろな資料から書き抜いてきた、天皇の行動についてのデータがあるので、それを紹介したいと思います。

 

※ 日華事変の起こる直前、天津事変の際に、杉山陸相ならびに閑院宮参謀総長を呼び、蒋介石と妥協(和平)が講ぜられないか探ろうとした。

 

(略)

 

※八月九日に大山海軍中尉らが上海で射殺される事件が発生すると、それまで不拡大方針に従っていた海軍が態度を一変させ、陸軍兵力の増派を主張し、閣議もこれを決定したので、出兵を裁可したが、「カウナッタラ止ムヲ得ンダラウナ。……外交ニテ収ムルコトハ難シイ」と嘆息した。

 

(略)

 

※ ノモンハン事件の際、関東軍が命令に違反して国境外のタムスクを空襲した際、報告を受けた天皇は、命令違反であるから関東軍司令官の処分が必要だと閑院宮参謀総長に示唆した。参謀総長は処分のことを「研究」すると回答しながら、実際には処分を行わなかった。   一九三九(昭和十四)年六月

 

 

※ 陸軍の体質は教育に問題があるとして、板垣征四郎陸相を批判した

         一九三九(昭和十四)年七月六日

 

※ ノモンハン事件後、天皇は侍従武官長蓮沼蕃中将に、閑院宮参謀総長も責任をとったほうがよい、と考えを示した。実際には、畑陸相の意向で参謀総長は留任した。

         一九三九(昭和十四)年十一月十四日

 

 

天皇は、陸海軍の統帥権者でありながら、実質的に陸海軍をコントロールする方法を、なにももっていなかったという制度上の構造を、よく理解しないといけません。(略)

 

 

加藤 いや、でも上海で事変がおこり、石原が先に行ったような理由からなかなか参謀本部の作戦部長として現地に増派しないときには、「二ケ師(二ケ師団―引用者)の兵力では上海は悲惨な目に遭ふ」と思い、天皇は「私は盛に兵力の増加を督促した」が石原はそれに従わなかった、と言っています。

 

 

統帥権者として、天皇は冷静な態度を貫いた。勝てる時には、勝とうとした。しかしベースは平和主義者だった。そういうことだと思う。」

 

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

二・二六事件

 

橋爪 次に、二・二六事件です。これは数ある事件のなかで最大のもので、ほとんど成功寸前のところまでいったクーデター事件です。(略)

いわゆる天皇の直接親政をめざす、皇道的な観念を持つ軍人が増えてきたのも、こういう変化と軌を一にする動きなわけです。

 

 

さてそこで、陸軍省参謀本部の内部に、陸軍の主導権をめぐって、皇道派と統制派の対立が生まれます。真崎甚三郎大将らが、皇道派のリーダーとして、青年将校のあいだで人気を集めていたのですが、やがて皇道派が人事抗争に敗れ、真崎大将も本人不同意のまま教育総監のポストを更迭されてしまう。

 

 

 

皇道派青年将校が集まっていた第一師団も、満州に移駐することになって、いまを逃せばチャンスがないと思い詰めた青年将校たちが配下の部隊を率いて決起したのが、一九三六(昭和十一)年二月二十六日の二・二六事件です。

 

 

 

野中四郎大尉ほか一千四百名は、斎藤実内大臣高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、首相官邸陸軍省ほか要所を占拠した。岡田啓介首相も襲撃され死亡と報じられたが、実は危うく難をまぬがれ、二日後にようやく救出された。

 

 

 

彼らの目的は、”君側の奸”を除き、皇道派の暫定政権を樹立して、”昭和維新”を断行しようというものだった。

この事件のポイントは、陸軍の内部に同調者が多くて、事件発生の当初、決起部隊が義軍であるか、賊軍であるか、という議論が起ったことです。陸軍の首脳が、決起した将校と寿司をつまんだりしながら議論しているという状態で、とても反乱軍を討伐するという雰囲気ではなかった。

 

 

 

けれども天皇は、これは反逆部隊である、鎮圧すべきだと即座に判断し、その方向で粘り強く督励し続けた。

陸軍首脳はどのように行動したか、ですが、実にふらふらしていた。川島義之陸相青年将校の代表にとりかこまれて決起趣意書を手渡され、宮中へ参内して天皇にそれを読み聞かせている。

 

 

天皇は露骨に嫌な顔をして、「それより反乱軍を速に鎮圧する方法を講じるのが先決要件ではないか」と叱りつけたといいます。このあと川島陸相は、対応を考えあぐね、宮中で開かれた軍事参議官(荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎ら七名の大将)の会合に下駄をあずけてしまう。ここで合議のうえ、次に掲げるような奇妙な「陸軍大臣告示」ができあがった。(略)

 

 

 

反乱を起こした部隊が、反乱を起こしたまま、正規の指揮系統に編入されたのです。決起部隊は、決起が成功しつつあると楽観したほどだった。

これに対して、天皇はどのように行動したか。天皇は、誰よりもはやく、決起した部隊を反乱軍と規定し、それを鎮圧して正常な法秩序に復帰することを目指して、粘り強く行動した。

 

 

 

湯浅内大臣が、岡田内閣の総辞職を認めると反乱が成功したことになるので、暫定内閣の構想には絶対に同意しないように、とアドヴァイスすると、その通りだと考えて、その通りに実行した。(略)

 

 

二十七日に戒厳令が施行され、態度のはっきりしない香椎浩平中将が戒厳司令官に任命されると、「戒厳令を悪用するなかれ」と適切な注意を与えている。本庄武官長が、決起した将校に同情的な弁護を試みると、「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、その精神に於いても何の恕すべきものありや」と痛烈に反論している。

 

 

 

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」とまで言って、事件の解決をうながした。こうした天皇の毅然とした態度が、事件の正しい解決を方向づけたのはたしかです。

 

 

 

この際どうして、天皇の行動がそこまで重要だったかというと、決起部隊の襲撃によって内閣の主要メンバーが殺害されてしまい、岡田啓介首相は生死不明のまましばらく連絡がつかなかったので、国家意思がたまたま天皇の一身に集中する期間が一、二日あったわけです。

 

 

そこで憲法法治国家の枠組みを守るのか、それとも陸軍の一部が主張していた天皇親政的なイデオロギーに日本国の運命をゆだねるのか、というぎりぎりのところで、彼は憲法を守った。そういうふうに判断しています。(略)

 

 

 

加藤 この事件については、僕の考えはかなり橋爪さんの意見に近い、同意できると思います。やはり、このとき天皇は、ほかの人間にはなかなかできないことをやった。この人としても非常によく頑張ったんじゃないかと思う。(略)

 

 

基本的な評価に同意したうえで、評価の意味付けについて、ちょっと異論を呈してみます。(略)

だから、立憲君主としての判断ということとはもちろん関係してくるけれど、「天皇は立憲法治国家の原則によって断固として鎮圧した」というほどの透徹した認識は、やはりこのことだけからは結論できない。総合的な判断にてらして、このことをどう意味づけるか、ということになるんじゃないだろうか。(略)

 

 

 

一例をあげれば、これは戦後の話だけど、彼はなぜ自分が退位しなかったかという理由として、皇祖皇宗から引き継いだこの国を自分の子孫に伝える責任があったと言っている。ここには国民との関係はない。立憲法治の精神がないということになる。また、他のアジア人に対する認識ですよね。これがまったく欠如している。

 

アジアの人間に対する認識と言っても、東洋人だから一緒じゃないかということではなく、他者としての認識です。(略)

 

 

橋爪 まず、反乱軍であると規定したことがとても大切ですね。それは、張作霖事件のときに通じるものがあるんですけど、法律通りに思考する、それから憲法を守って行動するということを、彼はなによりも大事にする人なわけですよ。個人的な怒りもむろん感じていただろうけれども、その個人的な怒りと、公人としての行動を峻別する術を、彼は知っているし、峻別する能力もあって、その原則にもとづいて彼は行動したと私は思う。

 

 

 

加藤 いや、どうだろうか。戦後になって天皇は、自分は二・二六事件のときと終戦の時に関与したと言っている。なぜ関与したかという理由について、二・二六事件の時は首相がいなくて自分が決定するしかなかったし、終戦のときには午前会議の賛否の結果がすでに同数になっていて自分に決定がゆだねられたからだと、そういう言い方をしている。(略)

 

 

そんな事実からも、僕は人間的に悪印象を受けているかもしれないんだけれども、そういうことが積み重なって、その戦後の過去への言及の仕方の一貫しての印象が、この人はよく頑張ったけど、人間としてはもうひとつ上等じゃないという感じを僕が受ける理由になっているのです。

 

 

(略)

 

 

橋爪 いや、立憲君主国なら、君主は、自分の政治的信念を国政に反映させたりしてはいけないし、反映させたりできないはずです。

 

 

加藤 僕にもだんだん、橋爪さんのモチーフが掴めてきました。あの当時、政治の渦中にある人物で、昭和天皇くらいしっかり立憲的な意識で、戦前のファナティックな皇道派の対極で行動しようとした人間がいただろうか。そこをしっかり評価しなかったら、天皇の評価の軸が築けないじゃないか、ということだと思う。それはそのとおりでしょうね。賛成したい。(略)

 

 

だから、立憲君主であったのは、全体としてみると七分三分の三分くらいだった。打率でいうと二割八分。そういうことを過不足なく評価するということが、すごく難しいところであり、大事なところじゃないかと思う。

 

 

 

橋爪 加藤さんはいやに点が辛いですね。天皇に恨みでもあるのかな。

 

 

加藤 いや、二割八分なら野球選手の打率としては許容範囲ですよ。しかしけっして卓越した打者ではない。そこを過不足なく受け入れよう、そういう意力をもとう、ということです。(略)

 

 

(略)」

 

〇 以前、橋爪氏の「人間にとって法とは何か」でも、触れられていましたが、

私たちの国の「法」は、中国に習い、

管理者=為政者=官僚が、国民を支配するためのものだと考えられてきた、と

書かれていたと思います。

 

引用します。

 

法律とは中国では、統治の手段であり、端的に言って、支配者(皇帝)の人民に対する命令です。神との契約という考え方とは、大変に違います。

支配者の人民に対する命令ですから、支配者の都合で出されるわけで、人民はそれに従わなければなりませんが、支配者は必ずしも従う必要はない。」
 

 

戦後、アメリカの支配を受け、一応民主主義国になり、法の下での平等が謳われ、

誰もが同じように、法に従わなければならないということになりました。

少なくとも、私はそう信じて、この年まで生きてきました。

 

 

ところが、安倍政権のやり方を見ていると、実際には、そう考えていない為政者がかなりいるということが分かりました。自分たちは法を守らない。レイプもOK、公文書の改ざんもOK、贈収賄もOK、ルールは、下々の者たちを支配するためのもの、というやり方です。

 

そんな風土があるこの国で、天皇が「法律通りに思考する、それから憲法を守って行動するということを、彼はなによりも大事にする人」だということが、どんなに驚くべき貴重なことであるか、と私も思いました。

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

満州事変

 

加藤 少し抗弁をすると、僕には天皇にまつわる組織、法制がやはり恣意的というか、近代的なものと非近代的なもののアマルガム(amalgam 合金)になっているという判断がある。それが、僕の天皇への行為への評価に影響していると思う。(略)

 

 

橋爪 まず、この問題の補助線として、天皇大元帥として陸海軍を統帥するとは、憲法の面からどのように理解したらよいのか、少し話しておいたほうがいいと思うんですけれども。

大日本帝国憲法の独自な構成のひとつとして、「統帥権の独立」という問題があります。

統帥権とは、軍事行動を起こす場合にどのような戦略目標をたて、どのような戦術で目標を攻略するか、それにはどの師団、どの方面軍にどのような任務を与えるか、という作戦命令権のことです。(略)

 

 

 

軍の編成や装備を決める編成大権も統帥権に含める場合があるようですが、編成となると予算がからむので、内閣も関係してきます。

では、欧米において統帥権にあたる考え方はないのかというと、それにあたるのは、「軍政と軍令の分離」です。軍隊には、平時と戦時の区別がありますが、平時には予算とか人事とか軍の編成とかをあつかう「軍政」というものがあり、戦時には戦闘行動時における作戦命令権などの「軍令」というものがある。

 

 

 

この軍政と軍令がわかれている点が、近代的軍隊の特徴です。(略)

戦争は、緊急事態なので、軍隊を動かすのにいちいち民主てきな手続きを踏むわけにはいかないのです。でも、その軍令の頂点にあるのは、シビリアン(政治家)であって、大統領なり首相なりの国民の意思を代行できる人間が総司令官として指揮をとる。これが軍令(統帥権)の独立ということの、もともとの欧米的な意味なんです。(略)

 

 

実際問題としては、出動した軍隊に予算をつけないと、弾薬や食料の補給がなくて立ち往生してしまいますから、政府(内閣)や議会も関与します。でも、それは、すでに勝手に作戦行動に移っている軍の決定を追認し、後追いするかたちになる。もちろん天皇には、事前になんの相談もない。ずるずる戦線が拡大していったのは、そのためです。そもそもそのような戦争をするかしないかという、日本国としての議論は、ないに等しかった。

 

 

 

加藤 最近出た「逆説の軍隊」によると、西南の役のときは、官軍には軍令という概念がまったくなかったらしいですね。そのため、薩摩をせめるときに内部で争論になって、いろいろな問題が起こった。そこで、一八七八年ドイツ駐在から帰国した桂太郎の建策によりドイツの軍政・軍令の二元的軍制が採用された、そう言われています。(略)

 

 

いずれにせよ、統帥権というものをつくり、政党などによって軍令が侵されるとまずいので、天皇に直属させるというかたちで独立させた、それが統帥権を独立させる最初のモチーフだった。日本の統帥権は西洋とは違うかたちであったという橋爪さんの説明は、それでよいと思います。

 

 

 

宣戦布告についても、満州事変や日華事変の特徴のひとつが宣戦布告のない戦争だったということの意味が、それで内閣が関与しにくくなり、軍が軍令だけで動ける範囲が大きく確保されることになった点だというのは、適切な指摘だと思う。(略)

 

 

軍令事項も奉勅命令など天皇の裁可の対象となっているわけだし、また、軍を動かす時には予算がいるし、陸軍大臣海軍大臣の裁可がいる。(略)

軍部以外の力が、この独走を防止するチェック機能が、そこで働かなければならなかったわけで、方法がなかったということではない。(略)

 

 

 

そのうえで聞きたいんだけれど、満州事変と日華事変の場合、天皇が不拡大の方針をとってちゃんとした対応をした、と言う橋爪さんのポイントはどこにあるんだろう。(略)

 

 

 

橋爪 統帥権社会学的機能についてもう少し説明すると、それは天皇の軍に対する命令権ではなくて、軍が天皇の名を借りて、内閣・政府のコントロールをはねのけ、独自の組織としてふるまう権限、であったのです。加藤さんの言うように、事変だからといって統帥権は影響をうけなかったが、ということは、軍が内閣よりもいっそう優位に立ち、戦争拡大の既成事実を盾に内閣にそれを認めさせるというパターンが繰り返されたことを意味します。

 

 

さて、当時の習慣はなかなかわかりにくいんですけれども、まず、統帥権が正式に作戦命令としてつくりあげたものを上奏した場合には、天皇は原則としてそのまま裁可することになっていた。(略)

 

 

上奏→裁可というのは、鍵のかかった箱に作戦命令書が入っているのを、侍従武官長が取り次いで、天皇が署名し、また箱に入れて送り返すという手続きです。(略)

その内奏の機会をとらえて、天皇は質問というかたちで、危惧を表明したりすることができる。この質問というのは命令ではないのですが、「こういうことは心配しなくてよいであろうか」というふうに質問して、結果責任について確認を求めるわけです。

 

 

 

内心反対であるときほど、こういう質問を連発することになります。(略)

そこで満州事変についてですが、大事なポイント、ポイントで質問をしていると思うけれど、ひとつは「万里の長城線」に関するものです。万里の長城の南側が河北省(中国)で北川は熱河省満州国)なのですが、もし作戦行動の範囲が長城線を越えて河北省にかかれば、国際連盟との対立が決定的になって、日米関係も修復できない状態になってしまうことは容易に理解できる。(略)

 

 

 

一九三三(昭和八)年二月四日、閑院宮参謀長が熱河作戦を上奏し裁可をあおぐと、異例なことに天皇は、「熱河作戦ハ万里ノ長城ヲ超エテ関内ニ進入スルコトナキ条件ニテ、許可スル」と申し渡した。(略)

陸軍は閣議で、すでに天皇の許可をえたと言って作戦をごり押しする一方、天皇には内閣も承認していると説明していたので、天皇は怒り、作戦の中止を大元帥の権限で直接命令できないかとまで考える。

 

 

 

相談を受けた奈良武官長が、それでは天皇親政になってしまいます、とこれを思いとどまらせ、長城を超える場合には作戦を中止させるという”注意”を参謀本部に伝達するかたちにおちついた。(略)

 

 

ところが関東軍は、熱河省討伐の余勢をかって、河北省になだれこもうとした。天皇は、奈良武官長に替わった本庄茂武官長を呼び、長城線を越えない条件つきで許可したのにこれを無視するのは、軍紀の点でも統帥権の点でも問題があると、参謀本部に注意させている。

 

 

関東軍は、はじめから長城線突破の作戦計画を立て、止められると困るので中央には連絡しなかった。参謀本部でもこれに気付きながら、あまり真剣にとめようとした形跡がない。天皇ひとりが本気で心配したが、彼にもどうしようもなかったというのが実態なのです。

 

 

これ以外の折節にも、天皇の質問は、いつも戦線の拡大ではなく、縮小へ、和平へと向いていた。これがひとつの証拠になるわけです。

 

 

 

加藤 満州事変については、僕も調べましたが、いまの話を聞くとやっぱり評価が逆になります。(略)

そうした状況のなかで政府は、朝鮮軍の行動を追認し、天皇もこれを了承し「関東軍を援けよ」とまで指示してしまうわけです。しかも、事件落着後、事態が一段落したあとも天皇は林を処罰しようとはしていない。この統帥権干犯を天皇は罰しない。つまり、軍事行動面での軍部独走に対する追認の前例を開いている。

 

 

当時、軍隊を動かすのも止めるのも天皇にだけ認められた統帥事項でしたから、ここで天皇が追認をしたことから、それ以後、軍は大きな顔で行動できるようになる。(略)

これについては田中伸尚「ドキュメント昭和天皇」などに詳しく書いてあります。(略)」

 

 

〇 読んでいて、やりきれなくなるので、一言だけ感想を書きます。

加藤氏ほどの人でも、こんなにも橋爪氏が説明しても、

天皇機関説としての天皇の立場を理解出来ないのだ…と思うと、ここに、天皇制の

問題があると思わざるを得ません。

 

 

天皇には、指示したり命令したりすることは出来なかった。何度もそう橋爪氏が説明しているのに、「当時、軍隊を動かすのも止めるのも天皇にだけ認められた統帥事項だった」と言う。

 

これは、今後も続くのでは?と思います。

内田氏は、このような複雑な天皇制を制御できるほどに日本人が成熟するなら、

どんなに素晴らしいか…的に、語っておられたけれど、単純な善悪の基準さえ、簡単に破壊して、社会の枠組みを滅茶苦茶にする政治家しか持たない私たちの国が、そんなふうに成熟するのは、いつになるのか、と絶望的な気持ちになります。

 

「(前からつづく)

僕の感じだと、一九二八年の張作霖爆殺事件のときもそうだけれども、この一九三一年の満州事変の時にも、天皇が信賞必罰をしっかりと行うべきだった。とくに満州事変の場合は、朝鮮軍司令官の干犯行為を処罰できるのは統帥権者である天皇のほかにいないわけですから、処罰の意思をきちんと表明して、林銃十郎を譴責処分することが必要だった。これは「失政」のひとつに数えられる。(略)

 

 

橋爪 統帥権干犯というのは、北一輝が発明した造語であるといい、陸軍や行動派青年将校のふりまわした殺し文句でしょう。どうか、軍紀違反と言ってもらいたいものです。(略)

 

(略)

 

橋爪 錦州の爆撃、占領、ならびに勅語の件ですが、その意味を理解するには、まず満州事変勃発当時の、中国ならびに満州の情況についてざっと復習しておいた方がよいと思います。(略)

 

 

満州事変以前の関東軍は、広大な満州のうち、ごくかぎられた点と線で活動できたにすぎず、それ以外の地域で行動する権限は与えられていなかったのです。(略)

そこでいきおい、何者かの攻撃があったように自作自演して出動する、すなわち謀略にたよることになる。満州事変の謀略のシナリオが描かれたのは、こういう関東軍の制約によるのです。(略)

 

 

 

関東軍は、満州に新政権を樹立しようと工作していたが、政府(若槻内閣)はこれに反対し、国民党(南京政府)との交渉で事を収めようとしていた。こうした政府の方針をつぶすために、関東軍の本庄司令官は錦州爆撃を命じたのです。

 

 

 

錦州爆撃(一九三一年十月八日)には、関東軍の石橋莞爾参謀も同行している。関東軍は軍中央には、偵察中に射撃を受けたので爆弾を投下した、と報告しているが、実際にははじめから爆撃を目的とした行動です。アメリカは、無警告で無防備の都市を爆撃することは戦時ですら許されないことだと抗議するなど、予想通りの国際的な非難をあびました。(略)

 

 

 

天皇勅語が、加藤さんの言うような政治的効果をもったかもしれないことは否定しません。けれども、作戦行為が一段落するたびに、天皇がなんらかの勅語をだすことは当時の常識だった。そんななかで、天皇は、軍部の意向に同調しているのではないことを示そうと、苦労しているのです。(略)

 

 

 

金谷参謀総長は、朝鮮軍に電報を打ってストップをかけ、天皇にもそのように報告した。天皇も「拡大セザル様努力ストノ方針ハ誠ニ結構ナリ」と満足の意を表した。朝鮮軍足止めの報せを受けた関東軍はあわてて援軍を求める電報を打つなどし、結果、朝鮮軍の混成第三十九旅団三千は、奉勅命令なしに国境を越えて奉天へ向かう。陸軍中央はこれを追認することに決め、たとえ閣議が認めなくても天皇に上奏、裁可されない場合は金谷参謀総長、南陸相が辞表をだすことを申し合わせます。

 

 

 

これに対して九月二十二日の閣議は、朝鮮軍の出兵について、賛成はしなかったが反対もせず、既成事実を認め、あろうことか出動した部隊の経費の支出を承認してしまう。天皇は、翌二十三日、若槻首相に不拡大の方針を徹底するように指示し、首相はこれを閣議で伝達したので、南陸相と金谷参謀総長は、今度は出動した部隊をもとの満鉄付属地に引き揚げるよう命令を発したが、いったん動き出した関東軍の暴走は止まらず、さきほどの錦州爆撃などが生ずる、というのがこの間の流れです。(略)

 

 

 

軍と政府が一致している。そういうことであれば、天皇としてはどうしようもないわけです。それは決して、結果オーライのご都合主義ではないのです。これでも天皇の責任を問えるのだろうか。

 

 

 

加藤 勅語の件はわかりました。でもここでのもうひとつのポイントは、やはりその後、天皇統帥権の侵犯、橋爪さんの言うところの軍紀違反を、一見落着のあとも不問に付しているということです。これはただの軍紀違反ではない。天皇にしか譴責する権限のない軍紀の違反です。内閣の輔弼事項でもない。統帥権者である天皇がその職責において、けっしてしてはいけないことです。(略)

 

 

橋爪 それは、当時の日本軍のメカニズムを知らない暴論だと思う。軍紀違反を処理するには軍法があり、師団や軍中央がそれを行なう。政府はまったく関与できないし、天皇軍紀違反をそのままにはしておけないと思っても、その手続きが存在しない。軍紀を守るように、と繰り返し注意するのが精一杯なのです。「天皇にしか譴責する権限のない」のではなく、陸軍大臣にしかないのですが、その陸軍大臣をはじめ軍中央にまったくその気がない。

 

 

加藤 しかし、そう言えば天皇統帥権があることの意味は、ほとんどなくなる。

 

 

橋爪 加藤さんがどういう本を読んだか知らないけれども、天皇悪者説に立った歪んだ資料解釈の本なのではないか。すべての正式な命令は、全部、天皇が署名しますけど、その立案はすべて参謀本部がやる。ですから参謀本部が撤退命令を書いたわけです。(略)

 

 

加藤 しかし橋爪さんが依拠する天皇よりの児島襄の「天皇」にも、奈良武官長が十月一日、日本側の誠意を示し、かつ関東軍の独走を制止するためにも朝鮮軍越境問題の処分を行うべきだと考え、天皇に意見を求めると、天皇が、参謀総長にはすでに「将来は注意せよ」との訓戒を伝えてあるのでそれ以上は不要だろう、林銃十郎朝鮮軍司令官も「軽度の処分」でよかろうと言い、かえって奈良武官長がその「天皇の寛容さ」に驚いたという記述がある。(略)

 

竹田 議論の途中だけど、少し観想を言わせてください。橋爪さんの議論の意図は、これまでわれわれがもっていた平均的な昭和天皇の像を、かなり大幅に変えようとするものだと思う。(略)

 

 

 

まずひとつは、昭和天皇は、現人神とか統帥権者とか言われて相当強力な権力をもっていたように思えるが、現実には戦前の日本の軍優勢の軍・政府関係のシステムのなかで自分の政治的意志を反映させることは、相当制限されていた、ということ。

 

 

 

もうひとつは、彼は、天皇という役割を周囲の事情におされてなんとなく受け入れていた人間ではなくて、立憲君主という役割をかなり自覚的に果たそうとしたが、しかしいま言った政治システムのなかでなかなか果たせなかった、ということ。(略)

 

 

 

ただ、もちろんこれは、もう少し聞いてみないとまだはっきりはしませんが、仮にそうだとしても、つまり、天皇は近代的な立憲君主たろうとしていたが、さまざまな制限からそのことをうまく実行できなかった、という像がかなり実情に近かったとしても、天皇がそういう立場にあった以上、誰も彼の戦争責任を追及できないという言い方にはすぐにはならない、というのが僕の感じです。(略)

 

 

加藤 (略)

僕は、一応、役割分担の気持ちで反対意見を出しているけど、自分の判断としては、よくやったというところもあれば、もう少しやれたんじゃなかというところもある。(略)

 

 

 

橋爪 でもね、満州事変が起きる直前の九月十日と十一日、安保海軍大臣と南陸軍大臣にそれぞれ、「軍紀ノ維持ハ確実ナリヤ」とわざわざ異例の下問をしているのですよ。張作霖事件このかた、軍では用心して、余計なことを天皇の耳に入れないように注意していたとは思うんですが、それでも異様な空気を察知して、そういう質問をしている。元老のアドヴァイスもあったろうと思いますが、なかなかのセンスではないでしょうか。

 

 

 

満州事変は、張作霖事件のときと違って、関東軍が組織ぐるみで仕組んだ陰謀で、あれよあれよという間に拡大してしまった。参謀本部にも一部根回しが進んでいたので、止められなかった。政府も軍にひきずられて、状況の追認に終始し、軍と政府の不一致という局面は最初の数日だけだった。天皇がいくらそうしたくても、事変の拡大を阻止する手段もチャンスもなかったのです。」

 

 

 

〇 森友・加計問題や桜を見る会の不正や、それに絡む公文書偽造や破棄の問題、そしてそれを覆い隠すマスコミを使うための不正、準レイプ犯を見逃したり、吉本に多額の投資をしたりと、やりたい放題のやり方を見ていると、この関東軍のやり方に通じるものがあるように思えてきます。

 

今や、本来は罪として裁かれなければならない、疑惑も「それについてはすでに終わっています」との一言で片づけられてしまいます。

 

こんなやり方を黙って容認していたら、「あれよあれよという間に」とんでもない所へ連れて行かれるのでは…とおそろしくてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

張作霖爆殺事件

 

橋爪 それでは二番目の「張作霖爆殺事件の際の対応」に移りたいと思います。

張作霖事件は一九二八(昭和三)年六月四日に起こりました。(略)

その結果、どうなったかと言うと、張作霖軍閥は息子の張学良によって継承された。張学良は事の真相を知るにおよび、父の仇である日本に強い敵意と不信感を抱き、その後は、国民党と共産党を橋渡しして抗日統一戦線をつくるように動いていくわけです。

 

 

ですから、結果からみるならば失敗で、やらない方がよかったとも言えるわけですけれど、とにかくそういう事件がおこる。

ここでの最大の問題は、これが日本陸軍の軍人が関与した政治的な陰謀であって、その真相を陸軍の首脳もすぐに知ったのだけれども、それについて適切な処分がなされなかったということです。(略)

 

 

この報告を受けたあと、田中儀一は「自分は軍に騙されていた」と大変に怒りまして、さっそく、元老の西園寺公望と相談する。西園寺公望は、日本の軍人が犯人であると判ったら、一刻も早く軍法会議で処罰するべきだ、それでこそ日本の国際的な信用も、軍の統制も保たれる、と正論を述べるわけです。

 

 

 

ところが閣僚たちは、小川平吉鉄道大臣をはじめとして、真相の公表などもってのほかであると、一致して反対する。孤立した田中首相は悩んだあげく、十二月二十四日になって天皇に、張作霖爆発事件は「遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるもののごとく、目下鋭意調査中」である、もし事実であれば軍法会議で処罰する、詳細が判明次第、陸軍大臣が報告する、と口頭で報告します。

 

 

さて、ここからが天皇の行動です。天皇は事件後の七月、関東軍に責任なしという報告を、陸軍→田中首相→奈良武官長経由で聞いていたので、田中首相の新たな報告に衝撃を受ける。田中首相にはなにも言いませんでしたが、奈良武官長には、軍人による張作霖の暗殺は許しがたいむねの感想を述べています。

 

 

また陸軍大臣白川義則大将が、調査を開始すると上奏した際には、軍紀を厳正に維持するようにと注意を与えています。

そうこうしているうちに、野党が国会で、真相公表を迫るなど、この事件は政治問題化していきます。一方、陸軍は、事件の内容は公表せず、責任者の処分も最小限にとどめるとの方針を固め、板挟みになった田中首相は苦慮する。

 

 

 

軍法会議の開催を求める田中首相と、首相批判を強める陸軍との水面下での攻防が続き、結局、関係者の処分をたんなる行政処分(警戒を怠って、何ものかが爆殺事件を起こすのを防げなかったことに対する責任=要するに、犯人ではないという意味)にとどめるという妥協が成立する。

 

 

 

一九二九年六月二十七日、田中首相天皇に、調査の結果、陸軍に犯人はいないと判明した、ただし事件の発生の責任をとって、警備上の責任者を処分する、と報告する。天皇はこれに対して、「責任ヲ明確ニ取ルにアラザレバ赦シ難キ」と田中首相を叱責。

 

 

翌日参内した白川陸相の報告に対しても、首相がかつて報告した内容と違うではないか、これで軍紀が維持できるのか、と激怒して席を立った。寺崎英成御用掛が一九四六年にまとめた「昭和天皇独白録」によると、天皇田中首相にこの際、「辞表を出してはどうか」と詰問したという。

 

 

また同「独白録」によれば天皇は、河本大作大佐が、軍法会議(法廷は一般に公開される)を開けば機密事項を洗いざらい暴露してやる、と陸軍を脅迫したという事実を伝え聞いている。この直後に、田中内閣は総辞職してしまう。

これが張作霖爆殺事件に関する天皇の行動の全体です。(略)

 

 

 

この種の事件のうち、中国大陸で最初に起こった陰謀事件が張作霖爆殺事件だったわけだから、天皇がこの事件を軍法によって適切に処理すべきであるとたびたび田中首相や白川陸相に注意し、圧力をかけていったことは、たいへん正しい。法を守るこうした感覚こそ、当時の閣僚や陸軍の幹部に欠けていたものです。(略)

 

 

加藤 (略)児島襄の記述だと、天皇は、事件から一年後の一九二九年六月に、田中儀一首相の二度目の上奏を受け、その翌日、陸軍の軽い処分を報告する白川陸相の内奏を聞くにおよんで激怒し、「総理がかつて上奏したものと違うではないか」と述べ、「総理のいうことはちっともわからぬ、二度とききたくない」と侍従長にもらした結果、田中首相は総辞職したことにになっています。

 

 

 

そしてこれを受けて橋爪さんは、天皇田中首相を強く叱責したのは、事件の処罰に関し、言を左右にし、結局、これを厳正に行わなかったためだと見ています。でも、たとえば児島襄とは逆の立場からこの事件を記述している井上清の「昭和天皇の戦争責任」だと、そこのところの解釈は、だいぶ違っています。

 

 

井上によれば、天皇が田中を怒ったのは、言を左右にし、最初に行った約束を守らなかったうえに、事件に関し、国民に嘘の発表を行う許可を天皇に求めたためだとなる。天皇にすれば、それは首相が国民に嘘の発表をすることを自分が許可するかたちになる、そういう上奏を田中がしたため拒否したので、最終的に陸軍と内閣が厳正な処分をしないことに怒ったのではない、と井上は見ています。(略)

 

 

橋爪 陸軍軍人の任免は、陸軍大臣の専権事項ですから、天皇にはそもそも承認するとか拒否するとかいう権限はないのです。だから、拒否はしなかった。それでも陸軍当局は、これまでの経験があるから、非公式の打診をしたものであり、天皇はその機会をとらえて、異例の注意を与えたものと考えることができる。精一杯のことをしていると思います。(略)

 

 

 

ところで天皇は、この事件に関して、若気の至りだったとあとで反省していると思います。なにをどう反省したかということですが、私の考えでは、田中儀一首相はむしろ真相の究明をはかろうと最大の努力をした側の人間でしょう。

 

 

ところが、天皇接触できる相手はかぎられていたので、軽率に、というか真相究明を急ぐあまり、前回の報告と違って事件をうやむやに葬るという報告があがって来た時に、田中儀一を個人的に追及するような言い方をしてしまった。そのために田中儀一は、すぐに辞職して、真相究明はますますうやむやになってしまい、なおかつ田中は心労のために頓死してしまった。それで河本大佐の処分は決着してしまった感がある。

 

 

この事件は、天皇が即位して間もない時期のことですが、この種の事柄は結果がすべてですから、ひとつの教訓として反省の材料にしたのではないか。

 

 

 

加藤 その「若気の至りだったと反省している」というのは、どこに出てくる言葉でしょうか。もし「昭和天皇独白録」にでてくる言葉を指すなら、その文脈では、橋爪さんが言うようにはなっていないと思います。この話は、この本の最初にでてきますが、このとき天皇が田中のことを怒ったら、そのことがショックで田中が死んでしまった。自分がコミットしたらこういうふうになってしまった。

 

 

そして田中の同情者が以後、重臣たちを敵視するきっかけをつくってしまった、反省して、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」そう書いてある。(略)

 

 

 

橋爪 加藤さんは文学者だから、人間を見る時にその個人の性格とか、そのとき何を考えていたかという点をまず考えるのは仕方がないと言えば言えるのかもしれないけれど、人間の行為は社会関係のなかで営まれるのだから、組織や法制などにも十分目を配ってもらいたいと思う。

 

 

張作霖事件の場合、天皇のおかれていた文脈からみて、陸軍に対する追及が主眼だったと理解するのが、いちばん自然ではないのかな。軍紀の維持について繰り返し注意を与えている点も、このことを裏付けてると思うけれども。

 

 

 

満州事変はれっきとした陰謀なのだから、首相や内閣はもちろん、参謀本部にも連絡のないまま、出先の軍が暴走した。中国側の策略に対抗するためと報道されたので、世論もそれにひきずられた。そのあと、政府と参謀本部が調整した案件が、天皇のところに上奏されてくるわけだから、首相と軍がまっこうから対立した張作霖事件の時と違って、天皇も基本的にそれを認めるしかない。日華事変についても、これから見ていくわけですが、同様のことが言えると思う。」

 

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「私的領域

 

橋爪 それでは次に、先に述べた六つのポイントのうち、一番目の「家庭に関する行動」について、できるだけ簡単に説明してみます。(略)

「お局制」とはどういうものかというと、独身の女性が局というかたちで天皇の日常生活に奉仕し、ずっと宮中に住んで、一種の後宮のようなものになるわけです。昭和天皇は、大正天皇の正妻の子どもですけれど、天皇に即位すると、彼の意思でこの「お局制」を廃止し、お局部屋に住む正親町典侍ら古手の局たち四十九人を青山御所の官舎に移してしまった。

 

 

そして、いわゆる核家族と言いますか、通常の市民と同じかたちの家族を今後は営むと決意して、宮中改革を行った。(略)

その次に重要なことは、時期が前後するけれど、彼はたくさんの子どもを良子妃とのあいだにもうけていますが、良子妃に生まれたのはどういうわけか最初の四子まで、全部、女子(内親王)だったんです。(略)

 

 

それまでの慣行によれば、二子、三子ぐらい、続けて女子が生まれたりすると、たいてい側室をあてがわれて男子の誕生を期すということになる。実際、昭和天皇も遠回しに進められただろうと思うけれど、これを断固拒否して、忍耐を重ね、ようやく明人親王、すなわち、いまの天皇をもうけている。(略)

 

 

加藤 いままでの天皇戦争責任論というのは、天皇に対する無知や先入観によって非常に弱いものになっていると思うので、以下、できるだけ昭和天皇については公平かつ謙虚でありたいと考えています。(略)

いま橋爪さんは昭和天皇が普通の市民と同じような在り方をもとうとしたことを評価すると言われたけれど、それは勘所が違っているのではないでしょうか。

 

 

たとえば、昭和天皇は、日本の天皇制をイギリスやオランダの君主とくらべてみたため、お局制なんていうことをやっているかぎりは、日本の君主制は非常に遅れたアジアの野蛮な国の段階にとどまっている、で、これじゃいけない、と考えた、そう昭和天皇の行為を理解することもできる。(略)

でも、それを裏付ける材料がないかぎりは、一般の市民のようなかたちに近づけたいと考えたというよりは、むしろ西洋の立憲君主のあり方に近づけたいと考えたのではないか、とそう考える方が妥当であるように思う。

 

 

橋爪 そういう文脈があることにあえて反対はしません。ただ、そのふたつは矛盾するものではないと思う。」

 

 

天皇の戦争責任(第二部  昭和天皇の実像)

「背景

 

竹田 第一部では、いま戦争責任を論じることにどういう意味があるのか、これをどんなかたちで考えれば、いまの時代や状況にきちんとはまるかたちになるのか、ということを中心に話を進めてきました。ここからはできるだけ具体的に歴史的事実にふみこんで、「天皇の戦争責任はあるのか/ないのか」、責任があると言えるなら「どういう観点であると言えるのか」、ないと言うなら「どういう観点で、ないと言えるのか」について、それぞれの立場から論じてもらいたいと思います。(略)

 

 

橋爪 では、天皇の戦争責任について、私が感じていることをまず簡単に話します。

天皇の戦争責任がある」という人がよくいるけれど、率直な感想としては、なんとなくずるい気がする。(略)

 

 

私は、そういうことを言う人に対して、「あなたは何の権利があってそういうことを言うのだ」と強く思います。そして、その種の責任追及にたいしてどう反論できるかというと、「天皇に責任があるという人たちは、戦前、戦中の時期に摂政になり、そして天皇になった昭和天皇個人が、実際にどういうふうに行動したのかという実像を理解して、そういうことを言っているのか」と問い返したく思います。

 

 

私が理解しているかぎりで、情勢判断や行動基準に関して、天皇立憲君主として、これ以上望めないほど適切に行動していると断言できる。私たち日本国民はこうした困難な時期に、最善の天皇をもったわけです。それを裏付けるため、具体的に行動の面からみていけば、次のように、大きく六つの出来事に注目すべきです。

 

 

① 家庭に関する行動 ―― 昭和天皇は、公的世界と区別された、私的領域を守った。

 

② 張作霖爆殺事件の際の対応 ―― 即位してすぐに起きた張作霖爆殺事件のときは、軍旗違反(陸軍の陰謀)の危険性をみぬいて、その真相を究明し処罰するよう政府を督励した。満州事変や日華事変のときは、独自の政治的見識にもとづき、不拡大の判断を示した。

 

③ 二・二六事件の際の対応 ―― 立憲法治国家の原則により、断固として反乱軍の鎮圧を指示した。

 

④ 開戦時の行動 ―― 東条英機を首相に任じ、対米英戦争を回避しようとした。

 

⑤ 終戦時の行動 ―― 国体護持と天皇の身柄についての危惧をおして、降伏を決断した。

 

⑥ 戦後の行動 ―― 自らが退位せずにとどまることで、戦後の日本国に正統性を与えた。

 

 

それぞれの折節における天皇の判断と行動は、大日本帝国憲法が規定している合理的な君主としての行動をとっているわけであって、そこには賢明な判断がいくつも重ねられている。もし、この実像とずれたイメージが人々のあいだに広がっているとすれば、それは、「天皇機関説」と「天皇主権説」という大日本帝国の国家体制(国体)に関する不幸な二重の解釈にまつわる誤解の一種ではないかと私は思う。

 

 

たとえば、井上清さんが書いているような”天皇は主権者であったのだから責任がある”(「昭和天皇の戦争責任」)という短絡的なロジックは、いわゆる皇国史観の発想と同じものだと思います。(略)

 

 

 

加藤 これまでの天皇の戦争責任の論じられ方について、橋爪さんが「ずるい気がする」ということには、ほぼ全面的に同意できます。(略)

ただ、僕の天皇責任論というのは、ひとつは戦前・戦中に天皇が行ったことを対象にしますが、もうひとつは、その戦前・戦中に行ったことに戦後、天皇がどのような認識を示し、どういう対応をとったか、ということを対象にする。前者でも譲歩するつもりはないが、重心はむしろ後者にある。(略)

 

 

僕は、昭和天皇の行動の実像から見ていくのには賛成です。(略)

昭和天皇の戦争責任、これはアジアの人々に対する責任と考えてもらってもいいけれど、そういうことに対する基本的な責任は、天皇にもあると僕は考える。(略)

 

 

橋爪 私はなにも、被疑者について「推定無罪」をたてるように、天皇を無罪とみなそうというのではないのです。そうではなくて、公人としての天皇には行動能力がないのだから、そもそも被疑者たりえない、という考え方なのです。(略)

 

 

まず、その前提として、さきほど言った「天皇とはいかなる存在であるか」についての、彼自身の理解を考慮に入れるべきだと思います。天皇という存在は、きわめて特別なので、常人の理解ではおしはかりにくいとことがあるんです。

 

 

天皇は君主です。君主は、一国の中にひとりしかいなくて、生まれた瞬間にそのような立場を引き受ける。それは常人には想像もできないプレッシャーで、それによって特異な人格を形成します。そういう特異な人格であるということを、よくよく理解するべきだと思う。

 

 

これは戦後でもそうで、一例をあげると、私は「よいトイレ研究会」というトイレの改善を調査研究する変なグループに半年ばかり参加していたことがあるんです。(略)

そのときついでに、三階の貴賓席の裏側にある「天皇、皇后専用トイレ」も見せてもらったんです。(略)

 

 

常人からすれば、専用のトイレがあるとはなんと贅沢なことだろう、という話になるのですが、そこで非常に印象深かったのは、これが使われたことがあるのかと聞いたところ、何回もおいでになっておられるのに一回もない。皇族方は、公式行事の予定が入ると、到着時間をプラスマイナス三十秒みたいに指定されてしまうでしょう。

 

 

だから、生理的な要求に関しては、基本的に我慢するんです。前の日から水などはあまり飲まず、すべて節制されるのだそうです。もし、トイレに行かれるとなると予定に支障をきたすから、みんなの迷惑になる。これは皇太子を含めて、いまの後続でも全部そうなんです。(略)

 

昭和天皇に関して言えば、当時の皇族の例にたがわず、生後すぐ里子に出された。そして将来の君主として、皇長孫として育てられ、学習院初等科に通ったけれど、ご学友というのがいて一般の生徒からは隔てれらていた。(略)

 

それから、相撲と水泳はいいがゴルフはだめとか、つねに行動を制限されたわけです。(略)

では、どういう教育が天皇に施されたのかというと、いくつかの系統があるのですが、ひとつの系統は「大日本帝国憲法下での国家機関としての天皇」になるための教育です。ここまで厳しい規律訓練を受けたのは、昭和天皇が初めてです。(略)

 

 

 

もう一つの系統は、皇太子時代の一九二一(大正十)年に七か月にわたって、イギリス、フランス、イタリアなどを遊学したのですが、そのときに従来の環境からまったく解き放たれて西欧の世界、第一次大戦直後のヨーロッパを実際にみて、国際的な感覚を学び、彼の人格の基礎にくりいれた。英国王室の一員として遇されたことが、彼の君主館に大きな影響を与えた。

 

 

 

昭和天皇は、こういう世界同時代性と、日本固有性を、ふたつながらに具えている、たいへんに特異な君主であった。それが彼を個人として理解する場合の出発点になると思います。(略)

 

 

(略)

 

 

竹田 いま聞いたかぎりでは、近代日本の天皇は、かたちのうえでこそ西洋型の立憲君主だけれども、中身においては全然違う君主であり、ちょっと異様な君主のあり方をしているというイメージが伝わって来たけれど、こういう天皇像は一般的によく言われているんですか?

 

 

橋爪 わりあい、よく言われていると思う。ただ、左翼系の人たちは聞く耳をもたないから。

 

 

加藤 でも、左翼系の人間でも、こういうふうなことはある程度……。

 

橋爪 調べればわかる。

 

 

(略)

 

 

橋爪 じゃあ、もうちょっと背景説明として、明治国家について話をします。

明治国家といっても、一八八五(明治一八)年までの太政官制と、そのあとの内閣制(このときにはまだ議会がない)、さらに一八八九(明治二十二)年に明治憲法が施行されてからの立憲君主制では、政体としてかなり違うので一口では言えないんですが、話を簡単にするために、憲法制定以前のことは考えないことにします。(略)

 

 

ひとつの考え方は、日本は完全な西欧型の立憲君主国であって、法治国家であって、天皇は国家機関であるという、きわめて合理的な考え方ですね。これはいわゆる天皇機関説であり、大日本帝国憲法の構成を額面通りに受け取るならばこうなるわけでしょう。天皇自身もこの考え方で教育されているから、そこで期待されているとおりの立憲君主として行動しようとしたわけです。

 

 

もうひとつの考え方は、天皇主権説、あるいは天皇親政説と言われるもので、皇道派青年将校の決起などを支えたイリュージョン(illusion 幻想・錯覚)がこれです。これは決して公認の学説ではなかったのに、天皇機関説論争を境に軍の正式な考え方になり、この考え方のもとに総力戦とか、玉砕とか、特攻とかが戦われるようになった。だから、これもあながち正統でない考え方だとは言えないわけです。

 

 

むしろ、軍隊や学校での教育や、マスコミの宣伝を通じて、民衆のあいだにはこのほうが浸透してしまっていた。

この考え方は、大日本帝国憲法のなかのどこに根拠をもっていたかというと、第一条の「万世一系天皇之ヲ統治ス」というところで、「万世一系」というのはなにかといえば、神武天皇以来の天皇の皇統が連綿と続いているということですから、明治維新に先立って天皇は日本を統治する権限をもっていたことになる。

 

 

だから、その権限を発動して、明治維新を起こして幕府を打ち倒し、明治国家をつくったという話になる。(略)

それに加えて、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。これは、天皇政治責任を負わないという規定なのですが、神秘化されて、天皇が現人神であり統治の主体だという観念と結びついた。

 

 

 

そうだとすれば、立憲君主国であるというのは、これは見せかけのことであり、その根源には天皇の、いわば憲法制定権力のような、憲法を超越した主体性がある。その呼びかけに臣民が応じるならば、憲法体制を乗り越えて、国家改造のためのアクションを起こしていいということになる。

 

 

 

この天皇主権説にもとづけば、憲法よりも、君臣の義、尊王の至情の方が優先するという考え方になる。大日本帝国は、明治維新の正統性を肯定しなければなりませんから、こうした考え方をまったく排除することはできない。

 

 

このふたつが曖昧なかたちで、ないまぜになっていたことが、大日本帝国憲法の問題点でした。通常の立憲君主国は、王朝というかたちをとっているから、何年何月に誰が王権を奪取したかということが明白なわけで、それはプロイセンの王朝であれ、ブルボン王朝であれ、イギリスの王朝であれ、たいへんにはっきりしている。(略)

 

 

大日本帝国憲法は契約説をとっていないから、憲法に先行する天皇主権がある(あった)という観念を許容してしまうわけです。

では、天皇自身はどう考えて国家にかかわっていたかと言うと、皇祖皇宗に忠実で、同時に、明治天皇の遺訓に忠実でなければならないと考えていた。(略)

 

 

明治大帝の遺訓というのは、天皇機関説という明治憲法の考え方、つまり西欧型の立憲君主制です。その両方に忠実であるということは、彼自身もこの両義性をある程度引き受けざるをえないということを意識していたことになる。(略)

 

 

 

加藤 いまのバックグラウンドについて言うと、「天皇親政説と天皇機関説」というふたつの要素は、いままで言われてきた言い方だと「顕教密教」というかたちで理解していいと思う。(略)

 

 

もうひとつは、「万世一系」という憲法に先立つあり方が、ブルボン王朝などとは違うと言われたけど、たとえば西欧でも主権神授説などが必要だった。つまり、王権というのは法的な話し合いによって、契約によって成立しているのではなく、言ってみれば憲法に先立つものとして神授されているんだという説が必要とされた。

 

 

 

その王権神授説に対して、ロックなど複数の啓蒙思想家がでてきて、その論拠をくずしていったという経緯がある。そういうことを考えると、この「万世一系」という概念にも天皇親政説、天皇機関説の一対に対応する「憲法に先立つあり方」と「憲法にもとづくあり方」という一対の重層があって、「憲法に先立つあり方」が西洋にはない特異なところだというよりは、むしろそのふたつのあり方が重層、共存しているところに、西洋とは違うあり方があると理解していいわけですね。

 

 

 

橋爪 王権神授説というのは、人民と王のあいだに契約はないかもしれないが、人民と神とのあいだにすでに契約があるのだから、人民は神の任命した王に従いなさいということで、やはり契約説の範囲内にある考え方だと思います。(略)」