今回もやっぱり、「序章」の前のエピソードがとても印象的でした。
どう言い表せばいいのか困るほど、一々「日本人としての神経」に
響いてきます。
「あのとき、生まれて初めて、花を美しいと思った。その感情が本物だと ― 永遠のその先まで変わらないものだと信じてみたかった。」
私たち日本人には、普遍性を求める気持ちはないのかなぁ、と思ったことがあります。
諸行無常…と教えられ、かつ消えかつ結びて…と自然の理をただ眺めるだけの
人間に何か不甲斐なさのようなものを感じてしまいます。
あまり生に執着のないものでありながら、
「本物」の感情があると信じたいという言葉に、
とても身につまされるものを感じました。
このエピソードは、前に読んだ時にも強烈に、心に残った記憶があります。
健忘症の私には珍しいことですが。
確か悠舜の物語ではなかったかと思います。
自信はありません(^^;。
そして、その後に続く孫陵王の花鳥風月を愛でる言葉や
琴をつま弾く旺季のシーンも心に染みました。
「旺季が琴の琴をつま弾くと、どこかから清涼な風が吹きわたり、すべてを洗い浄めていくような、そんな不思議な感覚がするのだ。澄んだ流水で穢れを流しているような、神事の祝ぎ歌を耳にしているような、指の先まで清麗な何かが満ちていくような感覚。」
あぁ 日本人だなぁと思います。
本当にこれだけで事足りて居られれば、どんなにかイイだろうと思います。
でも、もっとややこしい問題が起こってくる時には、
ただ、「美しい日本を」と唱えているだけではすまない。
いろんなことをちゃんと考えられる思考力が必要になると思われます。
何が変えられることで何が変えられないことか、
見極める目が必要になり、あの、「嫌われる勇気」の中にも出てきた、
ニーバーの祈りのような考え方が必要になると思うのです。
多分、言葉にするのは無粋だとか思いながら、
言葉にしない暗黙の了解の中で、賢い人々がちゃんと
やってることも多いと思うのです。
実際、賢い人々は私たちの国にもたくさん居ます。
でも、言葉になっていない分、
あっという間にそれらはないことにされ、
あっという間に、アホっぽい人々に世の中の流れが
牛耳られてしまうのが、どうにも哀しい。
…しょうもない愚痴ですが。
悠舜は何者なのか…
この先が気になってます。